2000年代の映画
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2009, 2008, 2007, 2006, 2005, 2004, 2003200220012000

2009

ベロッキオ『』Vincere,

Fish Tank

Wrestler

Michael Haneke, Das Weiße Band, 2009, 144min., Sony, Palm d'Or(2009)

2009年のパルム・ドールを受賞した作品。一次大戦前の北ドイツで起きた奇妙な一連の事件を、一教師が語るという構成になっている。けれども、実際は視点は複数であり、それがこの映画を特徴づけている。

District 9

Les herbes folles

Away We Go

Coraline

Tempête de la belette Géant

2008

Two Lovers, 2008

Appaloosa, Ed Haris, 2008, 115min.,

De la guerre, Bertrand Bonello, 2008, 130min.

Entre les murs, Laurent Cantet, 2008, 128min.

Gomorra, Matteo Garrone, 2008, 135min.

Hunger, Steve McQueen, 2008, 100min.

Lake Tahoe, Fernando Eimbcke, 2008, 81min.

Les Plages d'Agnes, Agnes Varda, 2008, 110min.

Rumba, Dominique Able/Fiona Gordon/Bruno Romy, 2008, 77min.

Stella, Sylvie Verheyde, 2008, 103min.

Un conte de Noel (Roubaix !), Alnaud Desplechin, 2008, 143min.

La Vie Moderne, Raymond Depardon, 2008, 85min.

Wall-E, Andrew Stanton, 2008, 96min.

A Bord de Darjeeling Limited, 2008

ポニョ

クンフー・パンダ

Dorothy, 2008

My Magic, 2008

Speed Racer, 2008

La belle Personne, 2008

L'Heure d'ete, 2008

Christophe Colomb, l'enigme, 2008

Phenomenes, 2008

La frontiere de l'aube, 2008

Dans la Vie, 2008

Frangins Malgre Eux, 2008

En avant jeunesse, 2008

Dernier Maquis, 2008

Le Silence de Lorna, 2008

Le voyage de Ballon rouge, 2008

Cloverfield, 2008

2007

No Country for Old Men, Joel & Ethan Cohen, 2007

There Will Be Blood, Paul Thomas Anderson, 2007

Elle s'appelle Sabine, Sandrine Bonnaire, 2007, 88min.

The Savages, Tamara Jenkins, 2007, 113min.

Die Falscher(Les faussaires), Stefan Ruzowitzky, 2007, 98min., Deu,

Funny Games US, Michael Haneke, 2007, 111min.

監督 ばんざい!(Glory to the filmmaker !), Takeshi Kitano, 2007, 104min.

Grace is Gone, James C. Strouse, 2007, 92min.

Waltz with Bachir, Ari Folman, 2007, 87min.

Atonement, 2007

In to the Wild, 2007

La vie en rose, 2007

Le scaphandre et le papillon, 2007

2006

California Dreaming', Cristian Nemescu, 2006, 155min.

Gwoemul, 2006

The Queen, 2006

Once, 2006

Das Leben der Anderen, 2006

Borat, 2006

El Laberinto del Fauno, 2006

The Departed, 2006

Apocalypto, 2006

Little Miss Sunshine, 2006

Woman on the Beach, 2006

『バッド・エデュケーション』

『エレニの旅』

『ミリオンダラー・ベイビー』

『初恋』日本、2006

 ああ、こんな下手くそな映画作っていいものなのか。責任者出てこい! ほんと、センスのかけらもないなあこの監督。この人、ただあおいちゃんを撮りたかっただけじゃないのかな。しかもあおいちゃんをすごい凡庸な使い方している。こんな演技ばっかりさせられてたら駄目になっちゃうんじゃないでしょうか、彼女。つか、ここまで思っちゃうほど駄目な映画ってのもすごいですね。
 まあ、意外と60年代みたいな雰囲気だしているのは驚いたけど、いかにも21世紀少女のあおいちゃんが60年代に合うわけないよね。それにしても、なんで駄目なんだろ、この映画。まあ設定がちゃちいのと、3億円事件なんかの使い方のどうしようもなさ。あおいちゃんにまつわるエピソードの圧倒的な不足。そして最後に駄目をおしたかのような、それぞれのメンバーの無駄なその後のテロップ。なんかもう、きみたちこういう感情分かるでしょ、みたいな心性の、もともと何も訴えかけるない人が撮ったのバレバレなんだよなあ。うーむ。あまりにも……ひどい。
 でもまあいいの。日本映画史最高の美少女であるあおいちゃんをまあまあきれいに撮ってくれたから。ま、それだけで、無理に演技させたりなんかすると腹立つんだけど。初めの、雨に濡れるシーンなんかよかったんだけどなあ。
 でさあ、いかにも一般受けしそうな題材使うんだら、どうせならもっと普通の純愛映画にすればいいじゃん。韓国のそれみたいに分かりやすいの。そうせずに、なんか本格派っぽい雰囲気を出そうとしているのは……まあこのレベルだと鼻につくよりかは鼻で笑っちゃうだけど。面白かったのは、これ見てた女子高生がね、見終わった後に、なんか難しくてよくわかんなかった系の感想を言ってたのね。会話よく聞き取れないし、だれがだれよみたいな。まあ、いかにアート系っぽい意匠が効果を挙げていなかったかというか……。とくにお母さんに会うシーンとかさ。どうせ才能ない監督に撮らせるんだったら、女子高生とか観客層をちゃんと取材して、どういうアプローチを撮るべきか市場の方を見て決めるべきなんだよね。ハリウッドはそれをやっているからつまんない監督のでも一定のレベルにはなってる。そういうのを日本でもしないと、経済的に厳しいのではないでしょうか。それに、私としても才能のない人の独りよがりの映画をたくさん見たくはないしね。どうでしょうか……

2005

Brokeback Mountain, 2005

Tsoti, 2005

Paradise Now, 2005

Va, Vis et Deviens, 2005

ホ・ジノ『四月の雪

ビフォア・サンセット」2005

山下敦弘『リンダリンダリンダ』2005

ダニー・キャノン『ゴール!』Goal!(製作総指揮 ローレンス・ベンダー / ピーター・ハージテイ、製作 マット・バーレル / マーク・ハファム / マイク・ジェフリーズ、脚本 マイク・ジェフリーズ / エイドリアン・ブッチャート / ディック・クレメント / イアン・ラ・フレネ、原案 マイク・ジェフリーズ、撮影 マイケル・バレット、美術 ローレンス・ドーマン、音楽 グレーム・レベル、衣装 リンゼイ・ピュー、出演 クノ・ベッカー / スティーブン・ディレイン / アンナ・フリエル / アレッサンドロ・ニヴォラ / マーセル・ユーレス / デビッド・ベッカム / ラウール・ゴンザレス / ジネディーヌ・ジダン / アラン・シアラー)2005/米=英

 うわあ、こういう映画を私も見るのか、というなんかたまたま見ちゃった映画。普段見るような単館系の映画館ではなく、東急系の映画館で見たのだけれど、そういうところの若い客って、そもそも映画を見に来ることのモチベーションが低い客がそのままたまたま時間つぶしに来たって感じで、そのカルチャーギャップにもびっくり。あ、なんかこういう映画が好きそうなおしゃべりなおばさんとかもいたけど(差別的な意識は入ってないですよ……)。
 で、偏見を抜きに見ると、なかなか普通によくできた普通のサクセスストーリー。合格点ではないかな。メキシコ出身で、不正入国でLAに家族ともども済んでいるサンティアゴ・ムネスが、イギリスの或る町のメジャーサッカー・チームに入るためにやってきて成功するっていう、すごいありがちな話なんだけど、その過程がやはりありがちではあるけれど、丁寧に描かれている。興味深かったのは、彼をスカウトしたのがもうチームにも係わっていない引退選手で、しかも正式なスカウトではなく、無理矢理監督に会わせてテストさせるっていうやり方で、こういう、ただ情熱があるってだけの人が、サッカーを支えているのかなあとか思ったりしました。面白いですね、彼は。いい役者だし。
 で、サッカーの場面なんかも、相手に本物の選手とかでているみたく、さすがFIFA公認というだけはある。しかしこの撮り方って、なんかよくCMであるようなやり方とぜんぜん違わないんだよなあ。監督、ほんとにサッカーのこと大好きなのかどうか疑問だ。サッカーといえば、サンティアゴ・ムネスがイギリスに来たとき、サッカーと言ったら通じなくて(あるいはわざとイギリス人たちが通じない振りをしているのかも知らんが)フットボールというと通じるところ。あ、そういや私も小学生のころ、サッカーと言ったらアメリカ人かなんかの先生に通じなかったから、そうなのかな。いや逆に、ムネスがサッカーという言葉を使っていた方が驚きなんだな。メキシコではサッカーなのかな。わからん。英語はわかりやすいのに、字幕がへんだったり(that's you're life!が自己満足だ、だって?)して不愉快なのは、英語映画の本質的欠点ですかね。
 さて、サッカーにまつわるいろいろな人生や、成功する過程でのできごとなんかをまじえた話作りはしっかりしていて、けっこう興味深い。さすがアメリカ映画で、やはりこういうものを合格点までもってくる手腕というのはなかなかです。ストレートな成功映画になっているのも、多くの人の共感をえるでしょう。個人的にも、こういう、ほんとに自分に才能があると思っている人物(それにしては途中で自信なくしすぎなんだよね)が、実際に活躍していく、まさにその瞬間とその心情ってのはすごい興味がある。この映画では、グラウンドで何度か叫ぶだけだけど、まあ、映画としてはそれで十分なのかもしれないけど、ほんとはもっといろんな思いがあるはずなんです。そういうの、どんな気分なんだろ。で、私だったら、この選手が実際にデビューするまえの日とか、何を考えているのかとかもっと撮ると思うな。単に興奮してます、じゃなくて、自分がどういうプレーをするのか、もっといろいろ、でも妄想かもしれないレベルで考えるはず。なぜなら……
 この映画の途中で、才能ある選手とはどういうものなのか、についてちょっと語られるところがあるのね。みんな自分ができる精一杯のところで、弱点をださないように必至にプレーしている。しかし才能ある選手というのは失敗をおそれずに、もっと大きなプレーをする、みたいなことが言われる。これはすごい的確な言葉だと思うわけ。実際、ほんとにうまい人たちって、技術的にそんな大きな差があるとは思わない。でもそのなかでも、絶対にはずせない選手とかがいる。それは、その選手がもっているビジョンだったり、もっと抽象的な次元のものだったりするのよ。これが純粋に技術だけを試される野球なんかとは違うところ。サッカーはすごい複雑なゲームで、頭が必要なのは当然で、それプラス想像力とかもすごい必要になる。いわば、ゲーム全体から自分の必要な行動を想像する力、みたいな。で、そこで持っているイメージに応じて、選手ができることっていうのもある程度決まってくると思うのよね。言いたいこと、わかるでしょうか。単に技術を超えた、イメージレベルのトレーニングがすごい大切だということ。で、人よりはるかに大きなイメージをもって、かつ実行できる選手がずばぬけることになる。まあ、このへんのことにまで踏み込んでサッカーを理解している人は日本には少ないと思いますが……。でも、こういうことってちょっと想像すればわかるはずなんだよね。
 たとえば、ボランチっていうポジションがあります。でもこれ、昔からあったものじゃないのね、んなアホな、と思われるでしょうか。でもほんと。少なくとも、日本にこの言葉が入ってきたのは80年代からくらい。そして、このポジションがフィールドに固定されたものと考えるのは大間違いで、ボールが動くのにつれて動かなきゃならない。え? あたりまえだって。いやーどうかな。サッカーにおけるポジションとは位置ではなく、役割を意味する、ということなのでよこれって。ここまでわかっていないとわかっているとは言えない。あるチームにはあるポジションがほかのチームにはなかったりすることもある。同じチームでも、相手によって同じ選手のポジションが変わったりもする。まあ、選手はほんとよくこんなややこしいスポーツをできるよなあ。
 大多数の日本人のサッカー理解がいかに低いレベルにあるかってのは、2002年のワールドカップのときの解説を聞けばだいたい分かる。アフリカはフィジカルが強いだの、ドイツは戦術が優れているだの、そんな大ざっぱなのばっか。んな単純なわけないでしょーが。で、ある人はここに人種的な差別が根付いていることを喝破しておられた。ま、そうなんでしょーな。で、いまの日本のサッカー漫画なんか見ても、あれは子ども向け雑誌にのっているからなのか、いまだに一対一のサッカーマンガを書いている。もうやめてよね。一対一でドリブル勝負とか、そういうのレアル・マドリードでもするんですか。いやもう驚きですね。
 というわけなので、ほんとに才能のある、実際のサッカーの選手は、自分のプレイを全体の展開を予想した上で、その展開を超えるようなプレイを想像するはずなんです。こういうプレイは相手も想像しないだろう、みたいなそういうの。もちろん、ほとんどは凡庸なプレイの連続だろうけど、ここぞというときに優れたプレイをするはずで、そういうのは、普段の夢想みたいなのが実はいくらか実際に行われたプレイなのではないか、とか思うわけよ。わかんないけど。そういう想像を見せてほしかったなあ、と思うわけです、ということを言うのにながながとサッカーそのものについて語ってしまいました。ま、日本がWCで勝とうがどうでもよくて、この機会にサッカーについてもっといろんなこと詳しくなれればいいなあと思いますです。あ、この映画、2も3もあるみたいね。それもちょっとDVDでいいけど、見てみたいかもしれない。なかなか、ほんとに成功するスポーツ映画って面白いですね。

青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』浅野忠信 宮崎あおい 筒井康隆 戸田昌宏 岡田茉莉子、日本、2005

 この時期、うちらの間では超話題だったこの映画、それだけの理由で予備知識なしで映画館に飛び込んだ自分にもびっくりしたんですが、そういう観客をびっくりさせるには十分でしたよ、これ。キリストとかと全然関係ないのね。まあ日本人が作った映画だからそんなもんかもしれんが……
 映画館で大音量が出せるってことに改めてびっくり。まあ、ミニシアターじゃなければ、かなり大きな音をいつも出しているんだけど、小さな映画館でもけっこう大きな音出せるのね……。音量に関しては、監督自身から注文があったに違いありません。機材なんかも新しくしているのかもしれません。
 で、これはストーリーはただの言い訳で、じつはノイズミュージック映画なんです。フロドンさんはロックのこと知らないから、「ハードロック」って形容しているけれど、これはハードロックじゃありません。これは1960年代からジョン・レノンとオノ・ヨーコによって切り開かれてきた、ロック音楽の中でもかなりアーティスティックな領域なんです。90年代に入って、「グランジ」と呼ばれる領域でこの分野はかなり開拓され、一般にも広まったと思います……。で……この映画のノイズは、60年代のそれにも及んでいないという意見が……。まあ、そりゃ初めてこういう音楽にふれる人にとっては感動を与えるかもしれんが……これなら初期のソニック・ユースを聞いた方がいいのではないでしょうか。個人的には、90年代のニール・ヤングが大好きなのと、ジャームッシュの『イヤー・オブ・ザ・ホース』も映画館で見ていたので、浅野さんじゃなくてヤングが演奏していれば違ったものになったのではないかなんて思ってしまった。ま、日本でもいるかもしんないけど、ノイズやってる人。
 ただこの映画で発見したこともあるのね。このノイズミュージックっていうのは、一方では芸術的な探求と見なされることもあるし、ただの先鋭的なだけの空虚なものと見なされることもある。でも青山さんは、これを本質的なものとして提示しようとしているんだよね。その試みはよく分かった。というのは、数百年にわたる知的な音楽の発展の歴史において、その歴史がある限界にまで達していることはセリエリズム音楽なんかを聴いても分かることで、そういうの、つまり、現代音楽とノイズミュージックの間には間違いなく親近性があって、後者も疑いなく音楽の追求の歴史において必然的に生まれてきたものではないかということです。あと、これはプリミティズムと言われるものかもしれないけど、たとえば雨の音とか、映画でも出てきた波の音とか、そういうのを大音量で受け止めるということ、そういうことって人間にとってかなり本質的な欲求でもあるかもしれないなあ、と。映画でも浅野さんがやってた、いろんな音を取り入れてノイズを作っていくってことが、そういう探求の一つっぽかった。洗濯機のホースみたいなのをぐるぐる振り回したりね。ここで、聴覚と触覚とが一体になった次元の感覚を刺激しようとしているのは間違いない。もちろん、クラシック音楽でもそういう次元に訴えかけてはいるんだけど、それをもっと純粋なレベルでやろうっていう……。まあ、こんなことはノイズミュージックほんとに好きな人には自明のことなんだろうけど、あんまりそういうのに生で触れたことのなかった私には新たな発見でした。こないだのニール・ヤングはなんか芝居してたしなあ。も一回爆音してほしい。耳壊すだろうけど。
 で、この映画への不満は、映像がいいのは最初のほうだけで、演奏シーンの映像はあれはなあ……。なんだか無理に編集したり効果つけて、音楽を映像で表そうとちゃちい努力をしているのがちょっとイタイなあ。あんなの、ほんとに大学生レベルだと思うけどなあ。あと、演技もくさすぎ。岡田さんも、筒井さんも演技しすぎ。戸田昌宏はしゃべんない方がいい。どうにかならなかったのかなあ。ちょっと、演技しすぎとかそういうのに敏感でない監督はもう完全に時代遅れだし、そういう神経の持ち主の映画から何か本質的に新しいものが生まれてくるとは思えないんだよなあ。これも、一見実験的だけど、今更やるものなの?っていう疑問がぬぐえません。もっと自然の音とか、そういうのを取り出すように作っていればそれで変なストーリーとか付け加えなくてもよかったに。あ、でもそれもゴダールがやってるか。ああ……

トニー・スコット『ドミノ』Domino(製作総指揮 リサ・エルジー / トビー・エメリッヒ / ヴィクター・ハディダ / ザック・シフ・エイブラムス / バリー・ウォルドマン、製作 サミュエル・ハディダ / トニー・スコット、脚本 リチャード・ケリー、原案 リチャード・ケリー / スティーブ・バランシック、撮影 ダニエル・ミンデル、美術 クリス・シージャーズ、音楽 ハリー・グレッグソン・ウィリアムス、衣装 ビー、出演 キーラ・ナイトレイ / ミッキー・ローク / エドガー・ラミレス / リズワン・アッバーシー / イアン・ジーリング / ブライアン・オースティン・グリーン / クリストファー・ウォーケン / ミーナ・スヴァーリ / ジャクリーン・ビセット / ルーシー・リュー / デルロイ・リンドー / モニーク / メイシー・グレイ / ダブニー・コールマン)米=仏、2005

・トニー・スコットはツイ・ハークを目指す(ほんとか?)
 なんともこの監督さん、まえの『マイ・ボディ・ガード』もそうだったけれど、いったいどのへんの層をターゲットにしようとしているのか、けっこう微妙な感じがします。そもそも、前作を見たのは蓮實さんのレビューが雑誌に載っていたからなんだけど、そのへんの映画マニアをターゲットにするにはハリウッド映画だし、普通のハリウッド映画ファンを相手にするにはちょっと懲りすぎという感じ。個人的には、けっこう音量の大きい、そして大きなスクリーンをある映画でスカっとした映画をみたい気分の時、ちょうどいい監督という位置づけで、なかなかいいポジションにいるのですけどね。
 この人の、過剰に編集して過剰に映像をダブらせたりするのは、そんなに嫌いな手法ではない。さすがにやってて恥ずかしくないのかなと思わないでもないけれど、ドグマ21なんかよりは断然よい。
 俳優ローレンス・ハーヴェイの実在する娘さんの話がこの映画のネタになっていて、ドミノというのはその人の名前。バウンティ・ハンターという危険な職業をしていた。で、これをキーラ・ナイトレイが雰囲気をうまく出して演じている。日本の女優っていうのは上品ぶったのばかりで、なかなかこういうブチ切れた演技できる人いないよね。
 トム・ウェイツの歌とかが無駄に使われているのもちょっと嬉しいけれど、ほんと無駄に派手なアクションがたまにある。アクション目当ての観客にはこれでは不満なのかもしれないけれど、ひたすらアクションを見たい人間ってのはどういう精神構造をしているのか不思議だよなあ。まあ、私は前作の方がツボにはまったんですが、これ、好きな人はけっこう好きなんではないでしょうかね。

2004

アレクサンダー・ペイン監督『サイドウェイ』Sideways, 2004

Der Untergang, 2004

Crash, 2004

The Passion of the Christ, 2004

3-Iron, 2004

 

ジャファール・パナヒ監督『Crimson Gold」 2004

デヴィッド・O・ラッセル監督『ハッカービーズ』I Heart Huckabees()ヘラルド配給、FOX、2004

ヴェラ・ドレイク』2004

エターナル・サンシャイン」2004、

風間志織『せかいのおわり』2004

 脱力系若者映画っていうジャンルがあるとしたら、これはなかなかいい作品に入るんではないかという気がします。登場人物それぞれがとても愛すべき人たちなのがなかなかいいのです。しかし、はじめ見始めたときは、なんで日本映画ってこんなに画面に緊張感がないのかなあといつも思ってしまうことを考えたのは事実なんです。うーん、なんでだろうなあ。

マイケル・ラドフォード『ヴェニスの商人』The Merchant of Venice

キム・キドク『うつせみ』韓国、2004

 最近は映画館で映画を見ることもめっきり少なくなってしまったけれど、たまたまなのか運命なのか、キム・キドク監督の作品だけは映画館で見てしまうのであった。しかも公開日その日に……ってお客さんほとんどいなかったんだけど、なんで? となりのウディ・アレン(まえの『サマリア』のときもアレンやってた)は満員なのになあ。私にとってキム監督はすごいメジャーなんだけど、実はそうじゃなかったのか??
 で、これは『サマリア』と同じ年に三大映画祭の賞をもらった作品で、一昨年から見たかったのです。いつものキム監督テイストっぽく、暴力と愛とが混じり合ったなんとも言えない世界を作っていて、もうこういう作品ってのはほんとにこの監督しかいま作ってないと思います。北野さんも最近は暴力しないし、いや、彼はもともと暴力+愛というのでもなかったし、そういう複雑なpassionを描く監督はやはりほかに知らないな。キム・キドクがいま世界で一番重要な監督の一人であるというのは正しいのではないでしょうか(ま、ほかの人のあんまり見てないけどね)
 この映画ではひさびさに、『悪い男』では全開されてた映像美が少し出てきて嬉しかったです。どこかのお寺かなんかでお茶を飲んで、二人がまったく同じ動作をするところ、あれはまるで婚姻の儀式のようで、そのあとキスするのもほんと美しい流れだったなあ。で、その後は……なんかちょっと不満な展開なんです。平凡な警察や暴力的な夫の描写とか相変わらずサイドストーリーみたいなのが下手だし、ちょっとわけのわかんないファンタジーっぽいラストが甘いような気がするなあ。って、文句を言うけれど、この監督に初めて接する人はやはり衝撃を受けえるものですよ。そりゃあ。
 で、とにかく主演の二人の演技に尽きる。もうこれについてあれこれ言いません。まあこの監督、俳優を追いつめて撮っているのかな、いつも。

Touch The sound, UK, 2004

・前衛パーカッショニストの深い深い言葉。
 エヴリン・グレニーという後天性聴覚障害のパーカッショニストのインタビューと演奏からなるドキュメンタリーのような音楽映画。うーん、見る前にだいたいどんなことを言うのかは予想していた、というか、ちらっとテレビで見たことがあったんだけど、ここまでとは思わなかった。いや、こんなにこの人ライプニッツだとは思わなかった。
 つまりですね、観念的な芸術(小説やハリウッド映画)と実在に係わる芸術(バロック以前の音楽やポラックみたいな絵画など)とがあるように、哲学にも観念論哲学と実在論哲学とがある。ちなみに、ダンスや時間イメージの映画がどちらに入るのかはよくわからない。で、この人の音楽はまさに唯物論的(ここでは事物そのものに係わる、という程度の意味)な音楽で、この人が語ることはまさに実在論的な哲学者の言葉。私たちはそれぞれひとつの音である。音はdisapearしてもlostするわけではない、それは存続する、とか。身体は音の反響装置である、とか。うーむ。まさにライプニッツ。
 というか、これを見ていて逆にライプニッツがいかに実在論者だったのか、ということに改めて気づいた、という変な具合になっております。えーと、『襞』のあらゆるページを開いてみてみましょう……。そうです、レゾナンスとはまず第一に、身体と事物の次元における出来事ではなかったでしょうか。ただ一つの水滴は大洋に溶け込んでも一つの水滴であることをやめず、そのモナド性は保存されるのではなかったでしょうか。そう……間違いないです。後期のドゥルーズはより実在論的な傾向を強め、それはリーグルやベルクソンやライプニッツの読み直しによって強化されたに違いない。80年代の彼の仕事はこのラインで理解しなければならないでしょう。……すんません全然映画評ではなくて。

ソクーロフ『ファザー、サン』ロシア、2004

 一部ではタルコフスキーを上回る評価を得ているソクーロフさんの最新作。かつてなくストーリー性をもち、かつ映像美にこだわるその姿勢は最近のゴダールに似ているなあ。親子を包む淡い光といい、なんとも穏やかな雰囲気の映画で、深い余韻がある。とくに、屋根のシーンが印象的で、ここを中心に行われる親子のコミュニケーションのあり方がなんとも言えないいい味を出している。とくに。最後の雪のシーンで、ささやき声で会話が成立しているのは、これはもう幻想の領域なのだろうか、それとも、静かな雪の朝では、室内と屋外のあいだでもささやき声で会話が成り立つというのだろうか。とにかく、ある親しい間柄でのみ成り立つ、ほとんど幻想的といっていいようなコミュニケーションのあり方を驚くべき繊細なタッチで描いている。こういう映画を撮れる人は日本にはいない、くらいの褒め言葉なら、それで私が日本映画を知らないと言うことにはならないだろうし、平気に使ってもいいレベルの映画ではある。
 まあしかし、見に来ていた半分以上の観客は「なんじゃこりゃー」という反応をロビーで見せていたし、ソクーロフというビックネームでなければ、こうして劇場で公開されるような人を集められるような映画でないことも確か。まあ、大勢の人をだましてなんとか公開しているわけで、そのへんはちょっと申し訳ないような気がしないでもない。『エルミタージュ』のときはけっこう話題作だったんだけどね。
 というわけで、これは確かにいい映画だけれど、もしあなたが評論家で、なんとか人を呼べるようにこれを褒めた文章書きなさい、と言われれば、上で書いたようなこと以上のことは言えないのよね。いい映画だけど、映画の新しい境地を開いた、とかそういうのでもないし、ソクーロフにしては普通の映画だし、まあ、案外、いい売り言葉が見あたらない。んなことどうでもいいと言われりゃあそうなんですが……。ただ、私は、これは、古典的なタイプの映画で、あれほど以前は前衛的だったこの監督が、こういう映画を作ることの不思議さに納得がいかないのですよ。最近のゴダールしかり。私がもっと年を取れば、きっともっともっといいと思えるのかもしれなくって、そのときこそソクーロフ監督の歩みを理解できるようになるのかもしれません……

シュー・シャオミン『五月の恋』五月之恋(製作: ティエン・チュアンチュアン、製作総指揮: ペギー・チャオ、脚本: ホアン・チーシアン、撮影: ジョン・ハン、出演: チェン・ボーリン、リウ・イーフェイ、メイデイ)110 分、台湾/中国、2004

 これ、いかにも台湾流行の若者映画っぽい、韓国映画みたいなロマンスものかなという予告映画だったけれど、何かそれだけではないような雰囲気を予告からも感じたのです。まあ、制作ティエン・チュアンチュアンなので、そう安易な映画であるわけがないのは当然だけど、それは知らなかった。でも見た感じ、ロマンスものにしてはそれを決定づけるシーンが少なかったし、恋愛ものだとしてももっとさらりとしたような気もした。で、とにかくここんとこ台湾映画みてなくて、どうなっているのかなと関心があったので、優先順位は低かったけれど機会があったので見てみました。
 すると、配給の意図とはぜんぜん別の映画だったということが明らかに……。遠距離恋愛の話とかじゃないでしょ、これ。ったくこういう安易な宣伝して、それにだまされた客が来ても、低い評価しかしないから、ブレイクとかしないでしょ。あ、そうか、そもそも宣伝の人からして、これを恋愛映画としか見れなかったのかも。そもそも、そういう安易なジャンルわけすることしかできない人たちが映画の宣伝をしているのかなあ。謎だなあ。
 これは、台湾の現代音楽の周辺にいる若者と、哈爾浜で京劇を習っている若い女性との、歴史と距離を媒介にした不思議な恋愛事情というべきもので、単純なロマンスというわけではない。明確にはなっていないし、十分に描けているとも思えない、というか、やはりあまりに影のないように見えるチェン・ボーリンがこの役にふさわしくないのかもしれないけれど、これは、単純だけれど屈折した台湾の若者が、秘密を秘めた中国の女性本人と、また彼女をめぐる人々の過去の物語(台湾と哈爾浜を巡る物語)に触れることによって、彼女への恋心と共感を育てるというお話しなのです。映画の語りは上手くないし、そのへんの過去の話の演出なんか目も当てられないレベルのものだけれど、まあ、そういうところに焦点をあてた、というだけで私のような戦前生まれの(嘘ですけど)人間には感激ものです。中国と台湾のあいだにある言語の違いなんかもちらっと出てきて、そのへん知らないけど関心のある人間としてもそういうエピソード面白かったですね(でも、同じ言語ということで書き言葉は通じるし、会話してもちょっと違うだけで、しかもその違いを楽しむことができるし、映画的題材にもなるなんてなんだか羨ましいなあ。日本だと、たとえば方言をしゃべるもの同士のこういうやりとりなんて映画になりづらいものなあ)
 で、シュアンのおじいさんは国民党の兵隊さんで、要するに外省人(この言葉を知らない人は左の韓国映画のページを見てください)なんだけど、故郷ハルピンに妻を残してきて、戦後は台湾で奥さんをもっていた。実はこのハルピンの奥さんは戦後なくなったのだけれど、子どもがいて、その子どもの子どもがシュアンだった、というわけ。こういう複雑な事情の人がいたって事は知らなかったので、ちょっとびっくりしたなあ。台湾だけでなく、中国にもやはりこういう人がいるんですねえ。で、なんにせよ、こういう歴史的な事情をかかえた人たちのことを描くってのがこの映画の一つのテーマなんだよね。いまや一人残された台湾の奥さんによる回想にはちゃんと映像がついてるし。
 で、アレイが彼女にひかれるのは、そのおじいさんや、彼女とは直接血縁関係のない台湾のおばさんに対するシュアンの複雑な思い(このへんもちゃんと描けていなかったけれど)や彼女にまつわる歴史的事情についての彼女の思いなんかを想像することによって、彼女のことをもっと知りたくなりひかれていく、ということなんだろうけれど、ここも、もっとちゃんと描いてほしかったなあ。このへんちゃんとやる気があったら、かなりいい作品になっていたに違いないのに。どうしてかなあ。似たようなテーマだと、韓国映画のほうがもっと出来がいいのを作れるはず。まあ、テーマ自身への思い入れが弱いのかもしれないし、こういうことをまさに映画が語るということへの自負というか、責任感みたいなものが少ないのかもしれない。いかんなあ。
 ただ、被告人にも考慮すべき事情はある。なんか台湾で大人気のメイデイってバンドのピーアール映画なのかな、という面があるのも事実。実際本人たち出てて、彼らの曲も流れているし。でも、重要な出演者のアレイのお兄さんっていう設定のバンドの人は演技に違和感があるし、どーもなんかそのへんにからめとれて全体が弱くなっているのかもしれない。この、台湾のバンドにかかわっている若者と、中国で伝統芸能やってるおねえちゃん、みたいな対比はもっと面白いネタがたくさんあるはずなのに、そのへんの着目もなしかあ。
 ま、いいところを見ましょうか。二人があってから、というか、アレイがシュアンをつけていくところとか、逆にシュアンがアレイをつけたところとか、すごく面白いし、そこそこいい味を出している。というか、リウ・イーフェイは息をのむ美人なんだけど、それだけに、その怒ったときの顔が怖いものだから、彼女が仏頂面でいきなしアレイの前に立っているときの衝撃というものはすさまじい。うーん、ちょっとありえないほどべっぴんさんですね、彼女。これからも活躍してほしいものですなあ。で、そのあとの二人のやりとりなんかも面白い。んーでもその後がやっぱりちょっとなあ。お兄さんはあれだし……。いきなしいい曲をアレンが作るっていうのもなんだかなあって感じ。それって安っぽいストーリーだとは思わなかったのか疑問だ。
 しかししかし、そうしたいくつもの欠点を感じるのは、このテーマにリウ・イーフェイなんだから、もっともっといい映画になったのに、と思うからこそ。実際、哈爾浜に行ってからはけっこうよかった……。んーでもアレンが住んでいるホテルとかあれなんとかならんのか、というなんか変に明るい色だったりするし……きれいな夕焼けとかじゃなくて、夕暮れどきの海岸じゃないのかなあという気もする……まあ、それはいいとして、最後の自転車とバスのシーンはご都合的だけれど、よかったですね。彼がここに来た理由と、それを彼女が受け止めたことがわかる映像で。あれ、スタントじゃなくってほんとに両手使わずに自転車のってたみたいだし。とにかく、中国のリウ・イーフェイはすごい美人女優で、なかなか表情も豊かです。今後、注目ですね。

ファティ・アキン『愛より強く』Gegen die Wand(Head-on), 2004(出演:シベル・ケキリ、ビロル・ユーネル)ドイツ

 ベルリン銀熊を取った映画です。ハンブルクのトルコ人の男と女のお話。うーむ。ドイツ映画で移民ものってのははじめてみました(トルコ系の監督さんっていうのも珍しい)。ドイツのトルコ系の映画ってほかにもあるのかしら? しかし、ドイツの都市ってなんか夢やぶれた男たちがビールを求めて入り浸るロックのかかっているバーっていうのが映画にとって定番の場所なんだけど、ほんとそういうのがドイツなのかなあ。オープンカフェでモーニングを食べたりするパリとはえらい雰囲気が違うよなあ、同じヨーロッパでもさ。まあ寒いからか。
 ふむふむ、ここんとこ元気のあるドイツ映画で、しかも銀熊とってるもんんだから、最近のドイツを代表する傑作かと思ったんだけど、意外と平凡な作品でした。途中まではけっこう面白かったし、とくに最初の、「heiraten sie mich」みたいなセリフにはわくわくするし、いきなし瓶割ってその破片で手首切って血がぴゅーってのいうのにも驚いたあるよ。んが、形通りの結婚だけして、形だけだったはずが40過ぎの男が20歳くらいの若い女に結局ひかれていって、放蕩くりかえす女に嫉妬して……っていうのは誰にも想像がつく展開なんだよね。こんなありふれたお話し律儀にそのまま見せられてもなあ……。しかも最後は俺か、子どもと一緒の安定した生活か、みたいなあのおきまりの二者択一ですかって。冗談きついっス。うーん。
 せっかく面白いキャラクター用意してあるのに、このおきまりの展開はいったい何なのか。過去の映画に対する無知なのか、いろいろな似たような物語に対する無知なのか。で、何よあれ。ここぞというところで男が自分の思いを語るところでいきなり英語を使い出すシーン。そりゃあ、大事なことを話すときに使う言語を変えるっていう心境はわかるけどもさあ、それマジでするかなあ。ダサいの、それ。っつうか、英語話せるんなら、清掃員とかしてないし、この人。設定壊すまでして英語でなきゃいかんのか。それまでトルコ語でそこはドイツ語でいいじゃん。英語までわざわざ持ち出してこなくたっても。どうもこの監督、映画でほんとにやりたかったことが、そもそもそれほど映画的じゃなかったのかなっていう気がする。
 女優さんは綺麗だし、男優も顔はきたないけど味があるしなかなか面白いんです。この二人の組み合わせっていうだけで、けっこう面白い。この二人が同じ画面に現れなくなってからが極端に悪くなる。なにこれこんなに長い映画なの?って思っちゃったよ。うわーん。最後までずっと二人のからみで見せてほしかった、それにつきますな、この映画は。

ローレンス・ダンモア『リバティーン』The Libertine(製作総指揮 チェイス・ベイリー / スティーブ・クリスチャン / ルイーズ・グッドシル / ラルフ・カンプ / コリン・レヴェンサル / マーク・サミュエルソン / ピーター・サミュエルソン / ドナルド・A・スター / ダニエル・J・B・テイラー、製作 リアンヌ・ハルフォン / ジョン・マルコヴィッチ / ラッセル・スミス、
脚本 スティーブン・ジェフリーズ、原作 スティーブン・ジェフリーズ、撮影 アレクサンダー・メルマン、美術 ベン・ヴァン・オス、音楽 マイケル・ナイマン、衣装 ディーン・ファン・ストラーレン、特撮 エドワード・スミス、出演 ジョニー・デップ / サマンサ・モートン / ジョン・マルコヴィッチ / ポール・リッター / スタンレー・タウンゼンド / フランチェスカ・アニス / ロザムンド・パイク / トム・ホランダー / ジョニー・ヴェガス / リチャード・コイル / ヒュー・サックス / トム・バーク / ルパート・フレンド / ジャック・ダベンポート / トルーディ・ジャクソン / クレア・ヒギンズ / フレディ・ジョーンズ / ロバート・ウィルフォート)イギリス、2004

・真剣なお笑い映画というか……焦点ぼやけすぎ。
 うひゃひゃひゃ、これ、どんな観客層をターゲットにしているのかぜんぜん見えないよー。見る前から、なぜジョニー・デップなのに単館系公開なのか疑問だったのよね。しかもサマンサ・モートン出てるし、マルコヴィッチとかも出てるし、なんかわかんないけどマーロン・ブラントまで出てたみたいだし。無駄に豪華だ。でも衣装とかも贅沢だし、照明を抑えた演出なんかには好感が持てた。でも脚本がぼろぼろ。主役にも魅力を感じない。ジョニー・デップはほんとあまり綺麗に映ってないし。これ見に来てたのほとんど女性ファンばかりなのに、彼女たちを満足させなくてもいいんでしょうか。所詮デップはハリウッドスターなのよね。終わった後、女性たちの失笑が劇場に満ちていたっつうのは、なかなか滅多にないことではないでしょうか。まあ、ゴダールの映画の後、混乱して笑っているおばさんはたまに見ますが……
 で、サマンサさん。『CODE46』のときにも思ったけど、この人、主役級をやれるほど綺麗じゃないんだよなあ。『イン・アメリカ』みたいな奥さん役なんかがぴったりで、絶対愛人役じゃあない。野心的で才能もあるけれどまだ未熟な女優という役には、もっと若い人が適役だったはず。でもこの人、ちょっと老けて見えますが……
 主役のなんか知らんが貴族でジョン・ダンのまねっこみたいだけどお下劣な詩を書く人(ジョン・ウィルモットという実在の人物)。こういう人、別に珍しくないよー。監督さん若いから知らんのかもしれないけど、こういう、才能はあるけど、頭がよすぎるため世の中に絶望していて、自分で人生や世の中に価値を見いだせないがためにその才能を生かし切れない人、たくさんいるんですよ。つうか、世の中の頭よくて才能ある人ってのはほとんどがそうですよ。で、一足早く成功したりするのはとくにそれほど物事をつきつめて考えたりしない人の方だったりするもの。よくあるよくあるこういうパターン。で、この人が若くて才能ある野心的な女優と出会って、自分を変えていくっていう話なら面白いのに、ただ破滅につきすすむだけだもんなあ。あるいはもっと面白いのは、この崩壊の過程を綿密に描写することかな。フィッツジェラルドの「崩壊」みたいに。酒浸りとはどういうことなのかとかいうことについても、全然踏み込みが甘い。監督さん、これはちょっと勉強してなさ過ぎだね。そういう安易な思考がこの映画を残念だけど薄いものにしちゃってる。
 で、一番面白かったシーンは、間違っても奥さん役のロザムンド・パイクがぶち切れているシーンではなくて(ここが一番ありがちなシーンだった)、サマンサ・モートンが自分の野心と情熱と夢を熱く語るとこ。「私は誰もしたことがないことをやりたい。ロンドン中の人が私を見に来るようになる」云々。こういう野心的な人ってすごい好き。こういう独白もぞくぞくする(初めてでいきなりここまで話すのかという気はするが……)。このシーンはさすがサマンサさん。彼女じゃなきゃできないだろうなあ。だって本心入っているもん、ここ。いやあ、私は彼女の芝居を見に行きますよ(上でさんざん言っているけど、一応ファンなのよ。レビューは客観的に書くのです)。すごいのは、彼女を教えに来ているデップ君を逆に試そうとするとこで、まるで立場が逆転しちゃう。で、彼女は男の芝居にかける情熱を聞いてはじめてその教えを受け入れることを決める。さすがだよなあ。わたしにあれこれ言うけれどあなたはいったい何なのよって。日本人じゃあ絶対こういうきつい態度とれる人いない。まあ自信もあるからなんだろうけど。ここで、彼女がすんなり納得せずに、もうすこし男に対して批判的な態度を守り続けるとかすれば緊張感あるのに(ほかにも、もっと演技の練習のシーンも見せ方あるはず。台詞繰り返すだけでうまくなるんなら誰も苦労しないぞよ)、最後あったときはもうあなたのことは捨ててます、ってこれじゃあドラマがないよー。うわーーん。脚本家が悪いのか? 一からドラマとは何か勉強し直してきてください。
 でもでも、ロンドンの町並みや、当時のイギリス議会の雰囲気とかけっこうよかったと思います(スタッフは実際いいのを揃えている)。時代劇ってやっぱり物質的に見応え有るし、マイケル・ナイマンの音楽もいいです。多少欠点があったほうが、二人で見たときにはああだこうだいう余地がたくさんあるので、デート映画には案外適しているのかも……

アレハンドロ・アメナーバル『海を飛ぶ夢』(字幕=松浦美奈)2004/スペイン)

