野田秀樹の劇について少し

 

 この世には二種類の人間がいる。野田の芝居を見ずに墓にはいる人と、そうでない人だ。

 野田秀樹の芝居の特徴は、何よりも現実とは別世界としての「舞台」を作り上げる能力にある。野田の舞台は特殊な空間で、言わば神聖な場として現われてくる。セリフ、動き、照明、音楽と、どれもが日常とは別世界を作りだすために使われる。他の演出家の舞台ではそのようなことはめったにない。普通は、観客席と舞台とは地続きの「現実」に属している。そこでは観客と俳優は、見る人と演じる人という違いはあるが、同じく虚構のものを虚構のものとして扱っているにすぎない。

 しかし、野田の舞台はまるで能の舞台のように全く別の時間が流れ、観客が属する世界とはかけ離れている。それはなぜか。ひとえに野田の演出が極度に抽象性を重んじることからくる。例えば『パンドラの鐘』では、舞台の上から土砂が降ってくる、という設定なのだが、これを蜷川は実際に大量の土砂を劇場に運び込んで演出していたのに対し、野田は紙切れで土砂の代わりにする。あるいは『カノン』でタイヤをバイクに見立てて運転したみたりと、簡単な代替物によって実際の物とすることが多い。考えてみればこれは、能や狂言においてもシンプルな単一の道具(扇子や棒)で様々な物の役割をするのと同じだ。

 野田の芝居には日本の伝統的な演劇の要素が大いにとり入れられている。シンプルな小道具、切りつめられた大道具、そしてできるだけ身体を使って物事を表わそうという姿勢などだ。こうした演出によって、野田の舞台は抽象的な異空間を作りだす。観客は大いにその想像力を駆使して芝居に参加していくほかはない。

 また、俳優の使い方も立体的で、ただ現実的な動きをするだけではない。まず特徴的なのは、俳優がひたすら動いていて、セリフも動きながら言うことなのだが、そうした躍動的な舞台づくりにはもうひとつ別の要素がある。というのは、大勢の人間を使って背後でダンスのような動きをとらせ、表で言われているセリフや行動に不思議な色彩を与えていることだ。どの場面も美しく印象的だし、ひとつの場面だけをとりだしてみても笑えたり楽しめたり泣けたりするのが野田誕生以来の特徴なのだ。

 観客との交流が野田の芝