 せっかく久々のスペイン映画だったのに、なんかちょっとアメリカ映画みたいな演出の映画でがっかり。スペイン語はコロコロと回るようで美しいから好きなんだけれど、うーん、オヤジメイクしている俳優の顔をアップで撮りすぎいて、ちょっと退屈なんだよね。彼の言葉は多少ユーモアがあるけれど、結局はイヤミばっかりの嫌らしいやつだし、イヤに知的なくせに過去は船乗りだったってゆーのが嘘くさい。そう思うと、近寄ってくる女たちまでそう純粋には見えなくなってくる(案の定、一人は……)。
 尊厳死が出てくる映画なら、『みなさん、さようなら』(こちらもアカデミー外国映画賞とっている)のほうがまだましだったのだけれど、アメナーバル監督がハリウッドで映画を撮っていたこともあったから、『コーラス』ではなくこちらが選ばれたのだろう。ま、そんな政治的なことはおいといても、首から上以外ほとんど動けない人間がたとえ彼の想像においてだという演出にしても画面で歩いてみせるのは間違っていると思うし(わざとぎこちなく歩いてみせたりして)、彼の想像通りに空を飛んでいる光景を観客に見せるのも(想像で飛べてもこういう景色までは見えないしね、映画でないと)わざとらしい。彼の境遇をほんとに観客に味わわせたいのなら、もっとカメラの視線を限定したりするべきだと思う。空想でも撮れるからといって安易に映像にしていてはリアルさはでない。
 尊厳死の問題を扱うにしても、もうちょっと主人公を頑固でない人間にすれば、もうちょっと共感を呼べたかもしれない。せめて車椅子ぐらいにははじめから乗っているとか。映画の立場としては彼を無条件に支持していて、ほかの人間がちょっとでも彼に反対すると批判したりするのはかなりいただけない。ラモンはほかの人間が自分の置かれた境遇のことをぜんぜん分かっていないといいながら、彼が死ぬことによってほかの人が置かれる感情についてほとんど理解を示さない(かなり意図的に)のは私たち日本人にとっては奇妙に思われるのではないだろうか。最後に尊厳死をしなかったフリアを出してきてその惨めなありさまを見せつけるのはあまりに意地が悪くてむかむかする。これのどこが感動作なのか、私はみなさん一人一人に聞いて回りたいと思うぐらいだ。ここでは尊厳死をほとんど英雄扱いしていて、それができない人間を醜く描いているようにさえ見えるが、そうした決断が明確にできる人間はかなり限られた……いや、恵まれたと言ってさえよいもので、ある種の時間的・精神的余裕に恵まれた人間でないとできない。それができない人間を批判するのは持てる者の傲慢だと思うんだよね。まあ、脚本がそういういろんな側面を持っているこの問題をちゃんと考えているとはおもえなかったってわけ。でもま、アルモドバル監督でお口直しができるだろうからよしとしよう。

宮崎駿監督『ハウルの動く城』Howl's moving castle()日本、宮崎駿・スタジオジブリ、2004

 ベネチア映画祭でオゼッラ(技術貢献)賞とかを受賞し、『ユリイカ』12月号で もなんかいいかげんそうな特集を組まれている世界待望のアニメ映画。原作はオックスフォードでトールキンの指導も受けたというイギリスの至宝とも言われる ダイアナ・ウィン・ジョーンズだけあって、なかなか正統的なファンタジーの雰囲気を醸し出している(日本で作られたイギリスのファンタジーのアニメをイギ リス人はどういう眼で見るんでしょうかしらん)
 でもやっぱり小説と映画は違うわけで、一つのドアが四ヶ所に通じている突飛な設定なんかも映画の方が楽しめるし、原作にはない城の崩壊ってのもアニメだ からこそ面白い(空中遊歩も)。魔法がばんばん派手に使われて見ていて楽しいし、老婆の主人公が若返ったりするのもドキドキさせる。ハウルの部屋や魔女の 小道具の描写なんかもユニークだ。そういう視覚的なおもしろさっていうのをジブリ版ハウルは見事に引き出しているおかげで、筋としては小説の方が複雑なん だけども、映画の方が面白いかもしれない。戦争っていう新たにつけたしたテーマの、物語における中途半端な位置づけを除けば……。
 えっ、筋としてよくわかんないって? まあそれを言いなさんな。サリマンが何ものかだとか、結局呪いはどうなったのかとか、かかしの王子は何とか、そう いうのは大枠としてあるラブストーリーからすれば、たいしたことはないんですよ(……ほんとか?)。これは『もののけ』なんかと違って80パーセント(ぐ らい純粋)エンターテイメントなんだから。んで、倍賞智恵子の声まるで二役みた〜いとか、超かわゆ〜い(小倉優子風で)カルシファーの声ってこの前のカエ ルの声と同じなんだ〜とか、キムタク棒読みだけどみんな甘い評価するのはなんで、とかそういうこと(なんで声優関係ばっかやねん)を思えばいいのである。 個人的には魔法が派手で楽しかった……
 んで、この映画の原作再提示において、どこが一番よかったかというと、ハウルの子供の時のシーンですな。あそこ、原作にあったエピソードが一つなかった から、カルシファーの正体についてほとんど前知識のない観客には分かりづらいとこなんだけど(やっぱりこのへんがこの映画の弱点なんだよな〜戦争描写のせ いで時間が……)、ともかくあれはすごく詩的なシーンで(みんな同じに見えちゃうあのおかっぱ頭を除けば)、パブロ・ネルーダの「詩」っていう詩を思い出 しちゃったぐらいでした。子供の時の誰にも言えないようなある特殊ですごく個人的な体験と言うか……カルシファーとの契約をそういう風に解釈しちゃう宮崎 さんという人はやはりすごい人である。
 久石譲の音楽もいたくいいので、そのためにも映画館で見ることをおすすめします。なんだかんだ言っても、宮崎アニメを映画館で見ることっていうのはなん だか忘れがたい体験になるものなんだよなあ。あ、あとあの引っ越しの魔法ってのは今ミレニアムの魔法界における最大の発明としてただいま特許申請中らしい です。あれ、いいよね。ここバリアフリーになってるんだよ〜おばあちゃんも家にいるしね〜とか(意味不明)
(ええ〜と、奇妙なことに、原作の続編の原題はCastle in the airと なっていて、これはHayao Miyazaki監督の『天空の城ラピュタ』の 英題Castle in the skyと非常に似ていますが、両者には、もちろん、何の関係もないらしいです、、、YahooMoviesよ り)

イム・チャンサン監督『大統領の理髪師』(製作 チェ・ヨンベ、脚本 イム・チャンサン、チャン・ミンソク、撮影 チョ・ヨンギュ、美術 カン・スンヨン、音楽 パク・キホン、衣装 シム・ヒョンソプ、出演=ソン・ガンホ、ムン・ソリ / イ・ジェウン / ソン・ビョンホ / パク・ヨンス / チョ・ヨンジン / リュ・スンス / ユン・ジュサン / チョン・ギュス / オ・ダルス、日本語字幕=根本理恵)韓国、2004

 なかなか上手い映画だねえ、これは。それにつきます。歴史的な題材を料理して観客に見せるうまさ。ソン・ガンホの演技に全部のかっちゃってカメラ回し続けたうまさというか……。1950年代からの激動の韓国の歴史をテーマに、でもそれを理髪師という庶民のなかの庶民という視点から描いているっていう点からしてうまいよね。まあ、この着眼点にすべてはつきるっつうか。大上段に「あの時代はこうだからこうだった」みたいな評価付けをできるだけ避けようとしつつ(実際はしてるんだけどね、はっきりと)低〜い視点からなるだけ穏やかに歴史を語ろうとしたっていうのがこの映画の興業的な成功を支えたのは間違いない。やはりスタッフがけっこうかぶっていたポン・ジュノなんかにも共通するなんともコミカルなノリやセンスも素晴らしいです。
 そう、だから軽〜いノリでせめていって、ときには韓国人でありながらベトナムに参戦したお兄ちゃん(そんな韓国人ってたくさんいたんだ、しらなんだ……韓国人っていったい……)の話とかもあって時にはシリアスになるんだけど、いつ、それまでは時代に恵まれて生きてきた主人公と時代とのギャップが表面化するのかなあ〜と、まあ筋としてはそこだけに注目してみちゃうってのが仁義ってものでしょう? で、そこの見せ方もうまいんだよね。彼の子供(この子は『殺人の追憶』にも出てたみたいね)をそこで使うってのが。でも私としては、この作品の心情的なクライマックスは、主人公が大統領の写真から目のところを削り取るシーンにあったと思うのよ。どう考えてもホントはしょーもない大統領だったんだけど、彼の立場からすれば立派な人だし、個人的には恩義もある人の、しかもその遺影の写真からその目の部分を削り取るなんて、端から見ればただのバカだけど、本人はつらいっていう感情の高まりをソン・ガンホがほんとに見事に演じていたあの シーンこそクライマックスですた(死体を掘り起こしてそのめん玉くりぬくのかとちょっと思ったけど、それはしなかったね)。
 まあそういうわけで、何度も証明されていることですが、韓国映画の新時代の(文字通りの)立役者であるソン・ガンホはびっくりするくらいいい役者ですね (出ている映画のリストがここまで輝かしい俳優はほかにハン・ソッキュぐらいしかいないでしょ?)。こういう味出せる人、渥美清さんなきあと日本にはいないかも。でも『オアシス』のムン・ソリを出してきているのに、ほとんど見せ場を作っていないって言うのはちょっと信じがたいことで、この点で監督は非難されるべきだとまで私は思うけどね……。女優をうまく使えるかっていうのはやっぱし重要なことだよなあ。 まあ、単に役どころが少ないってのもありますが。
 それに加えてね、いくらかのあざとさを感じないわけでもないのよ。まあ、歴史ものでネタになるというか、ウケがとれます、みたいなそういう韓国映画の傾向ってのは確かにあるんだよねー。え? ひがみだって? そうかも。ここ五十年の日本の歴史なんてそのまま映画のテーマにできないよね、つまらんから。 でもでも、ここでは強い皮肉をもって軍事政権時代を描いているけれど、やがてはこの時代の民衆の善良さみたいなのを映画で描くってのが主流になって、韓国人なりに(ホントは)恥ずかしいこの時代のことを消化していっちゃうのかなーなんて余計なこと思っちゃったりもしちゃうのですよ。私としては、もっと目立たない立場の人をつかってどんどん時代を描いた映画をつくってほしいものです。とはいえ、この映画の ブラックなユーモアにコミカルな味付けと、ソン・ガンホ演じる素朴丸出しキャラには(やりすぎっていう気もするけど)いい印象を受けました。こういう映画が日本でも公開されて観客呼ぶなんていい時代になったもんですなあ。

ブラッド・アンダーソン監督『マシニスト』(製作総指揮 =カルロス・フェルナンデス、アントニア・ナーヴァ、製作=フリオ・フェルナンデス、脚本=スコット・コーサー、撮影=シャヴィ・ヒメネス、美術 =アラン・ベイネ、音楽=ロケ・バニョス、衣装=マリベル・ペレス、出演=クリスチャン・ベール、ジェニファー・ジェイソン・リー、アイターナ・サンチェス・ヒホン 、ジョン・シャリアン、マイケル・アイアンサイド / ラリー・ギリアードJr.、レグ・E・キャシー、アンナ・マッシー)スペイン映画、2004

 20世紀の初頭から発展し始めた映画はその登場当時のものとはまるで別物になっている、ということをつくづく思わせる映画だ。何がどう違うかっていうと、最近の映画はリアルさの追求度がとんでもない。昔の映画ではお話を「語る」ことにどうしても重点がおかれがちで、ストーリーも松本清張みたいな「ほら、人間ってこんなんなんだよ〜」みたいなものもけっこうあったと思うのよ。でも最近のある種の(とくにサスペンス)映画はそういう良識ぶったところも説明的なところもほとんどなくて、ただひたすらにリアルな主人公の体験を表現しようとしている。だから、こういう映画を見て、「謎解き」がつまらんだの、テーマが安易だのというのは前世紀的な映画の見方をしている人の言うことであって、21世紀に生きるわたしたちとしては、ただひたすらに映画が提示するものを一緒になって体験するべきなのである……
 と、ひさびさに前置きが長くなったけれど、こういう傑作の映画にはこれくらい必要かもしれない、というか、この映画を見て上のようなことを強く思ったのでした。そう、まず何よりもクリスチャン・ベイルの役作りのもの凄さ。30キロも映画のために体重をおとすなんて、そういう発想は1960年代以前の俳優にはなかったことだろうし、そもそもそこまで没頭した俳優の演技に依存しなきゃいけないような脚本なんてなかったと思うの。ベイル君の鬼気迫る雰囲気見てよ。もう彼の表情だけでなんか怖いです、ただならぬことが起こっているのを感じさせます。だからこれは演技と言うよりも、人格的変身術だとでもいった方がいいかもしんない。映画がそこまで俳優に要求するなんて、くどいようだけど戦前はありえなかったと思うの(ネオ・リアリスモはそこをクリアするためにわざと市井の人を使った)。うーん、とにかく彼はすごいです。やせたってことだけがすご いんじゃなくって、そこまで役になりきっているのがすごいってことは、ちゃんと映画を見た人には分かりますよね?
 んで、さらに徹底しているのは演出だよね。ベイル君は不眠症っていう設定なんだけど、不眠症に伴うさまざまな症状を映画ではうまく描いているみたいなの。視界が緑化したり、キレやすくなったり、記憶がとぎれたり、幻覚が見えたり、食欲がなくなったりといったさまざまな特徴を見事に捉えているとのこと(わたしはそこまでの不眠体験したことがないので詳しいことはわかんないけど)。カメラも主人公の目線に沿った範囲でしかものを写さないので、観客も主人公の目でしか世界を見ることができず、その不安定な精神状態を半ば共有させられることになる。そう、この体験こそが現在の映画が追求してやまないものなのです。でも、この映画はふつーの恐怖ものみたいに観客を混乱においこむのを愉しむのではなく、主人公と一緒になって彼がまきこまれている事態の真実をつきとめさせようとする点で特に素晴らしい。
 ところで、彼はあることが原因で単なる不眠症だけでなく、精神的に不安定(そこから不眠症もきているのだけど)な状態にあって、まるで精神分裂症者(今は統合失調症って名前がかわっているけど)のようにも見える。つまり現実の認識に一貫性、客観性がなくなっているわけ。その描き方がすんごい面白い。あああ、自分も精神いかれたらこうなりそうだな〜って雰囲気すごい出ている。たとえば数日同じ時刻に時計を見ることが重なったりしたとき、ちょっと変な気持ちになるでしょう? なんかある種のサインを受け取っているのだけれど、それを理解できないでいるかのような、そんな気持ち。そんな気持ちを主人公はずっとかかえていて、その「気になること」の描写がなかなかにリアルでよろしい。メモっていうのはちょっとありがちだけどね〜。テルミンを使った不気味な音楽はありがちだけど、いつかどこかでありがちなだけに不気味……かも?
 そういうわけで、不眠症というよりはある種の精神病体験映画としては映画史上初めてのものかもしれません。短期記憶障害者の体験ものは前にもありましたよね。これからそういう映画増えてくるのかなあ。わくわく。
 ……と、ここまで書いてきてほかのウェブの評とか見ると、そういうところで自分の感想書くような人には頭のいい人が多いのかしらん、オチが衝撃的ではなかった、みたいな知的な見方している人が圧倒的なのね。なかには、主観的な表現が不愉快で、第三者の視線がほしかった、とかまで書いていた人がいたのは象徴的なの。一つの謎と答えの映画としてその解答を楽しむような仕方でしか映画を見ないとまあそういう意見になっちゃう。でも、主人公の生そのものの表現としてこの映画を見ると、表面上映っているもの(二つの写真、二人の女性、繰り返される同じ台詞、いつも通りかかる場所、ある状況で必ず取られる行動パターン、同じ家具……)が主人公の深層心理(って言葉は安っぽくて嫌いですけど)のようなものをじわじわとあぶり出していることに気づいて、楽しく見られるはずです。でもそれは、自分を真っ白にして主人公と一体になって映画を体験しないことには見えてこないのかもしれません。というわけで、みなさんもっと映画を感じてみましょうね。ではまた。

マーティン・スコセッシ監督『アヴィエイター』The Aviator(製作総指揮=クリス・ブライアム、コリン・コッター、レオナルド・ディカプリオ、アスラン・ナデリー、フォルカー・シャウツ、リック・シュワルツ、マーティン・スコセッシ、ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、リック・ヨーン、製作=サンディ・クライマン、チャールズ・エヴァンスJr.、グレアム・キング、マイケル・マン、脚本 ジョン・ローガン、撮影=ロバート・リチャードソン、美術=ダンテ・フェレッティ、音楽=ハワード・ショア、衣装=サンディ・パウエル、特撮=R・ブルース・スタインハイマー、ロブ・レガート、ルイ・モラン、出演=レオナルド・ディカプリオ(ハワード・ニューズ)、ケイト・ブランシェット(キャサリン・ヘップバーン)、ケイト・ベッキンセイル(エバ・ガードナー)、ジョン・C・ライリー、アレック・ボールドウィン、アラン・アルダ、イアン・ホルム、ダニー・ヒューストン、グウェン・ステファニー(ジーン・ハーロー)、ジュード・ロウ、アダム・スコット、マット・ロス、ケリ・ガーナー(フェイス・ドマーグ)、フランシス・コンロイ)米=日=独、タイムワーナー、2004

 ちまたでこの映画のいったいどこが悪いのか? ということで話題をさらった超話題作。マーティン・スコセッシ監督ということで映画ファンの心をくすぐるが、これはどちらかと言うとディカプリオの映画。でも肝心のディカプリオ君はどうもよくない。天才的な人物にも見えないし、強烈な人生観やこれという時の度肝の強さを持っているようにも見えず、ただの香具師にしか見えない。うーん、頑張っているのは認めるけど……。子供の頃から撮りたかったのなら、もうちょっとキャリアをつんでからでもよかったのになあ。でも彼はこれでアイドル俳優から抜け出したと思って満足しているみたい。やれやれ。
 んで、今年のオスカー作品賞がイーストウッドさんらにもっていかれたのは、アカデミー賞の選考会の見識のよさによるものなのでしょうけれど、この映画の最大の見所であるケイト・ブランシェットが助演女優賞を撮っているのを知るにつけ、久しぶりにアカデミー賞に拍手喝采を送らなければなりません。パチパチ。すごいなあ彼女。指輪の映画では美しいエルフだったのに、キャサリン・ヘップバーンをあんな見事に演じるなんてなあ。こういう女優っているもんなんだ(劇中で「ケイティ」って呼ばれるもんだから、なんかますますなりきっているのかな?)。そうそう、アメリカでヘップバーンっていうと、キャサリンのことっていうぐらいこの人は有名な人ですよ。最近なくなっちゃんだけども……。
 んで、ほかに何が悪いかというと、やっぱり脚本かな。典型的すぎ。ハワード・ヒューズは映画史に名を残す映画人で航空家(アヴィエイター)で、すんごい資産家なんですが、強迫神経症でもあった。まあ、個人的に神経症よりは精神病に親近感を感じてしまうという事情もあるのですが、その症状の描き方がいかにも型にはまっている(子供時代のなんたら〜)。潔癖症として描かれているんだけど、潔癖症なんて映画的題材としては普通すぎだし、それが外面的にしか描かれていないのが最大の問題。
 これ見て、こんな人物にぜんぜん共感できないからこんな映画駄目っていう人が多いみたいなんだけど、そういう人はどうせただのディカプリオファンだったんだろうとか、映画の楽しみ方を知らないって馬鹿にするのではなくて、そういう人たちの主張にも一理あるとここでは考えてみたい(珍しくね)。だって、ほんとに共感できるようには描かれてないんだもん。ただ、こういう行動を起こしましたって感じで、その内面のストレスやそこに至るまでの追いつめられ方がぜんぜん描かれてないわけ。『マシニスト』では精神病的な人物の症状を描くことそのものが映画の形式そのものになっていて、その語りを支配しているんだけど、この映画はただのストーリーテリングの段階にとどまっている(蓮實さん風に言うと、「説話論的に物語が機能していない」となるかな?)。光の使い方なんかわざとらしくて古くさく感じてしまう。ハリウッド映画って感じだよその演出。やっぱり今の映画の新しい表現をどんどん追求しておかないと、ちょっと古くさく感じてしまうものなんだなあ、とゆういい勉強になりました。
 でもお金かけただけあって、すんごい豪華な雰囲気は出ている(とはいえ、時代を再現しきっているというほどではない……やはり指輪に係わったハワード・ショアが音楽でこれはまあまあ)。主演級の俳優がたくさん出ているのを楽しむこともできる。ワーナーの戦略でもあるんだろうけど、むかしの映画をちゃんと見ておきたいと思いました。すんません、『暗黒街の顔役 scarface』も『地獄の天使』も 『ならず者』見てません。でも、ホークスが映画に顔を出さなかったのは……不満かも。

キム・キドクサマリア』韓国、ヴィスタ、95分、2004

 なるほどねー。いや、女子高生が主人公っていっても、岩井克人とキム・ギドクじゃあこうも違う世界になるのかあって話よ。まあ、あたりまえなんだけれども。でも、女の子が可愛いのは一緒よ。
 なんか援助交際(ニャニャン)が出てくるからって、そゆうことする現代の女の子たちを描いてるというよりは、一種の神話的な女性の話なんだよね。だって、サマリアの少女って題だもん。まあ、神聖な女性というのは、文学でよくあるけど、それが女子高生ってのがすごいとこだよね。ほんとに神聖っぽいし、無垢だしね。
 ま、キム・ギドクもかなり有名になって、私もはじめてリアルタイムで劇場で見たわけだし、これはけっこうみなさん見られるだろうと思います。だから筋は話しませんね。知らない方が衝撃だからさ。でも、ある程度、予想がついちゃうのは確かなの、前作ほどではないけど……。
 セリフは少ないけど、これは登場人物たちの心とじっくりつきあう話なんだよね。普通のオハナシとしては第二部の半ばで十分なんだけど、お父さんが出てくるのは、キム監督にしては珍しく、人物の心に観客を寄り添わせようとするからなんだと思う。そして、お父さんから見ると、やはりあの少女が純粋であることもよく分かってくるわけだしね。単に美しいだけかもしれんが……
 というわけで、テーマとしてはちょっと観念的で、筋の展開としてはありきたりだけど、対象との距離の取り方(カメラの位置も含めて)なんかは好感が持てます。あともうちょっとで頭で撮った映画になりかけるような気もしますけどね。それを救っているのが、やはり残酷さを恐れない人の心情への果敢な接近にあると思います。韓国の田舎の景色も美しいしね。最後のロングショットは悲しい場面ではあるけれど、それほど悲痛というわけではない、なかなか余韻のあるいい終わり方だったと思います。今からでも遅くないので、キム・キドク・ワールドへ、みなさんもぜひ出かけていってください。

ウォン・カーウァイ『2046』(製作=ウォン・カーウァイ、チャン・イーモウ、脚本 ウォン・カーウァイ、撮影 クリストファー・ドイル、クァン・プンラン、ライ・イウファイ、音楽 ペーア・ラーベン、梅林茂、衣装 ウィリアム・チャン、出演 トニー・レオン / 木村拓哉 / コン・リー / フェイ・ウォン / チャン・ツィイー / カリーナ・ラウ / チャン・チェン / スー・ピンラン / マギー・チャン / バード・トーンチャイ・メークインタイ / ドン・ジエ) 中国=仏=独=香港、2004

 キムタクが出ているばっかりにウォン・カーウェイとはぜんぜん無縁な人が劇場につめかけて、主にその人たちのせいで世間的な評価を下げてしまったであろうウォン・カーウェイ監督の集大成な作品。『欲望の翼』以来繰り返されてきた不毛な恋というテーマがほんとに繰り返し語られて、しかもそれをスター女優ばっかりが演じるものだから、否が応でも見応えはある。とにかくみんな泣いてますw。まずは口紅を口いっぱいに広げたコン・リーさんの泣き顔ショットをどうぞ。ここでは振った女性が泣いてます。むかしの恋を断ち切れないでいる自分に泣いているんだと思います、きっと。下のはこの映画中一番美しいとさえ言えるフェイ・ウォンの泣き顔。キムタク演じる恋人と別れたばかりで泣いてます。どうして彼女はずっと沈黙したままなのでしょうか。せっかく、「行きましょう」とかこの場面のための日本語も練習してたのに。そう思わせるなんだかどうしようもない場面です。いいですねー

 んで、トニー・レオン君にやっぱり昔の恋人(って『欲望の翼』のレスリー・チャンのことだと思います)のことを思い出さされて泣いているカリーナ・ラウ (名前は「ルル」で、しかもダンサーです!)。カリーナ・ラウって見る度に違う顔しているような気がするのは気のせい??? 彼女をきっかけにトニー・レオンは『2046』というSF恋愛小説を書き出します。そこに出てくるのがキムタクと、アンドロイドの女性たちです(フェイ・ウォンにマギー・チャン)。キムタクがアンドロイドに恋をして、自分が好きかどうか聞くんだけど反応がない。いや、反応はあるかもしれないんだけど、すごく遅れすぎていて気づくことができないのかもしれない。しかしキムタクはそうは思わずに、アンドロイドのフェイ・ウォンは自分を愛していないと思う。感情こもっていない独白続けるキムタクはどーでもいいけど、この設定には参ります。すごいなあ……。

 SFのシーンは余計だという人もいるみたいだけど、でもこれはトニー・レオンの恋愛観というか、彼が抱いている思いを描く重要なシーンなので、必要だと思います。結局、彼はプラトニックな関係であった(と思われる)マギー・チャンとのことにずっとこだわっているんだよね。自分の気持ちに気づくのに遅れたことと、機会を逃してしまったことにね。んで、なんと今回のトニー君はすんごいプレイボーイで、こともあろうにかのチャン・ツィーを自室につれこんでよろしくやっているのだ! これでチャン・ツィーは女優になったという人もいるぐらい、ここでのツィーは上手いと思います。ベッド・シーンもあるしね。んが、彼女を娼婦扱いしたあげく、嫌な男という観じさえ観客にあまり与えずに振ってしまうトニー・レオンであるが、再び彼女と会ったときは優しく、しかしやはりきっぱりと振っちゃうのだった。んで、ついにこらえきれずに泣き崩れるツィーちゃん。強気だけどけなげで一途な女性を演じています。かわいいなあ。

 すこーし冗長な気もしますけど、しかしこれはやはりトニーと女優たちの見事さと、その魅惑的な映像美が素晴らしい映画だと思いますねー。実際、ウォン・カーウェイほど俳優を美しく撮れる人はあんまりいないんじゃないだろーか。アンドロイドのフェイ・ウォンの髪型とか見てください。こういうところに、真のセンスのよさ、美的感性の確かさというものを感じます。やはり美しい人がその美しさを非現実なまでに発揮している映画というのは心惹かれます。とくに超美人女優というのは、ただいい演技を引き出せばそれでよいと言うわけではなく、その美しさのすべてを最高の形で引き出してやらないといけないんです。この点で、女優を発掘することにかけては一級ではあるチャン・イーモウなんかと比べてみてよ。確かに、『紅いコーリャン』のコン・リーや『初恋』のツィー(それに『至福』のドン・ジエ)はよかったけど、それはどうも与えられた役柄がよかったというのもかなりあって、彼女たちの魅力が全開だったかというと、そこは疑わしい。それに比べて、『欲望の翼』のカリーナにマギー、男だけどアンディー・ラウにレスリー・チャンの演技はどうだっただろう。チャン・イーモウによってイメージを固定されたコン・リーは苦労することになったが、演技の幅を広げることができたこの4人はのちに真の演技派になった……とかそーゆうことはあんまり言いたくないんですが、ウォン・カーウェイのとびぬけた実力は明らかだと思います。ミス・キャストだったキムタクは何の恩恵も得ていないのかもしれませんが……そうでもないかな。

 この映画に対して「同じことばっかりの繰り返しやってる」という人もいますけど、恋愛ってそんなもん。ほんと冗長なとこもあるけど、恋ってゆうものの切なさを見事に描いた傑作だと思います。つうか、ここまで本格派俳優ばっかり揃えられるアジア映画(中国人も数人でてるので、ただの「香港映画」とは呼ばない)ってすごいなあ。 んで思うにね、ウォン・カーウェイの作品世界は全部どこかでつながっているのよね。とくにこの作品はそれが明確。ちょっと小津っぽい小宇宙を形づくっているので。楽しめる人にとってはいろんな楽しみ方ができる映画なのは間違いありませんし、何度も見て楽しむことができる作品でもあります。小津ほどのめり込めるかというとそれはわかんないけどさ。筋の詳しい説明はここです。

ホウ・シャオシェン監督『珈琲時光』( 製作=宮島秀司、山本一郎、リャオ・チンソン、脚本=ホウ・シャオシエン、チュー・ティエンウェン、撮影=リー・ピンビン、美術=相田敏春、出演=一青窈、浅野忠信、萩原聖人、余貴美子、小林稔侍)松竹、2004

 なんかやばい青年だぞ浅野君ってな感じ。あの京浜東北線と山手線(「やまてせん」とひととようは発音するのだが)がすれ違うシーンは一週間ぐらい毎日 撮っていたらしい。こういう松竹らしくない、非常にゲリラ的なヌーヴェルバーグ的な撮り方で東京が撮られている映画って案外珍しいのかもしれない。大塚駅とかお茶の水 (一青窈出口間違ってる!)とかアキバハラとか、なんかだか非常によく知っている駅が出てきてちょっとどきどきです。 「エリカ」は有名な喫茶店らしいです(最近連れていってもらったよ)。海外でこれを見ると東京に帰りたくなるそうなくらい、東京への愛はにじみ出ていると思います(日本の監督で東京を題材に撮ることができる人は意外なほど少ないのに)。
 これは世界で最も優れたある映画監督と、日本で最も優れたある俳優と、アジアで最も独創的な(かつ美しい)ある歌手 の出会いの映画として見るべきでもあります。まあ小津映画をホウさんがどう見ているのか、っていうのもちょっとうかがえて面白いかもね。でもねえ、東京 のアパート(下宿かなあ?)でお酒を借しかりする借家と大家の関係ってのはかなりレアです。台湾では普通なのかもしれないけど……、ひととようだったらあ りえそうな気もするけど……。
 『好男好女』あたりからホウ・シャオシェンは若い女性を主題に撮るようになっていったと思うんだ けど、あの映画では過去や歴史との関わりと主人公の内面をリンクさせたりというけっこい重い手法がとられていたんだけど、前作の『ミレニアム・マンボ』で はやはり過去時制の物語ではあるんだけど、「歴史」みたいな重いテーマは影を薄めていました。んで、この作品も明らかにその流れにあるもので、若い妊娠し た女性の日々を映す、というただそれだけの日々が、ホウ・シャオシェンには珍しく、なんだか幸福な感じ(見ているほうが幸福なのかもしれんが)で描かれるわけ。ひととようがカーテンを開け閉めする動作がすごくよい (小津もこういう日常の動作を写すシーンが多いよね)。昔の彼の映画みたく窓から強烈な逆光がさしこんでいるわけでもなく、なんだか穏やかな光が主人公たちを包み込んでいる。
 ホウ監督は小津と似ている部分(みんなよく食べる)もあるんだけど、小津監督が作りこんだ細かいやりとりのある短いワンシーンを積み重ねるのに対しホウ 監督は長回しを多用してその行間みたいな部分で多くのことを語ろうとする。長回しといっても、溝口みたいな重厚なものではないし、ドラマを強烈に感じさせるというよりかは……、 おおっとこれを言い出すとドゥルーズの『シネマ』の解説をはじめちゃうことになるからまた今度ね。んで、この映画ではやはり長回しがいいん だよね(『ミレニアム…』と比べるとはるかに短いんですが)。公式ページには海外レビューが載っけてあるのでぜひ読んでください。
 実は『好男好女』も『ミレニアム・マンボ』もとても好きな映画で、この二本だけでホウ・シャオ シェンは自分にとってかけがえのない現代の映画監督の一人となったんだけだけれど、まあああいう、きりきりした切ない&胸にじわじわくる映画というわけではない。でも見終わったあとの感触というのがこれはこれですごくいい。 一青窈の過ごした時間が自分の中でも生きはじめるというか(クリスタル作用?)……。細かいところでつっこみどころはたくさんあるのだけれど、穏やかな雰囲気をかもし出 した佳作だと思います。というわけで、『ミレニアム・マンボ』の続きが今からとても楽しみです。

ジェームズ・ワン監督『Saw』製作総指揮 ピーター・ブロック / ジェイソン・コンスタンティン、製作 マーク・バーグ / グレッグ・ホフマン / オーレン・クールズ、脚本 リー・ワネル、原作 ジェームズ・ワン / リー・ワネル、撮影 デヴィッド・A・アームストロング、美術 ジュリー・バーゴフ、音楽 チャーリー・クロウザー、衣装 ジェニファー・L・スーラージュ、出演 ケーリー・エルウェス / リー・ワネル / ダニー・グローバー / モニカ・ポッター / トビン・ベル / ケン・レオン / ディナ・メイヤー / ショウニー・スミス / マイケル・エマーソン / マッケンジー・ヴェガ / ベニート・マルティネス(アメリカ映画、ライオンズ・ゲート・フィルムズ、2004)

 あー怖かった。なんだか見だしたらやめられなくなっちゃうタイプの映画で、見事ツボを心得ています。最近よくあるでしょ、低予算のスリラー映画がアメリカのマイナーな映画で。『フォーン・ブース』とか、『Cube』とかああいうの。そういうのをどうやら「新感覚スリラー」っていうらしいんだけど、このジャンルのなかではおそらく最高の作品だと思います。脚本の緻密さ、そこそこ成功しているカメラワークを含めてね。演技の素人っぽさと編集・演出のマズさには素人映画としてめをつぶってあげなくてはなりません。でもこれはサンダンスでかなりウケたらしいよ。
 最後まで見るとね、あっそうっだったのか、っていうオドロキっていうのがこういう映画にはつきものでしょ。で、それでだいたいの映画はカタルシスっつうか、まあ一応は納得したことになるのね。でもこの映画はな〜んか喉に小骨がつきささったような感じがしたままなのよ。というのも、それはなんとなんとな〜んと、もう一つオドロキの事実が隠されているからなんですね。……こういうのってイチバン怖いです。自分が目にしたことに自分が知らないことが隠されていて、もしかして……と思ってはいるんだけど確証がない場合ってのがイチバン怖い。もしかして自分は裏切られたんじゃないのか、しかも一番の親友に裏切られたのかもしれないという可能性があるのを知りつつもその確証がない場合に似ているのその怖さ。ねっっ怖いでしょ!!!!
 んで、私がその答えを知ったのはもちろんこのネット世界。まあ、何度か見れば気がつくのかもしれないけれど……。それはこのページです。このページはなんかメルマガを出している人のページらしいけど、精神科医の方らしくって、医学に関する専門知識があって分析が緻密です。何より面白かったのは、この映画に関していろんなウェブで「この映画は〜だから駄目だ」とか言っていることに対して、「それはあなたが映画の見方を間違っているからだよっ」って教えてくれているところ。……どういうのがあるかと言うとね。タップっていう首にキズのある男が出てきて、それが別の文脈でもう一度登場するんだけど、でもそれを「首を切られた別の黒人の男である」という解釈をするのは間違っている……とか教えてくれるの。うひゃひゃひゃひゃ。そういう見方する人って大人でもいるのかな。確かに子供の頃は映画の文法ってのが分かんなくって苦労した記憶があるけれど、そういうのがわかんない人の解釈にまでつきあうなんて真面目な人だなあ。偉いです。いや、でもこの人の患者にはなりたくないけど。こっちが分かっていることを長々と言われそうだから……。
 でも真面目な話、わたくしのページでは最低限の映画の文法を理解して、映画の筋に関しては最低限理解している人を対象として書いています。そのうえで解釈の違いってのはあるし、それは有意義なものです。さらに、映画の文法を理解しないで「だからこの映画は駄目だ」「つまんない」とかそういうレベルの話をしているのでもありませんし、そういうのにつきあうつもりもありません。しかっしそんな低レベルの映画の鑑賞者っているもんなんだなあ……。親兄弟親類縁者ご近所さんに映画の見方おそわんなかったのかなあ。確かに、まわりで映画を見る人がいないまま育った人だったら、いきなり映画をみはじめてもなかなか映画を理解するのは難しいのかもしれないなあ。そういう人は、小さいテレビ画面で映画を見るのではなく、大きなスクリーンで映画を見るのが一番いいです。情報量が全然違うから、テレビやビデオで気づかないことがたくさん見えます。集中力もぜんぜん違うしね。音も大きいし。あとは、脚本なんかを読めば、いかに映画がワンシーンワンシーン神経をつかって撮られているのかが分かるかと思います(いい映画ならね。あほな連中が集まってつくったような『バイオハザード』とかは駄目です)。
 まあでもこういうたぐいの批判ってのはけっこうどの世界でもありがちで、文学評論の世界とか、学者の世界とかでもあるんですねー。映画評論の世界では……いや、そもそも日本に映画評論の世界って言えるほどのものはないんだけね。まあそれはいいとして……これはちゃんと見れば、これがそれなりによくつくられた映画であるのが分かるっていういい見本のようなものではありますな。たくさん批判があるだけに。
 とにかく、最後の数十秒間の大ドンデンがえしのためにも、あるいはただ上で紹介したホームページの文章をよりよく理解するためだけにでもみる価値のある映画です。んが……同時にいまのアメリカ映画がはまりこんでいる袋小路を示してもいますね。なんかアイデア勝負みたいな、小手先の観客の裏をかくことを目的にしているようなそんな映画の傾向を代表もしているの、これ。なんだかなあ、こういう形の倫理観しか表明できないのかなあ、いまのアメリカ映画はってな感じの社会のどうしようもなさが漂ってきそうなの。もっとおおらかで素朴で愛のある映画がたくさん作られないもんかなあ。やっぱしそういうのは韓国映画かな、いまは。

ヴォルフガング・ペーターゼン監督『トロイ』(製作総指揮=ブルース・バーマン、製作=ゲイル・カッツ / ヴォルフガング・ペーターゼン / ダイアナ・ラスバン / コリン・ウィルソン、脚本=デビッド・ベニオフ、原作=ホメロス、撮影=ロジャー・プラット、美術=ナイジェル・フェルプス、音楽=ジェームズ・ホーナー、衣装=ボブ・リングウッド、特撮=アレキサンダー・ガン / ジョス・ウィリアムズ / ジョン・サム / チャス・ジャレット / ニック・デイビス、出演=ブラッド・ピット、エリック・バナ / オーランド・ブルーム / ダイアン・クルーガー / ショーン・ビーン / ブライアン・コックス / ピーター・オトゥール / ブレンダン・グリーソン / サフロン・バロウズ / ジュリー・クリスティ)、アメリカ映画、ワーナー、2004

 子供のとき胸をわくわくして見たあの『ネヴァーエンディング・ストーリー』のヴォルフガング・ペーターゼン監督の『トロイ』を今の子供たちもやはり胸をどきどきさせながら見るのでしょうかね。なんと言ってもエリック・バナが素晴らしいです。敗北を早くから悟っていた彼が戦いに出かける前の口上なんかは、お子さんたちの胸を熱くさせること間違いありません。そして、お父様たちにはなんと言っても、ピーター・オトゥールですかね。コックスは『25時』にも出てたけれど、オトゥールさんに会うのは『ラスト・エンペラー』以来という人も多いのではないでしょうか。プリアモスを彼がやっているというのが、この映画の映画史的な寄与と言えるかもしれません。
 『タイタニック』や『サハラに舞う羽根』のジェームズ・ホーナーが音楽を担当しているので、どうもくだらない音楽が雰囲気をぶち壊しにしてくれていますが、まあそれはご愛敬ということで……。で、そのぶち壊しにされたブラピとバナの戦闘シーンですが、これはなかなか新鮮だったんじゃないでしょうかね。ダンスみたいだし。二人ともとても戦闘の儀礼みたいなものを守りながら戦っているのが感じられていいですね。アキレスと一番気が合いそうなのが、じつはこのヘクトルなんだけれども、そういう雰囲気が出ていたと思います。
 んで、あんまり原作には忠実ではないこの映画(たとえばアイネイアスは出てくるけれど、木馬のシーンでカッサンドラは出てこない)だけど、 原作でも一番ドラマチックなあの、プリアモスがアキレスのところを尋ねるシーンは、なんだか古典的な味わいがありました。でも意地悪な見方をすると、オトゥールの演技力にたじたじのブラピが眼をきょろきょろさせているだけにしか見えなくって、その次のシーンで、なんであんた泣いてるの? ということになりますね。はい。
 『Invitation』でも特集があったとおり、今や数十年ぶりの歴史スペクタクル全盛期。まあなんというか、この手の映画はなんか懐かしい味わいがありますね。しかし、大勢の戦闘のシーンでは、『ロード・オブ・ザ・リングス』と比べるとけっこう見劣りはするし、全体の完成度という点から見ても……。じつはあの大作が、エンターテイメントとしてだけではなく、細部をとってみてもいかにすぐれた映像を作り上げていたか、というのが今になってよく分かりますね。まあとにかく、見事な役者たちの競演を見るだけでも、なかなか価値があると思います。火葬のシーンなんかも、ちゃんと調べているようで雰囲気出てますしね。 はっ! あたしってただの歴史物好きなのかな。

岩井俊二『花とアリス』 (脚本・音楽=岩井俊二、撮影=篠田昇、美術=種田陽平、衣装=中谷弘美、出演=鈴木杏 / 蒼井優 / 郭智博 / 相田翔子 / 阿部寛 / 平泉成 / 木村多江 / 大沢たかお / 広末涼子)日本、カラー/アメリカンヴィスタ、2004

 いいですね、これ。冒頭からすんごい皮膚的な感覚で訴えてくる映像。これで二人の世界に一気にはいってく。で、まるで映画中が花だらけ。んで、正統派美少女河合塾の蒼井優ちゃん。あう〜〜〜〜かわいいぞ。絶対中学生に見えます。『1980』のときよか断然いいですね。変な顔をするときがすんごいかわいいのよ。こう、無理に美少女を撮ろうとせずに、ほんとに女子高生が友達にするよーな顔を撮ったのが成功の秘訣ですね。こういう映画って、撮るのなかなか難しいんじゃないかと思います。んで、コメディなのがまたいいですな。もっと恥ずかしい映画化とおもっちまってたい。
 正直言うと、蒼井優のお父さんのなんともいえん馬鹿っぽさとか、ダンスのシーンでの大沢たかおのアップは不愉快だし、広末が映るシーンは無駄に長すぎるし、最後の告白のシーンは編集過剰だしやりすぎだとか、郭智博あれは何?とかいろいろ不満はあるし、こういういかにも「少女を撮りました」ってのに賛同するのは、なかなか恥ずかしいことではある。しかしここでは監督うんうんよりも、やはり主演二人の女の子の演技に打ちのめされるだけで十分なんです。これはほんとに素晴らしい。
『Invitation』でも特集が組まれていたけれど、昨今の少女アイドルは本格派女優の風格があります。鈴木杏の演技はマジ上手いと思うしね。そして彼女たちはみんなどこか最近の子によくあるどこか謎めいた雰囲気がある。というわけで、ひたすら表情豊かな彼女たちの演技を堪能してください。絶対、幸福なひとときを楽しめますから。

荒牧伸志APPLESEED』() 日本、2004

 士郎正宗原作の漫画のアニメ化。全編CGで制作されているけれど、人間はなんか微妙に普通のアニメっぽい質感なので、いささか違和感がある。原作は途中までしか読んでいないし、もともと未完なのだけれど、これ結構アレンジしているのではないかと思う。原作にはちょっとありえないほどお涙頂戴物になっているのはちょっとがっかりかも。全編CGと言っても『イノセンス』ほどの重量感はなく、佳作といったところか。 制作費は二億円で回収できたんだって。頭いい作り方だね。
 誰でもわかることだけど、これカメラワークがハリウッド映画みたいなのよ。3Dじゃないアニメってさあ、カメラワークが単調で、劇場で見るとなんか物足りなかったりするでしょ? でもこれはほんとすごいよ。空中戦のシーンが多いので、特にそう思いますね。細かい描写も多いので、やはり大きなスクリーンのある劇場で見た方がいいかも(テレビで見るよりも、ということではなく、小さなスクリーンのシネコンでよりも、という意味です。念のため)。
 けっこう設定が多い話なので、それを追っかけるだけでけっこういっぱいいっぱいだったりして、まあそんなに上手な映画ではないかな。でもそのぶんストーリーはわかりやすくなっていて、『イノセンス』よりは一般ウケするだろうけど。でも、主人公の声優がちょっと違和感あるかな……。
 しかし、CGもどんどん進化しているみたいだなあ。昔は、CGの映画なんていかにもまがい物っぽくて見る気しなかったんだけど、物質の描写に関しては今や実写と見間違うほどだもんなあ。ただやはり、人の描写はまだまだ難しいみたいだけど。でもまあ、日本のアニメなのにハリウッド映画みたいなアクション映画なので、そういう珍しいものとしても見る価値はありますよ。多少音楽が無神経にうるさいけど……。ともかく、見て、びっくりしてくださいな。

押井守『イノセンス()、日本、2004

 あーあ、あれだけ鳴り物いりで登場したのに、世間の評価はさんざんですね、このアニメ。でも、このアニメが世界で最も異常なアニメだという事実は変わりません。ああ、20億円の制作費はいったいどれだけ回収できるんだろ (六億円は国内興行で回収できたらしい)……。これがものすごい労力と地道な努力の結晶だってことは、見た人なら誰もがうなずくんだけども……。この失敗は、観客が映画に何を望んでいるのかを読み違えたか、あるいはそんなことそもそも考えなかったことからきているのでしょう。いったいどれだけの観客がこのごちゃごちゃした世界観と圧倒的な情報量の背景を見に行くために映画にいくのだろうかしら。
 もちろん、前作と同じ伊藤君子の歌や、バトー君に再会できることの喜びにひたれないわけでもないのだけど、ストーリーはオイオイって感じだし、引用も空回りしてて、なんか必死に知的に見せかけようとしているみたいでイタイ。正直、どうしてロボットと人間の問題をとりあげる人って、 よりによってデカルトなんかに言及したがるのかね。この監督が『モナドロジー』を少しでも理解していたら、もっと内容のなる物語になっていただろうに。
 ハイライトの一つ、チャイニーズ・ゴシックのシーンも唐突で、ストーリーに何の寄与もしていないし、いかにもまがい物っぽくて、映像のリアリテイがあるだけに、ひたすらグロテスクだ。物語上の仕掛けなんかもありきたりで、新鮮味がないねえ。食料品店のシーンは、ここだけに十ヶ月もかけたというだけあって、とてもいいのだけど。でも、十ヶ月って……際限知らなさすぎ。 
 そうそう、テレビ版の『攻殻機動隊』はすんごく面白いので、毎回見逃さないようにね。タチコマも出てくるし〜。しっかしこの映画は、これに数年間捧げてきた低賃金のアニメーターたちと押井さんの今後が気になりすぎるので、後味悪いですね、今は。USAでならヒットするかもしれないけれどね……。

キム・ウンスク『同い年の家庭教師』 韓国、2004

『スパイダーマン2』2004

ジョニー・トー『柔道龍虎榜』(2004/香港)

ジャンニ・アメリオ『家の鍵』イタリア、2004

『コラテラル』2004

『ヴィレッジ』2004

『ディープ・ブルー』

『列車に乗った男』

『エイプリルの七面鳥』

『CODE 46』

2003

Good-Bye Lenin !, 2003

The Best of Youth, 2003

マルコ・ベロッキオ『夜よ、こんにちは』Buongiorno, notte, 2003

『真珠の耳飾りの少女』2003

『オールド・ボーイ』OldBoy, 2003

『スクール・オブ・ロック』2003

『やさしい嘘』2003

ラッタナルアーン『地球で最後の二人』()タイ、2003

パトリス・シェロー『ソン・フレール』2003ベルリン銀熊

恋に落ちる確率』2003

『スイミング・プール』2003

『KILL BILL vol.1』2003

アラン・レネ『巴里の恋愛協奏曲』Pas sur la bouche(製作 ブリュノ・ペセリ、脚本 アンドレ・バルド、撮影 レナート・ベルタ、美術 ジャック・ソルニエ、衣装 ジャッキー・ブーダン、出演 サビーヌ・アゼマ / イザベル・ナンティ / オドレイ・トトゥ / ピエール・アルディティ / ジャリル・レスペール / ダニエル・プレヴォー / ダリー・コール / ランベール・ウィルソン)フランス、2003

 Pas sur la boucheとかなんでもかんでも歌になっても、ミュージカルみたいな踊りが入るのではなくて、日常のセリフが歌になるという形式のオペレッタ。こういうものを見たのは初めてだけど、ほんとに楽しかったよ〜。これ、どの曲も耳に残るいい曲ばかり。それというのも、1925年にパリでヒットしたオペレッタ(アンドレ・バルドとモーリス・イヴァン作)の映画化なんだから、いかにも古き良きフランス語(つってもほとんど今と変わっていない言葉だけど)の美しい響きがころころと心地よいのも当然というもの。20年代のパリジェンヌの髪型や化粧、当時の室内などを見事に再現した美術も美しい(とんでもなく豪華な衣装を作ったジャッキー・ブーダンはこれでセザール賞を受賞した)。
 私もみなさんと同じく、トゥトゥが出ているということで見たのだけど、主演のアビーヌ・アゼマの艶やかさと歌のうまさにすっかりまいってしまいました。いやあ、フランスのちょっと年食った女性っていうのはほんとに魔物ですなあ。トゥトゥももちろん可愛いけれど、ほかの役者たちの前ではちょっと見劣りする。嬉しかったのは『アメリ』にも出ていた印象的なあのイザベル・ナンティが出演していたこと。アメリカ人役のランベール・ウィルソンの存在もよいアクセントになっている。
 楽しい曲やシーンも盛りだくさんで、ランベール・ウィルソンが主題曲を歌うシーンでは、若い女性たちにun baiser とせまられて上へ上へと逃げていくのが愉快だし、「ルケ・マラケイ」と歌われる曲は単純な韻を踏んだセリフが馬鹿みたいに楽しい。全員が集まっているのに互いに気づいていないという最後のシーンも阿保らしくて最高だ。そして何より、レネ監督の十八番、人物たちの心の揺れ動きの細かな描写も素晴らしい。
 にしてもこの映画最大の魅力は、やはり1920年代の絶頂期にあったパリの風俗を細かに描いていることでしょう。そこは80代の監督だけあって、その再現には余念がない。この映画そのままで20年代風俗の立派な資料となるのではないかと思うほど。女性たちの宝石をあつらえたピカピカするドレスも素晴らしいし、最後のシーンで出てくる両方に扉のあるアールデコ調の部屋なんかもほんとに美しい。最近のミュージカル映画の中でもこれはちょっと傑作の部類に入るのではないでしょうか。ほんとに楽しいです。

王兵(ワン・ビン)監督 『鉄西区 第二部:街』()中国、175分、2003

 ちょっと見てから時間がたっちゃったんだけど、第一部と第三部を見る機会を逃したきりなので、第二部についてだけでも書いておきます。なぜなら、第二部だけでも十分独立した映画として楽しめるからです。山形国際ドキュメンタリー映画で大賞を取ったという全部で九時間を超えるこの作品、確実に映画史に残る傑作として世界中で評価されました。わたしはペドロ・コスタよりもこっちのほうが優れているのでは、と思ったぐらいです。そう、日本では『ヴァンダの部屋』の公開時期と重なっていたんですよね。でもこれは部屋だけじゃなくて、むしろ、取り壊されることが決まっている町とそこで暮らす若者たちが舞台で、ジャ・ジャンクーなんかを連想させる。これってほんとにドキュメンタリーなのか、というほど若者たちの生活にドラマがあり、町が破壊されていく様子は私たちにショックを与える。
 うーん、中国ってゆーのはやっぱりすごい国だ。こういうのをカメラで撮って、映画に残そうという発想をもち、それだけの技術をもった人間がいるんだもの。日本だとただ時代に流されるだけのような気がするんだよなあ。んで、中国がすんごい勢いで変化しつつあるのはみなさんご存じの通り。『テン・ミニッツ・オールダー』でもチェン・カイコーが描いていたとおり、北京の古い町並みは全部取り壊されているし、もう全部が全部変化しているわけ。んで、この映画の舞台となった町は特に文化的でもない、やはり閉鎖が決まっている工場がある田舎(中国東北部瀋陽)が舞台で、みんな安っぽいあばら屋で暮らしている。そこのいかにもボロな感じのなんかの店とかの息子とかそういう子たちがやっぱり安っぽい感じの恋愛なんかをしているわけ。で、そういうのをカメラが淡々ととり続ける。それだけなのにすごい面白い。だって、今の日本の都会とかと違って近所づきあいがけっこうあるし、若者たちもしょっちゅうつるんでいて一応は楽しそう。でもみんなほんとはすごい不安で、明日をもしれない身。いやー、これはなかなか残酷な映画でもあるね。しかしこういう歴史的な事件を誰かがどこかでちゃんと記録に残しておかないといけないだろうし、私たちも変わりゆく中国の生の姿をちゃんと見たいと思っていた。んで、それが驚くほど高度な映画として私たちの前に提示されたの。いやーびっくりですよもう。
 で、最後は町が壊されていって、ほんとにガラクタの山になっちゃう。これがほんとにあったんだから、すごいよなあ。で、その廃墟のなかでなんか重そうな袋を運んでいる人もいたりする。しかし強制的に退去させられた人々はどこにいったのか。新しい住居や彼らの扱いにさんざん文句を言っていたのだが……。『ハリウッド・ホンコン』でもこういうテーマはあったが、さすが胸に訴えるよなあ、これが現実だとすると。まあ、そういう単純な感想もあるけれど、これが映画として至るところでけっこう見せるっていうのも驚きなんだよね。きっとペドロ・コスタも見て勉強したのかもしれないし、最近のデジカメ映画を見て、これならドキュメンタリーでもきれいな映像の映画を作れるぞと思ったのかもしれない。しかしデジカメの出現によってほんとに映画は変わったと思う。その優れた使い方を示した作品として、この映画は歴史に残るのは間違いないでしょう。それを除いても、一つの歴史的な資料として十分に見応えがあります。中国に興味がある人や現在の世界に興味がある人、現代の映画に興味のある人たちは機会があったらぜひ見てください。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督『父、帰る(Vozvrashcheniye)』ロシア、2003(2003年ヴェネチア国際映画祭グランプリ金獅子賞)

「父と子の葛藤」というテーマの映画ではないですよ、これ。まあそういう風に見る人がいるのはわかるけど、なんか得体の知れない見知らぬ父親と彼に認めて もらいたく思っているお兄さんとまだまだ子供でこんなヤツ知らないと思っている弟のオハナシなわけで……、「葛藤」以前の「出会い」の場面なんですよ、ア ナタ。「葛藤」っつうのは大人になった息子と父親とのあいだになる、長いつきあいをへたのちに生まれるものを言います。
 んでとにかくこの映画、すみずみまでなかなか気が利いている。弟が抱いている繊細な感情に見事につきあって描き出しているのにはホントに感心するし、見 る人によっては「こいついつ本性を現すんだろう」と思わせないでもない父親の描き方も一貫していて好感がもてる。全体的にあまりに優等生的に思えるけれど も(そこまで強烈なシーンはない)、ショットもなかなかよいと思う。傑作とまでは言わないけれど、佳作だとは言えるし、見てソンはない映画。
 うーん、でもなあ、最後の展開を見てしまうとなあ、いい映画なんだけど……なんだか父親がただの狂言回しだったようにも見えてくるし、そう思っちゃう と、子供たちも型にはまった役をあてがわれているだけに感じられてくるし、いろんな思わせぶりな伏線っぽいものも不気味な雰囲気を盛り上げるためだけに使 われていたのかと思っちゃう。いや、映画の中に入り込めた人はそんなこと思わないと思うよ、でも、あの情況をあの融通のきかなさそうな父親がどう打開して くれるのかってことに期待していたのに、あの終わらせかたははっきし言ってあまりにおざなりで、単純すぎるように思える。あんだけ弟の父親に対する反発と いうか、嫌悪感のようなものの高まりを演出しておきながら、それがもっと息詰まるドラマに展開しなかったのはとってももったいないような気がするの。ああ いう結末は予想がつくものだし、ほかの話でも似たようなのあると思うし……(いや、実はこの映画が1997年の『パパってなに?』にそっくりだという意見 があるんですが……真相をモトム)。もっと父親ってものに最後まで向かい合って語ってほしかったのよね、「オハナシ」に逃げるんじゃなくって。なんか最後 でいきなり子供向けのちょっと薄気味悪い冒険小説を読んでいるような気になっちゃったよ……
 でもまあ、全体的にいい映画であると思います。画面には緊張感あるし(変な音楽で盛り上げなくってもよかったとは思うけれど)。あの父親をどう思うかに よって、その人の父親観みたいなのが分かるので、これからお子さんをお生みになろうという方はぜひ相手の男性に見せて意見を聞いておくといいと思います (なんて実用的な映画の使い方!)。ええと、最後に、いつも通りストーリーの解説をしなくてすいません、でも将来のマイベイビーにご関心のおありになる方 はきっとこの映画についてもっと調べられるだろうと思うので、ここで書く必要はないかと……。

ジャン・ベッケル監督『ピエロの赤い鼻』Effroyables jardins()フランス、2003

 ジャン・ベッケルは『クリクリのいた夏』がけっこう好きな映画なのだけれど、こんな通俗的な撮り方をする監督だとは思っていなかった。脚本はそんなに悪 くないようにも一見思えるけれど、出だしからいきなり子供に父親の過去の話を聞かせるなんて話の進み方として面白くないし(なんだかもうこれから感動的な 話をはじめましょうねって感じで)、展開もかなりありきたりでいささかバカバカしい。もちろんバカバカしいのがこの作品のウリで、ジャック・ヴィユレはいい味をだしているし、穴に入れられた囚人たちのやりとりもかなり可笑しい。戦時中の話をこういうふうに滑稽に語ることができるのが一応は戦勝国であるフラ ンスという国の不思議なところで、日本ではこうは描けないし、敵国ドイツの兵士にも変なのがいたなんて映画はたとえば日本が侵略した各国で創られるとは思 えない。
 しかしいかんせん、まるでもともとテレビ用に撮られたのかと思うほどクローズアップが多く、ちょっとした会話のやりとりにもこれが多用され、緊張感のな い画面に映った俳優たちのにやにやした笑い顔を見せられ続けることになる。四人が穴に入っているシーンを除けば大きなスクリーンにそれが写される映画館で の観照に耐えられる映画ではない。ショットには動きがなくってストーリーを追うために便宜的に映像を撮っているだけにさえ思えてしまう。なんなんだこれ は。お話自体は単純なものなので、二時間もかけてそれを語られる意味がわからない。アップばっかりなので構図なんてものもないし、穴のシーンでは四人の目 線だから基本的には見上げるしかないでしょ。こんなの誰でも撮れるよ。
 淀川さん流に一つだけほめるとすれば、やはり穴のシーンで、ピエロだったドイツ兵がほかのドイツ兵を気にしながら小さなアコーディオンを取り出して演奏 し始めるところ。あれはほんとに美しいシーンだし、ジャック・ヴィユレが最後にやはりアコーディオンを取り出して同じ歌を歌うシーンで大勢の人が涙しちゃ うのは納得できます。これは1937年のCharles Trenetの≪Y'a de la joie≫という歌らしいです。有名なんでしょうね。ついでだから下に歌詞をのっけておきます……。

Y A D'LA JOIE BONJOUR BONJOUR LES HIRONDELLES
Y A D'LA JOIE DANS LE CIEL PAR DESSUS LE TOIT
Y A D'LA JOIE ET DU SOLEIL DANS LES RUELLES
Y A D'LA JOIE PARTOUT Y A D'LA JOIE
TOUT LE JOUR, MON COEUR BAT, CHAVIRE ET CHANCELLE
C'EST L'AMOUR QUI VIENT AVEC JE NE SAIS QUOI
C'EST L'AMOUR BOUJOUR, BONJOUR LES DEMOISELLES
Y A D'LA JOIE PARTOUT Y A D'LA JOIE

LE GRIS BOULANGER BAT LA PATE A PLEINS BRAS
IL FAIT DU BON PAIN DU PAIN SI FIN QUE J'AI FAIM
ON VOIT LE FACTEUR QUI S'ENVOLE LA-BAS
COMME UN ANGE BLEU PORTANT SES LETTRES AU BON DIEU
MIRACLE SANS NOM A LA STATION JEVEL
ON VOIT LE METRO QUI SORT DE SON TUNNEL
GRISE DE CIEL BLEU DE CHANSONS ET DE FLEURS
IL COURT VERS LE BOIS, IL COURT A TOUTE VAPEUR

Y A D'LA JOIE LA TOUR EIFFEL PART EN BALADE
COMME UNE FOLLE ELLE SAUTE LA SEINE A PIEDS JOINTS
PUIS ELLE DIT:
" TANT PIS POUR MOI SI J'SUIS MALADE
J'M'ENNUYAIS TOUT' SEULE DANS MON COIN"
Y A D'LA JOIE LE PERCEPTEUR MET SA JAQUETTE
PLIE BOUTIQUE ET DIT D'UN AIR TRES DOUX, TRES DOUX
" BIEN L'BONJOUR, POUR AUJOURD'HUI FINIE LA QUETE
GARDEZ TOUT
MESSIEURS GARDEZ TOUT"

MAIS SOUDAIN VOILA JE M'EVEILLE DANS MON LIT
DONC J'AVAIS REVE, OUI, CAR LE CIEL EST GRIS
IL FAUT SE LEVER, SE LAVER, SE VETIR
ET NE PLUS CHANTER SI L'ON N'A PLUS RIEN A DIR'
MAIS JE CROIS POURTANT QUE CE REVE A DU BON
CAR IL M'A PERMIS DE FAIRE UNE CHANSON
CHANSON DE PRINTEMPS, CHANSONNETTE D'AMOUR
CHANSON DE VINGT ANS CHANSON DE TOUJOURS.

ドッグヴィル(ラース・フォン・トリアー) 、デンマーク、2003

2003年のカンヌで衝撃的なデビューを飾りつつも、賞を取れなかった曰く付きの話題作なんですが……。なるほどぉ、こりゃあ話題になるわ、そして賞はちょっと……(今のカンヌの体質からしてね)。でもね、これ、前作よりは好きよ。いいと思うよ、あれよりかは。あれはほんとにゲロゲロって感じだったんですが(まあそれなりに、いろいろと作り込んであって、内容は豊かな映画だったのは確かだけど……)、今回はあからさまにゲロゲロ的な内容なのに、むしろそうならなくって、ドッグヴィルの人たちが突っ走っていくのを見ていて楽しめるし、最後の章では視点を逆にして、ニコール側に同情しちゃえば、感情移入もばっちりできて、お客も満足ってわけよ。
 最大の欠点を挙げるとすると、『エデンより彼方に』でゴシップ好きの裕福な隣人を演じていたパトリシア・クラークソンは、あんな田舎のどうしようもない馬鹿ちんたちの村のおばさんって役にしては、美人で知的すぎるように見えることですかね。クロエ・セヴィニーはすんごいなりきってたよね。彼女だって最後までわかんなかったや。
 まあ確かに露悪趣味(以前やはりカンヌをもらった『ロゼッタ』みたくね)なのは事実だけど、脚本を書いたラースの、人間を観察する眼の細かさは、素直に評価すべきでしょう。まあ、どんな映画にも必要なものだけど、それは。チョークだけのセットで、あんだけ緊張感のある演技を引き出したのもすごいよね。ニコールがカーテンをあけるシーンなんかすごかったですね。はい。ただ、シーンを細かく切りすぎていてあからさまな「これ編集しました」色が出ているのはどうなんでしょ? 手持ちカメラというのは、この監督なので仕方がないし(そういうもんか?)、この映画にもそこそこふさわしかったような気がする(でも手持ちカメラというは映画的ではない道具だと、執拗に思い続けることには変わりないのですが)。
 え? なんか思想的なこと言えって? これはアメリカの歴史だよね、とか、最後にあんなことするんだったらニコールも同じ穴の……じゃん、とかそういうくだんないことを言えって? じゃあ一つだけ言うとしたら、最初に、ニコールが受け入れてもらうように努力するって考える時点で、あの物書きは間違っていたわけで、今日の歓待論のレッッスンによれば、そしてそもそものあの人の思想からすれば、歓待する側こそが、受け入れるよう努力すべきだったんだよね。無条件な歓待。無条件な贈与。んで、正義は必要です、とかデリダみたく言っちゃうのがいいのかな? あるいは、無条件の赦しが必要だ、とか? まあデリダ的な倫理の問題のほぼすべてがこの映画にはあることは確かだわ。
 前作のあれがすんごい異常なヒットだったから、ああいう甘ちゃんな感じの映画で今回も客が呼べたはずなのに、こういう異常な映画を作ろうとするのって、なかなか大変なことだ。たとえ、この監督の全作品でも小津のワンカットとは引き替えようにしようと思いませんということが事実だとしても、いやあ、マジでこの監督、見直しましたよ。

リチャード・カーティス監督『ラブ・アクチュアリー』 (製作総指揮・脚本=リチャード・カーティス、 製作総指揮=モハメド・アル・ファイド、製作 ティム・ビーバン / エリック・フェルナー / ダンカン・ケンワーシー、撮影 マイケル・コールター、美術 ジム・クレイ、音楽 クレイグ・アームストロング、衣装 ジョアンナ・ジョンストン、出演 ヒュー・グラント / リーアム・ニーソン / エマ・トンプソン / アラン・リックマン / ビル・ナイ / コリン・ファース / ローラ・リニー / マルティン・マカッチョン / キーラ・ナイトレイ / ローワン・アトキンソン / アンドリュー・リンカーン / グレゴール・フィッシャー / ルシア・モニス / ロドリゴ・サントロ / トーマス・サングスター / オリヴィア・オルソン / ハイケ・マカチュ / マーティン・フリーマン / ジョアンナ・ペイジ / キウェテル・イジョフォー / クリス・マーシャル / アブダル・サリス / ビリー・ボブ・ソーントン / シェンナ・ギロリー / イワナ・ミリスビック / ジャニュアリー・ジョーンズ / エリシャ・カスバート / クローディア・シファー / シャノン・エリザベス / デニーズ・リチャーズ)、イギリス、2003

 ラブ・コメってとりたてて芸術的なジャンルでもないし、ちょっと軽めのジャンルだと思われているようで、それはまあラブ・コメの普及のためには正当な考えなのだけれども、ラブ・コメだって大きな感動を与えることのできるジャンルだってことはもっと注目されたっていいのよ。ああ、違うって、「だから愛っていいよね!」的な感動じゃないんだってば。そうじゃなくって、男と女がまともな会話とかもかわさなくってたって、いつのまにかつっくいちゃうっていうそのことが、ある人間同士を結びつけずにはおかない不思議な信頼感とでもいうべきものが描かれているときに、感動するわけです。前置きはこれくらいにしといて……
 正直、イギリスの大統領はどう思いました? あの二人の出会い方にしても、近づき方にしても、ちょっとあれでござんしたねえ。率直に言うと凡庸というか、退屈というか、もっと下品にしちゃってもいいのにって感じ。でも、大統領が彼女のうちに行って、みんながいるところで彼女が動揺するシーンはなかなかいいですね。まあtypicalなシーンではあるけれど……。でもそのあとの歌のシーンが恥ずかしいものにならないのは、おつきのお堅そうな人が一緒に歌をうたっちゃうところでした。そう、この映画、真面目なラブ・シーンはあんまり上手くないけれども、こういうユーモアっぽいシーンが楽しくっていいのです。 脚本は『ブリジット・ジョーンズの日記』と同じリチャード・カーティスだけど、あれよりは恥ずかしいシーンが少ないですよね。コリン・ファースとヒュー・グラントもあの映画以来の競演だけど、こっちは純粋のイギリス映画なだけに二人もよりイキイキしているかも?
 で、この映画は愛を得る人だけではなくて、愛を得られなかった人のことも描いているのよね。その描き方は上手いとは思わないけれども(やはりいささか凡庸)、少なくともこの映画に深みを与えているのは確かです。で、そういう布石が最大限に活用されるのがラストの小学校の学芸会のシーンですね。まあ、この映画のいろんな登場人物がこのラストで顔を並べるって感じなんです。ここがいいのは、今までの人物関係の清算や、確認に終わるのではなく、まさにそこで新しい人間関係が生まれようとしている場として描かれていることなんですね。それまで描写されてきたさまざまな人間関係が言わば下地となって、ここで新しい上地が挿入されるといった感じ。そうなんだよね、これは愛の映画ではあるけれど、私たちが感動するのは、この映画の中で人間関係が生まれ(あるいは流産し)、それがそれぞれの人間を変えていくのを目撃しちゃうことにあるんだと思います。上手く言えませんがねえ。
 さらに秀逸なのが、9.11の事件を下敷きとした最初の空港の映像のシーンと、最後の空港のシーンとか呼応し合っていること。最後で私たちが目撃するものが、まさに、actually, 最初のシーンで、空港で人々が駆けつけ合うシーンとほとんど同じなんだよね(今や親しい人たちも含まれているけれど)。YES, love actually. あとラブ・コメってよくそうなんだけど、言葉を大切にしているのも好感がもてます。 休日に家族で見るビデオとしても、いいと思いますよ、これ。

ジェーン・カンピオン監督『イン・ザ・カット』(In the Cut)(製作総指揮 エフィ・ブラウン / フランソワ・イベルネル、製作 ニコール・キッドマン / ローリー・パーカー、脚本 スザンナ・ムーア / ジェーン・カンピオン、原作 スザンナ・ムーア、撮影 ディオン・ビーブ、美術 デヴィッド・ブリスビン、音楽 ヒルマル・オルン・ヒルマルソン、衣装 ベアトリス・アルナ・パスツォール、出演=メグ・ライアン / マーク・ラファロ / ジェニファー・ジェイソン・リー / ケビン・ベーコン / ニック・ダミチ / シャーリーフ・パグ)アメリカ映画、、2003

 『ホーリー・スモーク』のときは何年も公開が遅れたあげく単館系の上映だったのに、なんでメグ・ライアンが出ているだけで拡大公開になるのか疑問なジェーン・カンピオン監督最新作。明らかにこの映画の観客ではない人が間違えて見に行っているみたいなんですけど……。でも、これはサスペンスやミステリー映画でもなければ、エロ映画でもないし、見る人限られてくると思うんだよね。ちなみに、ここに書いてある意見はけっこう合っている。
 いったん愛しちゃったら、たとえその男が殺人犯かもしれなくても、愛しちゃうのをやめられない女の性ってやつがこの映画のモチーフで、その男への疑念にさいなまれながら性に溺れていく中年女の主観的な視点からのみ撮られていて、猟奇的な殺人事件が起きるたびに恐怖感と緊張感が盛り上がっていく。メグの感情に同調できるかどうかが、この映画の持ち味である緊張感を味わうことができるかどうかの分かれ目なんだけど……。
 そうかあ、ジェーン・カンピオンって、女性の心や欲望の揺れ動きを緊張感をもって描き出すってのがいつも作品にはあるのね。メグ・ライアンの演技はとてもよかったと思います。いかにもそれらしくって。ほんと最後まで怖くってドキドキしたしね。あとあと、これ結構手持ちカメラを多用していて、何も分からないメグの視線ってのが表現されていて、まあこういう使い方はよくあると言えばよくあるんだけども、なかなか効果的だと思います。でもさあ、あんな変な男(ってケビン・ベーコンなんだけど)と軽くセックスを楽しめる女がいきなし現れた男と思いがけない愛に陥り、かつてなく性に溺れていくっていうのはちょっとよく分からん。ケビン・ベーコンは不要だったんではないだろーか。あと、腹違いの妹 (ジェニファー・ジェイソン・リー、この人は『マシニスト』にも出てる)ともっとあやしい関係だったら面白かったのに……。とはいえ、本気で恋愛をしたことのある女性や、インテリの女性が見れば、共感できることはたくさんある映画だと思います。メグ・ライアンもなかなかセクシーだしね。
 しかしこういう、中年になって性に溺れるっての、男が主役のやつはたくさんあるよね。でも、これは女性の「愛」が女性たちによって描かれているのが新しいのかしらん。そう言われるとそういう気もするよね。しかし間違った公開のされ方をしましたね、これ。 でもま、東京では豊島園でしか新作(『クライシス・オブ・アメリカ』)が上映されないジョナサン・デミ監督よりかは恵まれているけれど。

ティム・バートン『ビッグ・フィッシュ』() 、2003

 こういうお話には弱いんだよね〜、もともと。でも、試写会に来ていた、つまんなかったらさっさと帰っちゃおう的なモチベーションの低い観客をぐいぐい映画に引き込み、最後には感動の渦潮の鳴門に巻き込んでいったのは、ティム・バートンの見事で(蓮實氏曰く)「律儀な」演出のたまものでしょう。それに、ユアン・マクレガー、ジェシカ・ラング、ヘレナ・ボナム・カーター(二役!)、アルバート・フィニーといった、これでもかこれでもかッというほどの名優揃いの競演が見応えたっぷりだからだ。
 印象的なステキなシーンも数多い。靴を電線に引っかけたり、年老いた妻が服を着たまま夫と一緒にバスタブに浸かったり、水に浸かった車の横を人魚が泳いでいくのを眺めたり、一面の水仙の花畑の中で恋が実ったり、などなど。どれもこれもティムの演出が光ってるんですよ。相変わらず木がむきむきと動いたりとファンタジックなシーンも多いあるよ。でも、ゴシック調ではないけれどもね。
 いつも家にいなかった父親のホラ話をまともに受け取ろうとしない息子が、父親の死に際して、その人生の意味に気づいていく……。それは「真実」というものではなくて、父親自身が自分の人生に対して感じていた「意味」そのものを息子が体験していく、という課程なのね。でもそれって、「物語」そのものの本来的な機能だと思うのよね。シェヘラザード以来のね。だからこそ、息子が、父親の物語を引き継いで語るシーンが異様なまでに美しいのよね。文句なしに。これは、映画史上、最も 「いい」シーンのうちの一つだと思います(ほんとかよ)。
 ティム・バートンはこれで唯一無二の名監督になったわけだけども、この彼の変化の兆候をいち早く見抜いていた蓮實さんはやっぱりすごいわね。次は『チョコレート工場の秘密』の再映画化だってね。これは死ぬほど愉しみです。なんてったって子供の時の愛読書なんだもん。

犬童一心『ジョゼと虎と魚たち』、日本、2003

 ちまたで大好評のこの映画。これを見て感動しない奴はまともな恋愛経験のないやつだ、という雰囲気まであるので、もはや否定的な意見を提出することさえためらわれるようなこの映画。でも、私の評価は「まあまあ」ですね。どう考えてもA級の映画ではないでしょ。
 妻夫木さんは意外といい演技をしていて、オドロキました。なんかナチュナルな演技でよかったですね。彼のがんばりなくしてこの映画の成功はなかったわけだし。でも、この役以外に演技できるのかどうかは疑問だという意見が……。池脇千鶴は文句ないでしょう。『大阪物語』であんなにまだ子供だったのに、大人の女性になっていたのに感激ですよ……。ほかには、江口徳子が与えられた役以上に存在感があって困っちゃいますよね。上野樹里って『てるてる家族』の秋子役だったんだよね、全然役柄違うけど、やっぱり演技下手だったからあのドラマでも影が一番薄かったんだなあ……。
 正直、演出というか、二人の関係の見せ方がちょっと一本調子で、なんかこう、オドロカされるシーンがないんだよなあ。卵焼き食べる以外に、なんかもっと二人の細かな日常のやりとりを描いていたら、ぜんぜんいい映画になってたのに。この監督、平均的すぎるんだよなあ。 旅行の途中でとまるホテルとかもあんまり趣味悪いというか、安っぽすぎ。安っぽいホテルしかないし、そうゆうホテルしかとまんないのはわかるけど、あの魚の照明はあんまりにもチープ。こうゆうシーンを上手くかけないと、結局二人の関係そのもののなんだか安っぽいものに見えてくるんだよね。ほんともったいないシーンだよな、あれ。
 あと、妻夫木と上野樹里が再会するシーンなんかは安直すぎ。彼がどうして彼女を選ぶのかも納得できないし。ああいう強烈な人と付き合った後なら、単にかわいいだけの女の子となんて付き合わないでしょ。二人がどうして別れることになったのか、そのへんの経緯を描かないと、たんに「男ってこういうもんだよね」みたいな終わり方になっちゃってるじゃない? これは原作にはない部分らしいけれども、ほら、こういうところで監督さんがイマイチなのがよく分かります。でも、ジョゼが電気椅子で元気に通りをぶっとばしているところはよかったけどね。

ヴァイブレータ()2003、日本

 同じ時期に公開されている映画として、『ブラウン・バニー』とこの映画を比較してしまわないわけにはいかないでしょう。まあ、ロード・ムービーっつうのは、もともとなんか私的な映画のジャンルなんだけど、ほんとどちらもそうだからなあ。でも確かに『ブラウン・バニー』のほうが痛い映画なのに、これより映像ははるかに夢のように美しかったなあ。まあ、どちらもアマアマだと私は思いますけど。
 そう、最近ほんと気になるんだよなあ。手持ちカメラ。もう手持ちカメラで全編とっている映画なんてはじめから決してみないことに決めていたとしても、そんなに人生損をしないのではないか、と思うぐらい手持ちカメラはいいと思わない。まあ、狭い車内で手持ちカメラは便利だってのは分かるんだけど、それって単に安易なだけだよね。
 大竹じゃないや寺島しのぶは確かにすごいいい。まあ、彼女を見たいだけだったので、いいや、満足。愛されていて満足している女の人の表情がほんとよく創れていたと思います。でももっといい役をもっと若いころからもっともらっておくべきだった俳優なのではないのか、この人は。彼女と比べると、大森南朋なんて嘘くさい演技しているとしか思えなかったもんなあ。ほんと実力って残酷にスクリーンに映るよね。
 結論。そんなに悪い映画ではないけれども、まあはっきし言って退屈な映画だな。どきっとするような部分が全然ない。よく眠れるのは保証するけど。『ブラウン・バニー』のとこでも言いましたが、これを今年一番の映画だとか主張する輩ってのは、ほんと母親離れができてないひよっこちゃんなんだろうな、と思います。わたしゃあ、もっとキリキリと心にくる映画を見たい。冬だからと言って、ぽわわんと癒されたりするのはごめんこうむりたいものですな。

ヴィンセント・ギャロ『ブラウン・バニー()2003

 ぎゃろぎゃろぎゃろ〜ぎゃ〜ろ〜。うううううん、なるほどロード・ムーヴィーかぁ。この人、ちょっと古いアメリカ映画なんかがすごい好きなんだよね。まあ、『バッファロー』はそれで点を稼いでたんだけど。まあでも、私がそんなに評価しないであろう監督であることはもとから分かってはいるでしょうけれど、みなさん。でもカンヌでも話題になったこの問題作、なんか眠い日に、しかし見ないわけにはまいりませんでした。まあ個人的な体調の問題で申し訳ないけれど、非情に心地よく眠ることができました。心地よく眠られる映画というのは、じつはなかなかいい映画だったりするので、この映画もほめてあげなきゃいけないな。
 センチメンタルで甘くって、美しい映像がずっと流れていて、でもどことなく夢想のようだなあ、と夢うつつに思いつつ見る映画ですね、これは。まあ、こういう私的な映画ってのは、見る人がそういうのにいくらかでも近い体験をしているかしてないかで全く共感できる度合いが違うものなんだけど、でも、これはこれで一つのスタイルでしょう。ぼんやりとなにやら昔の体験か何かを思い出しながら見ればいいのではないでしょうか。それはやはり、映画でしかできない不思議な体験だと思うのよね。
 でも、この映画を2003年最高の映画の一つだ、とか言っている人たちにはやはり言っとかないといけない。これだったら、すでにホウ・シャオシェンがいい映画をたくさん撮っていて、あのレベルに到達はしてないじゃないか、と。まあ、好みの問題なんだろうけどね。

ガス・ヴァン・サント監督『Elephant』 (製作総指揮 ダイアン・キートン / ビル・ロビンソン、製作 ダニー・ウルフ、脚本 ガス・ヴァン・サント、撮影 ハリス・サビデス、美術 ベンジャミン・ヘイデン、出演 アレックス・フロスト / エリック・デューレン / ジョン・ロビンソン / エリアス・マコネル / ジョーダン・テイラー / ブリタニー・マウンテン / アリシア・マイルズ / ベニー・ディクソン / ティモシー・ボトムズ / マット・マーロイ / キム・ケニー / マイケル・ポールセン / アルフレッド・オノ / エリス・ウィリアムズ)スタンダード、アメリカ映画、2003

 このサイトをごらんのみなさんはもうおわかりだと思うけれども、私はカンヌで賞を取るような映画よりも、美男美女が活躍する普通の劇映画の方がまあ好きなのだ。しかしまあ、スペクタクル映画ばっかり見てると馬鹿扱いされるから、たまには「真面目」な映画も見に行くのである。……まあ、別に意識してジャンル分けて見ているわけではないけれども、さすがにこの映画とか、『ヴァンダの部屋』とかは娯楽のために見に行く映画ではないよね? で、何が言いたいのかというと、そういうことをよく意識して映画を見る人、一方の、まあ「真面目」な映画を主に見てハリウッド映画を馬鹿にすることを生き甲斐にしている人たちはこの映画を文句なしにほめるだろうし、他方の、そのハリウッド映画などを主に見ている人はこの映画をつまんないと言うだろう、という意味ではある点、けっこう典型的な映画ではないだろうか、この映画。
 んで、どうしてそういう二極化が生じるかというと、単にいろんな映画があるというだけで、一方では娯楽を提供するという目的の映画、他方では娯楽よりも芸術性を追求する映画があるわけよね。でも第三の種類の映画があって、それはいわゆる「同時代もの」映画、ととりあえず呼ぶけれども、まあ要するにノンフィクションとかがこのジャンルに入るんだけれども、社会的なものを題材にした映画のことね。さて、映画がはじまって以来、この第三のジャンルが今ほど注目されていることはないと思われます。その証拠に、2004年のカンヌもこのジャンルの映画がパルムを取りましたね。実際、映画は小説なんかよりずっと早く世界中で上映されることができるし、小説よりずっと多くの人に直接訴えかけるという効果があるので、このジャンルこそまさに映画の大きな役割として今後も発展していくに違いないのです。まあ、昔は劇映画のなかにこのジャンルは収まっていた気がするのだけれど、今やもっと直接的なメッセージを持った映画がたくさん作られるようになってきているのではないでしょうかね。
 というわけで、この映画はあのボウリング銃乱射事件を題材にした映画なのだけれど、こういう映画が作らなければならなかった状況というのは、日本のオウム事件なんかを思い出してみてもよくわかる。あの事件は「狂った」浅原の狂気が生み出した異常な事件であって、特殊な出来事なのだ、という感じ方ですね。同じくUSAでも、「異常な」高校生が引き起こした特殊な事件なのだ、というふうにメディアも報道していたらしい。それにしても、同様の事件が北米各地で多発していたよね、あの当時……。まあしかし、『アンダーグラウンド』なんかを読んでもらってもよく分かるように、あれは普通の日常を送っていた普通の人々を本当に突然襲った事件なんであって、誰も当日被害にあうなんて夢にも思っていなかったのよね。そこを襲うというその暴力はほんとうにとんでもないもので、ホントーに恐怖なわけなんです……
 まあ、そういう「恐怖」を呼び覚ます、というのはこうした事件に向き合うためには確かに必要なことで、この映画その点においては成功していると言えるでしょう。しかし……あの流麗なカメラワークはいいんだけど、同じシーンが違う人物の視点から繰り返されたりとかでいささか技巧的すぎるのと、同時録音じゃないのが不自然だったりするのが、せっかくのナチュラルな素人さんの演技をぶちこわしにしていたような気がします。そして、唯一まともそうなのがカメラの少年だけで、あとはみんななんか倦怠しきっているっつうのも、どうもありきたりで、社会批判としては凡庸としか言いようがない。
 ただ、大勢がいるなかで一人の人物を追っかけて、その周辺も含めてドキュメンタリー風に撮るっていうのは、けっこう好きなやり方だし、それぞれの日常も見てるとなんだか覗き見しているみたいで純粋に楽しいってのはある。ただ、非常に多様な側面を持っているだろう事件を、なんか非常に批評的な見地から作り上げている、という面は否めない。とはいえ、この映画の本領は、 なかなか成功している緊張感にあるのでしょう。普通のホラー映画よりかはぜったい怖いです。と言うか、あんまりに怖いので気持ち悪くなると思いますよ、気の弱い人はね。

荒戸源次郎『赤目四十八瀧心中未遂() 、2003。

 車谷長吉の同名小説の映画化。ここでレビューするのはなるだけいい映画と思えるものだけに絞って書いているつもりなんだけど(まあたまにケナすことはあるけどね)、これは全然駄目ですっていうのがあったら書いておかなければ、なんでこれ駄目駄目って誰も教えてくれなかったんだよー、と激怒なさる方がいたら困るので、たまにはけちょんけちょんに×印をつけておくのも有意義と言えましょう。じつは自分がそう思ってたりして。
 ……これ、映画ですか? 映画のことホントにこの監督知ってるんですか? いままで映画に感動したことのある人なんですか、この監督。いや、マジで。シンジラレネーションです。ありえません、こんな映画撮るなんて。これが映画だと全人類が主張するのなら、わたしゃ清水寺から飛び降りてもいいぞ。
 大西滝次郎とかいう新人が主役なんだけど、この人がなんかワナワナと顔を硬直させるところをアップで五秒も撮るのを見て、すごーくイヤーな予感がしたんだよね、冒頭から。これ、ジョークだよね? 誰かそう言ってよ。そうでなきゃ私の頭が狂っているのか? この主役のなんだか安っぽい文学青年な感じは何なんですか? 今年、2003年だよね? いつのまにかタイムスリップしちゃってる? いったい誰がいまの世で、なんか内面に屈折したものを持っているよくわかんないけどありがちな文学青年を映画で見たいと思うのですか? しかもアップで五秒も。しかも単にわなわなとしてるだけのとこ。ありえない。なんすかこれ。いや、監督がたとえそう演技しろって言ったとしてもよ、ちょっとは映画を見てる役者なら、そんな演技できません、ぼくも将来があるので、っていって断るでしょ? だって、あまり言葉を発しないけれど、ちゃんと人間らしさを持っていて、なんかしんないけど怒りをためこんでいるらしい主人公の「内面」なるものをここぞとばかりに、お顔ワナワナで表現しようとするのよ? オーマイガッ。残念だけど、この俳優は二度といい映画に呼ばれることはないでしょう。舞台も見たいとは思わない。まあ新人さんがこの、人生の底に行き着いた男を演じるってのもそもそも無理があったのは認めるが……
 小説はすごくいいのに……。いや、舞台とか、女性の脇役とかはすごくいいよ。寺島しのぶさんに大楠道代さん。でも男優は全滅状態。ひどいね、これは。なんだか監督周辺の人材を使ってるらしくてねえ……。子役もこんなんでOKをだすというのが信じられないレベル。面白いのは、みんなすごくそれぞれの役をやりたかったらしいんだけど、大楠道代さんだけはやりたくなくってどうしようもなくて、途中で病気になったら辞められるのにと思いつつ最後までやった、なんてことを言ってるの(それ言っちゃうのがやはり常人ではないですね)。でも彼女が一番いいんだもんなあ。ほんとのプロってやっぱりすごいもんですなあ。それに比べると内田裕也は……。極道関係はほんとヒドイ。監督、ちゃんと取材した?
 一番ヒドイのは、なんと長廻しをしちゃっていること。同じシーンが何秒も続くのに、なんつーか、画面にまったく強度がない。あのね、長廻しなんてのはね、それをしてもいい監督と、そうでない人がいるの。あんた、溝口の長廻しにかなうと思いますか? ゴダールの、タルコフスキーの、ホウシャオシェンの長廻しほどの緊張感をもった画面を持続させることができると思っているんですか。一目瞭然でしょう。編集ときに誰も言わなかったのかなあ、ダメだねこりゃって。だって、映画みんな見てるんでしょ? なんすかこの面白くもないシーンの積み重ねは。まったく映画的なシーンがないの。映画って、こんなに、苦痛なものでありうるなんて、はじめて実感しました。同じく小説原作の『夜を賭けて』の長廻しは素晴らしかったんだけど、あんだけのエネルギーをもったシーンを撮るか、それともシャオシェンみたいな、いやあれはまねできないだろうけど、なんともいえん充実した、でもあんまり変化のないシーンを撮るか。それができなきゃ長廻しなんて普通選択肢のうちに入ってこないと思うんだけど……
 え? 山根貞男が「目の力がすごい」って評価してたって? あんたねえ、そんなの褒め言葉でもなんでもないのよ。目の力って……。確かにおめんめにやたら リキ込めてカメラには映っていたけどね、それを演技だとか一瞬でも思うこと自体、ありえないことなんですよ。カメラも凡庸だね。これと比べると、これよりはるかに特異な作風だった『沙羅双樹』のほうがいかにまともな映画として成立していたことか。こっちは、映画としてもこれをとりまとめるほどの統一感というものもない、ただのシーンの連なり。この監督にはほんとに映画をまとめることも、完成させることもできないんだなあ、と思わせるだけ。
 この監督、前作で『ファザーファッカー』を撮っているらしいことからして、なんだか私小説的な文学に憧れているんだろうね。でもね、私小説は映画になんないのよね。そもそも、文学へのあこがれと映画って何の関係もないものなの。というか、それで1910年代ぐらいのヨーロッパー映画が失敗したって言う映画史の歴史をご存じないわけじゃああるまい? 何にせよ、こういう映画がいいと思っちゃう倒錯した状況ってのが確かにあることは認めるけれども、それに対してはやはり本来のアメリカ映画のよさってのが映画そのものなんだってことを、きちんと知っておく必要があるでしょう。っていうか、常識? ああ、疲れた、二時間四十分も見るだけで疲れる映画だし、語るのも疲れるわ。

マノエル・デ・オリヴェイラ永遠の語らい』 (脚本=マノエル・デ・オリヴェイラ、製作=パウロ・ブランコ、撮影=エマニュエル・マシュエル、美術=ゼ・ブランコ、衣装=イザベル・ブランコ、出演=レオノール・シルベイラ、フィリパ・デ・アルメイダ、ジョン・マルコヴィッチ、カトリーヌ・ドヌーブ、ステファニア・サンドレッリ、イレーネ・パパス、ルイス・ミゲル・シントラ )ポルトガル=仏=伊、2003

 地中海をクルーズしながら、訪れる土地の歴史的な建物を回る、という映画は、もしかしたらたくさんの人が実現しようとしたのかもしれないし、実際にあるのかもしれない。しかしそれを実践したこのオリヴェイラの新作は、ちゃんとした、いやそれどころか、なかなか面白い映画になっているのはホント不思議だ。リスボンでエンリケ王子の像を船から眺め、マルセイユではギリシャ文明の恩恵が語られ、ポンペイでは廃墟になった街を観光し、アテネではギリシャ正教の神父と「アシナ」の像やギリシャ正教について教わり、イスタンブールでは宗教の戦争の歴史を知り、カイロでは奴隷として働かされたユダヤ人たちについて知り、アデンではアラブ人たちについて知る、レオノール・シルベイラのかわいい娘の旅は、実際にありそうな旅だし、あるいはこうした旅をしたことのある人ならこれがそのまま映画にもなりそうなほど豊かな旅をしたと思うだろうものだし、そして実際に、こうして人類の数千年の歴史を旅する見事な映画として実際にスクリーンに映っていることの幸福というものは、もちろん現実に対する映画の敗北というようなものではなくて、下手をすれば単なる嫌みな観光映画になってしまうところが、魅惑的な映像とやりとりに満ちた、心地よい時間を提供してくれる(もちろん、それだけではないのだけれど)。
 ソフィア寺院の床に着いているバッテンとか、カイロで出会うルイーシュ・ミゲラとか、そして特にマルセイユのあの子犬とか、そこに実際に行ってみたくなるような魅力を持ってそ土地は語られるのだけれど、娘がいつも疑問に思うのは、どこでもいつでも戦争ばかりしている人間(あるいは男)の歴史だ。これが衝撃のラストにつながっていくのだけれども、問題は、三人の有名人である女性たちの会話が長々と挿入されることだろうか。確かにこの女性たちは西洋文明の危機をさも重大そうに語って見せたり、それに対する自分の意見を一席ぶってみたりするのだけれど、この会話が、母と娘の会話ほど魅力的かどうかというのはかなり疑わしい。この三人の会話を、オリヴェイラの本心ととるのではなく、母娘の会話との対比で捉えるのが、まあ正当な理解だと思われるんだけど……。だからこそ、シルベイラが船長の招待を断るシーンがあるのだし、「娘との時間を大切にしたい」というその言葉こそがこの二人を特権化しているわけだ。ドヌーヴら豪華な三人の女達もこの美しい二人を前にしては、ただただ彼女らをうらやむことしかできないのはなかなか愉快だ。
 ほんと素晴らしいマルコヴィッチの、あの驚きの顔でストップして映画が終わるのもまたほんとすごい。このラストの解釈はまあ、それぞれの観客に投げ出されているのだ、ということでいいのではないでしょうか。

ラストサムライ( 監督・脚本・製作=エドワード・ズウィック)USA、2003

 言うまでもなく、マスメディアはスターの時代を可能にしてきた。とはいえ、メディアこそがスターを生み出した、とかメディア論では語られるけれども、なぜ浅野忠信がスターであって、寺島進がいい役者ではあっても、スターではないのかの説明はしてくれない。それはやはり、選ばれたものだけがなることのできるものなのだ。んで、この映画のすんごいところは、三人ものスター男優を揃えてあるところにある。もうそれだけでほんとにすごいことだと思います。
 映画館に一年に数回しか行かない人たちと映画を見ることってのはまれなことで、しかも初めての映画館で見る、というのもまれなことだったので、少し観客がおとなしく映画を見てくれのか心配だったのだけれど、みんな少なくとも十分以上は並んで見ただけあって、みんなスクリーンに熱中して見ていました。というか、それぐらいの映画ではあったことにとりあえずは安心しました。ふう。しかし、この映画をまあよくできた、日本の過去へのノスタルジーに満ちたただの娯楽映画だとするには、やはりスター三人の力が大きすぎるのです。
 小雪も予告編なんかを見たときはちょっと違和感あったけれど、ああいう経緯をもっている女性だから、あんな感じの冷たい顔立ちでいいのではないかと感じたのか、映画の中では違和感はぜんぜんなかったです。いやいや、トム・クルーズに思いがけず不意に女性的な仕草をじっとみつめられるときの色っぽさと言ったら、ちょっとそのへんはやはり西洋の女性なんかにはとうてい出せっこない日本女性の艶やかさがが撮れていた……とまで言葉を費やすのはさすがに野暮だな。一言で言えば、セクシーですた。いやいやいやいや、そんなシーンよりも、トム・クルーズが彼女の前の旦那の鎧を着るために服を脱がされて新しい衣を着せられるシーンのあのなまめかしさと言ったら、あんた、ほとんどこの映画には似つかわしくないほどだったじゃあないですか! あれは、あのシーンは、まさにスターならではのセクシーさ(トムのね)に満ちあふれていて、くらくらしました。あそこが、この映画一番の泣き所(ぽろってやつ)だと思うんだけどなあ、なんでみんな渡辺兼が死ぬところでぐすんぐすん泣くかなあ。おっと、また野暮なこといっちまった、勘弁してくんねえ(だいたい、ぽろっと人が泣いたかどうかなんて映画館のなかじゃあわかんないよね)。
 まあそういうわけなので、あんた、「こんなの典型的な、西洋人(ラフカディオ・ハーンとかね)がよく抱く滅び行く日本の美への哀愁みたいな映画じゃん」(と言うか、それをハリウッドが撮ることなんて未だかつてなかった事件ではあるんだけども)とか、「確かにハリウッドとかが日本の歴史ものを撮るときの違和感は少ないけれども、こんなのぜんぜん日本の歴史になんかない話じゃん」(西郷どんはちと違うよなあ……)とか、「だいたい武士道を美化しすぎなんだよ、うちの大学では卒業式のときに馬鹿な学長がいきなり新渡戸の『武士道』の話なんかしだしてあっけにとられたことあったけれどもさあ、あんな武士道一辺倒の村が実在したわけないじゃん、村民みんな侍かっつーの!」(いや、江戸時代に武士なんて誇りもへったくれもなくなっていて、だからこそ寄せ集めの新撰組なんかが活躍せざるをえなかった歴史をみなさんご存じのはずだし、明治に生きた鴎外だって、武士道の内実がどんなものであるかという歴史小説を書いていたことを忘れてはならないわけでして……)とかを指摘するのは上で私が言っちゃったことよりもはるかに野暮なことなのである。あんた、この映画はスターを見ればそれでいいあるのよ。真田広之がほかの二人が主役になってるおかげで割りを喰ってたのは、長年のファンとしてはいただけなかったけれども、あの渡辺兼が時代物にまた出てくれた、ということはですな、もう一度『独眼流正宗』を一年かけて見直せばもうこの世に思い残すことはないって感じですよ。でも、日本人ならついついほめちゃうこの二人はおいておいて、ここはやはりトム・クルーズにみなさん、正当にびっくりしてあげないといけません。 だめだ、蓮實さんの言うほどにはうまく書けません。
 ただ、やっぱり野暮なことだけども、これを見て、武士道ってやっぱり素晴らしい! とか抜かしている人たちにはちゃんと言わないといけないことがあるよね。まず現実には、欧米人(韓国人や中国人も)が日本の社会に触れて、その良さに気づくということがたとえあったとしても、その考え方まで日本人のに染まるというのは到底ありえないでしょう。彼らにとってみれば、日本は情緒的で論理に欠けすぎていて、個人としての一貫性や主張をもたなさすぎです。まあ、一般論だと思わずに聞きなよ。だってこの映画、まさにトム・クルーズが日本的な美徳である、周囲との調和ってやつ、つまりなんか変な村の人々や日本の風景なんかとべったり和解しちゃうのがたまんない映画なんでしょ? そういうのはほんと幻想だよね。アメリカ人がこれを作ったというのも、あまりこれが可能的であることを説得的にはしないでしょう。だって、単なるノスタルジーと、アメリカを否定したいっていう欲望から生まれた歪んだものにすぎないもの。それから『武士道』ね。これもそんなにすごい本なのか? まあ日本を賛美したくて、日本が諸外国とうまくいかないことがあっても、それは日本が文化的に特殊だから、文化的な差異は尊重しましょうね、とかなんとか一見左翼的な言説をはいているつもりで結局は日本の閉鎖性を守るだけの保守的な言説を紡ぎ出している人たちとかには貴重な本なのかもしれないけれどね。んで大学の卒業式なんかで、総長が訓辞として、この本を引用なんかしたりして、社会や外国に出ても日本人の心を忘れるな、とかなんとかたわごとを言うために使用されるんだよね。それから、会社に忠誠を尽くすよう徹底的に思想改造されている日本の東京のサラリーマンたちにも、自分の生き方を見直すためのよい導きになるわけだ。右翼にも、左翼に愛される本ってすごいよねっ! 

今敏監督『東京ゴッドファーザーズ』() 日本、2003

 東京のホームレスたちを主人公にしたクリスマス物語。そういや、クリスマスものっていろいろあるし、村上春樹訳のあの本も読んだけれど、いやはや、この一作にとどめをさされました。だって、赤ちゃんの話なんだよ、天使の赤ちゃんのおはなし。それとホームレスの。この組み合わせだけで、十分面白いお話になりそうだっていうのを、ほんと裏切らないでくれたよ、このアニメ。
 しかし、アニメってここまで実写に近いものになるもんなんだねえ。東京のビルとか、看板にかかれたマクド(マックなんて言ったら、パソコンと間違えますよ!)のバーガーとか、あんた、我が眼を疑いますよ。しかも、ストーリーだってけっこうリアリズムで、まあアクションはあるけれど、あの程度ならハリウッドとかなら十分ありえるし、ほんと、実写でも十分通用するんですよ、この脚本。でも、それをあえてアニメでやるのがこの作品の野心なんだよね。あっぱれ。でも一般受けなかったけど。見た人はみんなよかったって言ってるんだけど……。
 でもでも、実写じゃあ無理なのももちろんあって、じつはそういう部分が、やっぱし一番面白かったりもしたのです。たとえば超個性的な主人公たちね。この人たちはとても性格がはっきりしてるから、ほんと記号的な表情なんかをするんだけど、それがギャグになっていて、面白いんですな。オカマのオジサンがいるんだけど、これがオカマなもんだから、怒ると首に筋がびちっと走るのね、一瞬。そういうところが強調して描かれていたりして、かなりいいのよ。
 で、おきまりの、三人のホームレスが赤ちゃん騒動をきっかけに、帰るところをみつける、というオハナシなんだけどさ、このときの三人の果たすそれぞれの役割(とくに家出少女のそれ)とか、どんでん返しとか、意味のないアクションシーンとか、とにかく脚本がよく錬られていてすばらしい。最後の、赤ちゃんを助けるシーンの奇跡は、ちょっと美しかったですね。東京を舞台に、こんな美しいシーンを作ることができる想像力ってのはほんとすごい。これがまあ、このアニメの見所なんですな。今年公開されたアニメのなかではピカ一であろうこのアニメ、ぜひごらんあそばせ。 そうそう、声優の演技も、人物の感情の動きをアニメにしては例外的なまでに表現したこの映画にふさわしいだけの、名演でしたよ! 言うまでもないことですが、とくに江守徹! わたしは彼のほうが仲代達矢なんかよりはるかに好きなんですが、その正しさが証明されたと嬉しかったです。と言うか、声優もするなんて知りませんでしたよ! だってNHKのスタジオパークからこんにちはに出ていたときには、そんなこと微塵も言ってなかったんだもん……。

1980(ケラリーノ・サンドロヴィッチ、主演=ともさかりえ、犬山犬子)日本、2003

 うーん、ともさかりえってさあ、実は演技あんまりできないの、私知ってたんです、ええ、そりゃもう。『ロッカーのHanakoさん』はよかったんだけど、あれはキャラがよかったんであって、別に演技はどうでもよかったんだよね、実は。あああ。これは、今年一番の脱力系映画かも。いや、ナイロン10㏄のファンなら、十分楽しめる世界であろうことは、想像に難くはないんですがね……
 しっかしこの映画のあちこちに見受けられるこの既視感。いや、これが1980年の12月を舞台にした映画だから感じるんじゃないぞ。だって、そんとき私まだ生まれてないし(嘘付け)。いやいや、なんつーか、すっごいありきたりなこの設定やキャラが、なーんか昔あったくだらな〜いテレビドラマにどことな〜く似ているからなんだろうな。昔は、こういうくだらな〜い脱力系のドラマって、けっこうあったような気がするんだよな〜。まあ、そういう「ノリ」なわけですよ。
 というわけで、はっきり申し上げると、この映画の魅力は、犬山犬子につきる、と言えるでしょう。ええ、彼女の迫力ある演技に、なんと言うか、ノックアウトされてくださいな。なんてったって、そこはやはり看板女優、ほかのアイドル役者とは役者が違う。まあ串田和美とか、田口トモロヲとか、なんで出ているのかよくわからない連中はぬきにしてですが……。ほんと、なんで出てるんだろうね、やつら。
 安っぽいストーリではあるんだけど、それぞれのシーンはどことなく可笑しかったりする。んが、やはりこの監督、映画の作り方が上手いとはちょっとお世辞にも言えないな。うーん。映画って難しいものですな、と締めくくったところで、次、行きますか。なんせ2003年は年末になって、話題の日本映画が続出ですからね。

座頭市(北野武)(2003ベネチア監督賞) 、日本、2003

 ちょっとあんた、知ってた? ビートたけしって実はスーパーサイヤ人だってこと! いやーあの人と仲いい人なんかは、今度あの人と握手なんかしたら知らないうちに手切られちゃうんじゃないかって、夢に見るだろうねえ。変身したときに髪は逆立たないけれど、あれはまさにスーパーサイヤ人。いや、それより強いかも。マジで。最強の宇宙人だって蓮實さんが書いていたけど、ありゃほんとだわ。実写でマンガを超えるなんて……
 じつはね、みんなそうだと思うんだけども、最近日本映画界が活発になりつつあって、独立系でもいい映画がでているのは知ってるし、いい時代かもしれないとは思ってはいるわけよ。観客数も増えてきてるしね。でも、やっぱり、あの50年代あたりの黄金時代と比べれば、そもそも桁が違うのであって、あんな空前絶後の栄光の時代はもう二度とないし、あの時代のような完成度と、普遍性というか、歴史的な作品が日本から大量にでるなんてことは、さすがに夢想だにしてないのよね。そうでしょ? あれはもう過ぎ去った、そして二度とやってこない夢の時代だったと、誰もがそう思って、密かに思い憧れていただけなのよね。でも、そうじゃない人がいた、それが北野武だったの。彼がそんな夢を持っていたなんて、そんなこと、少なくともわたしは知らなかった。
 もちろん、これがただ昔の映画を模倣した映画だなんてことを言っているんじゃあありません。それどころか、非日本的な要素もたっぷり入ってます。それは音楽。タップだけじゃなくって、殺陣にしてもそうだけど、乾いた音と、リズムがこの映画そのものを運んでいくでしょ。日本映画では、ここまでリズムにのって創られるってことは、あんまりないのよね。まるでミュージカルみたい。シーンが切り替わるタイミングも完璧に計算されていて、あるリズム感がずっと貫かれてる。カメラはそれほど面白いというわけではないのだろうけど、でもこれは、いくらか古典的で、時代劇というか、日本映画だなあ、と思わせる部分だね。とにかく、徹底して美学が守られていて、それだけで十分楽しいのだよ。
 でもこれは娯楽映画でもあるし、わかりやすい映画だと思うんだけども……インファナル・アフェアの方が難解でわかりにくい映画じゃないかなあとか思わないでもないのだが、しかしむしろ後者のほうが一般受けしているのは驚きだなあ。うーん、この映画は話題性とかで見に行った人が多いからかもしれないけど。
 で、何が嬉しいかというと、浅野ただのぶってこんなにいい役者だったのかってことを再度確認できたことだなあ。すごいよ彼。ビートたけしはあの程度カメラにうつっていれば十分で、やっぱりほかに主役級の俳優が必要なんだなあ、とか。いや、殺陣のシーンは別よ。まああれも一瞬なんだけど。でも、いまの日本の役者たち、柄本さんとか 大楠道代さんとか、そういう名優たちが、こういう作品にでてくれてるということってのは、この時代に、私たちが生きた時代に、日本でもいい役者がいたってことが後世に伝わるってことなんだから、これはなんか嬉しいよねえ。
 そうなんだよね。それがこの映画の素晴らしいところなんです。私たちがいかに日本映画を愛していたか、いかに楽しい映画をまち望んでいたのか、いい役者がスクリーンで活躍してくれることがどんなに嬉しいことなのか、それを思い出させてくれるってこと。タップダンスは映画へのそうした賛歌にほかならないのよ。北野さんのその思いに、嬉しくなりました。ありがとう。

スン・チョウ(孫周)監督『たまゆらの女』(主演=コン・リー)中国=日本、2003

 ついに来た! 一般受け、というかけっこうこういうシネスイッチとかに映画を見に来る観客にもあんまり受け入れられなくってすぐに公開終了してしまうような映画だけど、だんぜん素晴らしい映画が来たのだ! こういう映画こそ、まさにわれわれが擁護すべきものであるし、まさしく こうしたチャンスをわれわれ(って誰?)は待ち望んでいたのであった。
 はじめのシーンの、コン・リーが汽車の中でたらたらと歩いて一人の乗客に火をもらい、煙をふか〜と吐くそのシーンから、そのコン・リーの仕草の、まるでもう何度となくそうした行動を堂々と繰り返してきたというその威風を見せられるとき、ああ、なんてコン・リーかっこいいんだろ〜と、のたうちまわらずにはいられない。そうだ、この映画でのコン・リーはチャン・イーモウが撮ったときののような、可愛いけど反抗的でしっかりしているというだけじゃなくて、なああんと、えらくカッコいいのであるぞコン・リーが。三十近いがまだまだ美しい女性がこんなにかっこいい映画なんて、なんかイタリア映画みたいだぞ。コン・リーまるで中国の女性じゃないみたいだぞ。
 しかしこの映画は、ただコン・リーにのけぞりまくる映画なのではない。この映画は見事に映画的な演出に充ち満ちていて、映画を見ることの快楽を十分に堪能させてくれる。愛する詩人に会うために何時間もかけて乗りまくる汽車。この汽車は 「愛への長い道のり」なんてどうしようもない観念を表すことなんて一度もない。この汽車という装置は、彼女の愛のさまざまな側面とじつに見事に共鳴する。まずは、詩人の世界という「ロマンチックな」世界への移行という側面。彼女は汽車の中ですでにゆっくりと詩人の世界へと耽溺していくのだ。汽車にのっている時間なくしては彼女はその愛を確かなものとして確認することはできないだろう。つまりこの側面は、愛の確認としての汽車通愛(?)という側面に通じているわけだ。セックスと汽車とが素晴らしいリズムで交互に挿入されるシーンはこの映画の、あるいは中国映画史上(ほんとかよ)最も美しいシーンで、まあ誰でも気づくことが出来るだろうけれども、ここでは愛と汽車での時間とのまか不思議な相互作用、あるいは分離不可能な関係を示唆しているわけですね。とまあここまでは基本ですな。しか〜し、この映画がなんとも素晴らしいのは、二人の関係が微妙なものになっていく過程での、汽車やケーブルカーといった乗り物の絶妙な使い方にこそある。ぜえぜえ。
 愛というものはほんの些細な心の動きから大きくすれ違ってしまったりするものである、のはずである。あと、これと一見似たようなことだけれども別のことなんだけど、二人の心のすれ違いが些細なきっかけから、目に見える大きなすれ違いとしてあらわれることもあったりする。この映画ではまあどちらかといえば後者の方だけれど、そうしたすれ違いが乗り物におけるすれ違いとして描かれているわけです。このすれ違いは始めの男とあとの男との二つのパターンでそれぞれ別の形で繰り返されたりして、もうなんとも言えない愛のすれ違いの、その、どうしようもなく完全に通いあわない心同士の表現として、そうしたすれ違いがひたすらに繰り返される。
 あなた、これが映画です。そう、この汽車の見事な使い方、これが映画そのものなんです。そうです、この監督が見事な見事な映画を創りあげたということに比べればですな、なんかウォン・カーウェイみたいなスロー・モーションは何の効果を挙げているのか疑問だとか、コン・リーの異常に大きい胸やおしりを監督は好んで撮りすぎているかもしれないとか、二人の男優がなんとなくコン・リーと釣り合ってないとかだとか、もう一人の女、つまり語り手を設定したことの意味がよくわかんなかったとか、そもそもエピソードが断片的に語られすぎてよくわかんかったとかいう非難は、まあどうでもいいのである。
 そうそう、汽車とコン・リーの見事さ以外にもたいへんいいところがある。それはこの映画の見事なリズムです。なんとも軽快にぽんぽんシーン切り替わっていって、しかもそのモンタージュしぐあいがほんとに絶妙なあたりは、そうとう計算されつくしていて、なんとも心地よい。いや、精確に言えば、スリリングで楽しいとなるのか。このなんともスリリングな展開、それがコン・リー演ずるキャラのほんっとに情熱的で行動的な性格をなんか表現してもいて、もう素晴らしいとか言いようがないです。男と女の会話がイマイチつまんないとかいうのは、まあご愛敬。あなた、この映画見ないともったいないですよ。

アイデンティティ( ジェームズ・マンゴールド)USA、2003

 解離性同一性 障害というのはいわゆる多重人格というやつです。これは精神分裂病とも違いますし、ただの妄想でもなく、「解離能力(=催眠感受性)、外傷体験、外的影響力と内的素質の相互作用、保護や慰めの欠如」などが原因で、「安全な場所を確保し、多彩な身体症状、精神症状に対処しながら、行動化(アクティングアウト)に対応する」ものらしいです。つまり、幼年期による虐待などが原因で、人格を喪失したかのような状態になることによって自分の 否定的な感情によって傷つかないようにするというある種の防衛体制なのですね。人格分裂というのはその人の脳内でのみ起こるのではなく、身体的な変化も伴うらしいので、そこで起こっていることは単に内面のことでもないし、もちろん夢でもない。という基本的なことを念頭に置いてと……
 人によってそれぞれだろうけど、怖い映画が苦手という人もいて、怖いことが起こりそうだな〜と思ってみていようと見ていまいと突然怖い出来事がおこっちゃうってのが心臓に悪いんだけども、じつは私も、サスペンスやホラーって、ヒッチコックでさえもあんまり見ていないのは、じつはそういうのが苦手だったことに最近気づいたのだけど、何を間違ったのかこの映画は見たかったのだな。サスペンスとかはテレビとかで見るとあんまり怖くないのに、映画館で見ると怖さ倍増だからなあ。
 んで、これはよくできたサスペンスで、なかなかに演出が上手い。正当なものだけど、でもセンスがいい。雨のモーテルに集められた10人が死んでいくっていうホントありがちなストーリーを上手に見せている。で、誰が犯人か? というよりは次は誰が殺されるの? というお話で、実は……というドンデン返しがあるらしい。しかし原題はIdentitiesと複数形にすべきじゃあないのかな? おっと、これを言っちゃあ駄目なんだった。
 しっかしこういう映画を見るたびにオチがつまらんとかいいとかそれだけで映画の評価を決める連中ってどうにかならんもんかなあ。そういう連中ってのはオチで楽しむということを目的として、ストーリーを手段として、ストーリー&オチという回路と目的論でしか映画を見ていないのだろうか。まあそういうレベルの低い観客を生み出してきたのが今のアメリカ映画の責任だとしても、この映画はそういう映画ではないよね。だいたいサスペンス映画って、オチというよりかは、その怖い過程を楽しむものなんぢゃあ……
 さて、ジョン・キューザックはいい役者のようですね。この人、よくある顔なんだけど、でもいいですね。上手いよね。あと、ディランの I want you はいい曲だよね。これが唯一映画の中で歌われる歌だっていうのは、けっこう重要みたいですね。オチが別だったら、もっと面白いかもしんないし、そうでなくっても、もっとひねっているのだったら、もっともっと面白いかもしれない。でもまあ、こういうのって、ほんっっっとにアメリカ人好きだよね。トラウマ、二重人格、心理療法。こういうの多いが、それが萩尾望都(『バルバラ異界』とか)的なレベルまで掘り下げて語られているのは見たことがない。いや、でもこれはサスペンスとしては、けっこうよくできた映画だと思います。怖いのお好きは人は、ぜひドキドキしてください。

ハルク(アン・リー)USA、2003

 アメコミを香港出身の映画人がどんな作品にするのかってことが興味深くて見に行きました。でもこれ、すごくシリアスなアンチ・ヒーローものなのね。アメリカってお気楽な漫画しかないのかと思っていたけれど、こんな深刻なも のがあったなんんてびっくりでした。
 マッド・サイエンティストな父親によって、怪物に変身しちゃう因子を埋め込まれた主人公は、放射線かなんかを大量に浴びる事件によって、その因子を覚醒させてしまい、彼は次第に怪物になっていく……。というお話。変身するときのきっかけが、怒りなんだけれども、その怒りがなぜ生まれるかというと、子供のときに体験したショッキングな出来事がトラウマになってのことらしい。でも本人はその体験を意識には記憶していない……。
 このお話のテーマとなっているのは、実は緑色の怪物ではなくって、その彼の怒りなんだってことは、その過去にかかわる諸々の思い出に執拗に接近される、ということからもお分かりになるでしょう。この怒りというやつ、これは体験したことのない人には分からない感情らしい。え、嘘でしょ? というあなた、いや、驚きな事にほんとらしいの。世の中にはほんとに怒りを覚えない人っているんですよ、これが。うそでしょ、見せないだけでしょ、とあなた思いましたね。でもね、わたしは見ました。手ひどく裏切られた(と私は思うんだけど)人が全然怒ってないのを。これがほんとに怒ってはないのよね。困ってはいるけれど。
 この怒りってやつは、実は案外、まだまだ謎の感情らしい。精神分析事典なんかを見てみても、明確な定義をされていないみたいなの。これって不思議だよね。だって、怒りってすごく人間の心を支配するものだから。キングは人間の感情の中で最も強烈なものは恐怖だっていったけど、私は怒りだと思うのよね。怒りってほんとに怖くて、一時的な感情じゃなくって、持続的に、無意識的に作用して、いつまでも消え去らないものなの。私もときどき昔いだいた怒りの感情を夢の中とかで再体験するときがありますもんね。
 で、この映画ではハルクが抱いている怒りが結局なんなのか、イマイチはっきりしない。でも、この彼の怒りってのは、やはりほかの人にはわかんないもんなんだろうね、本質的にね。まあ、あんな光景を見たってことが怒りにつながるのか、実際、なんか違うんじゃないだろうか、と思わずにはいられないのはありますが……。
 ストーリの話しばっかりになるけれど、もちっと我慢してね。でもこのお話が興味深いのは、「怒り」を扱った話しって以外とあんまりないような気がするからなんんだよね。ドキュメンタリーの分野では、『心臓を貫かれて』とかあるけれども。まあこういうのは身を切られような種の涙なくしては読めないし、作家の内面にもあまりにも接近しすぎるので、ちょっと書きづらいってのはあるでしょうね。しかし萩尾望都がいますね。彼女の『残酷な神が支配する』はまさに怒りをもろに描いた作品だったのよね。でもこの漫画がハルクよりはるかに先を行っているのは、この怒りをどう処理して人は生きていくのかってことにも焦点が置かれていたからなんだよね。ほかにも、ハルクでは怒りが爆発するのは他人の暴力が直接のきっかけなんだけど、この漫画ではそうではない。ハルクでは怒りの描写が単純なのに対して、萩尾望都はそれをさまざまな感情を含むものとして描く、などなど。別に萩尾望都をほめたたえようとしているんじゃないよ、こんなアメコミとなんかそもそも比較になるわけないし、彼女と比べられるものなんてまあないんだからね。ただ、ハルクではテーマとなってるわりには、怒りの描き方が弱くて、単純すぎるんだよなあ。ボーンと飛び回るだけじゃあねえ……。
 ニック・ノルティの演技はオイオイだけども、ジェニファー・コネリーが唯一の見所ってのは、賛成できる意見だね。彼女、ほんとに知的そうで(実際アイヴィー・リーグらしいんだけど)いかにもあういう研究所とかにいそうな (ちなみに申し上げておきますと、現実にいます、そういうところにそういう女性)ばりばりできるけれど女性的でもあって魅力的な女性(でもなぜかここでの役柄は馬鹿な行動ばっかり)って感じだよね〜。「彼女にかかればハルクもイチコロ」っていうシーンは、いたくしっくりときましたです。あんなシーンの撮り方(カメラの動かし方とか)は、ちょっとハリウッド出身のダサイ監督とは違う気がしましたね(ええと、スプリットスクリーンについてはよく言われるけれど、この映画で面白いのはシーンの切り替わり方だと思う。多彩な切り替え方をしていて、これが面白くて、それぞれの切り替わり方も凝ってはいるけれどねちっこいわけではなくってさらっとしていて気持ちいい。次のシーンが予想できるときに、今度はどう切り替わって、どうつながるんだろうとか。これはいいです。ただこれが説話論的に機能していたかどうかは疑問だけどね)。そうそう、けっこうはっきりとアメリカの軍とかを批判していたのには驚きましたね。マッドサイエンティストの言葉ってことになっているけれど、こういう主人公っていう設定そのものが、あの社会への批判なわけなんですね、ハイ。
 しかしこんな痛快でないアクション映画、あんまり受けないよね、わたしは板妻につながる何を感じましたけどね。いや、さすがに褒めすぎかな……。

MATRIX REVOLUTIONS(ウォシャウスキー兄弟)USA、2003

 Welcomeback Mr. Anderson. え? 全然わかんなかったって? では不肖わたくしめが解説いたしましょう。システムの一部として機能していたはずのネオコンが暴走をしはじめたとき、裏でシステムを操るボスは、システムから意図的に脱落していたものたちの一人であるテロリストの力を借りて、この連中を倒そうとした。しかし両者はじつはシステムが生み出した表面と裏面にすぎず、ブッシュとフセインに本質的な違いはない。んで、システムは救われ、イラクの人々も救われたが、USAで資本主義という幻想につかっている連中は救われたわけではなく、彼らはやはり眠り続けるのである……。ちなみに、ここでネオ君は人間と機械の中間的な存在になっていて、映画のはじめで両者の中間地点としての「駅」にいたわけだし、現実の機械にも影響をもつことができる。というわけなので、自然と腐海の両方に理解を示すナウシカはどちらの世界をも救うことができたのであった、メデタシメデタシ、って宮崎さんが聞いたら怒り狂いそうだなあ。
 なるほど、革命ね。革命とはシステムを壊すことなどではなく、システムに変化をもたらすものでしかない、というか、そうであるべきだっていうのは、正しい認識だと思います。しっかしウォシャウスキーズはこの映画を本気で哲学的なものとして提出したかったらしい……。まあこの三作目では、前二作よりそのことにいくらか成功しているような気がしないでもないけどねえ。いやでもね、これがすごいのは、監督ら自身がこのシリーズをぶっ壊そうとして作っていることなんだと思うのよ。
 冗談にしか思えない現実世界での戦闘シーンなんかでもそう感じたんだけども、これはある意味、映画にはまっている人たちをつきはなすような物語になっているでしょ? そのへんの妥協しない姿勢にはいくらか関心いたしました。 でも一方では、結末を整合的にまとめようとして、設定とかを超えたある種の「詩」には到達してないとも言える。ナウシカ漫画版みたいなね。まあそんなのもともとハリウッド映画には期待していないんだけども。
 しかしスミス君とネオ君との戦闘シーン、あそこまでやるんだったら、カメハメ波と気功法で戦ってほしかったかも……。しかし「予言」の使い方はあんまりうまくなかったなあ。非常にくだらない、と言うか具体的すぎる予言しかしないし。『指輪物語』の予言なんか、とっても上手く使ってるんだけどなあ。
 しかし最近多い黙示録的な映画の結末って、どうしてシステムを批判するような態度をとりつつ、結局は現状肯定みたいになっちゃうんだろうか。現実では、やはりUSAは「ならず者国家」を生み出し続け、それを定期的に攻撃し続けるでしょうに(「救世主」なんかはでてこないが……マシン・シティに直接 大規模な攻撃をしかけるテロリストは出てくる)。でもまあ、これが私たちの住む千年王国なのだが。んで今回は 、ヘーゲルが、フランシス・フクヤマが偉大だったってことではなくって、『ザンス』シリーズは偉大だったってことで、みなさんよろしいでしょうか。 より詳しい解説はここをみてみてください。

沙羅双樹(河瀬直美)日本、2003。

 これはすごい映画です。「すごい」なんて形容詞を使うほかないような映画なんです、わかってください。じゃあ、パワフルな映画、とでも呼ぼうかな。もう力強すぎて、びっくり仰天しちゃうような映画です。たまげた。
 最初のシーンでまず驚かされるのはこの映画の形式的な側4面で、なんと手持ちカメラに現場での録音というドキュメンタリーのような作風で撮っていること。いや、この手法そのものは今や珍しくもないけれど、少年二人が前速力で走っていくのをカメラも必死になって走ってついていくっていうのにまず驚き。少年たちはカメラの下から横から走り回ってついて行くのに精一杯……と思ったらついていけなくなった少年の一人が忽然と角を曲がったあと消えてしまう、というところからお話は始まるのであった。そこで登場するのは河瀬さんが演じる母親役なんです……。
 実はワタクシ、公開初日の舞台挨拶も見て来ちゃったのですが、監督は映画に出ているときよりもお美しくて服装も斬新で素晴らしく、主役の男の子は口べたで人前に出るのが慣れてなさそうな人で、女の子はほんとに普通の女子高生か大学一年生って感じの子で、ちょっとなんかチガウゾってカンジだったんですそりゃあもう。この監督は美人だけどもきりっとしていて、凛々しくもあるぞってお人なんですが、映画は繊細で初々しく、しかし確信に満ちた優しい視線にあふれていました。
 ハイライトはもちろんバサラ祭りで、これはもう信じがたいシーンなんですが、ここで初めて手持ちカメラで撮っていた訳が分かったワタクシは愚か者でした。つまり、役者の一瞬の動きをカメラに生き生きとした形で収めるために、一つのカメラで撮ってたわけなんですね、はい。それが祭りのシーンでは完璧な効果をあげていて、信じがたいほどです。
 通り雨が祭りの最中に降るのですが、それがまた素晴らしい。一時ものすごく土砂降りになって、でもすぐに晴れて、空は明るいのだけれど、その降って晴れてというタイミングが信じられない出来で、その雨のなかで踊る役者さんたちが余計に生き生きしていて嬉しくなっちゃう。これは偶然で撮れたものなんだろうけれど、そういう偶然を見事に活かしてしまうのが才能なのかしらん。このシーンには、本当にゾクゾクさせられましたよ。ゾクゾクどころじゃないくて、恍惚に近いものを感じました。えくせれんとです。これはぜったいに大きなスクリーンで見るべきでしょう、体調のいいときにね。奈良の商店街や住まいや習慣も見事に撮れていると思います。
 それで最近つらつら思うにね、映画には二種類あって、古い映画を再生したり、作り替えたりして、新しい形で提出する映画と、それとは別に、まったく新しい映画があるのだなあ、と。「まったく新しい映画」ってのは、例えばヌーヴェル・ヴァーグがかつてそうであったように、それまでの映画の文法を守らず、語る内容もスタイルも全く新しい映画のことです。つまり、映画の語り口というか、ディスクールが新しい映画のことです。例えばキアロスタミとか、ホウ・シャオシェンとか、黒沢清とか、この河瀬さんとかそういう監督たちの作品のことですね、最近では。ゴダールもオリヴィエラもそういう監督ですね、今だに。
 そういう映画を見たときに抱く印象は「衝撃的」なものであって、もうただショックなんですが、逆に言えば、そういうたぐいのショックを与える映画がそういう種類の映画なわけです。「ああ〜いい映画だなあ〜」という映画よりはむしろ、なんぢゃあこの映画は〜? という反応や、言葉を失うほどのショックを受けるような映画なわけです。そういう映画は同時代的な評価ってのは難しいこともありますが、ただ間違いなく言えることは、そういう映画こそが映画の未来を作っていくってことです。この映画は、その「未来」の映画の「パワフルさ」をひたすら強烈に発散しているのでした。

ポン・ジュノ監督『殺人の追憶』韓国、2003

アンドリュー・ラウ&アラン・マック『インファナル・アフェアIII 終極無間』Infernal Affairs III(製作:アンドリュー・ラウ、脚本:アラン・マック、フェリックス・チョン、撮影:ラウ・ワイキョン、ン・マンチン、音楽:チャン・クォンウィン、出演:アンディ・ラウ、トニー・レオン、レオン・ライ、チェン・ダオミン、ケリー・チャン、アンソニー・ウォン、エリック・ツァン、チャップマン・トウ、エディソン・チャン、ショーン・ユー、カリーナ・ラウ、 サミー・チェン)香港00、2003

 うーん、ちょっと微妙な出来だなあこの三作目。はじまりはエレベータの空間内部の外側(よく考えれば暗示的な映像だ)というこの映画にとっての象徴的なものをすんごいメタリックな感じに撮っていて、うわーかっこいいいいと思ったんだけど、イマイチ何をしたいのかがよく分からない。アンディ・ラウ君の演技が次第に単調に見えてくるのは、アップを多様しすぎていることと無関係ではないだろうし、不必要といっていいほどトニー・レオン君が出てきて、おいしいとこ持って行っちゃうのとも無関係ではないだろう。というわけなので、レオン君の殉職から10ヶ月後の「現在」を舞台にした映画として見るとちょっとがっかりで、むしろ一作目では語られなかったエピソードが書き込まれているというところを楽しむべきで、そうするとやはり主役はレオン君ということになってしまうのか……
 まあ、一作目があんまりにもできすぎだからね。二作目の設定もうまく活かしていないのは多めに見ても……まあぜんぜん違うテイストにしたという点は評価しないといけない。しかしラウ君の心理描写がもっとちゃんとしてればなあと残念に思うこともある。やはりこの映画は、ラウ君の心の変化という主題に、映画の文法というかスタイルがうまくついていってないのではないかという印象を受ける。ありきたりな提案だけども、もっと手持ちカメラとか使って、一人称的な語り口にすべきだったのではないかなあ。 でもま、いつの間にかこのシリーズは熱狂的な支持を受けるようになっていて嬉しいです。『ロード・オブ・ザ・リングス』とこの『インファナル・アフェア』を見ないと、この20世紀に生きている意味はないと思います。
  レオン・ライ扮するヨン刑事の出現がなんと言ってもこの三作目にすんごい不気味な雰囲気を与えていて面白いですね。

ジョニー・トー『PTU』香港、シネスコ、88分、2003(劇場情報

 おお! フィルム・ノワールだっ! だって夜から夜明けまでの時間を描いた映画だし、登場する警官たちはどこか腐敗と堕落のにおいがするし、これはまさにフィルム・ノワールだねっ。だから、登場人物に共感できないのは当たり前なんだって! そういうジャンルなんだから。もう、みんなこの美学がわかんないのかなあ。少なくとも、この監督の力量が確かなのは間違いないと思うけど。
 ほら、冒頭で、車から降りた警官たちが歩いて解散していくところ、ちょっとロングで撮っているんだけど、あのシーンの人の姿と動きの美しさっていったらないでしょ? ロングの長廻しが上手い監督はいい監督だって言うけど、ほんとにそうだよね。この映画では、ロングで人の歩く姿の美しさをかなり意識して撮っているんだけど、そういう映画ってあんまり見ないものだから、嬉しくなっちゃったよ。
 それで、警官たちの持っている緊張感もいいよね。というか、それをひたすら体験させる映画と言っていいんだけども。敵のアジトに乗り込む五人の警官たちのシーン。階段をライトを上手く使いながら少しずつ進んでいくんだけど、あの動きの鋭さと緊張感! 建物の外からとっているショットでは、彼らの使っているライトがゆらゆらと窓からもれているのが映っていたりなんかして、それそれ、それが見たかったのよ、という気持ちにしてくれます。うーん、見事な美意識に貫かれた映画だ。
 アップもけっこう多用されていて、人物たちの情動で画面は満ちているのね。みんなそれぞれ腹にいちもつあって、それをお互いに隠しているがまた面白い。そう、見事なサスペンスになっていますね。いちおう主演っぽい警官がひたすら駄目駄目なのもいい感じです。異常に美人の女性警官が出てくるのもよろしい。 あと、建物を出たところでちょうど降ってくる、あの雨のタイミングの見事なこと。あれがちょっと小休止みたいな効果になってて、まるで働きずくめで疲れた警官たちをいやしているみたいに降っていたのがすごく美しかったです。夜の雨っていいよね。
 そういうわけで、88分、最初から最後まですごい緊張感でいっぱいの作品なんだけど、展開が少し遅いのは、いわゆる息詰まるタイプの緊張感だから。これを「ゆるい」と感じるあなたはどこか神経がおかしいよ。これは『インファナル・アフェア』を押さえて香港映画大賞とやらを取ったらしいけれど、IAの他にも、たくさん優れた香港映画が作られているんだとゆーことを教えてくれましたね。ぜひ、劇場で見ましょう。

2002

コンチャロフスキー『狂気の家』Dom Durakov()2002

『25時』2002

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』2002

『28日後...』2002

『ベルヴィル・ランデブー』2002

『僕のスウィング』2002

『フリーダ』2002

『マイノリティ・リポート』2002

北野武『Dolls』2002

イーストウッド『ブラッド・ワーク』2002

Rob Marshall『シカゴ』Chicago, 2002, 115min., 35mm.

 これが出たときには相当話題になったけれど、見る機会を逃していた。ある人によると、「ブロードウェイの舞台には及ばない」とのことだったりした。ところが、いま改めて見ると、これは百%驚くべき傑作である。なぜか。
 西部劇がある時期に不可能になったのと同様に、ミュージカルもある時機に不可能になった。それは物理的に不可能になったという以上に、映画史に内在的な理由で不可能になったのである。カメラの使い方から何もかももはや50年代ハリウッドとは同じではないし、そもそも豪華なステージを舞台で歌って踊るというのはあまりに現代的ではない。そして、そんなダンサーもいない。世界はかつてのミュージカルのように華やかではなく、もっと薄暗い。人はミュージカルの世界というものをもはや信じることができない。ミュージカルは夢の世界だが、そんな世界はもう現実には存在しないのだ。しかしそれでも人は夢みることを止めない。しかしそれは、かつてのように夢が許容されたものとして存在している世界においてではなく、夢が逃避としてのみ許容される世界においてのみである。
 現代のミュージカルはこの前提から出発する。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はその認識を極端にまで押しし進めた作品だった。セルマが夢みるミュージカルシーンは、彼女の夢においてしか存在しない。現実の悲惨さと夢の絢爛さが絶対的に対立するこの映画では、ミュージカルシーンが非現実的な夢としてのみ描かれていた。『シカゴ』ははじめ、まるで『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のような悲惨な状況から出発する。愛人を殺してしまったヒロインはその驚くべき現実に目覚めるシーンから、夢の世界へと移行していく。ミュージカルシーンを思わせるフラッシュカットがその瞬間に挿入され、現実の突飛さがまるで夢のようなものとして彼女にのしかかっていくのが表現される。だが、この夢と現実の交差は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にはなかったものだ。現実はそこでは夢と絶対的に対立する悲惨なものではなく、それはある瞬間にあまりに過剰なものなので、まるで夢のようなものとして現れるのである。現実と夢の境界線が逸脱されていくこと、それはこの映画におけるテーマである。
  

チャン・ユアン『緑茶』出演=ヴィッキー・チャオ、中国、2002

 GW真っ最中だというのに、映画館はがらがら。これはちょっと辛いのではないでしょうか。このままだと、中国映画を見る機会がどんどんなくなっていってしまう……。いやもうほんと、中国映画の新作を見るのは久しぶり。いったい何年ぶりなのか思い出せないぐらいですよ。……二年か三年だけど。
 んでこれ、もしル・シネマあたりでやってれば、あるいはこれが脚本演技カメラ演出そのままでフランス映画だったなら、けっこうヒットすると思うんだよね、日本でも。中国映画だと、よほど評論家たちがプッシュするか、あるいはメジャーな映画館でしないと、けっこう厳しいかもなあ。でも中国映画はすごいおしゃれだと思うんだけどね( 個人的にはおしゃれで映画を見ているわけではないし、明らかにおしゃれじゃない映画が「オシャレ系」と呼ばれるのってアホ臭い現象だと思っているんですが)。第六世代はけっこう面白いと思うんだけどな。
 この人、『クレイジー・イングリッシュ』の人なのか。うーむ。で、なぜこの映画を選んだかというと、『ぴあ』でこの映画の人気がほぼ最低だったから。そういう一般受けしない映画って、なぜ受けないのかその理由を知りたくなるんだよね。いい評価を受ける映画の、その理由ってのは見なくてもだいたい分かる。「よく理解できた」とか「涙出た」とか「共感できた」とか「すっきりした」とかそういう理由でしょだって。たんに感情のはけ口なんだよね、多くの人にとって映画は。で、わたしたち、映画を真に愛する一族は、そういう見方をしないし、だとしたら一般受けしていない映画にこそ見るべきものがあるだろうと考えるのは当然だよね? たんにあまのじゃくってわけではないのよ?
 で、見ると、一般受けしない大きな理由は、ラストで結局この映画の大きな謎が解決されていないと感じたからだろうな。不満そうな顔で劇場出てくるおばさんいましたよ。でも、明らかにいろいろと解決されているし、だからこその展開、ラストだと思うんだけども……。ああ、かわいそうな人たち。そもそも、解決されていてもいなくてもそんなこと、この映画にとって重要なじゃないのになあ。自分で想像することの楽しさを知らないのかな。
 クリストファー・ドイルのカメラはちょっとひつこいし、驚きには欠けるけど、まあ悪くない。というか、普通のカメラよりかはずっといいですね、さすがに。ラストシ−ンの演出は素晴らしいですな。主演二人の演技は……ヴィッキー・チャオは70点くらいかな。まあ難しい役だし、なかなか固い大学院生なんて普通に接する機会がないのかもしれない。でも、最後でああいうセリフを吐くんなら、さすがにあそこまで神秘的でただ怒りに満ちているだけでの女性ってのは不自然な気がする。いや、この手のタイプはもっともっと時間かかると思いますよ。わかんないけど。
 あとは音楽の使い方の是非、これが重要でした。私はなかなかいいと思いましたね。セリフの代わりに音楽入れたりして。多少音楽が大げさすぎて、せっかく怖い話の内容をぶちこわしているシーンがありましたが……。おっと、ついつい欠点ばかり挙げちゃうな。でもこれ、傑作じゃないかもしれないけど、けっこういい映画だと私は思いました。こういう気持ちって(男性の方ね)みんな抱くはずのものだから。女性の二重性について……
 しかしほんとに、フランス映画みたいになってきましたね、中国映画も。今のアート系日本映画と比べてみても、明らかにセンスもスタイルも上回っている。一つ一つのシーンに対するこだわりから生まれる緊張感ある映画っていうのは、やはり私の一番好きな部類の映画です。さて、あとは今の香港映画が到達している領域まで行けるかどうかかな。期待してます。

ケン・ローチ『SWEET SIXTEEN』(製作 レベッカ・オブライエン、脚本 ポール・ラヴァティ、撮影 バリー・アクロイド、美術 マーチン・ジョンソン、音楽 ジョージ・フェントン、衣装 キャロル・K・ミラー、出演 マーティン・コムストン / アンマリー・フルトン / ウィリアム・ルアン / ミシェル・アバークロンビー / ミシェル・クルター / ゲイリー・マコーマック / トミー・マッキー / カルム・マコーリーズ / ロバート・レニー / マーティン・マカーディ)(2002/英=独=スペイン)

 ううん、傑作との名高い作品だけど、ちょっとあざとさがあまりにも目につくなあこの作品。この「いかにも」社会派風のテーマ、撮り方、ちょっとありきたりすぎはしないでしょうか。私には、すごい型にはまった若者映画という感じがしました。これならやはり『トレインスポッティング』のほうがはるかに面白い。いかにも親に問題があって、その恋人との葛藤なんかがあって、ほんと愚かな友人との破局があり、そして見守ってくれる姉とかがいるっていうこの設定とかなあ……。そしていかにもおあつらえという、最後に誕生日に人を刺したり、海にいたりするのって、もうあまりにプログラム通りだと思うのだけど、どうよ?
 主演のマーティン君が言うには、こういう貧しい若者を国はなんとかすべきだっていうのがこの映画のメッセージなんだってはっきり確信を持っていうのを聞いて、ああと思いました。映画を一種のメッセージとして撮っているのかこの人たちはって。この監督の最近の作品も見てみないと分かんないけど、きっとこの人は私のリストには入ってこないと思う。根底的な意味で。
 さて、この映画で話されている言葉、英語じゃないよね、これ。映画とドイツ語のごっちゃみたいな言葉。スコットランド方言で、アクセントの問題なのかもしれないけど、ほとんど聞き取れない。yaとかそういうのが語尾に多くて、言葉のわけわかんなさがすごい。これ、例えばアメリカ人が聞いて理解できるんだろうか。謎だ。

ウディ・アレン『さよなら、さよならハリウッド』Hollywood Ending(製作総指揮 スティーブン・テネンバウム、製作 レッティ・アロンソン、脚本 ウディ・アレン、撮影 ヴェディゴ・フォン・シュルツェンドーフ、美術 サント・ロカスト、衣装 メリッサ・トス、出演 ウディ・アレン / ティア・レオーニ / トリート・ウィリアムズ / ジョージ・ハミルトン / デブラ・メッシング / アイザック・ミズライ / マリアン・セルデス / ティファニー・ティッセン / マーク・ウェバー / ダグラス・マクグラス / マーク・ライデル / ステファニー・ロース / ビル・ガーバー)USA、2002

 『ウディ・アレンの生と死』をだいぶん昔にテレビの深夜放送で見て以来、ウディ・アレンはちょっと好きなんですが、じつはそんなには見ていない。どうやら喜劇作品ではその『生と死』と『ハンナとその姉妹』がいいみたいですね。で、この作品も喜劇なんだけど、どうでしょうか。確かにすごい笑えるけど、「キートンみたい」と評されるほどのものかどうかは疑問です。『生と死』みたく、アレンのドタバタが一人だけで終わらずに、まわりの人ももっと巻き込んで画面いっぱいにドタバタしないといけないのに(ホークスのようにね)、そうなっていない。そこがこの映画をありふれた、あえて言うならビリー・ワイルダーのようなものにしている原因だと思います。演じる人々もみんな弱くて、ティア・レオーニは胸の大きさで選んだとしか思えないほど演技が下手で目につくし、中国人のカメラマンなんかもたいして面白くない。通訳ももっと面白くできたはずなのに(もっとネタもあったはず)。おかしいところはすべてアレンが総取りしていて、ちょっと残念な感じです。まあ、このまえ見たのがサマンサ・モートンとショーン・ペンの傑作音楽映画『Sweet and Lowdown』だったから余計にそう思ってしまうのかもなあ。さすがにこれに比べると主役の二人は弱いよね。まあ、あっちはかなり本格的な音楽映画だったっていうこともあるんだけど。
 はじめのアレンとレオーニのレストランでの会話のシーン、予告編だとすごい笑えたのに、本編だとアレンの会話の切り替え方があんまり笑えない。あそこはもっとオーバーアクションしてもいいところなのに、なんか変に役になりきって演じている。まあ、神経症的なキャラを演じるのに必死だったのかもしれないけど、もうちょっと余裕があってもよかったのではないかなあ。なんだか普通に嫌なやつに見えてしまう。レオーニの演技力を考慮してか、彼女が後ろ向きになっているのも弱い。二人を全身映るショットで真横から撮ってもよかったのに。アレンがレストランで恋人を待っているところでレオーニたちとばったり会ってしまうところなんかはちょっとオーバーアクション気味。うーむ。ああ、なんだか珍しくこまかいところに文句いっているなあ。まあ、ネタとして面白いものをやっているだけに余計に不満なんだよね。
 自分の作品のパロディとかもやっているらしいけれど、どうも全体的に自家中毒気味。アレン自身の演技にも甘い気がする。いやね、断っておくと、私もこんな文句を言いながら映画を見ていたわけではないよ。そりゃもう笑いながら見てましたよ。でも、終わってみると不満を感じるのは確かだし、ウディ・アレンにはもっと面白いのがいっぱいあるだろうと思うのよね(映画が絡む話だと『スターダスト・メモリー』、『ブロードウェイと銃弾』、『カイロの紫のバラ』とかがいいみたいね)。あと、前々から言いたいと思っていたんだけど、喜劇作品って最近はウディ・アレンしか撮らないからみんなこの人のことよく知っているけれど、むかしのハリウッドには喜劇映画がたくさんあって、最悪のウディ・アレンに劣らないくらいは面白いんですよ、ということ。だから、名画座とかアテネとかTFCとかでスクリュー・ボール・コメディ傑作選とか喜劇映画研究会とかやっていたら、みんな見に行きましょうね、ということです。

クリス・コロンバス『ハリー・ポッターと秘密の部屋』Harry Potter and the Chamber of Secrets(製作総指揮 マイケル・バーナサン / デヴィッド・バロン / クリス・コロンバス / マーク・ラドクリフ、製作 デビッド・ヘイマン、脚本 スティーヴン・クローブス、原作 J・K・ローリング、撮影 ロジャー・プラット、音楽 ジョン・ウィリアムズ、衣装 リンディ・ヘミング、特撮 ニック・デイヴィス / ジム・ミッチェル / ジョン・リチャードソン、出演 ダニエル・ラドクリフ / ルパート・グリント / エマ・ワトソン / リチャード・ハリス / マギー・スミス / アラン・リックマン / ロビー・コルトレーン / フィオナ・ショー / ジョン・クリーズ / トム・フェルトン / マシュー・ルイス / ケネス・ブラナー / ジェイソン・アイザックス / ミリアム・マーゴリーズ / マーク・ウィリアムズ / シャーリー・ヘンダーソン / ジェマ・ジョーンズ / サリー・モーテモア / ワーウィック・デイヴィス / ショーン・ビガースタッフ / アルフレッド・バーク / デヴィッド・ブラッドレー / ロバート・ハーディ)USA、2002

 「ハーマイオニーかわいすぎー」と、のたうち回った前作から一年、やっぱりハーマイオニーはかわいくって、ちょっぴり女の子にもなっているので、彼女の出演作ではこれが一番ということになるでしょう(どこで評価しているんだか)。でも、三作までのなかでは、これが一番面白いです。つうか、すごいしっかりした作りで、ストーリーもまとまっていて、伏線なんかミステリーものっぽく効いているし(しかも観客に登場人物より早く気づかせてくれたりするサービスぶり!)、CGの使い方なんかも上手くて楽しい。劇場の椅子に少しは慣れているのなら、10歳程度の子供でも、二時間四十分を長いと感じずに、スクリーンにとらわれ続けるのではないでしょうか。いいなあ、今の子供たちは。毎年愉しみにできる映画があって。

 子役がみんなかわいいのはこのシリーズの最大の成功要因だろうけど、大人たちも見事な役者を揃えているのが本格派の香りを出している。今回のゲストはなんとケネス・ブラナーで、きっとシリーズ中もっとも馬鹿げた人物だろうと思われるキャラを演じている。まあ、こういうお祭り映画をみんな楽しんでいるのが分かって、見ている方も嬉しいですな。

 魔法の世界の話なんだけど、主人公はまだうまく魔法を使えなくって、ハーマイオイニーだけがバリバリっていうのも面白い。といか、そうじゃなきゃつまんないだろうけど。今回は魔法使わずに敵たおしちゃうしね。ジニーちゃんもけっこうかわいかったのに、あんまり出番がなかったのが残念だなあ。

 まあ、私は指輪ファンなので、これもあの映画化ほどではないと思うのよね。原作もほかのファンタジーに比べてどうということもないだろうし。でも、これが子供向きにしては差別意識と か入っていてやだとかいう大人たちにはきちんと言っておかないといけない。あのね、物語の中でこそ、そういうことを語らないといけないんですよ。子供には美しい世界ばっかり見せていればいいと考えている大人なんて死に絶えてしまえ。現実の世界でもあることをちゃんと描いてこそ立派なファンタジーになるんです。そして注意しておくと、スリザリンのスネイプ先生も、けっしてハリーたちの敵ではないのよね。ほんと頭弱い大人たちの考えを見ていると、将来の子供たちが不安だよ。ま、そういう意味でも、この映画を少しは擁護しないといけない。子供たちのためにね。

ウィンターボトム『イン・ディス・ワールド』イギリス、2002

 パキスタンはペシャワールのシャムシャトウ難民キャンプで育ったアフガン人のマジャ−ルは英語ができるからということで、ロンドンへ亡命することになった従兄弟のエナヤットと共に、南路クエッタからタフタンを経由してテヘランへ入り(途中連れ戻されたりしたけど)、イラン国境のクルド人の村から山を越えてトルコへ。豊かさが漂うイスタンブールからなんとコンテナに閉じこめられ航路イタリアのトリエステに。ついたときには酸素不足で従兄弟のエナヤットは死んでいた。このあたりの音楽の使い方には辟易するし、主人公の演技もなっちゃいない。最後フランスのソンガッテからユーロトンネルを抜けてロンドンへ入るというあたりは難民の王道らしい。不法侵入なんだけどね、これ。映画の最後でも云々されたけどさあ、日本ではそもそも難民を年に2、3人しか受け入れていないのに対し (特別扱いされている国はあるみたいだけど)、ドイツ、イギリスでは二万人、フランスでは一万人受け入れているのね。このことは海外ではすごい悪評なんだよね、みんな知ってるし。政府は、日本の国際的な信頼度をあげるために自衛隊海外派遣するって言っているけど、それよか難民受け入れる方がはるかに国際信頼度増すことになるのは誰でも分かることなんだよね。ま、でも、自衛隊派遣することに賛成する人の十人中九人は難民受け入れ反対なんだろーな。
  ところで、難民もの映画っていえば、現地の監督が撮ったものがいろいろありますね。有名な『カンダハール』(アフガニスタン潜入もの)や『少女の髪どめ』(イランで働くアフガン人の話)、見てないけれどジャリリ監督の『少年と砂漠のカフェ』(アフガン難民)があった。難民もので面白いなあと思ったのは戦争中のイラクでおじいちゃんが旅する『わが故郷の歌』だったなあ。そうそう、この映画に似たような設定なら『ジャーニー・オブ・ホープ』(トルコ難民もの)っていう映画があるらしいけど、これはスイス映画なんだよね。ほかには、『霧の中の風景』もまあ一応難民ものだよね。アンゲロプロスは最近の『エレニの旅』でギリシャ難民ものをついに撮ったんだよね。クストリッツァ監督のはジプシーだから難民じゃないか。
 と、いうわけで、これはロードムーヴィー系難民もの映画というジャンルに分類されるんです。まあ、そんなジャンル作るほど本数あるのかどうかは分からないけどさ、でも上にあげるほどの作品はあるのだから、それらとはなんか違うものを期待するのよね。まあ、そうでしょ、普通。おいおい、こういう世界があるってことを知らなかった。とか、リアルで感動した。とか、のほほんと平和に暮らす日本人に是非みてほしいとか、そういうコメントをここで書くんじゃないかと思ってた人、いないよねぇ。あのね、そういう感想抱くのは分かるけどさ、そういうことって、あまりにも基本的なことでしょ。世界中で想像もつかないような悲惨なことは起こってきたし、今でも起こってるし、そのことを私たちがほとんど知らないのは事実だけども、アフガンの難民ぐらいのことは知っていてあたりまえで、難民の生活に関してこの映画で得られた新しい知識ってのはとくになかったんです。まあ、なんつーか、豊かな国に暮らす監督がこういう悲惨なことをテーマにした映画を作るんなら、まあそういう目線で、そういうことを語るんだろなあというような作り方なんだよね。実際の彼らの生活にも喜びや楽しみがあるはずなのに、そういうことにはほとんど焦点をあてられない。おっかしいなあ、ヨーロッパでも子供を主人公にした悲惨な時代の映画はちゃんと作られてるのにな。ドワイヨンの傑作『小さな赤いビー玉』とかね。
 別に映画の知識をひけらかすわけじゃないけどさ、そういういろんな映画体験をしたあとでこの映画を見ても、これがなーんも映画だと思えないというだけのことです。一時間半かけてこの程度の内容を伝えたいのなら、ほんとのドキュメンタリー映画を作って解説の声とか入れればもっと密度の濃いものは作れると思うし。偽ドキュメンタリーって体裁はずるいと思うのよね。それに、なんんなのあの音楽やモンタージュの仕方は。下手な音楽とかつけて無駄にカット数を多くして、なんか感動的な雰囲気を出そうとしているっぽいのがちょっと気持ち悪いんです。『光の街』みたくまあある程度効果的に使われているんならいいけどさ、この話の状況でそれって、さあここで涙しなさい感情移入しなさいみたいことになってしまっているだけだよね。馬鹿みたい。
 ウィンターボトムはべつに嫌いな監督ではないです。『CODE46』も悪いっちゃあ悪い映画だけど、それほど嫌いではないしね。でもこれは、いかにも外国人が難民問題に取り組みました、みたいなイヤラシさと安易さがにじみでてしまっているんだよね。映画としてもなってないし。まだ見てないけど、最近のアフガン関係の映画なら(むかしのアフガン関係の映画としては『レッド・アフガン』や『ランボー3 怒りのアフガン』をどーぞ)、彼女はイラン人だけどサミラ・マフマルバフの『午後の五時』その妹さんの『ハナのアフガンノート』(そのお父さんの『アフガン・アルファベット』もあるらしい)、それに傑作と名高い真正アフガン映画『アフガン零年』があるので、それを見てどこがどう違うのがよく考えることにしますかね。

『10ミニッツ・オールダー』(アキ・カウリスマキ『結婚は10分で決める』、ビクトル・エリセ『ライフライン』、ヴェルナー・ヘルツォーク『失われた一万年』、ジム・ジャームッシュ『女優のブレイクタイム』、ヴィム・ヴェンダース『トローナからの12マイル』、スパイク・リー『ゴアVSブッシュ』、チェン・カイコー『夢幻百花』、ベルナルド・ベルトルッチ『水の寓話』、マイク・フィギス『時代×4』、イジー・メンツェル『老優の一瞬』、イシュトヴァン・サボー『10分後』、クレール・ドゥニ『ジャン = リュック・ナンシーとの対話』、フォルカー・シュレンドルフ『啓示されし者』、マイケル・ラドフォード『星に魅せられて』、ジャン = リュック・ゴダール『時間の闇の中で』)2002

 映画好きの間に話題を振りまいたこの企画映画。みなさん愉しみましたか? 両方見ましたか? でもこれ、二つに分けずに通しで二時間半、料金は2500円ぐらいでもいいからやってほしかったですよね。二回も映画館に行くのけっこう面倒でしたよ。ぷんぷん。しかも「イデアの森」のほうは全体的に低調だったしな。
 ま、それはいいとして、まとめて一言ずつ感想だ! カウリスマキっていっつもこんなんだよね、面白いから良いけど。これが十年ぶりの新作なエリセのは光に満ちていて幸福な感じなのに、ドキドキハラハラで最後は悲惨。これが一番よいと言う人が一番多いと思います。ヘルツォークのは何だったか思い出せない……。最近短編をまとめて長編にした『コーヒー&シガレッツ』を公開したジャームッシュのはかなりよかった。クロエ・セヴィニーが一番きれいに撮られているのはここでじゃないかな。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』で息を吹き返したに見えたヴェンダースのはやっぱり彼の落ちぶれっぷりを見事に表していてちょっとかわいそうになったよ。同じ畑出身のジャームッシュと並べられているだけに余計に哀れ。『マルコムX』や『25時』がかなり面白かったスパイク・リーのは怒りに満ちていて、あの太った監督のよかはきっとよかったですね。これと、最近低調だけどもチェン・カイコーのも、今これだけは言っておきたい! みたいなのが強く感じられました。そういうのはけっこう好きなんですよ。ベルトルッチのは発想は凡庸だけども映像は幻想的できれいでしたよ。この作品のあと『レッド、ホワイト&ブルース』を撮ったマイク・フィギスのはほかにネタがなかったんかい!って感じ。そこそこは楽しいんだけども。イジー・メンツェルのは記憶に残ってない。イシュトヴァン・サボーの「10分後」はあんぐりあきれるぐらいひどい出来、こんなの出すぐらいならフィギスのがまだましだよね。クレール・ドゥニのはゴダールの『中国女』への一種のオマージュで嬉しいなっと。この作品がきっかけで彼女はこの後、ジャン = リュック・ナンシーの『侵入者』で映画を撮ることにもなった。『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフのはもうあんたアホかと。むかし(無声映画時代だけど)は短い作品でもみんなけっこう面白いの撮ってたと思うんだけどな。そういう伝統がないからか、こういう小手先のが多くなっちゃうのかしらん。懐かしい『イル・ポスティーノ』のマイケル・ラドフォードのはまあまあ。エレベータが壊れているのがいい味を出していたと思います。でも、人と人とに流れる時間の違いって不思議だよね、これは別にSFじゃあないのです。んで最後にゴダールが全部ぶっとばしてくれました。はい、ありがとうございますって感じ。彼の最近の到達点とも言える作品なんではないでしょーか。『イデアの森』のなかではこれだけ何度か見返したいと思いますが……。しっかし一人だけ浮きまくってるよなあゴダール。でもその真剣さというか、妥協のなさっぷりがやはりすごいと思います。内容はわかんないけど全然。でもすんごい強烈。
 ただこれは全体にテーマがあって、それは「時間」なのね。プロデューサーが「物語りの中では、時は時としての役割を果たさない」という言葉に触発されて作ったものらしんだけども、映画と時間なんてあまりにストレートすぎるテーマだよね。映画そのものが時間なのに、それ以上どうせえっつうねん。それでこのテーマに、はい、映画(あるいは現実)の中で時間がたちましたって答えたのがベルトルッチとラドフォード、ヘルツォークとメンツェル。10分間っていう設定があったから、その間にこんなことがありましたよっていう物語をしたのがカウリスマキ(ほんとは10分じゃないけど、これ)、ヴェンダース、サボー、シュレンドルフ。この両方をしているのがカイコー。時間そのものを浮かび上がらせようとしたのがジャームッシュとエリセ(これは少しストーリー入ってるけど)。解答の仕方としては後ろに行く方が映画的には高級だよね。んで、好きなことしているのがリーとドゥニで、ゴダールは映画でと言うよりも、言葉(とそれを捕捉するかもしれないイメージ)で哲学的に解答しているようにも見えた(映画への信頼を表明しているだけとも言えるけど、脚本は奥さんのアンヌ・マリー・ミエヴィルだから、一種のゴダール論になっているのかもしれない)。さて、あなたの意見はどうでしょうか? Ulysseの感想の方でより細かく説明していたりするので、もっと知りたい人はここを見てください。

キアロスタミ監督10話』( )イラン、スタンダード、2002

 これは奇跡だ。こんな奇跡を私たちは、いやキアロスタミその人でさえ、今まで十分に映画に期待してきていただろうか。私たちは知らず知らずのうちに映画に求めるものを限定し、その可能性をいつのまにか過小評価していたのではないだろうか。私たちはいつのまにか、映画に奇跡を期待することをやめてしまっていたのではないのだろうか。しかし奇跡は起こった。誰の予想も期待もそれは見事に裏切ってくれたのだ。
 始めのシーン。アミンとと呼ばれる男の子にデジタルビデオカメラは向けられている。車のダッシュボードに置かれたDVだ。アミンは母親と口論している。一見、よくある親と子の際限のない言い争いのような会話だ。男の子はそれに耐えられずに、ついに爆発して「お母さんは結局、お父さんと別れてよかったって言いたいんだ」と言う。ものすごく顔をゆがめて、身振り手振りで、不満を爆発させた口ぶり、それも長い間じっくりとためられてきた不満が爆発するときのどこかしら無力感も混じった怒りの口ぶりでそういう。この子どもは、いや子役は、恐ろしい役者だと誰もが思う。しかしこの子の表情がやりとりのなかでなんとも歪んできて、口ぶりもより辛辣になり、母親と一歩も譲らない知的な言い争いとどうしようもない感情の爆発をさらに見せだすと、もうこれはただの天才子役なんかではない、いったいこれは何なのか、と驚きどころか恐怖さえ感じずにはいられない。私が見ているのはいったい何なのか、これはいったいほんとに映画なのだろうか。
 これがはたして映画なのか、そうでないのか、などというのは無意味な議論だ。キアロスタミはカメラを車において、撮影した映像をあとで編集しただけだ。役者たちにはシチュエーションだけを伝えて、その演技のほとんどが即興だという。そんな、信じがたいと思うだろうか。しかし信じがたいのはこの映画だ、ここに映っているほんのわずかな表情の変化で多くを私たちに語ってくれる人たちのほうだ。その信じがたさのまえには、ほかの驚きは色あせてしまう。
 母親は若くて、知的な顔立ちをしている美しい女性だ。彼女は次々と自分の車に他人をのせて、行きたいところまでとどけてあげる。毎日三回霊廟へのお参りをかかさない老婆はもう人生で何もかも失って自分の全財産はこのお守りだけだといって彼女に手渡して見せる。夜の町で偶然拾った娼婦と話しているうちに、彼女は男に裏切られたことがあって、以来男を愛さないでいるようにしようと決めたのだ、と本音をもらす。保育園で働いている彼女の姉は、アミンには父親が必要なのだから、父親のところにやればいいと言う。彼女は父親のところで住んでいるアミンを車で迎えに行く。アミンはおばあちゃんの家にいくと言う。アミンは車が家の方に向かっているといってわめきだすが、母親はこの道が近道なのだ、と何事もない。やがてアミンもこの道はまえにタクシーで通ったと言って落ち着く。アミンは彼女にキスもしようとしない。霊廟にお参りにいった帰りに、やはり同じ く帰りの女性を車に乗せる。その女性は結婚したい相手がいるのだが、男のほうは煮え切らないのでお参りにくるという。彼女の友達を食事にレストランに連れて行く間、その友達はずっと泣き続けている。最近男に振られたのだ。泣いていても仕方がないのだ、普段から男に頼って生きているからそんなに泣くはめになるのだ、情けないと、彼女は友達に容赦ない。どうして自我をもてないのだ、自立できないのだ、と苛立つのだが、その苛立ちは友達に対してとは思えないほど厳しく、あまりに非情に思える。彼女はまた父親のところへアミンを迎えに行く。アミンはあばあちゃんの家にいくといって、またこの道は家に向かう道だと言ってヒステリーを起こすし、母親におばあちゃんの家にも泊まって欲しくないと言う。さらにアミンは、新しいお母さんは彼女よりましだと言う。お母さんはぼくより仕事が一番大切なんだ、今度のお母さんは彼女と違ってお皿を毎日洗うし、毎日食事がおいしいという。彼女は参ったと言う。再びお参りに来ていた女性を乗せる。彼女は男に結婚を断られたという。そして彼女は以前とは違った姿を見せる。彼女はすこし涙を流し、母親はそれを手でぬぐってやる。そして言う「ええ、失うのはつらいことね」。三度アミンを迎えに行き、乗せる。
 ここにはいろいろなものが描かれていると見えるだろう。イランでの女性の立場や、その苦しさ。あるいはより普遍的な、女性としての悲しさや苦しみ。母親と子どもとの関係や、イランに住む人びとの信仰心などなど。しかしここで物語の大きな筋となっているのは、ずっと運転席に座っている母親の、微妙な心情の変化だ。彼女ははじめはアミンと一緒に住んでいて、別れた父親のところにはいかせたくないと思っている。彼女はアミンが彼女を独占したいから不満なのだと言って、自分がアミンを独占したいと思っていることには気づいていない。やがて姉の説得によりアミンを父親のところにあずけ、そこでアミンが幸せそうに暮らしていることを知る。はじめの彼女は信仰心が薄く、お参りなんてしないが、老婆と出会ったことをきっかけに霊廟に訪れるようになる。彼女ははじめは女性の自立や、自分の自由ということを主張して、男を失ったことに泣く友達にいらつくが、お参りの帰りに乗せた女性が男に振られたことと、そのかわりはてた(?)姿を見て彼女の悲しみに共感を示す。
 彼女に訪れた変化はほんとにかすかなものだが、しかし決定的な変化だ。なんせ彼女はまだ25なのだ。彼女が離婚し、息子と仲違いし、男に裏切られた女性たちの話しを何度もきくうちに、彼女が主張する自我や自立や自由とかいうものではどうしようもない人間の感情にわずかだが共感を示すようになる。ささやかだが、これ以上はありえないといってよいほどの変化だ。これはひとつの奇跡だ。
 キアロスタミがこの映画を撮ったというわけではないのかもしれないが、人間をよく知っている彼でなければつくることはできなかっただろう。「『10話』はもう二度と撮れない作品だったかもしれないと、時折自分に言い聞かせる……。『10話』……ほぼすべてがここに要約されている」とキアロスタミは言っている。彼がなした仕事はある神聖なたぐいのものであり、彼もそのことをよく知っているのだ。しかし、それにしても、大きなスケールの物語なんかではない、こんなささやかで素っ気のない映画が、なぜこんなにつきることのない感動を与えてくるのだろうか。まったくもって奇跡的な映画だ。

吉田喜重鏡の女たち』()、日本、2002。

 むかし『ぴあ』に「この人とこの映画を見に行きたい」とかいうミニシアター紹介のコラムがあったのだけれど、その流儀でこの映画を紹介するなら、まさに野田秀樹とこの映画を一緒に見たい、ってことになるでしょう。野田さんの『パンドラの鐘』に挿入されている蝶々夫人のエピソードが、吉田監督がUSAで演出を担当した現代版『マダム・バタフライ』から明らかに着想を得ているだろうこと、彼の『オイル』もまたこの映画と同じく原爆がテーマとしてあることなど、両者の同時代的な共振だけがその理由なのではなく、この映画そのものがなんだか野田の二重三重に時間がからまりあうその芝居の原作にでもすぐになってしまいそうだからだ。
 三世代にわたる女性たちは、それぞれがお互いの話しを引き出しつつも、その引き出した話がまた各人の話へと反響し、それを書き換え、また新しい話しを引き出していく。しかし、それぞれの話しが重なり合うことは なく、三者のあいだの溝が埋まることはない。それはそのまま三者の生きてきた時間の差そのものであって、それぞれが抱える記憶の重みでもある。それでも岡田茉莉子の話しに残りの二人が耳を傾けるところは、ちょっと涙なくしては見られない。うーん、お見事。
 詳しいことは2003年4月臨時増刊号の『ユリイカ』の吉田喜重特集をよく読んで下さい。これは 間違いなく日本映画史に残る傑作です。

ルールズ・オブ・アトラクション(ロジャー・エイヴァリー)配給=ギャガ、USA、2002。ファンが作ったサイトも見よ

 アメリカ英語ってのはほんと鼻につく言葉で、美しくないよなあ。美しい中国や台湾のことば(上海語以外)や優雅なスペイン語やポルトガル語とは大違いだ。なんせ最近のアメリカ映画って、fuckingを何回言っていることやら、見当もつかないぐらいだもんね。Ass wholeとか。ところであんた、日本語がいくら乱れているとか言っても、日本映画でそんな汚い言葉ばっかり使うってことはありえないでしょ? 「ら」が抜けているとか言ってるぐらい、ほんとかわいいもんだわ。まあ、そういうことを指摘して得意となっている連中に限って、なぜ「使えられる」と言わずに、「使える」と言うのか、説明できないだろうしね(このばかげた問題に関するプロの意見はここを参照のこと。言うまでもなく「ら抜き」言葉現象ってのは、日頃ひまをもてあましている主婦とかなんかが、たまに文化的な貢献を社会にたいして何かしたい、というわけのわかんない衝動を解決させてあげるためにひつこく指摘された、というかねつ造された「問題」なのであって、このおかげで、彼女らは、それは「ら抜き言葉だ」、とか新聞とかテレビに言うことで、その衝動を満足させることができる、というサービスになっているわけだよね。まあ、それだけのことなんだけど。ちなみに、テアトル・エコーはこれをテーマに超楽しい舞台『ら抜きの殺意』を作った)。まあ、そう考えると、ほんと日本はまだUSAなんかよりはずっとましな国だよ。石原都知事 と与党をのぞけばね。話は大きくずれたこと、言いたいことはそゆことね。
 で、この映画、ブレット・イーストン エリスの同名小説
が原作。なぜえんえんと汚い言葉の話をしたかというと、そういう汚い言葉を話す大学生が登場人物だからなのね。で、ほんとに汚い言葉しか使わない。美しい言葉なんて一つもない。というか、しゃべれないの、この人たち。fuckingを使わないで話してみろっつたら、まあ1分もぬきでしゃべることなんかできないだろうね。奴らが考えることは、ドラッグとセックスだけ。パーティーやって、ドラッグやろうって言って自分の部屋に誘って(自分の部屋に誘う言葉として「ドラッグあるよ」しか持ってないの)、ヤル。that's it. that's only way of their life. おーほんとUSAというのは面白い国だ。一方ではあいもかわらず、幻想にみちみちた恋愛の映画をバカバカ作っているけれど、他方では、まあメジャーの制作ではないが、愛なんて冗談としか思えない人たちが愛のないままセックスだけはひっきりなしに求めている、という現実を描く映画を送ってくる。これは水村美苗も言っていたことなんだけど、USAでは誰も愛なんて信じていないらしい、ホントに。マジで。あそこは、そういう国なんだよね。だから虐待 なんかもあたりまえだし、離婚なんかしなきゃ狂ってる、というわけよ。
 で、だからこの映画は素晴らしいのだ。愛のない享楽的な若者の生活を描いたものといえば、ヤンの『カップルズ』なんかが思い浮かぶけど、この映画では、とにかく無茶苦茶な彼らの日常がけっこう細かく描かれている。主に三人の主人公がいるんだけど、それぞれの視点がひたすら独立していて、みんなじつは孤独なんだよね。というのは、じつは三角関係なんだけど、この関係がどれもうまくいかないままなのよ。まあ、当然なんだけれども。一人はゲイだし。いや、このゲイの子(イアン・サマーホルダー)が、映画を超楽しいものにしているのは間違いない。助演男優賞ものだ。
 んでゲイじゃない男が恋をするんだけど、このきっかけというのがラブレターだっつうのがいいじゃないの。恋愛の本質的な部分ってのは、人間が人間である限りそうかわらないものなんだよね、どんな生活を送っていようとも。で、この男、麻薬のディーラーをやっているロクデナシなんだけど、そいつが恋する。いいじゃないの、この展開。
 で、途中はしょるけど、まともな恋なんてしたことのない連中がどうしても上手くいかないってことなんだよね。んで、ほんとにどうしようもなくって自殺する連中なんかがけっこういる、ということまで描かれる。そういうことお互いに話題にもしないし、まともに気持ちを伝えあうような環境にもないだけ、ひそかに歪んだ形ではぐくまれた愛は悲劇的な結末をたどるっつう話なんだよね。で、それだけならよくある小説のネタなんだけど、それをちゃんとした映画にできているのは見事でした。とくにゲイのにいちゃんが可愛いし。その三人をスプリットスクリーンとか、逆 回転とかいろいろ駆使して、まあ要するに編集しまくって見せてるんですな。でもこういう凝った作りの映画って、しかもこういうただただビターな映画って、ぜっっっったい受けないもんなんだけどね。大赤字だろうな、かわいそうに。でもいい映画だし、男同士のキスとか裸とかたくさん出てくるので、女性にはかなりおすすめできます。青臭い若者が書いた救いのない虚無的な原作小説なんか読んでもどうせくだらないだろうけど、こうして映画にすると、面白いものになるもんなんですね。扱っていることはヘビーだけどノリは軽いし、一見はちゃめちゃだけどR指定でもないし(なぜ?)、オハナシとしては正当派の、よくできた、「今」を写した映画だと思いました。ほんと雰囲気がよく作れていると思います。ドノヴァンやニルソンの音楽も懐かしい、というかセンスいい。

アララトの聖母』(アトム・エゴヤン) 配給=ギャガ、ビスタサイズ、カナダ、2002。ストーリーの概要はここを見てください。

 どうせここに書いている文章はお気楽なもので、とくにこういう重要な作品に対してはこの後、膨大な量の言説が紡ぎ出されることになるのだから、まあこんな文章はどうでもいいようなものなんです。だから一気に書きますね。
 第一次大戦中のトルコ軍によるアルメニア人の虐殺という、正直いままで聞いたことのない歴史的事実を背景とした、現代と過去が交錯する複雑なドラマとしてこの映画は語られる。ドラマは一つではなく、複数であり、いくつものドラマがそこにはある。がしかし、主人公はあくまでも、アルメニア人の「テロリスト」を父親に持つカナダ生まれの若者であって、彼がその、トルコ大使を殺そうとして死んだ父親のことを知ろうとしてトルコに旅し、帰ってきたところでカナダの空港の税関で検査官に話をしているところから、彼と、その大学教授の母親がかかわった、アルメニア人虐殺とアルメニア生まれの現代アメリカ画家のアーシル・ゴーキーとを直接にあつかった映画の撮影の記憶などを織り込みつつ、またその撮影のなかでまるで史的事実そのもののように描かれる虐殺の記録も映画の中にはいってくる。そしてときにはUSAで 『芸術家と母親』という、この映画のモチーフともなっている絵を描いているゴーキーも映像としてうつされる。交錯するのは、こうしたいくつもの時間や空間だけではなく、世代も交錯し、虐殺で母を失ったアルメニア生まれの映画監督(シャルル・アズナブール。彼の両親は虐殺を逃れてトルコを離れたアルメニア人だ)、映画に協力する美術史家のアニ(アルシネ・カルジャン)、その子供のアルメニア系カナダ人ラフィ(デヴィッド・アルペイ)という三成代が交錯する。一番上の世代は実際に虐殺を体験したらしく(ということは、この映画は10年以上まえの世界を舞台にしているのだろうか)、その次の世代はその虐殺の記憶をもつ人々であり、三世代目はもうその記憶を持たず、あるいは聞いたこともない。しかし主人公の若者は、この出来事を理解していないために、父親のことも理解できていないまま、そのことで母親とうまく関係できないでいる。この映画の見事な点は、この若者を主人公として、今、虐殺のことを知らない若者が、しかしその出来事とは結びついていて、ある複雑な生を生きざるをえないが、その状況そのものへの視線を中心にすえているということだ。いま、わたしたちにとって、ここ(カナダ)で、それは、いったい何なのか。エゴヤンはトルコが否定し、その否定を欧米社会が許可しているという虐殺の事実を、それをただ訴えることをせずに、まさにアクチュアルな問題として提出しようとする。これは、ひどく倫理的な態度なのだ。
 ジェノサイドは何もショアーだけでなく、人類の歴史のいたるところにあり、またそれを人類は絶えず忘却しようと努めてさえいる。忘却されようがされまいが、その事実は未だに影響を及ぼしていて、とくにショアーなんかは今のヨーロッパのさまざまな事実を知るにつれ、ますますその衝撃の甚大さが知られる、ということになっている。しかし一方で、ショアーだけが特権視されたり、超越化されたりということも起こってくる。アルメニア人の虐殺という事件は、そういう事態とは今の時点ではほとんど無縁であるにもかかわらず、エゴヤン監督はそうした、虐殺を語ることのさまざまな危険にひどく意識的で、歴史を映像として語ることが持つ恐ろしさをなんとかして消し去ろうとする。あるいは、そうしたことすべてを映画に織り込みさえする(「監督が撮っていた歴史映画のそのプレミア上映で、出演者たち自身が、その映像イメージが作り出す暴力性にショックを受けている」とエゴヤンは語っている)。そうか、この映画はランズマンの『ショアー』と同じことをしようとするのではないのだ(そもそも、ショアーと違って虐殺の生存者はもういないだろうし)。あれをつきつめていくと、証言の不可能性とか、たいして生産的ともいえない議論が展開されることになってしまうだろうけれども、この映画が語りたいのはそういうことではなく、今、ここの生の問題なんだ。 そういえば、こういう手法ってホウ・シャオシェンが『好男好女』で使っていたのではなかっただろうかね。
 映画をみる私たちは、そうした歴史が織りなす複雑な生のただなかに放り込まれる。映画のはじめには一体何が起きているのか観客はまったく理解できないが、いくつもの時間と空間が混在するヘテロトピアを通過するうちに、若者がおかれている状況を理解しはじめる。あるいは、その状況を理解するためには、さまざまな時間と空間を経過する必要がある……。その体験は、テオ・アンゲロプロスのように、映画の主人公とともに彷徨するのではなく、むしろ、同時にいくつもの生を生きるようにと呼びかけてくるようなそんな体験かもしれない。素晴らしいのは、引退間近の税関の検査官で、彼は若者からアルメニアの虐殺や彼の父親や、映画の話など、彼が最近体験し、知ったことすべてを話していくのを聞くうちに、もはやただの検査官(それが彼の最後の仕事なのだが)ではなくなり、彼とともに真実へと近づく人間となっていく。しかし、これは、映画を見る私たちの姿そのものでもあるのではないだろうか。
 つまりこの映画は、歴史を映画にすることへの批評的な精神を示しつつジェノサイドという歴史に関わりつつ生きる人々や、その人々の関係を語ったりするだけではなくって、そうした人々や、あるいはその事実を知らずにいた人々に対してさえにも、芸術というものが、そうした事実に対してもつ力というものを伝えてくる。この映画そのものをゴーキーの『 芸術家と母親』にしようとしているわけだ。
 今でもジェノサイドについてはさまざまに、思想的にもとりあげられているし、映像にもされているだろうと思う。しかし、この映画ほど、そうした語られている問題だけではなく、ジェノサイドという事実とその歴史とを芸術の問題として真摯に受け止めつつ、これほど高度なレベルで語ったものは、かつてなかっただろうと思う。このレベルは、確かに、世界でも少数の作家によってのみ到達されるであろうレベル(大江とかね)だと思われる。しかし、それを映画でできるとは。ほんとに、度肝抜かれた。とくに、アズナブールが、「一番つらいことは、故郷や人々を失ったことではない。いまだに私たちが憎まれていると言うことだ。彼らは憎んでいると言うことを否定する。否定し、そしてますます憎む。なぜなんだ」という言葉や、虐殺という事実をそれほどたいしたこととは思っていない半トルコ人が「虐殺は過去のことだ。今は誰もキミを滅ぼしたりしない」のに対して、ラフィが「ヒトラーがユダヤ人を殺す命令をだすときに将校に『誰がアルメニア虐殺を覚えている?』言った」といい、さらに半トルコ人が「そのとおりだ。誰も覚えていない」と答えるくだりなんかは、生々しい肉声が感じられる。なんにしても、この映画は、虐殺についての言説のあり方を変えることになるだろうし、映画そのものの可能性も広げた のではないか(確かにシャオシェンという先駆者がいるが、彼はすこし抽象的すぎるんだよなあ、大好きなんだけど、それが)。そして私たちが感じるのは、そうした革命を可能にした、いやそうすることなしには真摯に語ることができなかった、現在に生きるアルメニア人の生というものなのだ。

ぼくの好きな先生(ニコラ・フィリベール)フランス、2002。文部科学省選定

 フランス中部オーベルニュ地方にあるという小学校の、いかにも優しそうな先生とその子供たちを映したドキュメンタリー。この映画の音楽がとってもよくって、予告編からとりこになってしまった私はほとんど内容を知らないまま、その予告編の情報だけで見に行ったんだけど、でもほんとに授業風景がほとんどで、あとは子供の家庭での様子とか、その地方の自然とかがおまけ程度に映される、というとてもシンプルな映画でした。ちなみに、音楽は公式ホームページから流れています。バックミュージックとかにいかがでしょう。なお、現代のEtre et avoireっていうのは、英語に直すとBe and have(これじゃあ題にならないね。英語って野暮ったい言葉だ)です。
 ジョジョとか、ナタリーとかジョナサンとかいった子供たちがほんとに可愛くて、授業風景もとってもほのぼのしている。どうやら幼稚園なんかもかねているらしくて、abcから教えているの。先生の教え方もよくって、ほんとに辛抱強い。まあそういうゆ〜くりとした時間がひたすら流れていくのがなんとも心地よい(気持ちよく眠れそう)。
 映画の始めは、なんだか雪がつもっているところを牛かなんかを連れ戻すところで、そのシーンがとても見事にとれていてびっくりしました。音の拾い型がとっても上手くて、その効果がよく分かっていると思う。とにかく、ほんとにこの監督とかスタッフは、レベルが無茶苦茶高いのですよ。大部分は授業風景を映しているだけなんだけど、それだけで映画になっているんだもんなあ。なぜなんだろう。
 日本の小学校とかはほんとに規律社会の見本のような学校制度になっていて、授業も堅苦しくって、創造性なんかは押し殺されるように教育されていて、自由な発言なんかは許されないっていう雰囲気がある(と思います、一部の私立は違うと思うけれども)。そういう環境で育った自分としては、イランとかの教室を映した映画とかを見るたびに思うんだけども、いやーこういう世界があるんだなあ、って感じなのよね。
 そうそう、フランスの教育と言えば、我々の永遠のあこがれであるかの厳格な古典教育がみっちとされているっていう印象があるんだけど、この学校ではほんとにどこかの田舎の素朴な学校なんだよね。でもね、この先生、スペイン生まれらしいの。アンダルシア。移民の子供だからこそ、フランスの厳格な教育理念っていうのを無視ししてこういう穏やかな教室を実現できたんではないだろうか。それにしても、移民の子供を学校の(正規の)先生にするなんて、日本ではありえないことだよね。まあなんというか、文部科学省はこの映画を選定するのはいいにしても、もっとちゃんとせなあかんぜよ。あまりに低レベルすぎる。幼稚、ナンセンス、おまえの母ちゃんでべそ。それをほったらかしにしている知識人たちも同罪だけどね。それに、こういう映画が日本では撮られるわけがないのは、映画人にしてもこんなドキュメンタリーを撮ろうとは思わないから、というのもある。まあ撮ろうとしても無理だろうけど。
 おっと、ついつい愚痴がでちゃいますけれど、そういうむしゃくしゃした気分を吹き飛ばしてくれるいい映画ですよ、これ。そうそう、この監督が十年以上前に撮ったルーヴル美術館のドキュメンタリー映画"La ville Louvre"もこの秋公開らしいです。これもすごい質が高そう。要チェックだね。

クジラの島の少女(ニキ・カーロ) ニュージーランド=ドイツ、2002

 ニュージーランドのタマオ族の少女を主人公にした映画。今年の少数部族もの第二弾ってな感じかな。まあそう悪い映画ではないのだけれども、こうまであちこちで感動を呼んでいると、なんか感動しなかった自分が悪者みたいに思えてきて、ちょい逆ギレ気味になっています。いや、そうだ、これはわしゃあすかん、そう言っちまえ!
 お話としては、タマオ族の族長の家系に生まれた少女が、男でないばっかりにおじいちゃんに族長として認められず(でもけっこう仲良くはやっていたのだけど)に、ほかの子供たちの中から族長を養成しようとするおじいちゃんに認められたくて、こっそりとその訓練を盗み見したり、こっそり訓練したりする、で、最後には……というお話。うーん、これってなんかありがちな設定じゃない???? まあありがちはありがちでいいとしても、頑固なおじいちゃんってのがさぁ……醜悪なんだよね、映画的にね。もう、こういう人物って、頑固だけど根は優しくて、でも伝統とかを重んじていて、女性には理解が乏しいけれども、リーダーシップはあるとかなんとか、まあなんつーか、つっぱっているけども根はいいワルガキみたいな、こてこてのキャラクターなわけです。いいですか、このおじいさんが副主人公なのよ、この映画。なんかそれだけでもう疲れちゃうよね。
 んで、お話的にもなーんのヒネリもない。認められないけれども努力して、最後には認められる主人公ものって、オイオイいったい何十年前の少女漫画真面目にやっているんですかあなた、と突っ込みをいれないでいるなんてことは私にはできません。なんか主人公の女の子がね、英語のスピーチコンテストかなんかで賞をもらってみんなのまえで読むんだけども、そのときに一番聞いて欲しかったおじいちゃんが来てなくって、しくしく泣きながらがんばって言うシーンがあるんだけども、そのシーンであろうことに、延々と女の子を顔を映し続けるの。はぁ。こんなシーンでお涙ちょうだいしちゃえと思っていそうな馬鹿な監督って死んでもらいたいんだけど。
 さらにさらに醜悪なのがね、おじいちゃんが部族長要請に失敗して落ち込むシーンがあるんだけど、そのシーンで、どうやら落ち込んでいるらしいそのじじの顔やら背中やら歩き方やらを延々と撮るわけ。で、役者も役者で言葉一つ言わずに、私落ち込んでいます、みたいな表情と雰囲気をたっぷりと作り出すわけよ。……。言葉でいってやりましょう。てんてんてん。あなた、これ映画なのよ。そんな、「私には内面あります」的なそーゆう演技や演出なんて、いまだに信じてやっている人なんて時代遅れなのよ、あなた。はぁ。ほんとに、この演技見ていてあなたたち疲れなかったんですか? と私はこの映画を見て感激した人に聞いてみたいのよ。ほんとに。
 え? おまえの心はねじまがってるって? そうです。私はこんなお涙ちょうだいシンプルに静かな心にしみる感動ムービーってのに素直に感動できちゃうほどシンプルではないのよね、あいにく。わるうござんした。
 しかし、これがそれほどいい映画ではないと言えるのは、この映画にはどきどきするようなシーンがひとっつもなかったということからも言えるのです。たとえば同じく可愛い少女が主人公だった『藍色夏恋』と比べてみても、あの映画では落書きを二人が消すシーンで、がしがし二人が足でその落書きのシールかなんかをはがそうとするシーンで、なんだか二人がステップを踏んで踊っているような感じがして、しかもそれがほんとにさらっと撮られていてびっくりするんだけども、そういうシーンがひとつもこの映画にはありませんでした。クジラのシーンにしても、いかにも意味ありげにスローモーションとかぶっこいてて、もううんざり。こういう素晴らしいシーンがありましたってことはイチイチ下のレビューでは書いていませんが、いい映画だって私が言うには、必ずそういうシーンがあるような映画のことを言っているのであって、もうそれが当然だとも思っているので、わざわざ言わない(というかシーンを解説するのって面倒だし、カメラの動きとかまで入れてきちんと説明できる自信もないしね)のだけれども。しかし、こういう映画をいい映画だと思っちゃう人がたくさんいるようだから、やはり、基本的には、いい映画の魅力ってやつは、どきどきするシーンなんだってことを(『10話』みたいな例外的な映画も百年に一度ぐらいはあるけれど)、イチイチ言う必要がありそうですね。
 ケイシャ・キャッスル=ヒューズというその少女役の子がほんとに可愛いくて演技も上手いだけに、残念無念な映画だよね。この子、USAでも大受けらしくって、スターウォーズのエピソード3とかに使いたいって話しがあったんだけど、ハリウッドは非現実的だからヤダ、将来は学校の先生になりたいってことわったんだって! ハリウッドジャンキーの日本人には信じられない発言だよね。素晴らしい育ち方をされている。そう、この子はもう映画に出るつもりはあんまりないみたいなのよ〜。それだけに、残念だよね、ほんとに。

アマロ神父の罪(カルロス・カレラ)メキシコ、ビスタ、2002

 いやはや、これだから映画ってのは見てみないとわからない。だって、この映画の売り文句は「愛の物語」なんだからね〜。内容とぜんっぜん関係ないのよ、これ。まあオリヴェイラの超問題作だった新作も「媚薬のような愛」というコピーだったしなあ。まああれはもともと宣伝文句なんかつけようのない変な映画だったけれども、これははっきりとした明確な映画なのです。いいですか、これは恐ろしきカトリックとその支配下にある恐ろしきメキシコ社会についての映画なのですよ(「人間の原罪」を描いた映画だとかぬかすやつはカトリックの回し者なのか?)
 20世紀は大きな世俗化の動きがヨーロッパ全体やイスラム社会(仏教社会でよりかは……)で広がっていった時代でした。この「世俗化」というのは一般的には宗教の社会的な支配力が弱まっていくっていうことなんだけど、あの恐るべき合衆国やイランや南米とか特殊な地域では逆に宗教化が強まったって考えられがちなんです(USAのあるあほっぽい学者はこっちのほうの動きのほうが標準的で、合衆国はそれゆえに世界のモデルなんだって信じられないこと言ってたけどw、まああんたの頭を標準化することからはじめたほうがいいって感じだね)。でも実際のところ、「世俗化」というのは宗教それ自体の世俗化をも意味しているのであって、たとえば合衆国ではいまや宗教はもっぱら馬鹿な国民を操作する道具のようだし(先進国であそこほど冗談みたいに政教一体がすすめられているところはほかにはないのはみなさんご存じの通り)、カトリック世界でも教会の世俗化(まあこれはカトリックにとっては古くて新しい問題だけども)は容赦なく進行しているわけで……。おっと、つい真面目になっちゃった。でもこれはまあけっこう真面目にカトリックを批判しているのよねえ。いや、ほんとに感心いたします。
 ガエル・ガルシア演ずる若きアマロ神父が田舎の教区に赴任してくるんだけど、そこにはいろんな現実があって、まず教区の主任神父(?)はやもめの女を愛人にしてるし、麻薬マフィアのマネーロンダリングに手を貸してるし、麻薬マフィアに苦しめられている農民たちに手助けしているというナタリオとかいう神父(これが唯一の美しい人間として力強く描かれる)はいるしで、もう無茶苦茶。彼自身もマフィアと神父との関係をすっぱぬいた新聞に圧力をかけて記事を撤回させる(教会の社会的な力ってのはもんのすごいらしい)ことを引き受けるわ、16歳の娘に手を出すわで、だんだんはじめに持っていた純真さを面白いほどに失っていくってわけ。 
 いかにも世俗的な生活を送る神父たちの俗っぽさが丹念に描かれるのも面白いけれども、カトリックにそんなに詳しくない私としてはですな、そういやそれってカトリックではタブーだったんだっけぇという神父の妻帯とか、うーんメキシコってそんなにスペインから入ってきたであろう教会の社会的な地位が高いんだ〜とか、その教会の制度とか、そういうところが部外者にもよくわかるように描かれていて面白かったですな。ほかにも聖体拝領の儀式なんかもちゃんとあって、なんやらおどろおどろしい教会の中それ自体も細かく映し出されるし、こまごまとしたカトリック的な世界みたいなのが描かれることによって、その馬鹿馬鹿しさというのが分かるようになっているわけ。ほんとに信心深そうな人びとなんかも出てきて、こんな腐った神父連中に信仰心をにぎられて支配されている善良な人のかわいそさってのもあるし、もちろん信仰で排他的になっている恐ろしい群衆なんかもでてきたりする。
 時代設定が2002年になっているのは、おいおいほんとにこんな世界なのかよいまだにメキシコって、て思うんだけど、ある程度そうじゃなきゃこんなにカトリックを批判しようとする映画なんて撮ろうと思わないんじゃないかなあ……。まあそれで受けをねらったっていうのもあるかもしれないけど。実際これは、メキシコやUSAでは抗議運動や監督への脅迫事件なんかもあったらしくって、けっこう話題になったらしい。物語としてはものすごーくオーソドックスな堕落した聖職者ものなんだけれども、舞台がメキシコってことでなんかリアルな怖さが付け加わりましたね。演出もくどくなくってとっても心得ている。これは、力のある監督だと思いますよ。メキシコ映画には、これから目が離せないみたいですね。

イー・ツーイェン藍色夏恋藍色大門()台湾=フランス、2002。

 スクリーンのまん前に座って、映画がはじまったときからクラクラしっぱなしでした。もう、この映画はルンメイちゃんのすばらしさにつきます。それだけでいいんです。
 日本人的な見地からすれば、普通はルンメイちゃんの友達役の女の子のほうがかわいいし、青春映画では主役になってもおかしくなさそうじゃない? でも台湾では違うのよねー。無表情で、青白くて、ボーイッシュで、だけどとってもハンサムなルンメイちゃんを主役に選んで、ひたすら彼女のアップで映画を撮ろうと思った監督は限りなく正しいのである。彼女がほんのときおり見せる笑顔はほとんど神聖でさえあって、それに比べればチェン・ボーリンなんてへらへら笑っていいるだけの大根でしかない(言い過ぎか)。もし台湾がイタリアだったら、この映画は『ローマの休日』みたいに町とかももっと印象的に撮られていて、ルンメイはオードリーになっていたんじゃないだろうか(わけわかんない)。いや、じっさい、女性の笑顔がこんなに喜ばしく清らかなものとして撮られた映画っていえば『ローマの……』といい勝負だなあと思ってしまったのですよ。
 しっかし、ルンメイちゃんってこのとき18歳ぐらいなんだよねー。15歳ぐらいでもよさそう。よくこの年までこんなにボーイッシュでいられたもんだなあ。ある少女の一時期に見られる、透明で美しい年頃が見事にとらえられているんですなあ。もう嬉しくってしかたない。
 そう、だからこの映画に厳しさが欠けているとか、「痛さ」がそんなにないとか言ってみても、あまり益のないことである。なんせルンメイちゃんを撮るだけでせいいっぱいんだんもん、この映画。それに、演技は素人のルンメイちゃんにエドワード・ヤンの映画みたいな役をつけてもできないだろうし。松浦寿輝さんはこれを見て、日本の80年代みたく台湾は保守化しつつあるのではないか、と危惧しておられるけれども、まあそれが一部では事実だとしても(なんせ今世界中で保守化のうねりはすごいから)、この監督は今まで台湾ではあんまり語れていなかった若者の性というテーマに取り組んでいるのだし、まだまだ期待できるんではないでしょーか。いや、そもそもヤンとかシャオシェン級の監督がそんなにボロボロでてくるわけないのだしねえ。
 ルンメイちゃんはあまり俳優業をするつもりはないみたいだね。もったいないなあ。もっと怖い役とかも似合いそうなので、ホラー映画とかにもぜひ出て欲しいですな、って個人的な趣味かも、これ。

トーク・トゥ・ハー(ペドロ・アルモドバル) スペイン、2002。

 決定的な傑作です、この映画。決定的って何がよって思われるでしょうね、きっと。でも、いろんな意味で決定的なんですよ、この映画は。今年日本公開作のなかで一番という意味でも決定的だし、この映画をいいと思えるかどうかでその人がどの程度人間というものを愛しているかどうかも分かってしまうという意味でも決定的なの。
 私たちの生は平凡な繰り返しの中に埋没しているようではあるけれど、よく見ると細かな変化に富んでいるし、命の輝きもあちこちに見いだすことも可能だし、もちろん愛も。この監督はそのことをよく知っている。たとえば、マルコがアリシアをはじめて見るときに、アリシアの目が開くシーン、これはマルコの存在にアリシアが気づいて目を開けて見つめたとも思えなくもない奇跡的なシーンなのだけれども、こうしたシーン(伏線としての役割もある)を特別意味深な演出で際だたせることなく続くシーンにとけ込ませるやり口に、この監督の人生へのまなざしをはっきりと見ることができるように思われます。
 監督はある種の人生の真実なるものを、いくつもの対立によって少しずつあぶりだしていきます。まず対比されるのはマルコとベニグノ。アリシアに話しかけるベニグノとリディアにまったく話しかけないマルコ。一方ではマルコはだんだんベニグノに親しみを持っていくのだけれど、しかし他方では彼のアリシアへの接し方には苛立ちを持ち続けるというこの二人の関係の描き方はほんとうに絶妙。この二人との関連でアリシアとリディアの生と死も対比されるし、アリシアとベニグノとの関係とマルコとリディアとの関係も見事な対比をなしている。
 シンプルといえばまあそうなんだけど、この映画について語るには数千語必要になるでしょう。ピナ・バウシュやカエターノ・ヴェローゾの使い方の見事さや演技派を揃えた俳優の演技のすばらしさ(ベニグノ役のカマラは介護の技能を学ぶために四ヶ月かけたらしく、外界に反応せずに眠り続けるためにワトリングはヨガを学んだらしい)についてはまあ絶賛するだけにしておいて、ここでは監督の視線のすばらしさを称えたいのよね、いいですか?
 アルモドバルが描くのは悪意のない人びとなんだよね。誰も悪意を持っていないのに、人生には悲劇が起こる。でもそうした人々に投げかける彼の視線はものすごく暖かなのよね。たとえばマンションの管理人のおばさん、彼女は噂好きだし、けっこうお節介焼きやさんに違いなし、けっこう俗っぽい人間でもあるのに、驚くべきことに悪意はまったく感じられない。まあこういう人間ってのはよっぽど注意していたとしても(注意していればそれだけ)見つかるものでないのに、アルモドバルはなんなくこういう人間を造形してしまう。こうした人間のあり方、これがアルモドバルだと思うの、きっとね。みんな悪意はないし、いい人であるだろうに、しかしどこか孤独で、なぜかそれぞれの行為が相手を悲しませたり、傷つけたりもするし、悲劇を呼んだり、奇跡を起こしたりする。これはもうマジックです。
 でもまあこれは要するにコミュニケーションの映画。このコミュニケーションがかな〜〜り問題含みではあるのだけども。しかしそれぞれの関係は次の関係につながっていく。もうそのつながり方が絶妙なのです。というのも、どんな形であっても、ある二人の関係はそれだけで閉じるものではなくって、次の別な関係を生み出すことになるのだから。このへんは、キェシロフスキの『赤の愛』みたい。キェシロフスキと同じくアルモドバルもロマンチックで、とくに最後のシーン、もうこれで終わりだろうなーと思っているときに「マルコとアリシア(彼女はベニグノの介護によって事故以前よりも若返っているように見える、というか、同じ人物には見えなかった、一見)」とテロップがでてくるなんて最高! こうしてアルモドバルはキェシロフスキを見事に超えてくれたのでした。
 最後にもひとつ。マルコとベニグノが向かい合って涙を流すシーンはとんでもなく美しいよね。こんなに男の涙を見事に描いた映画ってほかになかったんじゃないかしらん。よく感情をおもてに表すであろうスペイン人だけどさ、でもこんなに男性の感情を素敵に描ききったのは、やはりこの監督ならではの才能ゆえと言えるでしょう。ああもういろいろ書き出すときりがないや。でも、この映画を絶賛することは今日のわれわれの大いなる使命であるのよね。

アカルイミライ黒澤清)日本、2002。(シネ・アミューズ)

 これ、すばらしいですショッキングです。ねえ、みんないい加減、物語だのテーマだので映画見るのやめようよ。これ、テーマは古いんだけど、描き方がものすんごく新鮮だったなあ。とても五十代の監督が作ったとは思えない。登場人物の誰にも感情移入できないんだけど、それがいいのです。世代間理解の問題なんてのがテーマじゃないのさ、オダギリ演じるわけわかんない若者と観客がつきあう映画なのよ〜。浅野忠信も『ディスタンス』のときみたいだけどもっと積極的な役で、いい雰囲気だしていると思う。オダギリ君はよかったなあ、ほんとに。でも、女弁護士だけはあんまりにもちょっとひどかったけど、監督、なんか女弁護士になんか個人的にうらみあるのかね。まああんまり出てこないからぶちこわしにはしてないけどさあ……。画面はざらざらとしてるんだけど、でもけっこう綺麗なの。そのざらざらきれいってのが、この映画にぴったりなんですよ。東京の明かりとか、雨のときの暗がりとかきれいでしたねえ。 音楽の使い方も不思議。衣装もよくて、相当みごとでした。
 んで、恥ずかしいこと言うと、こんな映画を見たのはじつは初めてなんじゃないだろーかという印象を抱きました。清さんの映画はじめてっつうのもあるのだろうけど、この描き方がね、やはり斬新なんだと思うね。こんな映画撮る人いるんだって、そんな感じ。青山さんの『ユリイカ』なんかとはまったくスタンスが違うんだけども、見事にこの時代を描いていると思う。描いているだけじゃなくて、ある種のスタンスっつうのも『ユリイカ』以上に見事に打ち出しているのだよなあ。 もちろんそれは、「現代の映画」なるものへのひとつの解答にもなっているんだけれども。 ざらざらした画面といい、この物語の投げ出し方といい、なんだか映画への強烈な肯定のメッセージを聞き取ったような気がいたします。いやあ、かっこいいなあ頭いいなあ。
 んで、この作品がAの評価を獲得するのは、ラストなんですね。「あいつ、今なにやってんだろー」ってそんな第三者の視点で終わって、見事というしかないなあ。最後に白い文字でタイトル出たのに、じつは一番カンドーしました。不思議な不思議なでもいい映画でした。CNMの
大沢氏による評はよく物語を読めています、オドロキ。

エデンより彼方に(トッド・ヘインズ)、USA、2002。

 あまりに美しい紅葉の町の中で繰り広げられる50年代を舞台にしたメロドラマの傑作、と聞けば今の時代にそんな映画がどうなのよ?と思ってしまうけれども、これはその昔のハリウッド映画のスタイルを踏襲しつつ、しかし見事な演出でそれを豊かな表現力に満ちた作品へと昇華させてしまっています。完成されたスタイルというのは、それが制約されているからこそ豊かなものになりうるということを証明しているのですな。
 ニューヨークの映画で、インディペンデント(独立プロ)なんだけど、もんのすごくお金がかかっていて、やっぱしアメリカ映画はすごいって思わせる。家は実際に造ったものだし(ここまで50年代風を気取るなら、ベッドはツインで、階段にはあと10段ほどのゆるやかなカーヴが必要だって、蓮實さんは異様な鋭さでつっこんでいますが……)、町も50年代風のぴっかぴっかな感じにするために徹底的に掃除したって話しだし、走っている車も全部50年代のものだし、もちろんメイクも(口紅まで)50年代を完璧に再現していて、その細部へのこだわりはすさまじいです。
 登場人物の人物造形も素晴らしい。演技も最高だし、音楽もいいし、クレーンをいいところで上手く使っていたりするアクセントのあるカメラワークも見事だし、文句のつけどころがない映画ってあるのだなあ。しかもそれがアメリカ映画だなんて……。主演のジュリアン・ムーアもそんなに若くないはずなのに、美しくってびっくりしちゃう。「これほど多様な女優たちを苦もなく構図におさめてみせるのだから、トッド・ヘインズは女性には真の興味を覚えることのない男性なのだろう」と蓮實さんは言っていますが、面白いですね。
 全体的にとっても上等な感性がフルに生かされた上品な映画で、スタッフの趣味の良さと、監督の確かな手腕を感じます。とくにラストシーンはとっても上質な余韻を与えてくれます。そしてもちろん、マイリティという問題を、USAの歴史というテーマをこんな形で題材にしたのは、やはり知的だし、それを蓮實さんいわく「ひたむきな演出で」映画にしているのはほんとに感心します。が……
 不満がないわけでもないぞ。そうだ!言ってしまえ。確かに黒人とジュリアン・ムーアとの関係の描き方はどうも中途半端だ。うーん、なんだかこれじゃあ不完全燃焼じゃあないか! このへんは「そーいう社会だったから」っていう優等生的コメントで終わらすのではなくって、やはりもっと映画的な展開をつくってもよかったのではないか。それにこれも金井美恵子さんの言うとおりなんだけど、スカーフの使い方も確かに『春の惑い』でのハンカチーフの使い方と比べるとほとんど映画的な機能を果たしていないよね。さすがに妊娠中のジュリアン・ムーアの体型は映画的じゃないなんてひどいことまでは言わないけれどもさ(実は気がつかなかった……)。

インファナル・アフェア(トニー・レオン&アンディ・ラウ主演)香港、2002

 アジア映画特集ということを目的にこのページを作ってるわけではないのだけど、なんだかついついアジア映画をよく見ちゃうので(じっさいに質の高いのが多いし)40パーセントくらいアジア映画になってますね、このページ。しかしですな、この映画はそんなアジア映画マニアにだけでなく、むしろハリウッド映画ファンとかにこの映画を見てもらいたい。絶対面白いから。というか、いかにほとんどのハリウッド映画がつまんなくて、アジア映画が素晴らしいかということがよく分かるから。アジアはサイコーです。
 レオン君とラウ君は、マフィアに忍び込んだ警官のスパイと、警察に忍び込んだスパイなのである。想像してみてよ、もしどちらかの仕事をやれと言われたら、あなたどちらを選ぶ? ほんとの警官の役の方がいいって? いやいや、マフィア役のスパイだって、ちゃんと警察免許もってるのよ。そして生活でも警官として社会的にも安定しているしね。レオン君はかわいそうなマフィアに潜入している警官の役で、長い間ちゃんとした警官でなくって、生活上ではヤクザしているから、なんか不安定で気力を失ってきている表情をしている。HEROでがんがん剣をふりまわしていて力強かったあのレオンが、なんだか役所広司みたいな役をしている! 彼は世界一すごい男優だねっ!
 脚本としては、両者の心理的なコンプレックスや、事件が起きていく中で感じるいろんな動揺、その微妙な立場からくる互いのいろんな優位な点や不利な点、などなど、考えられる限りの繊細さをもって描かれていくわけ。このへんの書き込みぐあいはほんとに細かくって、よくできすぎている。描写の仕方もくどくなくて、淡々としていていいねえ。 んで、この映画のかんどころは、そこで起こっている事件を決して観客に見せないのよね。ただいきなり結果がつきつけられるだけ。鉄砲がんがんうつシーンとかはあんまりなくって、いきなり死体が見える。こわーい。これ怖いよママーンってかんじだよ、これって。こういう編集ってのが、強い緊張感を観客に与えて、よりその出来事をリアルなものと感じさせるんだよなあ、そーだよなあ。この点でいかにこの映画が正しくてハリウッド映画が間違っているかなんてことは、これ以上言わないことにして……
 そして何よりこの映画をアーティスティックなものにしているのは、そのキャメラや、編集、つまりまあ映画の基本がよくできているわけなんだけども、これはほんとにテンポがよく作られていて、韓国映画にも受け継がれたあの抜群のスタイリッシュさで決めてくるのよね。でもそれがたんなるカッコつけではなくって、映画的な演出として十分に面白い。そのおかげで、とんでもないドキドキ感が、その緊張感が薄れることなく最後まで持続するのである! おお、まっさにサスペンス (サスペンスの定義とは、「観客が登場人物よりも先に彼らの関係を知ることによって、映画の中に入り込むことによって生じる」というものなのだから、これはまさにその王道をいってるわけです)! サスペンス映画としてこれは歴史に残りますね。野崎さんが、松浦さんが大絶賛しているのもうなずける。
 けっこう複雑な展開をして、しかもテンポも早いから頭が映画についてくのに大変だったけれど、でもそれでもちゃんと理解したと思っていたんだよね、伏線とかほとんど。でも細かいところはじつはよくわかっていなかったというのが、後で分かりました。警部が最後に言おうとしてためらったのはなぜ? あの娘さんは誰の娘なの? 最後に出てきた彼は今までどんな役をしてたんだっけ? とかね。うーん、やはり内容が濃いわ、この映画。脚本も、役者の演技も、キャメラも、演出も、編集も、音も素晴らしいこの映画は向かうところ敵なし、まさに最強の映画です。香港は映画が下火になっていたというけれど、この一本で活気づいたというのもよくわかりますなあ。

HERO(監督=チャン・イーモウ)2002

 あのチャン・イーモウがついにハリウッドに挑戦の映画。アクションシーンがなんといっても面白いのだけども、始めの囲碁や、書のシーンなんかも中国の独特の文化で見ていて楽しい。なんだかんだいって痛快な映画ですよ。
 個人的には『初恋〜』でちょこちょこ歩いていて超かわいかったチャン・ツィーちゃんが剣でもってがしがし男とやりあうのがなんともたまりませんでした。しかも必ず負けるし。いや、もっともっとがしがし負けてほしかったのだけど……。いやいや、こりはいかん。
 なんというか、『ドラゴンボール』なんかの実写版という趣もなきにしもあらずで、あれをこんなに緊張感のある戦闘シーンにしてくれているのはやっぱりちと快感である。CGもよくできているし、滑稽なまでにすみずみまで美意識が貫かれているのも楽しい。とくに宮廷のカーテンが落ちるシーンなんかはいいですね。
 あと、この映画の魅力は、中国名勝紀行にもなっているところで、とくに湖のシーンなんかは撮影にひどく苦労しただけあって、たいへん美しい。中国はやっぱり日本と違って雄大で、幽玄だねえ。  大きなスクリーン(ミニシアターの小さなのじゃなくって)で映画を見ることの贅沢さを十分味わわせてくれる映画でした。

ノボ( 監督=ジャン=ピエール・リモザン、主演=エドゥアルド・ノリエガ&アナ・ムグラリス)フランス、2002。

 いやはや、才能ってのはこんなにも雄弁なものだったのか。昨日見た『ソラリス』とその違いにただもうびっくりしてしまいました。映画ってこんなにも驚きに満ちたものでありうるのねっ。
 監督はヌーヴェルヴァーグ第三世代か第四世代(?)の人で、手持ちキャメラでどんどん人物を追っかけて撮っちゃうし、カラックスみたく超アップで素早い動作を映したりと、冒頭からついうきうきしちゃうような手さばきで映画を始めてしまうのよ。とっても若々しい映画になっていると思います。
 主人公はどうやら五分くらいしか記憶がもたない男で、そのユニークさに女が恋をして……という展開なのだけど、これをやたら説明くさくまだるっこしい映画にせず、ひたすら控えめに物語は語られていき、でもとっても爽やかで軽やかでそれぞれのシーンが信じがたいほど生き生きしていて、まったく感歎すべき映画ですよ。うむむむ、編集もカメラワークも音楽の使い方もムグラリスの髪型も何もかも見事だねえ。ほれぼれするなあ。しかもオドロキなのは、フランスらしい開けっぴろげさがあって、R指定なんだけど、全然エッチでも扇情的でもなくて、しかも露出度が高いのにはアングリですな。登場人物の裸がやけに多いんだけど、そのおおらかさというか、照れのなさがとても好ましいです。イエス。セックスと愛の(両者の対立あるいは二律背反としての)問題って、なかなか日本では大っぴらには語られがたいところなわけで、それをこんなポップかつ哲学的な形で問題となしえているのはやはり おフランスならではって感じで、蓮實さんが絶賛するのもいかにもだって思われるかもしれないねえ。(記憶喪失ってのは、このテーマをより明瞭に取り上げるための装置にすぎないわけです……念のため)。……ほんとはスペイン人らしいノリエガのフランス語はちょっとフランス語には思えないこともあったけれど(字幕作成の型はさぞかし苦労なさったことでせう)。
 ちなみに、二人が現代芸術の美術館で見ているおしりのアップが延々と続くフィルムはオノ・ヨーコのものらしいです。おしりの毛を剃るシーンもあったよね、映画の中で。もうオドロキすぎ。んで、最後の駐車場でのシーンはありきたりといえばありきたりな展開なのだけれど、それがハリウッド的なありきたりさではない、新鮮なオドロキに満ちているのはほんと不思議です。

ソラリス(監督=ソダーバーグ、制作=ジェームズ・キャメロン、主演=ジョージ・クルーニー)USA、2002

Fox の映画を見るのはとっても久しぶりで(10年ぶりくらいか?)、つまりハリウッド映画を見るのはかなり久々で、アメリカ映画もひさびさで、しかも初体験のサウンドシステム(なんとスターウォーズ・エピソード1のためにわざわざ作られたシステムらしい)で、しかもはじめての映画館でと、はつものづくしで見たこの映画、皆さんご存じの、あのソラリスの二回目の映画化なわけ。しかも一回目の映画化は映画史において最も特異な作風を作り上げた奇跡の芸術家タルコフスキー作品なわけであって、あの傑作にどう退行いや対抗するのか???とかなーり見る前から疑問が多かったこの作品……はたしてその出来はいかに?
 USAではさんざんな評価だったらしいんだけど、まともな頭をもった日本人にとってはそんなに悪い映画だとは思えないというのが、とりあえずの評価かな。なんせあのroguesときたら、白黒はっきりしている映画しか受け付けなくて、それで『千と千尋』とかも、はやらなかったっていう話しだからねえ……。そんなにいいわけじゃないけど、頭に来たりすることはない程度の出来にはなっていると思います。音楽がやけにうるさくって頭きたりはするけど、それはおいておいて。
 リメイクではないにしても、タルコを意識しているのは始めのシーンから雨の音がしたりと明らかなわけだけど、残念なのはタルコほどの現実感というか、質料が画面にでてこないことなんですなあ。なんせタルコときたらよ、初監督作品の『僕の村は戦場だった』においてすでに異様なほどのリアリティを画面に定着させているのであってですね、あの闇の中の沼をボートでこいでいくシーンなんて生々しすぎ て息詰まるほどだったよね? 『惑星ソラリス』でもソラリスに漂う「もや」が異様に生々しく撮られていて、不気味だったんだけど、今回のソラリスの「もや」(なぜかオーロラみたいな明るいものになってるんだけど)は良くできたCGにすぎない。そしてドラマにしてみても、主人公がはじめてクルーに出会うシーンとか、はじめて「客」にであうシーンにしてみても、はるかに驚きに満ちたショッキングなドラマ性をもっていたことは否めない……。まあそんなのは所詮 ・・・小賢しいニューヨーク派の監督の作品と世紀の天才の監督の作品とを比べると当然の結果なんだけど、文句ばっかり言っていないで、この作品のいいところは……
 「客」の気持ちがより主観的に描かれていたってことが今回の作品の特徴です。まあこれは、最後のシーンの伏線になっていて、これは前作とは全然違う。まあここでようやくハリウッドっぽい恋愛ものってことに落ちきそうな感じのラストになっているわけよ。タルコのだとあまりにも救いがなくって哀れだもんね。 でもまあそれが逆に無茶苦茶いいところなんだけどもさ。ともかく、いい原作ですよ、これは。こーいう内面的な物語は大好きです。まあそれがこの映画がいい映画だということの理由にはなんないのかもしれないけれど。そうそう、あの遊泳シーンがなかったのも残念だったかも。うーん、やっぱりタルコフスキーの映画は偉大だなーと思い知らされる映画だなあ、これ。

春の惑い(監督=田荘荘、撮影=リー・ピンビン)中国、2002。

    中国映画ベスト1にも挙げられるフェイ・ムーの「小城之春」をリメイクしたもの。これも映画史に残る傑作っぽいことは予告編を見るだけで分かります。 お話は、抗日戦争が終わった数年後の中国蘇州の春に住んでいる病がちの夫と、夫とうまくいっていない妻の元に、それぞれのかつての友達(夫にとって)であり恋人であった(妻にとって)医者が訪れるというお話。10年ぶりに会った男と女はおたがいの感情をあからさまにはできないという状況にあるのだから、観客の関心は、お互いがどんな状況において、どのような形で感情を表明するのか、ということに向けられるのだけども、そこにいたるまでの三者の感情の微妙な揺れ動きをも観察することになる。カメラはずっと引いたままで、登場人物によるモノローグもないこの映画では、三人の心の内面を一つ一つ描き、濃い心理劇を展開させていく。それはなんと豊かな映画であることか。
 三人のほかに夫の妹である女学生が登場するのだけど、これがいい役割をしている。ちょうど16歳の誕生日を迎える彼女は三人のあいだの心の葛藤のことなど何も知らないのだけど。それだけに明るく、一人だけ無邪気で、そして一人だけ若い。医者の恋人だったとき妻は16歳だったのだけど、今はもうそれほど若くはなく、愛していない夫持ちになっている。いつもにこにこしていて少し落ち着きのない妹と、いつも落ち着いていて表情のあまりない妻がうまく対比的に描かれて、過ぎ去った10年間の月日を思わせるのだけど、それが見事な効果をみせているのは、妹の誕生日の夜だ。まあしかしそれはここでは書かないでおきたい。
 リー・ピンビンのカメラも美しいし、衣装も、セリフも小道具も素晴らしいのだけど、何より最高なのはヒロインのフー・ジンファン。その秘められた感情と、わずかに男を誘惑したり翻弄したりかけひきをしたりするその様や、男に夫の部屋に「戻れ」と言われたときに見せるのその微妙な表情の変化や、外を歩くときなどのその気品ある立ち居振る舞いなど、何もかも素晴らしい。そんなに美人というわけではないのだし、どこか邪悪っぽい気がしないのでもないのだけど、しかし美しい。
 ちなみに、ル・シネマが出しているパンフは、この映画に描かれた個人主義に注目している佐藤忠男の文章や、「ハンカチーフ」に注目した茅野裕城子のものや、野崎歓さんの文章のほか、監督のインタビューももちろん、スクリプトも収録していて、なかなかいい。吉田広明による
レヴューはこちら。A

MATRIX RELOADED(ウォシャウスキー兄弟)USA、2002

 コンピュータのプログラムとかっていうのは、大学でも研究されているようなものなんだけど、これって思うんだけど、ものすごく応用・拡張的な分野なんだよね、きっと。ある与えられた状況をいかに効率よく解決するようなアルゴリズムを生み出すか、なんてことがきっと考えられているんだろうけれども(違うかも……)、これって要するに人間の思考のあり方をコンピュータに適用しようとするもので、そもそも人間の思考はどうなっているのか、というところから考えないといけなかったりするんでしょう。だからこそ、心理学とか哲学がこういう分野には意外と役に立つ、という可能性も非常に大きいのである。
 だから、人工知能が作ったシステム、が話題になっているこのパート2で哲学的な議論が頻出することにもあまり違和感はないでしょう。しかし、はっきり言うと、MATRIXの哲学、なんて本も出ているけれど、ここで言われている議論は全部うすっぺらい、こけだましのものにすぎませんね。だいたい、この監督のようなマニアックな人たちっていうのはこういう衒学的な議論を非常に好む傾向があるが、中身のあるものは少ないよね。これなら小説の『ザンス』シリーズのほうがはるかに哲学的だし、主人公自身がシステムの一部であり、そこでどう行動すべきか、という問題もはるかに上手く提出している(というか、いつもこの問題ばっかで飽きるほど)。 サイバネティクスもまったく知らないみたいね(原因と結果、こればっかだし)。
 ああ、なるほどね。感情や自由意志の問題とコンピュータ・システムとの関連を持ち出してきているわけね、この映画。まあこれは古典的な問題なんだけど……。感情の動きは決定されているのか、いないのか、というのは哲学者によっても立場が分かれるけれど、たとえばスピノザは決定されていると考える。エチカ第二部定理48の証明をみよ。しかし、たとえそうだとしても、いみじくもフロイトが言ったように、われわれは普段その原因を 明確に見いだすことはできない(精神分析もそれを可能にはしない)。んで、監督がきっと言いたいのは、この、人間の感情と行動の最終的な予測不可能性とシステムの バグの予測不可能性のことなのかなあ、という気がします。システムを支える個々のプログラム同士のミスマッチな関係から生まれるバグは予測できない(だからソフト開発会社のプログラマは徹夜をする)。デリートされていない余ったプログラムたちがこの映画で人間的なものとして扱われているのはそういう対比からのことではないでしょうか ?(感情をバグと類比的に捉えるってのも、コンピュータオタクにはありそうな発想だ。というか、『攻殻』そのまんま。しかしいつも思うんだけど、論理的ってことの意味を、こういうエセ理系の連中がまったく理解していないのはナゼなの? 論理は選択を可能にするものじゃあないのにね。カント読めよな。でもこういう初歩的な誤解から、彼らが感情の機能について何も理解していないことがよくわかるよね。 「オラクル」あんなプログラムありえないっつうの。まあ英米系の哲学や心理学とかって、こういう問題がとても苦手みたいだから多少おおめに見てやるべきかもしれないが) 話を進めると、システムを作った超越的なプログラムにも、そのバグによってシステムに深刻な変更が加えられるのを止めることはできない。それで「彼」は解決策として、あらかじめそうした不確定要因をある程度想定して、システムをより柔軟なものとし、そのバグ自身もシステムにとりこめるように、システムにある特殊な領域をもうけておけばいい。それがザイオンなんでしょう 。
 意志とは何か、知性とは何か、これはまあ古い問題ですよね。でもこの監督はぜんぜんこの問題の本質を理解していないみたいですね。まず基本的なこととして、人工知能は感情をもちません。こう言うと、真面目に人工知能に感情を持たせようという研究をしているところもあるみたいだからお怒りを買うかも知れませんが、でもそうなのです、と言うしかない。え? 人間の感情だって決定されてるって言うんだったら、その決定の過程を全部プログラムに書けばいいんじゃないのって? なるほど、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』か。でもね、感情ってのは、ある刺激への反応ってことだけから生まれるのじゃあないのです。それは私たちが生きていって、生きていこうとするその衝動に根ざしているものなのね。基本的に、生きていくのによいことは「快」、そうでないのは「不快」。でもやはりフロイトが言ったように、この関係が逆転するってことも人間にはある(なぜなら私たちがそこに身を置いている生は想像的なものでも、象徴的なものでもあるから。想像界、象徴界。ちなみに、動物も想像界を持っているようだ。死んだ子供の亡骸を抱えたまま生活する親猿。)。まあつまり、かなり複雑なわけ。こうした有機的な生をコンピュータは送ることはできない。ゆえに快感原則を持たず、心をもたない。
 哲学史上にも、これを説明する寓話がある。ビュリタンのラバという賢いラバがいたんだけど、こいつは距離や目方がみただけで正確に把握できる。あるとき、左右ちょうど同じ距離に、同じ分量だけの藁が与えられたことがあった。一ミリの狂いも、一グラムの狂いもなくぴったり。でもロバはあまりにも理性的だったために、どちらの藁を選ぶかその基準を見いだすことができずに、迷ったまま餓え死にした。これはライプニッツも『弁神論』などで、スピノザもエチカ第二部定理49の注解で言及している、よく知られた話です。
 じつはね、感動したんだけど、いまAIがぶちあたっている問題点もまさにこれで、ある行動の基準、選択する基準をコンピュータはもっていないから、何かを自発的にするってことが難しいってNHKの番組で言ってたの。つまり、いくらかしこくっても、AIはピュリダンのラバなんですな。たとえば、料理の仕方を教えたロボットでも、自発的に料理をするってことはありえない。何日何時何秒にどういった料理をするってことをあらかじめプログラムしておかない限りは。だってコンピュータは体をもたないんだもん。何かを選択するなんてことは、身体をもった有機体のみにしか、できないことなんですよ。知性と意志が一致すると言ったスピノザだって、人間の心と身体との並行論を前提としているんだよね。なお、スピノザ的に言えば、コンピュータは知性も持たないってことになるだろうね。ホーキング博士は「われわれ人類の知性とは対照的に,コンピュータの性能は18カ月おきに2倍になっている。コンピュータが知性を持ち,世界を支配するという危険は現実のものとなっている」「人類を電子システムより優れた存在にしておきたいのなら,われわれは遺伝子操作の道を進むべきだ」と言っているみたいだけど、こんなの完全にくるっちまっているとしか思えません。遺伝子操作? 馬鹿すぎ。理系の学者ってどうしてこんな馬鹿なこと言うんだろうね。どんなに遺伝子操作しても、ちゃんと考えることを学ぼうとしなければ、人類はますます愚かになっていくだろうけれども、いま人間がしなくちゃいけない仕事がコンピュータの発達によってできるようになるんだったら、人間の余暇が増えて、馬鹿な物理学者が書いたのでないまともな本を読む時間が増えるでしょ? まあそううまくはいかないにしても、基本的には両者の関係はそう単純には対立はしません。
 え? まだ納得いかないって? やっぱり、コンピュータに行動の決定する法則をたくさん覚えさせれば、人間にちかくなるんじゃないかって? まあそれは否定しませんよ。良心回路とかいいよね。貧しい人にお金を寄付をするのはよいことであり、よいこととは悪いことよりも優先してなすべきことであるって教えておけば、お給料を際限なくブランド品につぎこむ日本人よりかは倫理的なロボットができると思うよ。でもそれとこれとは別。AIがなんかのきっかけで人間のような感情をもつことなんてのはありえないってこと。それに、たとえMATRIXを作ったAIが人間によって感情プログラムを植え込まれていたとしても、それが人間をあんなふうに扱うようなものになるとはちと考えにくい……いや、そーゆうひねくれたマッドプログラマの作品だったとしたら、それはそれで面白いか……。でもまああんなプログラムを作ることなんて、物理的に不可能だと思うけどね、人類総動員したとしても、何年かけても。そもそも、自己組織化するシステム(オートポイエーシス・システム)の構造なんてものは、最近研究がはじまったにすぎないのだし、それがコンピュータシステムにあれほど高度なレベルで応用できる日がくるとも今の時点では思えない。有機体とコンピュータは根本的にその構造が違うのです。ただ、コンピュータやロボットの研究が、人間の複雑さや奥深さを明るみに出しているのは事実で、とくにロボットの研究者たちの多くはそっちの方が目的らしいってことはなんともすばらしいことだけどもね。彼らの研究が、数百年も前の哲学者たちが人間について考えていたいろんなことがいかに正しかったかってことを証明してくれるのだから。 それにきっと、人間の感情が果たしていることについても、もっとよく理解できるようになるかもしんない。哲学書の言葉よりは簡単なモデルでね。
 ああ、際限なく脇道にそれたけど、この映画は前ほどはウケなかったみたいね。まあ二作目ってのは新鮮さがなくなるのは仕方ないよね。それよりすごいと思うべきなのは、全作の驚異的な成功を糧にして、とんでもなくお金をかけた映画を作ったってことだよね。まさにハリウッドシステムの勝利。でも、そうしたアクションシーンにも、監督なりの美学が貫かれているのはいいと思います。なんだかんだいって、センスはいいよね。というか、それがヒットの最大の要因なんだけど。これってさあ、まさに人々がハリウッド映画に求める 娯楽的世界そのものを映像にしたものじゃない? 自由に体を使える幻想の世界だし。前作ではこの世界のお気楽さがウケたんだろうけど、今回はこの世界観が重くなってきたからウケなかったんでしょ? でもだいたい、みんながハリウッド映画に求めるものしか、映画そのものにも求めないってのがこのハリウッドによる資本搾取の原因だってことを、あたしは声を大にして言いたい。だからこの二作目は一作目と ほとんど同じぐらいいい、あるいはくだらないと言うことができるけれども、それよりホントに私が言いたいのは、これより『インファナル・アフェア』のほうが娯楽映画としても楽しいし、純粋に映画そのものとしてもよくできていると思うってことだね。あれは日本ではあんまりヒットしなかったみたいだし。ブラピによるリメイクなんかがヒットした日ににゃあ怒りくるぞわりゃあ。これはまあまあ面白いと思うけれども、これに70億(円だったっけドルだったっけ)もかけたのかと思うと しょうもないと思うし頭くる。

マイケル・ムーア監督『ボウリング・フォー・コロンバイン』カナダ=USA、2002

 日本にはむかし、岩波映画が盛んだった頃に素晴らしいドキュメンタリー映画がたくさんあったのに(今でも細々と作ってはいるけどね)、ドキュメンタリー映画見るなんてはじめて、とかいう人は……いや、まあ普通そうなのかな……私もあんまり見たことないしな。でも、これで今までアメリカがこんな国だとは思ってなかった人ってのは……、けっこういたのかな。日本みたいなアメリカべったりの国では、新聞記事とかでもなかなかアメリカ批判の記事が少ないし(最近はそうでもないが、ちゃんと取材はしていない)、人類史上、こんな凶悪な国が出現したことはなかったわけで、ある意味、こういう国の邪悪さというのを想像するってこと自体、かつて人類が想像だにしなかったことなのであって……ええと、まあ要するに、この国のしてきたことを書き連ねるだけで、「人類史上最悪の出来事」みたいなのがずらずらと並ぶわけで、そういうのを知ったり理解するだけでも今まで人類が必要としてこなかった想像力が必要になるわけだということです。んで、さらに想像を絶するのは、そういう国の内実だということをこの映画は言っているわけよね。だって考えてもみてよ、自分の国がしていることが人類史上最悪の歴史的なことばかりだと知ったら、正常な良心や意識を持ったまま暮らしていけますか? そんな国で生きているってこと自体があるいみ狂気なのであって、その狂気から身を守るためには、人の苦痛に完全に無関心になるしかないでしょ、あの全米ライフル協会みたいにね。いや、もともと人の苦痛に無関心だからこそ、人類史上最悪の凶悪なことばかり外でできるのかもしれんが。
 でも1999年4月20日のあの事件はアメリカ人を変えた。どう変えたか。これはアメリカ映画にも繰り返し出てきたあの兆候まんまでみんな驚くでしょ。そら、例の「敵は内にもいるし外にもいて、誰が敵かは分からない」。そこがアメリカという国の素晴らしいところ。ああうちらは仲間を平気で傷つける社会を作ってしまっていたんだ、ひどい国だ、とは思わないのね。「ああいう連中はどこにでもいる、さっさと始末するべきだ」と思うわけ。アメリカ万歳! そうでなくっちゃあねえ。いくつものアメリカ映画が描き続けてきたものが、いかにアメリカ人の心情を写し取っていたか、それがほんとによく分かりますね。最近のアメリカ映画が病的だと思ったら、そのまんまアメリカ人が病的なの。やっぱり映画ってのはその国の鏡なんだねえ。
 映画そのものはたいしたことないけれど、これが大受けしたのは、アメリカって言う国がそんだけとんでもない国だってこと。それだけ恵比寿の観客を引きつける底知れんものがあって、それだけでも普通の映画よりすごいってこと。この点について、やはりちゃんと言及しないといけないと思います。だって、夢も希望もないでしょ、あの国に。人間あそこでまでなったことないと思うよ、人類史上。どんな特効薬ももはやあの人たちを救うのは不可能でしょ。正直、むかしのソドムとゴモラみたいに、単に享楽に溺れていただけで全滅させられるなんて、今のアメリカを見ていると公平だとは言えないですよ神様。知らないこと、他人の苦痛を、自分の国がしでかしていることを知らないこと、知らないで平気でいること。これこそ、最も許されないことだし、最も救いようがないことだってことまで、神様は教えてくれなかったの。そんなことが可能だなんて旧約聖書のころにはどんな悪人だって考えもしなかったから。
 そゆうけで、オサマ・ビンラディンはタワーに飛行機つっこませるんじゃなくって、デンバーとかそういう南部とかすべてに水爆みたいなのをつっこまさせるべきだったの。だってあの国に残された唯一の道は滅びることだけだから。それで世界がまだましになるわけだから実際どんなに情状酌量したとしてもそれはもう否定しようがないことなの、とソドムとゴモラを滅ぼした神様もきっと考えると思う。でもそうせずに、ムーアはこの映画を作ったわけ。まあ、それってなかなかできることじゃあないと思うよ。そういやさあ、むかしに、日本人の留学生でアメリカでFreez!って言われて逃げなかったから撃たれたって話あったじゃない? あんとき日本では、もっと使える英語を教えようって話になって、アメリカではそういう時に人を撃って何が悪いって話になってたよね(もちろん、それぞれに対する異論もあったけどね)。あのときに、この映画があったらあの高校生は死なずにすんだのにね。あの事件のあと日本人は誰もこんな映画を作らなかったんだから(知ってる限り……)ムーアの欠点をあげつらうことはできないと思います。少なくとも……

黒水仙(ペ・チャンホ)、韓国、2002

 ええと、この監督は韓国の監督としてはけっこう前衛的なほうで、溝口のまねしたような映画とかもがんばって撮っている人らしい。そういう人が、こーゆう今の韓国映画の主流になっている作風で、つまりチープなハリウッド映画の模倣という作風で、商業的な映画を作んなきゃやっていけない韓国の映画事情って相当くるしいのだろうかしらん、日本での韓国映画やドラマのぶれいくはこういう結果しか生まないのか〜と哀しい気持ちになってしまったりするものの、まあこれはそこそこ楽しめる娯楽作ではある……。
 なんつーか、ハリウッド映画の文法を完璧に守って、しかもあちこちでその文法を極度に律儀に守ることによってある種のユーモアさえ生み出しつつ、しかも観客の期待を裏切らない作品にしているのは、確かに相当な力量ではありますよ。でも……あまりにベタというか、なんつーか、いやはや……。まああれだ、日本のドラマとか見慣れている我々にしてみれば、そのまま日本でも通用しそうないかにもな俳優たち(全俳優のオルタナティブが日本にもいるとも言える)が期待通りの役柄を演じてしまうように思えてしまうというのも、ベタだなあと思ってしまう一因ではあるのよ。主役の彼、山本太郎に似てるし。というか、彼にやらせたらもっといい映画になるぞよ(いや、でも主要役者たちは演技に力は入っていたよ ね)。それはおいといて……と。この問題に関しては、監督自身から興味深い発言があったのだ。「『黒水仙』は、リアリズムを追求するというよりは、古典的でオーソドックスなストーリーテリングの映画を作りたい、という思いで製作した作品です。ところが韓国ではこの映画を見た人たちの中で、若ければ若いほどこの映画に共感しづらい、という現象があった。韓国では逆にオーソドックスなストーリーテリング物というのが、若い人たちにとってはなじみが薄かったのかもしれません。もっと分かりやすい上に刺激的なものを今の若い人たちは求めているのだと思うのですが、この作品は集中して考えることを要求される映画ですし、朝鮮戦争が背景になっていて、映画でまた北朝鮮の話を聞かされることにひょっとしたら嫌気がさしていたのかもしれません。年齢層が高ければ高いほどこの映画に対する反応は良かったんです。」ああああ、そうだったのか、この映画の語り口は若い人には古典的すぎるのねー。うーむ、さすがに韓国でもそうなのか。うーむ……、これ、1950年代ぐらいのスタイルなのかなあ。
 しかし、日本(この映画では美しい宮崎)が懐かしい風景として、アジア映画でよく描かれるのはなんとも不思議。この映画ではただの観光地だけどね。あと、これ全部ジョークな笑える映画だと信じていたのに、クレジットになって『イマジン』が流れ出すとボーゼンとしちゃうのは、あたしだけなのか?(いや、韓国の若者もそうだて、監督言ってますよね)

家宝(O Principio da Incerteza) 監督・脚本=マノエル・デ・オリヴェイラ、製作=パウロ・ブランコ、撮影=レナート・ベルタ、美術=ゼ・ブランコ、衣装=イザベル・ブランコ、出演=レオノール・バルダック、レオノール・シルベイラ、イザベル・ルート、リカルド・トレパ、イヴォ・カネラシュ、ルイス・ミゲル・シントラ、仏=ポルトガル、2002。

 あまりに謎な映画。肝心なことは何も映像にあらわされず、出来事は事後的に会話で語られるだけ。いったい何が起こったのかは本当には分からないまま、不気味な結末を迎えてしまう。これは、とっても難解なんではないでしょうか?
 会話劇として進行していくんだけど、そこではじつはほとんど何も起こらない。人物たちはひたすらすれ違い続けるというだけがその理由なのではなくて、例えば、プロポーズの言葉が「自由にこのプールも家も使っていいよ」と出会いざまに言うことだったりするような、そんな、微妙なやりとりが続くといった感じ。カミーラはまあ、実際殺人鬼というか、かなりの悪人なんだけど、それも暗示されるだけだし。しかし、そんな筋などどうでもいいぐらい、この映画のディスクールが特異なのだ。
 映画監督って、つくづく不思議な芸術家だよね。100歳近いというのに、こちらの常識など軽々と飛び越えてしまうような若々しい映画を作ることができるなんて。それを言うなら、清さんもシャオシェンもそうなんだけどね。いやー、まいったまいった。ちなみに、この映画には続編もあるとのこと。ちょっと楽しみだなあ。

愛してる、愛してない……(A la folie... PAS DU TOUT)(コロンバニ)フランス、2002。 オドレイ・トトゥ主演

 題名の解説いたしましょう。aimer à la folie という言い方で、熱烈に愛する、といいう意味になります。pas du toutはぜんぜんそうじゃない、という意味。まあここまでは邦題と一緒ですね。しかし問題はà la folieには、狂気のうちにいる、と文字通りにとれることもできる、ということ。これに、pas du toutが続くとどういう意味になるかはお分かりですね。そうです、そうなんです。彼女、確信犯なんですね。まあつまり、『アメリ』を現実の世界に移したらこうなる、という夢も希望もない映画なんですね、これ。精神病ってのはああいうのじゃないと思うし(まあ実際そうじゃないんだけど、それは曖昧なわけだし、とくに邦題では)、精神病者が攻撃的だという誤った偏見(実際には、普通の人より攻撃的な人物である可能性は低いらしい)を植え付けるという点でも教育によろしくない。後半もありきたりかつ結末が見えているというサスペンスになっていて、どうも退屈でしょうがない。でもまあトトゥの声はかわいいし、彼女の表情の変化も面白い、というか、まるで自分の恋人とつきあっているような気にさせられるかも。しかしこの映画は、映画の、意味がありそうなカットをつなげていくというその手法を逆に利用し、その虚構性をあばいたところにおもしろさがあるんだろうけど……うーん、

エルミタージュ幻想( アレクサンドル・ソクーロフ)ロシア ・ドイツ・日本、2002

 今年はサンクトペテルブルク建設300年らしくて、きっとそれに合わせて作られた映画なのでしょう。ロシアの栄光と没落(?)の歴史が封じ込められたエルミタージュをワンカットで、しかもストーリー付きで撮るというとんでもない映画。面白いのは、案内役の男がフランス人で、ロシアの芸術にことごとくケチをつけながら美術館を歩いていくところ。この人物のおかげで、単純なロシア賛歌の映画になっていないのは、さすがソクーロフなのかしら。監督の批評的な視点はあちこちで発揮されているのだろうけれど、それを理解するには相当の教養が必要だと思われる。ほかには、主人公のぼそぼそ声はやけに耳に残るし、彼がどうやら見えたり見えなかったりするのも幻想的な雰囲気を一層強めていていい。そう考えると、邦題は見事ですね。最後に映る海はなんだかタルコフスキーみたいでちょっと怖い。

過去のない男アキ・カウリスマキ)フィンランド、2002。

 音楽の使われ方がとても見事なこの映画にぜひとも不可欠なのはあのジュークボックス。実際ひどいところに主人公は住んでいるのだけど、そこにジュークボックスから音楽がなり出すと驚くほど豊かな空間に変わって、はたして比較的豊かな生活を送っているはずの自分はかつてこれほど暖かい空間で暮らしたことがあるのかどうか疑わしくなってくる。音楽の重要さは、主人公が新しい職で活躍し、だんだん自身を得てくる過程にもよくあらわれている。まったく記憶をなくしているはずの男が音楽によって心の落ち着きを取り戻し、恋人も作ってしまうというその進展に、音楽(とくにロックだけど)への賛歌が驚くほどの信念をもって込められているのに、ちょっと感動しました。

本橋成一アレクセイと泉』( )2002。

 映画にはいろいろな種類があって、記憶に残る残り方や、思い出す仕方にもいろいろと違いがある。まあ、グル・ダットぐらいでないと自然に思い出したりしないものなんだけど、この映画はどうしても思い出してしまう。きっとこの映画が、私が見た映画の中ではもっとも静謐な映画だからだと思う。それも意図された静謐さではなく、すごく自然なものなんです。まあ、ドキュメンタリーだから当たり前か。でも不思議に物語に満ちたこの映画を思い出す度に泣きそうになるのはどうしてなんだろう。
 アレクセイと彼が住むベラルーシ共和国の村を写したものなんだけど、とにかくこの青年と村の人たちが愛おしくって仕方がないの。なんか理想の暮らしとでも言うべきものなの。なんででしょうか。なんでチェルノブイリの影響で過疎化が進行しつつあるこんななにもない村に、これほど豊かで美しい生活がなされているんでしょうか。唯一汚染されていないという村の井戸の水に人々は強く結びつけられていて、それでこの土地を離れることができないと言う。井戸から毎日水をくみに行く、少し足の不自由そうなアレクセイの歩く姿がロングで何度も写される。その時間の清いことといったら限りがない。人々の土地の水に対する思いは一種の宗教心のようで、それが彼らの暮らしを作っているみたい。
 おばあさんたちは外でみんなでおしゃべりしながら洗濯するんだけど、その洗濯場を作り直すとかでおじいさんとアレクセイが木を切ってみんなで大変な土木工事をして川に足場を組んだきれいな洗濯場を作ったり、村の人がなにやら作ったものを市に売りに行って、その市(そのへんで定期的に開催されるもののような感じ)でみんなで踊ったりしたり、なんやらかんやら。アレクセイの家族が暮らしているという街のアパートがどっかにバスでアレクセイが行くのだけど、そのマンションが窮屈そうなのが村の広大さと対比されて見えたりとか。ほんとそんな村の日常ばっかり写してるんだけど、何も事件はなく、意図的に家畜を殺したりするシーンを写したりもせず、ほんと淡々としているんだよね。そのまなざしの暖かさはほんと素晴らしい。
 そうだよね。文明世界であわただしい日常を送る私たちの暮らしとはまったく違う緩やかな彼らの生活。それはまったくの別世界なんだよね、映画の舞台になるほどの。村の人々の表情や顔つきも恐ろしいほど澄んでいるしね。これは、ほんとにびっくりですよ。こんな世界があるってことがね。こんな人々がいるってことがね。そして、村にはお年寄りばかりだからぼくがいないと困るというアレクセイ君、彼がほんとの聖者に見えてくる。でも彼はそんなことぜんぜん思っていないみたいだけど。ほんと村の日常を撮ったという静かな静かなドキュメンタリーなんだけど、生涯の十本にいれてもいいほど、この驚きに満ちた映画が好きですし、穏やかな感動が自分を包んでいった
映画を見ていたときのあの感触は忘れることができません。

金守珍監督『夜を賭けて( 製作=郭充良、車勝宰、脚本=丸山昇一、原作=梁石日、撮影=チェ・ジョンウ、美術=大塚聡、音楽=パク・ポー、出演=山本太郎、ユ・ヒョンギョン、山田純大、樹木希林、李麗仙、清川虹子、六平直政、奥田瑛二、風吹ジュン、唐十郎)日本=韓国、2002

 山本太郎がかっこいいです。ひたすらにかっこいいです。かっこいいいいいいいいいいぞおおおおお山本太郎! ああ、こんなに男優が男らしくかっこいい映画って、なんか懐かしいよねえ。芝居もなんだか大げさで、ちょっと昔の映画のような感じ。どうやら新宿の情況劇場出身らしい、この監督。男二人が雨の中どろどろになりながら殴り合うシーンなんかも、ワンシーンで撮ってしまう。そう、これは古き良き、そして楽しくちょっとばっかし臭い日本映画賛歌なのかもしんない。みなさん熱演で、たいへんいいです。山本太郎はこれで名優になりましたが、しかしこーいうタイプの俳優って、象徴的な意味ではもはや日本を代表する存在になるのは不可能なのが、いまの日本映画の哀しいところかもしれないなあ。
 原作はヤン・ソギルなんですが、じつはストーリー的には原作の半分も描いていないらしい。それでこのボリュームかあ。戦争直後の大阪の在日の人々を描いているんだけど、彼らは鉄くずをどっかから持ってきたりしてお金に換えて、みんなトタン屋根の家に住んでいる。彼らが鉄を求めて夜中動くシーンなんか、すんごい緊迫感あってサスペンスみたい。画面に迫力あるなあ、固定したカメラで撮ってちゃあこの味は出ない。んで、トタン住居のセットがまたすごい。当時の雰囲気そのままだという、当時生きていた方の意見もあるほど、よく作られている。んで、そこにヤクザな兄ちゃんが女を連れ込んできたりするもんだから、さあたいへん。ケンカしたりの大騒動で、集落中大騒ぎです。んで、最後にそれが全部燃えちゃうってのもすごい。なんかすごすぎます。ワンシーンがすごい長いのも画面に嘘のない緊迫感を与えているし。
 さて、2004年には『血と骨』が日本映画の大作としてもてはやされましたが、この映画を見た後ではちょっとよくできた映画にすぎない。パワーある映画だって言われていたけれど、この映画のパワーに比べればお子様ランチのようなものでしかない。ああ、そうか、なんか評論家ってすんごい確信をもって映画をほめたりけなしたりしているけれど、それって単にいい映画をたくさんみていてそれによって育てられてきているからであって、もとから映画的な感性や知性を生まれ持ってきているわけではないのかもしれない。そう、こんな良い映画だけが人の目を作るのです。なんにしても、この映画を超える日本映画はここ数年ほとんど見かけません、と私は確信を持って言えます。んで、2002年の日本映画ベスト10とかに、この映画と『アレクセイと泉』を入れない評論家なんて信用しません。誰もが普通に楽しめる映画なので、みんなぜひ見てください。
佐藤忠夫氏によるレビューもどーぞ。

ジャ・ジャンクー監督『青の稲妻』Unknown Pleasures(製作総指揮 森昌行 / ヘンガメ・パナヒ / ポール・イー、製作 市山尚三 / リー・キットミン、脚本 ジャ・ジャンクー、撮影 ユー・リクウァイ、美術 リャン・チントン、出演 チャオ・ウェイウェイ / ウー・チョン / チョウ・チンフォン / ワン・ホンワァイ / パイ・ルー / リウ・シーアン / チャオ・タオ / リー・チュウビン)仏=日=韓国=中国、2002

 映画史においてここ10年で最大の収穫とも言える映画監督ジャ・ジャンクーの第三作。前作よりも中国の現状はすさんでいるのか、この映画はよりぶっきらぼうで、さらに希望は描かれなくなり、まるで初期のゴダールのようだ。蓮實さんはこれを見終わった後言葉もなかったって書いているけれど、私にはちょっとリアルすぎて、まともに「鑑賞」はできなかったかもしれない。
 リッチー・レン(彼はジャッキー・チェンの『ゴージャス!』にスー・チーと一緒に出ている)の「任逍遥」(何にもとらわれず、自由に生きるという意味らしい)という曲にインスパイアされて作られたらしく、この曲が最後に流れる。しかし映画には歌のように甘いところは全然ないのだ。金持ちのヤクザと縁がきれないダンサーと、そのダンサーに恋する19歳の男、そして北京の大学に行くお嬢ちゃんと、彼女に恋するつまらない19歳の男だ。なんだかみんな同じような表情をしているのだな、閉ざされたような。その表情がリアルで、しんしんと胸をうつ。そしてダンサーが若い男をつっぱねつつも、突然キスしたりするんだけども、それで行き場のない自分の感情をもてあましているのが分かるのだが、それが事実上行き場のないところがまたやりきれない。これは見る人によっては苦痛ですらさえあるような映画だけれども、そうした苦痛を共有させるような映画作家としてジャ・ジャンクーは唯一無二であるのだろう。
 ちょっと見てから時間がたっているので、もう一度みたい作品だなあ。あの事件を起こした後、バイクにのった男の表情はそれまでと変わっていたのだろうか、変わっていなかったのだろうか……。現代の中国、いや「現代の若者」の姿をほぼむき出しに伝えてくる映画としてちょっと他にはないので、一度見てください。間違ってもエンターテイメント作品ではないので、それを期待してみてもつまらんという感想しかでないと思いますが……。また、ここの感想はすごく同意できます。

イ・ハン監督『永遠の片想い』韓国、2002

2001(この年は、ロメールの『グレースと侯爵』、ワイズマンの『ドメスティック・バイオレンス』、ゴダールの『愛の世紀』、オリヴェイラの『家路』、黒沢清の『回路』、ストローブ・ユイレの『労働者たち、農民たち』、ホウ・シャオシェンの『ミレニアム・マンボ』、ジェ・ジャンクーの『プラットフォーム』、ティム・バートンの『プラネット・オブ・エイプス』 、などが制作されましたね。)

ゴダール『愛の世紀』2001

 ゴダールの作る映画はほんとに不思議で、これほど知的で(実は知性よりも感性の方が先行しているのかもしれないけど)、これほど難解なのに(実は非常に単純なのかもしれないけど)、これほど多くの知識が必要とされているのに(ここは否定できない。どれほどの人間が何の説明もなしにレコードから流れてくる声がパウル・ツェランの詩の朗読であり、おそらくそれが詩人そのものの声であることに気づくというのだろうか)、頭で受け取らなくてはいけないような部分よりもはるかに心で受け止められる部分が多い。私がもう少し若くて、頭でっかちだったころなら、もしかして「これは映画そのものについての批評の映画だ」みたいなゴダールについてさんざん言われたようなことを真面目に考えたりするのかもしれない けれど、実はこの映画は意外なほど素直に感動できる。初期のゴダールに感じるような鼻につくような嫌みな部分をあまり感じないのがその一因かもしれない。というよりは、むかしのゴダールだったら鼻につくようなやり方が、ここではひたすら真摯な姿勢によってわざとらしさを感じさせないものになっていると言えばよいのか。
 まあ、これで初めてゴダールに接する人にはもう笑うしかないような世界が繰り広げられているのには違いないのだけれど、一軒突飛なゴダール風のモンタージュにストーリーというのは煎じ詰めれば程度の差にすぎない。それぞれの独創的な監督はみな突飛であり、ゴダールはそのなかでもとくに突飛であるというだけだ。しかしゴダールのもつ魔力というのは確実に存在する。多くの監督が独創的な作品を撮ろうとして結局は感性のかけらも感じられない凡庸でまとまりのない作品になるのに対し、ばらばらのエピソードをつなげただけのような一見ラフなこの映画は、強烈なメッセージと驚くべき美しさに満ちていて、見事に統一した世界を形成する。もうこれは計測不可能な魔力が働いているとして言いようがないのではないか。
 んが、この映画、たしかにすごいんだけれども、どうも冗談にしか思えないような部分もある。それはゴダールがほぼ自分自身の声でアメリカ映画を批判しているところで、あろうことかそこでやり玉に挙げられるのはスピルバーグなのだ。うーむ。自分の感性のよさを誇示したいがためにアート系映画をほめそやす連中には、ゴダールをほめるときにスピルバーグをやり玉にあげるのがいるという嘘のような話は聞いたことがあるけれども、それをゴダール自身がやるなんてちょっと悪い冗談でしょう、これ。確かにね、ハリウッドの連中がヨーロッパの複雑な過去をテーマにした映画を作ったりなんかして儲けているのは確かよ。で、ゴダールが念頭に置いているのはきっと『シンドラーのリスト』ね。んー。まあここでの彼の意見は、少なくとも『映画史』におけるアウシュビッツについての考えよりかは理解できる。アメリカは歴史がないから、ヨーロッパや外国に歴史を探しに行くのだけれど、それは非常に皮相なやり方で、要するに歴史そのものを捉え損なっているということだよね。歴史もなければ愛もない、と。
 言いたいことは分かる。ハリウッド映画は目に見えるものしか写さないし、語らないけれど、ゴダールが考える映画はそれとはぜんぜん別のものだってことね。そう、でもそれって常識じゃないでしょうか。わざわざゴダールが批判するようなことじゃあないと思うのよね。問題は、じゃあ映像に取れないような事柄を、いかに映像を通して語るかってことでしょ。その点で言うと、ゴダールは完全に映画史から遅れていると思うの、すでに。
 でもまあ、ゴダールが真摯に世界と向き合っているっぽいのは分かる。それに、彼がこのような問いの形でしか映画を撮れないこともまた同時に語られているように も感じる。でもそれがなんだか袋小路のような気がするのはきっと私だけじゃあないと思うのよね。確かに、袋小路の美学、のようなものはひしひしと感じるし、とても美しい映画なんだけどね、びっくりするほど。

キム・デスン監督『バンジージャンプする』(出演者:イ・ウンジュ、ヨ・ヒョンス、)韓国、2001

 うーん、オドロキの展開。ラスト近くまでイ・ビョンホンの行動が疑問すぎて、どういうことなのか合点がいかなかった。輪廻転生なんて全然信じてないし、実感もわいたことがないからかなあ。ダライ・ラマの転生なんてでっちあげだってことも知ってるしね……。まあそれはおいといて、これはちょっと変な映画。かなり変な映画。でもイ・ビョンホンにめろめろになること間違いなしの映画。劇場にはおばさま注意報がでているみたいです。次は『甘い人生』公開だしね。
 つい最近自殺しちゃってみんな悲しんでいる主演のイ・ウンジュさんもかなり気に入っていたというこの作品。確かにすごく演出が上手いです。これはほんとにすごくセンスがあると思います。短すぎるのが欠点だけど……いきなり二人で山に登っているシーンなんかがでてきたときにはビックリしました……説明ぬきで状況だけで二人の関係がわかるんですね。で、断崖に向いている二人を正面から映しながらカメラが下からずーっとあがってきて、二人の上にいってぐるっと回って後ろにいって、二人が見ていた山の光景を観客と分かち合う瞬間がけっこう短いのもいい感じだし(というか、これCGでクレーン画面から消しているんだよね? すごいや)、最後で二人がジャンプするシーンもほんの一瞬しか映さないのもいい感じです。というか、この二つのシーンは映画の中で明らかにリンクしているんだけどね。
 イ・ビョンホンの演技にはびっくりです。『美しき日々』ではクールなプレイボーイなのに、ここではじめは純真な大学生の表情をしていて、それが17年たって教師になってると、すんごいかっこいい先生になっているの。……演技だけでこんなに変わるからなあ俳優って、すごいよなあ。というか、イ・ビョンホンかわいくってかっこよくってこりゃもうみなさんメロメロになるのは分かります。わからいでか。んで、それが崩れちゃってしくしく泣いちゃうのもまたすごい。やりたい放題ですね監督さん。一人の俳優をこんなにフルに使っちゃって。これ、ハリウッド映画なら、普通にアカデミー主演男優賞もらうと思うけどな。 いまアジアで一番期待されている俳優ってのも納得できる話だわ。ヨン様なんか目じゃないと思うよ。ブームのせいだけじゃない、その真摯な本当の演技にみなさんこれからも注目していてください。おねがいよ。
 細切れの回想シーンが順不同で入ってくるのは見ている側としてはしょうしょう面倒ですが、ストーリー上は必要なことで、二人が『オールド・ボーイ』でも流れていたあの曲でダンスを踊るシーンのあの素朴な美しさは、いまの韓国映画だけが放っている光の象徴だと思いました。ま、そういうわけで、イ・ウンジュさんのことは悲しいですが、優れた映画なので、ぜひ見てください。というか、これちょっち古い映画なのに、イ・ビョンホンブームのおかげで公開されてよかったですな。

『ロード・オブ・ザ・リングス 旅の仲間』ピーター・ジャクソン、アメリカ映画、2001-2002

『ブリジット・ジョーンズの日記』製作総指揮 ヘレン・フィールディング、製作 ティム・ビーバン / エリック・フェルナー / ジョナサン・カベンディッシュ、監督 シャロン・マグワイア、脚本=アンドリュー・デイビーズ / リチャード・カーティス、原作・原案・脚本=ヘレン・フィールディング、撮影 スチュアート・ドライバラ、美術 ジェンマ・ジャクソン、音楽 パトリック・ドイル、衣装 レイチェル・フレミング、出演 レニー・ゼルウィガー / コリン・ファース / ヒュー・グラント / ジェンマ・ジョーンズ / ジム・ブロードベント / シャーリー・ヘンダーソン / サリー・フィリップス / ジェームズ・コリス / エンベス・デイビッツ / リサ・バービュシア、ミラマックス、アメリカ映画、2001

 映画ってやっぱり女性のものなんだよねえ、ほんと。短期間しか上映されないこの文化装置はやっぱりいかに宣伝されるか、そしていかに話題になるかねからというのが大ヒットの用件なんであって、そうした条件を可能にするのはやはり男性よりも女性の口コミが大きな力をもつ。んで、この映画はその口コミを最大限に利用して成功したお気楽少女漫画風ラブコメなわけ。
 だってこれ、すんごい女性の願望丸出し映画でしょ。だっておんなお馬鹿さんが知的な本(?)を出版していそうな出版社に努められるわけがないし、弁護士みたいなインテリが惹かれるわけもない。いきなり都合よくテレビ局とかに転職もできないだろうし、いきなりレポーター なんてやらせてもらえるわけもない。イギリス女性の役なのに全然そうは見えないほんとに頭の悪そうなレニー・ゼルウィガーが悪いわけじゃあないけれど(だってまわり の男はほんとのイギリス人俳優だし)、いたるところにリアリティの欠如とご都合主義的転回と、なんか不愉快で面白くもない会話と、ひきのばされるばっかしで全然進展しない恋愛話とがイライラさせる。……ダーシー氏ね、BBCテレビで本物のダーシー役をやってたコリン・ファースまでひっぱり出してきてやらせたものの、これって全然オースティンっぽくない。オースティンだったらあんなネタの引っ張り方しないもん。真実を知るのと一方を振るのと他方とくっつくのと、ドラマチックなことはすべて同時におこんなきゃいけないのが鉄則なのに。 な〜にをだらだらとやっとるんですか? 理解に苦しむなあ。98年の『ユーガッタメイル』の方がオースティンの現代版として圧倒的出来です。でも、似たような俳優とこの映画の脚本家リチャード・カーティスが監督もやった『ラブ・アクチュアリー』は素晴らしい出来でした。
 いろんなとこに中途半端なこの映画、もっと音楽も効果的に全編で使うべきなんだろうけど、さすがにプリテンダーズとか、フィフス・ディメンションとか古すぎ、『フレンチ・キス』でも使われたヴァン・モリソンのSomeone like youはいいけどね。

『シュレック』製作総指揮 ペニー・フィンケルマン・コックス / サンドラ・ラビンズ / スティーブン・スピルバーグ、製作 ジェフリー・カッツェンバーグ / アーロン・ワーナー / ジョン・H・ウィリアムズ、監督 アンドリュー・アダムソン / ビッキー・ジェンソン、脚本 テッド・エリオット / テリー・ロッシオ / ジョー・スティルマン / ロジャー・S・H・シュルマン、原作 ウィリアム・ステイグ、音楽 ハリー・グレッグソン・ウィリアムズ / ジョン・パウエル、声の出演=マイク・マイヤーズ / キャメロン・ディアス / エディ・マーフィ / ジョン・リスゴー / ヴァンサン・カッセル / ピーター・デニス / ジム・カミングス、USA、ドリームワークス、2001

 よく見ると、下の映画と出演者がかぶっていますね……。しかし、日本語吹き替えでみちゃったのでわかんないや。吹き替えっていつもつまんない(俳優の自然な演技をいかにも演技してますって感じの声で台無しにしちゃう)んですが、濱田雅功さんの関西弁(正確には?大阪弁)シュレックはかなり面白い試みだと思います。もともとがアイルランドなまりなので……ということらしいんだけど、シュレックの性格からして関西弁でよかったんではないでしょうか。秋田弁とか宮崎弁(〜だっちゃ)とかだと絶対変だし。大阪弁に違和感があったあなたは、きっと関東育ちで、大阪弁(「関西弁」というのはすごく多様な様々な方言の総称にすぎませんので……念のため)とはお笑い芸人を通してしか触れていない人ですね(なぜか断言)。まあ、そういう色眼鏡で感じられることも多い大阪弁(……「関西弁」というと大阪弁とは全然違う京都言葉も含まれるのに東京の人は変に思わないんでしょうかね。関西から見れば、東京の言葉も横浜の言葉も埼玉の言葉もみんな同じだ……ってそんなに違わないか)ですが、日本語訳はかなり自然な大阪弁(まあやはり関西には長い歴史があるのでそれだけ言葉も多彩なんですね)になっていて、素晴らしかったです。しかし変な形であれ少なくともそれとして認知されている大阪弁(だから「関西弁」っていうのは……はい、ごめんなさい、もうやめます)はまだましで、可愛そうなのは宮崎弁だ……。ラムちゃんのイメージがあまんまりに強い「だっちゃ」はほんとジョークにしかならないもんなあ。まあそれはそれとして……。
 ちょっと変なこのヒーローファンタジーギャクパロディアニメは、やはり脚本がすごくしっかりしていると思いますね(原作はこれ→)。キャラがすんごくよく描けている。んで、何より全編CGというその映像の出来。なんか変なポリゴンめいたところとかあんまりなくって、むしろ昔のアニメの雰囲気をけっこうがんばって出していたのではないでしょうか。特に赤ドラゴンとか。
 ストーリーもいい……とかそういう総評めいたコメントを書くHPではないんだってば、ここは! まったく個人的な感想を言うとだね、音楽の選曲が素晴らしい! イイイイいい! うーん、これだからアメリカ映画は好きなんだよね。特にオドロキだったのは、レナード・コーエン作曲の「ハレルヤ」がすんごい重要なシーンで、しかも曲の歌詞の意味とそこにダブラせて使っていることでした。こういうの、日本の曲でやろうとしても、なんかあんまりにも臭くなっちゃう気がするんですが……レナード・コーエンは周知のように、非霊的恋愛と宗教的な感情をダイレクトにつっくけて歌っちゃう人なので、ここではシュレックの感情や、そのシーンが伝えてくる情念を臭くならずに見事に、ある意味この映画さえも超えた地点で表現していましたね。って単にレナード・コーエン褒めてるだけになっちゃった。歌ってるの別の人なのに。ちなみにレナード・コーエン自身が歌っている「ハレルヤ」はもっと強烈でもっと感情的です。20世紀の名曲の一つと言えますね! ってそれはそれとして……
 いや、だからね、こうなんか偏屈なシュレックだけどさ、映画はなんかすんごいエモーショナルなんだよね。でも臭くなくってサラっとしている。二人の男友達にしてみても、すんごいサラっとしている。いや、確かにロバ君はねちっこいんだけど、いい意味で鈍感な行動におけるしつこさで、日本人にありがちな感情レベルでのしつこさとは全然違う。こういうキャラクターは日本映画ではぜっったいに作れないと思います。それがあの馬鹿で「善良」なアメリカの不思議なところですよな。うーん、しかしやはりロバ君のめげなさぶりにはオドロキですよ。彼なくしては物語は進まないんだけども……ある種の鈍感な率直さというのが実はこの一見ひねくれたパロディ映画のキモだと私は思います。当たり前か……
 んで、お子様も間違いなく楽しめる映画であるってことは、大人も間違いなく楽しめるってこと。とくに小学生低学年あたりの子なら、間違いなく(当社の調査では93パーセント)歌って踊り出しますね、とくに最後のカラオケで。まあ、あそこは吹き替えがないので、字幕があればよかったんだけど……。似たような話で作りとしては『グリンチ』の方が間違いなく(当社比)名作なんですが、歌って踊れるという点ではこっちのほうがノリノリ。ぜひ、その年頃のお子さんたちか、お子さんや借りてこられるお子さんをお持ちの方々は休日にみんなDVDでいいので、見ましょう。なんだかんだ言っても、子供がこんなに楽しめるってのはすごいことです、というかこんなに面白い子供向けの映画(いろいろ)を見られる 今のお子さんたちがちょっとうらやましいな……。

リード・マイ・リップス』監督=ジャック・オーディアール、脚本=ジャック・オーディアール&トニーノ・ブナキスタ、撮影=マチュー・ヴァドゥピエ、出演=バンサン・カッセル / エマニュエル・ドゥボス / オリビエ・グルメ / オリビエ・ペリエ / オリビア・ボナミー / ベルナール・アラーヌ / セリーヌ・サミー( フランス、2001)

 エマニュエル・ドゥボス扮する主人公の性格のおもしろさがすべてと言っていいへんな映画です。カメラは最近のフランス映画によくある、手持ちカメラで人の目線を追うってやつなんですが、ここではこの手法はなかなか成功していたのではと思います。主人公で恋もする女性が、聴覚障害のためか、ブスのせいか、それとも秘書という会社での地位のせいか、けっこうひねくれていて、とんでもない。求人の際に、「手がきれいな若い男性」なんて言っちゃうあたり、かなり夢見る少女なところ、あるいは初心なところもある。鏡に全裸を映してみたりとか。こうした人間の多彩な面を描くことにかけては、やはりフランス映画はちょっと優れていると思ってしまうのよね。
 ヴァンサン・カッセルもドゥボスにふりまわされるだけじゃなくて、さらなる悪の道へと誘うんだけど、そのへんの展開がやけにすんなりしていて変で面白い。で、途中ちょっと凡庸だけど、最後の話が動き出すところがこれまたビックリ。二人はかなり危ない橋を渡りながらも、愛する二人ゆえの確信をもって行動して、やっぱり最後にはそうなるんだけど、そのへんの展開だけを見るなら、ここもすんなりしている(実際はかなりオイオイ……だけど)。うーむ、やりたい放題だ。犯罪ものとしてけっこうクラシックなところもあるけれど、こうしたジャンルに新しい風を吹き込んだとは言えるのではないでしょうか。

月曜日に乾杯!(イオセリアーニ) フランス=イタリア、2001(2002ベルリン銀熊)

 ここんとこ、なぜか映画的な映画を見てなくって不満がたまっていたんだけど、この一本でよくやく満足できました。映画的な映画ってのは、映画ならではの快楽に満ちあふれている映画のことで、それはまあ要するに、ひたすら濃密な時間がその映像のなかで流れている映画のことなんですね。たとえば、ホウ・シャオシェンの映画だったら、ワンシーンにいくつもの出来事が同時に起こっていたりして、細かな出来事の積み重ねや、キャラクターの行動の豊かさが濃密な時間を形成するわけ。で、イオセリアーニ監督のこの映画では、ワンシーンのなかで同時に、というのではなくって、むしろ一つのシークエンス( この監督さんはワンショットで撮っちゃうんだけど)のなかで、カメラが動いたり、あるいは登場人物が入れ替わることによって、いくつもの出来事が入れ替わり立ち替わり進行する、というスタイルなんだけど、そういうふうにいろんな人物の日常が描かれることによって、どうやらパリ郊外であるらしい田舎の濃密な時間が映画になっているわけ。
 こういう映画に巡り会えることの幸福ってのは、なかなか言葉にしずらいものなんだけど、あえて言い表すとするならば、なんつーか、本当に豊かな人生を自分も生きている気になるというか、いや、より正確に言うと、不思議なことなんだけれども、幸福を感じる、という言い方しか、やっぱり適切ではないような気がするんだよね。ただただ豊かな時間を生きることの幸福、というようなものの。
 はっきり言って、あからさまに過剰な仕草やディティールで満ちあふれているこの映画をすべて理解するのはちょっと難しい。
蓮實さんが言っているような、この主人公がロシア亡命将校の末裔ではないのか、という指摘なんて、絶対ふつうにはなかなか気づかない。でも、そうした細かな細かなディティールや、背景がこの、ただフランス郊外の日常や仕事風景と、旅先のヴェネツィアでで主人公が出会った人々との行動を撮っただけの映画を、これほどリアルで、濃密なものにしていることは理解できる。いやはや、ほんとすごいですよ、これ。撮ろうと思って撮れる映画じゃあない。なんか、すごい古典的な手法ではあるような気もするんだけど、一種の芸となっているようなこのスタイルは、なかなか他人がまねすることができないに違いない。ほんっと職人芸です。
 主人公はセリフをほとんど言わないんだけど、それでもこいつは十分に面白いやつだ。『幸福の鐘』の寺島進がそうであったような、単なる道化回しじゃあなくって、ちゃんと主役の役割を果たしている。その子供や、おじいさんや、おばあさんもすんごい面白いキャラっぽい。何より面白くって死にそうなのが、ヴェネチアのあの侯爵。あれは監督自身が演じているらしんだよね。そして、この映画のワンシーンはと言えば、ヴェネチアで一泊させてもらって、朝でてったあとに、その同じシーンでその娘がおきて、淡々と糸をつむいでいるかなんかしていたお母さんに、「おかあさんおはよう」って言って伸びをするところ。あそこには、ぞくぞくしました。なんかこの映画が描いている幸せが濃縮されているみたい。
 もう2003年はすぎてしまったけれども、この映画は2003年のベスト10には確実に入る映画でした。こういう年季の入った味のする映画というのは、ほんといいものですね。

女はみんな生きている CHAOS( 監督・脚本コリーヌ・セロー、出演カトリーヌ・フロ、ラシダ・ブラクニ、ヴァンサン・ランドン、リーヌ・ルノー)フランス、2001年

 とくに何も言うべきことのないようなくらい、明快なお話です。女性の監督で、この邦題だからって、女の復讐、みたいな映画だって言われているけれど、そうではないよね。女性たちが自らの人生を取り戻すっていうお話で、そのからみで男が死ぬことはまあどうでもよくって、むしろ、女性たちの行動にともなった、旦那さんの心情の変化までもが描かれているのが、この映画の素晴らしい点だということは、ぜひとも言わねばならないでしょう。
 娼婦ものってのはゴダールの『男と女のいる舗道』なんかでもあったフランス映画の定番ですよな。でも、あきらかにむごいお話を、かなりコミカルなタッチで、しかもかなりの速度で語るってのがこの映画。カトリーヌ・フロは素晴らしいし、ラシダ・ブラクニは存在感があるよね。カメラは最近はやりの、デジタルカメラで手の動きとかそういう細かい動きまでカメラを雑に動かして撮るってかんじのやつで、これは私はあんまり好きじゃあない。美しいシーンを撮ろうとしないのは、いささかアメリカ映画ちっくなのかもしれん
 ああそうそう、こういうむごい状況から女性がぬけだして、それをもう一人の女性が助けて、しかも両者の間には奇妙な連帯感が生まれている、となると、日本映画なんかでこういう同じ設定で撮ると、ど〜〜〜〜〜〜〜〜しても湿っぽく、しかも女性の関係がなんだかねちっこく描かれてしまうような気がします。まあきっとそうなるだろうね。この映画ではそういうことがない。まあフランス人だし。愛なんか知らないって、娼婦の人言ってるし。でも、それでいいんです。それを肯定するのがこの映画なんです。だから最後のシーンでみんながベンチに座ってるだけで、よいのですね。 
 ラシダ・ブラクニはホントにbeurette(アルジェリア人を親に持つフランス人)で、弁護士になりたくて、弁護士をするには演劇とかできたら役に立つだろうと思って、演劇学校に通ううちに、ラシーヌとかシェイクスピアの作品にであって、この職についたらしい。なんだかこの役にぴったりの人だよなあ。この人、いまフランスで最も注目されている女優みたいだね。
 しかし大変笑える映画です。多少ブラックだけどね。でも、多少あざといところはある。男性は全員コミカルなキャラでしかないし、体制=男性という図式も今ではありえない。娼婦が育てられた家庭がイスラム教で偽善的だというふうに描くのも、まあ実際そういうことがたくさんあるにしても、ちと今のフランスの状況からすると微妙な問題をはらむでしょう。まあ、あちこちで、あんまりにも典型的で図式的な人間の書き方ってのが目立ちはします。そういうことなんか考えると、私は、やはりゴダールの映画は素晴らしいと思いますね。でもまあ笑えたコメディでした。

氷海の伝説ザカリアス・クヌク) カナダ、2001

 映画史上はじめてのイヌイト映画。キャストもスタッフもほとんどイヌイト人で、映画で使われている言葉もイヌイト語。そして映画の内容は、今から千年前ぐらいが舞台の、イヌイトに伝わる伝説というもの。このことがどういう事実を伝えているのか、ということがまず面白いのであるのです。
 まず、今のカナダのイヌイト人は、ここで描かれているような生活はまったくしていなくて、木造の住宅に住み、アイスモービルで駆け回り、ケーブル付きのテレビでプレイステーションかなんかをやっていて、キリスト教を信仰していて、英語を母語としている。この映画のイヌイト人はほんとに冬は氷の家を造ってアザラシ猟に行き、白夜の夏はテントを作って卵をとったり鳥をとったりして暮らしている。このへんの生活の再現は努力のたまものだろう。なんせもうそんな暮らしをしている人なんていないから、文献や長老とかに聞いたりして苦労して再現したのだからね。
 で、そうしたイヌイトの伝統的な生活が絶滅しかかっているときにこの映画が撮られた理由はもうお分かりでしょう。イヌイト人たち自身が自分たちの今の状況に危機感を抱いて、こうして映画にその伝統を保存しようとしたわけ。この映画が何よりも伝えてくるのは、そうしたイヌイト人の危機感なのです。
 この映画、ほんとによくできてるんだけども、よくわからないところも多かったです。シャーマンやら呪術やらが普通にいる世界のお話で、なんかそのへんの超常現象がそうなのだってことがよくわからなかったの。これは思うに、映画製作者たちがそうした特異なイヌイト人たちの内面とか世界観をうまく映像にできなかったんじゃないのかなあ。
 だから単純に、イヌイト人たちによるイヌイトの映画だといって、これを無条件に賛美するってのはちょっと複雑な問題だと思う。そう賛美できるのは、イヌイト語の映画ってことだけじゃなくて、 (そんなの今やありえないと思うけど)独自なイヌイトの美学や感じ方で撮られた映画が創られたときでしょう……。何にしても、現代のグローバリゼーション化とそれに対する危機感とをよく伝えてくれる作品ですね。はい。

名もなきアフリカの地でNirgendwo in Afrika監督=カロリーヌ・リンク)、ドイツ、2001

 二次大戦中にアフリカにのがれて生活していたユダヤ人一家の物語で、2003年のオスカーの外国語映画賞なんかを受賞した。期待して見に行ったんだけども……
 これは……失敗作というやつじゃあないのか? なにもかも中途半端な描写で、なにも語られていないも同然なかんじ。ほんとに何一つ。ケニア人についても、ユダヤ人についても、レギーナの成長についても、彼女のアフリカ人の男友達についても、ケニアのイギリス学校についても、農場についても、イエッテル(ユリアーネ・ケーラー)についても、ああもう何一つ。なんすか、これ。ウワーン全然なっちゃいないよこの映画。
 この監督、なーんにも考えずに、原作読んだだだけでこの映画撮っちゃったのか?と思わせる。ユダヤ人の二次大戦中の苦悩の描き方にしてもものすごーく安易で、この苦しみを夫婦は愚かにもお互いへの憎しみに置き換えるだけなので、どうもばかばかしくみえてしようがない。イエッテルについて語ろうとしているにもかかわらず、キャラクターがまったく生き生きしてこずに、なんかもう安直きわまりない。こんなんじゃあ演技もしようがない。それに隣人役のマティアス・ハービッヒなんかもぜんぜんいいと思える演技をできていないのには驚くばかり。せっかくいい俳優(らしい)を使っているのにこの脚本じゃあねえ……。唯一の光は子役のレア・クルカがかわいいことだね。
 これがオスカーをとって、日本でもそこそこ観客受けしているのは、なんといってもそのテーマにある。なんつーか、ユダヤ人の苦悩だの、ヨーロッパ人とアフリカ人との交流だの、まあなんか政治的に受けそうなテーマではあるのよ。 いや、うがった見方をすれば(そううがってもないけど)ユダヤ人が主役になっていたからオスカーが取れたのだろうなあ。でもだらだらと長いだけの映画である、というのが私の結論です。この監督は、受ける企画を作るのが上手いんだから、今度からはプロデューサーになったほうがいいと思われます。映画的な楽しみはあんまり味わえませんが、ハリウッド的な娯楽作としてみれば、まあなかなかいいと思えるかもしれません。

神に選ばれし無敵の男(Invincible)( ヴェルナー・ヘルツォーク) ドイツ=イギリス、2001。

 あんまり映画を形容する言葉は持ち合わせていないのが残念なんだけど、この映画にぴったりの形容詞といえば、まず「重厚な」という貧しい言葉しかでてこない。重厚で、見事な映画。筋よりも、テーマ、演技で攻める作品です。
 ティム・ロスという実力派に素人二人をぶっつけたというから、あんまり期待してなかったんだけど、これが、よかった。たいへんよかった。ティム・ロスはすごすぎる。嘘くさいけど真剣で権力欲につかれた(催眠術を使うってのがその権力欲の上手い象徴になっているのだけどね)詐欺師っていうのがはまりすぎています。戦慄をおぼえるほど完璧な演技でした。「私のおしり〜」という場面がすごくよくて、見事に狂気を演じてましたね。これは監督がいいのだけども。主役の彼ももちいいよね。なんか純朴そうな青年すぎる。アンナ・ゴラーリは演技はあんまりしてないけど、表情がすごくよかったです(してるのか)。何より、ピアノが、上手いというよりは、すごいなあと思ったら、本物のピアニストだった。本物だからすごい、というよりは、この人だからすごいというピアノを引いていて、感動しました。いや、本物だからこそああいうピアノを弾くのか。これは、こんなに音楽を感動的に弾いている映画ってちょっとお目にかかったことがないです。
 で、もちろんこの監督が描きたかったのは、二人のユダヤ人の物語。過ぎ越しの祭とか、会話とか、そういうのがよく撮れていて、さすがですね。正しきユダヤ人、というお話は、キルケゴールを思い出せます。これは、そういう、 「二人」の「正しき」ユダヤ人の話しなんだと思います。ちなみに、チェコのユダヤ人ってのは、カフカもそうだったけど、徹底的に社会的な弱者で、ユダヤ性を捨ててチ ェコ人化しようとするユダヤ人も多かったところなんですね。そういうところで育ったからこそ、ああいう認識と欲望にとりつかれてしまうのでしょう。
 Invincibleという原題になっている単語には、神学用語として、Invincible ignoranceという術語があって、これは自分ではどうにもならない無知、不可抗力的無知、つまりは人間にとって必然的な無知という意味なんだろうけど、こっちの意味のほうがこの映画にとっては重要なのかも。ユダヤ人の自らの運命に対する無知と、それに対比される無敵の(かつ運命を悟った)男。どちらにも同じ単語がかかわるというのは、とっても不思議。

少女の髪どめマジッド・マジディ)イラン、2001。

 恋をした相手を見つめ、その人に近づいたり、物を受け取ったり、何かと親切にしようとする瞬間を心待ちにする。それは息苦しい思いにとらわれている時間であると同時に、また官能的な時間でもあるのだけれども、そうした濃密な時間をフィルムに撮るだけで、映画はできてしまうだろう。いやいや、この映画はイランに出稼ぎに来ているアフガン人たちの貧しく苦しい現実をもきちんと描いているのだけれど(この映画は9.11以前に制作されている)、これが『カンダハール』のようなメッセージ色が強い映画になっていないのは、まさに恋の映画だからなのである。
 無償の恋というテーマで似たものにはもちろん『シャンドライの恋』があるのだけれど、こちらはひたすら押さえられた恋の感情の描き方がすばらしい。少女だとはじめて分かるシーンで、髪だけが影になって映っているシーンのすばらしさ、そしてはじめて少女が見せるわずかな心の動揺を捉えたシーンに、化粧をしていてまったく見違えた少女に少年自身も気づかないシーンの見事さ、ほんとにこの監督は映画の撮り方をよく知っている。
 前の二作と違って工事現場といった殺風景なところが舞台だし、愛くるしいと言えるような子どもたちも出てこないので、この監督の撮る対象の代わりぶりにびっくりしたけれど、そういえば、運動靴……も貧しい子どもたちの現状をユーモアに包んで描いたものだったし、太陽は……も盲目の子どもといったリアルなテーマがあったのだ。美しい風景と子どもを撮るだけがイラン映画ではないのは当然だけど、あの事件をさかいにこうした、今まで日本では公開されなかったような映画が公開されるようになる(しかもシネマライズというちょっとおしゃれな映画館で!)のは皮肉なものである。
 ところで、この映画に出てくるイラン人たちはトルコ系(アゼリー人)で、しゃべるのもトルコ語。アフガニスタン人はダリー語というアフガニスタンで使われるペルシャ語を話しているとのこと。アフガン人はトルコ語がわかるけど、イラン人はペルシャ語が分からないみたい。うーん、複雑。
 最後のシーンで(イラン映画に特徴的なものだけども)雨がざーとふるなか、少女の×○(……秘密)が映されて終わるのはなんとも素晴らしい。これ以上のラストはあり得ないと思われる。脱帽だす。

カンダハールマフバルバフ)イラン、2001

9.11.後の無批判な絶賛の後これを見るとたしかにいかがわしい映画に見えるのだし、これがマフバルバフの映画のなかでも出来がいいほうでもないのだろうけれど、しかしいったいなんのか、この映画は。と思っていたら批評空間のホームページに評がのっていました。(『カンダハール』:いかにもいかがわしく、かつ極めてリアルな映画/橋本一径)しかしマフバルバフって映画評論家には受けがわるいよなあ。と言うこの私もキアロスタミのほうが好きなのは事実だけど ね。

少林サッカー(チャウ・シンチー)香港、2001

 みなさんご存じの、日本ではWCにあわせて公開されて大ヒットしたアジア映画。日頃アジア映画なんてみない人にもこの映画を見させた配給の戦略は素晴らしいです。いや、むしろこういうばかばかしい映画が、日本人が抱いているばかばかしい香港映画という少し懐かしいイメージにぴったり合致したというだけの話かもしれないけれども。その証拠に……まあいいや。
 ウォシャウスキー兄弟(ホウシャウシェン、みたいな名前だよな、つくづく)のMATRIXがブルース・リーへの言及をしていたっつうのは、アメリカ映画にしてはけっこう珍しいことだと思うんだけど(だいたいハリウッド映画って銃のうちあいはあるけど、拳法系のマーシャル・アーツはあんまりないもんね)これがこの映画を作りだすきっかけになったのはきっと、間違いないでしょう。チャウ・シンチーはすっごくリーファンで、今までの監督作でもよく引用していたんだって。でも本格的に少林をテーマに作ったのはこれがはじめてらしい。
 映画におけるリアリティっつうのはまあ実はいろいろあるんだけれども、このまったくCGづくしの映画にもリアリティはある。これはね、少林は素晴らしい、ゆえに中国文化は素晴らしい。ブルース・リーは素晴らしい。ゆえに香港映画は素晴らしい。っつう、ちとナショリスティックなメッセージが込められているわけ。最後のチームが、アメリカのドーピング薬をつかって、少林チームに対抗していたこと、敵役の男がいかにもアメリカンな生活と服装、それに葉巻をいつもくわえていたこと、などからもこの映画のメッセージは明確だよね。それに、主人公の兄弟たちがみなほとんど貧しい生活をしていたこと、それが少林正法によって自信をとりもどすことなど、アメリカ式の生活にすっかり民族としてのアイデンティティを失いつつある彼ら(唯一まともな職についていた人だってその一人)が、自分の文化に誇りをもつことによって自信を取り戻すっていうストーリーになっているわけだし。とはいえ、ただそれだけでオメデトウってわけじゃあない。だって、彼らが誇りをとりもどすのは、ヨーロッパから伝わったサッカーによってなんだし、この映画だって、ハリウッドの馬鹿映画がお得意としてきたCGをこれでもかっていうぐらいに使っているわけだしね。サッカー+CGだからこそ、映画もヒットしたわけだし。そういう矛盾点からも、アジア映画がおかれている立場っつうのが、痛切に感じられるわけでして……
 USAではこの映画をリメイクじゃなくってそのまま公開することにしたんだけど(そもそも、あっちでは全部ハリウッド映画にしなきゃ気が済まないから、外国の映画をそのまま全米で公開するってことが少ないらしい)、なかなか公開しなかったんだって。それはまあ、あちらでは大統領も全盲だっていうほどだから、字幕を読むことができる人が少ないってのもあるんだろうけど、この映画が発する、中国文化万歳、アメリカくそったれ、みたいなメッセージがいやだったんだろうね(でも公開を延期しているうちにファイル交換ソフトでたくさん出回っちゃったから公開に踏み切ったのかもしれない)。なんせむこうでは、正義のアメリカ人は世界中で愛されていて、イラクでもアメリカのすばらしい占領政策は何の問題もなく進んでいるっていう情報しか流されていないってことだから、いきなしこういう映画を見せつけられるとパニックになって、逆ギレされかねないし。んで だいぶ元の話に戻ると、この映画のリアリティっつうのは、USAに感じているコンプレックスっていうのと、実際複雑な状況とを、この映画がとてもよく反映しているってこと。フルーツ・チャンなんかはそのへんをかなり意識していて反省的ですらあるんだけども、この映画ではそういう感情がかなり無邪気なかたちで、ほとんど自然にあふれてきているって感じだから、なかなか爽やかですね。しかしそれにしてもやはり、ブルース・リーは偉大だってことだよなあ。

ホ・ジノ監督『春の日は過ぎゆく』(出演=ユ・ジテ、イ・ヨンエ ) 、韓国、2001

キム・キドク監督『悪い男』韓国、2001

チョン・ジェウン監督『子猫をお願い』韓国、2001

『ドニー・ダーコ』2001

ジョニー・トー『フルタイム・キラー』()香港、2001

『モンスターズ・インク』2001

『マルホランド・ドライブ』2001

『ヒューマンネイチュア』2001

『ゴースト・ワールド』2001

『アイリス』2001

『フロム・ヘル』2001

『アメリ』2001

『ハムナプトラ2/黄金のピラミッド』2001

レス・メイフィールド監督『アメリカン・アウトロー』2001

グレースと公爵 (2001/仏)

DV-ドメスティック・バイオレンス Domestic Violence 2001(195分)

愛の世紀』2001

家路』2001

回路』2001

猿の惑星』2001

ジョン・カーペンター『ゴースト・オブ・マーズ』2001

2000(深作欣二の『バトル・ロワイヤル』、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、イーストウッド『スペース・カウボーイ』)

労働者たち、農民たち (2000/仏=伊)

ジャ・ジャンクー監督『プラットホーム(製作総指揮 森昌行、製作 リー・キットミン / 市山尚三、脚本 ジャ・ジャンクー、撮影 ユー・リクウァイ、音楽 半野喜弘、出演 ワン・ホンワァイ / チャオ・タオ / リャン・チントン / ヤン・ティエンイー) 中国語映画、193分、2000

 中国の第六世代の監督が山西省の汾陽という田舎町を舞台に語る中国激動の10年間……。という話で第五世代だと『覇王別姫』みたいなのを思い出すのですが、そこは第六世代、全然語り口が違います。と言うか、これを見て第五世代の作家たちは自分たちの時代が終わったことを悟ったでしょう。なんせ舞台はど田舎、劇的な事件はぜんぜん起こらない。ただはやっている歌が代わり、人々が年を取り、主人公たち旅芸人の出し物が変わるだけだ。しかしその変化の中に主人公四人たちの心情の変化を言葉少なに描いて、彼(女)らの空虚な気持ち(時代は明るくなったように見えても実際の社会は昔と変わらない……あるいはよりひどくなっている)を私たちにも十分伝えているというところが素晴らしい。第五世代の監督が描く社会はそれだけで十分劇的で訴えてくるものがあったが、ジャ・ジャンクーはむしろ平凡な社会を描くことによって、そこに生きる人々の気持ちをあぶり出す。こういう映画が撮れる人はあまりいないと思う。
 さて、私が何より素晴らしいと思ったのが、地方巡業をするようになった仲間たちと離れて、一人町の役所で仕事をするようになった瑞娟の存在だ。彼女は踊り子だったのだけど、仲間と別れた彼女は一人役所で新しい音楽で踊るのだ。、そのシーンの なまめかしさとせつなさといったらちょっとただごとではないですよ、あなた。そして彼女に好意を持っていた仲間の一人との再会のシーンは、彼と彼女がむかし逢い引きをしていたシーンと同じような構図で撮られており、その痛々しさがよりきわだっている。大人になった彼らが「ジンギスカン」で気力なく踊るシーンも、むかし同じ曲でより生き生きと踊っているのと対比される。こうした視覚的な対比によってより映画のメッセージは 強調されているのだけれど、セリフを用いて彼らの心情を直接は語らないだけにちょっと難解だが、しかしそれがこの映画の何より素晴らしいところなのだ。
 というわけで、今日の映画と呼ぶにふさわしい傑作だけれど、逆にこの映画を楽しめるかどうかがその人の映画的今日性を試してしまうという恐ろしい映画でもある。と、ここで脅しても意味ないよね、ごめんなさい。ただ、『覇王別姫』や『青い凧』は素晴らしいけれどもどこか不満だ、と思うような人はこの映画に出会えたことを感謝するでしょう。

ウォン・カーウェイ『花様年華』()香港=フランス、ビスタ、85分、広東語、2000

 ウォン・カーウェイの映画ほど、はじめに見たときとあとで見たときの印象ががらりと変わる映画は私にとってあまりないのではないだろーか。一見目はあまりにスタイリッシュな人物の撮り方がいささか鼻につきつつも音楽の優美な使い方とかに陶酔しちゃって、あんまり画面で何が起こっているのかを見ることができないの。でも二度目に見たときは伏線やら人物の抑制された感情の変化なんかがはっきり見えてくる。
 まあ、そういう監督なので、好き嫌いは別れると思う。何しろ、今までのウォンとは明らかに違う撮り方をしていて、テーマも違う(?)からねこの映画は……。でも、大人の魅力むんむんのレオン君とマギー・チャンさんが見られるってのはウォン監督ならではなのよね。ずっとこの二人をとり続けてきた監督はえらいです。
 なーんか豪華でスタイリッシュな俳優たちがスタイリッシュな映像に映っているので、カーウェイ監督というのは案外古典的な映画の美学を愛する監督なのかもしれないなあ、と思いました。これは、マギー・チャンの豊かな中国女性の身体が強調されて映っているからそう思うのかもしれない。なんか古い西洋映画みたいだって。いやいやいや、でも今回はカメラに、リー・ピンピンがはいっているでしょ。この人がこの作品では主に采配をふるってると思うのね、カメラは (事実はどうやら途中で病気のためかなんかでドイル氏からピンピンさんに交替したらしい)。だって、二人が別々の部屋で音楽を聴いている場面がワンカットで取られているところなんて、ホウ・シャオシェンの映画にあってもおかしくないもの。たいてい固定された位置からわずかに動きつつ室内を取るという手法は彼のものだろうし。これはけっこう好きなんです。それに、こういう落ち着いた撮り方が大人の話であるこの作品にふさわしいものだろうしね。
 いったいどころからが練習でどこからが本気なのか、二人の関係はあやふやだけど涙に満ちている。なんかすごい設定だよね。まあ、これにどれぐらい共感できるかってのがその人がこの映画に対してもつ尺度になるのですが、同時にこの映画がその人に対してもつ尺度でもある。二人の演技はほんとに素晴らしい、というか二人ともいい役者になりました。あと音楽も心に残りますよね。 最後のシーンもすごい衝撃的です。んで、オ気づきになりましたか、あなた。トニー・レオンがとまっていたホテルの部屋番号が2046だったことに……。新しい 特典付きDVDではこのへんの謎も語られているみたいです。ほすぃな。

ポン・ジュノ監督『ほえる犬は噛まない』韓国、2000

『魚と寝る女』監督=キム・キドク、韓国、2000

チベットの女−イシの生涯(Song of Tibet)(シエ・フェイ)、中国、2000

 「第四世代」と呼ばれるシエ・フェイによる最後の監督作品らしい。なんと映画史上二番目というオールチベットロケで、もちろんチベット語による本格的中国製チベット映画。そう、チベットがなんとも映画的な舞台であるだろうことはチベットロケではない『セブン・イヤーズ・イン・〜』においてでさえ、我々はそのことを想像することができたのだ。そのチベットが、いままさに、そのものが、ああ我々の目の前に……。……というのはちと大げさすぎるんだけど、まあなかなかチベットの風景が美しく撮られていて、それだけでも見る価値はある(この風景のために旅させられるイシは悲惨だが……)
 お話としては古典的で、農奴の生まれで、歌が抜群に上手かったイシという女性が三人の男たちと関わって、でも一人の男とだけ人生をともにして生きてきて……という愛と人生のお話。ちと気になったのは、室内でもカメラが左右に動くのがわざとらしかったんだけど、そのへんのダサさが第五世代と違うところと言ったら怒られそうだな。でも、誰でもそう思ってしまう「クラシックさ」(と言っておこうではないか)がこの映画にはある。でもま、チベットってもっと映画が撮られてもいいところだなあ、と思わせます。実際には、中国による検閲とかで厳しいのだろうけど。この映画もそうとうあちこち引っかかったみたいで、当局の意向による編集もなされているのだろう(それがモロに出ているところはすぐに分かるんだけどね)。
 ちなみに、原作は有名なザシダワ。この人はマジックリアリズムの作家らしい。そゆわけでこの映画、かなりいいスタッフによって作られているんですねー。監督のインタヴューでも読んでみて下さい。

『ウォーターボーイズ』矢口史靖(日本、2000)

これは予告編をよく映画館で見ていて、ちょっと気をひかれていました。が、なんだか色物っぽいし、はずかしそうだしで、映画館に足を運ぶことはなかったのでした。しかし、まさにそのころ、この映画を上映している館では、何度もこの映画を見に来ている観客たちが挿入歌を一緒に歌ったりしていたのでした。ああ……これを見に行かなかったことは映画好きとして一生の不覚。さて、この映画のワンシーンといえば、学校が火事になって急いで駆けつけたところに、校門近くで「火事だ火事だ」なんとか言いながら踊っている三人の子どものシーンです。あれは何なんでござんしょうか? しかしそんな遊び心があふれていて、なおかつ笑いのツボを職人芸的に押さえたこの映画はひさびさの気持ちいい傑作でした。映画だからこそできることをできるだけやろうとしているのは、制作者たちに映画への愛情があふれているからですぞ。

ケネス・ブラナー『恋の骨折り損』Love's Labour's Lost(製作総指揮=ガイ・イースト、アレクシス・ロイド、ナイジェル・シンクレア、ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、製作=デビッド・バロン、ケネス・ブラナー、脚本=ケネス・ブラナー、原作=ウィリアム・シェイクスピア、撮影 アレックス・トムソン、音楽=パトリック・ドイル、出演=ケネス・ブラナー / アリシア・シルバーストーン、ナターシャ・マケルホーン / アレッサンドロ・ニボラ / マシュー・リラード / ネイサン・レイン / エミリー・モーティマー / カルメン・イジョゴ / ティモシー・スポール / エイドリアン・レスター / ステファニア・ロッカ / ジミー・ユイル / ジェラルディン・マクイーワン)英=米、2000

 これはシェイクスピア劇を大胆に現代風にアレンジした映画ですが、同時に昔のアメリカン・ミュージカルへの賛歌に満ちた映画でもあってついニコニコしながら見てしまう。じつはケネス・ブラナーがミュージカルを撮るのははじめてなんだって。そもそもシェイクスピアの戯曲にはしょっちゅう歌や詩が挿入されて、誰かが歌い出すことが多い。でもそれを、こんな現代風のミュージカルにして、しかもシェイクスピアの戯曲の面白いところをうまく拾い上げて映画にするとは、ケネス・ブラナーという人は本当にシェイクスピアの魅力を知り尽くしてるなあ。だって、シェイクスピアの気の利いたセリフが矢継ぎ早にくりだされたと思ったら、ガーシュインやバーリンらの往年の名曲が歌われ出すし、踊りの下手な俳優たちが精一杯に踊り出す。それはもう唐突で滑稽で馬鹿馬鹿しくて楽しくて愉快なのです。とくにいいのは、お年寄りの二人が歌い出して、ついでにつきあい始める一連のシーンで、恋の滑稽さと愉快さがとっても見事に語られる。
 シェイクスピア作品の中でもきっとあまり読まれていないであろう『恋の骨折り損』を、この映画で入門がてらに楽しんでみるというだけでは、ちょっともったいないほどてんこ盛りの映画だ。もちろんセリフは素晴らしいので、聞いているだけでうっとりしてしまう。男友達のアンサンブルも素晴らしい。そうか、いっつも女性がきれいな映画をブラナーは撮るけれど、この映画で思い出すのは男優人のよさなんだよね。そゆうわけで、『タイタン』とは違って女性にも絶対おすすめの映画です。

ツイ・ハーク『ドリフト』Time and Tide(製作 ツイ・ハーク、脚本 コーン・ホイ、撮影 コー・チュラム / ハーマン・ヤウ、音楽 トミー・ワイ、出演 ニコラス・ツェー / ウー・バイ / アンソニー・ウォン / キャンディ・ロー / キャシー・ツイ / ジョベンティノ・コート・リモティギュー)香港、2000

 うわあ、ツイ・ハークって人気ないのかあ。ジョン・ウーなんかはハリウッド資本で撮っているから拡大系ロードショーなのに、香港映画はアクションものでも単館系なのね。まあ、ツイ・ハークってジョニー・トーと比べてもビックじゃないしなあ。でもこの監督の撮る作品、ほとんどのハリウッドアクション映画よりはるかにレベルが高いとゆーのは、いったいぜんたいどーゆうことなんだろーか。うーむ。

『トラフィック』2000

『メルシィ!人生』2000

『ハイ・フィデリティ』2000

『グリンチ』2000

『おばあちゃんの家

二重スパイ

ガン&トークス

パイラン

『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』、

  幼くって可愛い姉妹がひたすら活躍する映画です。もうそれだけでも十分だと言えますね。

マグダレンの祈り』(2002ベネチア金獅子)「カトリック」って恐ろしいぞ特集その二号!

ニューオーリンズ・トライアル』(ゲイリー・フレダー)

コンフィデンス(ジェームズ・フォーリー)

イン・ディス・ワールド(ウィンターボトム)(2003ベルリン金熊賞)

フリーダ()

『テヘラン悪がき日記』

ラブストーリー()、レビューはここ

オアシス()

めざめ(デルフィーヌ・グレーズ)

マスター・アンド・コマンダー(ピーター・ウィアー)

アダプテーション()

ひめごと()、シャンテシネ

連句アニメーション 冬の日()日本、、

美しい夏キリシマ()日本、2003、

『息子のまなざし』()、

『愛の世紀』

『家路』

『回路』

『猿の惑星』

イーストウッド『ブラッド・ワーク』

北野武『DOLLS』

『ゴースト・オブ・マーズ』

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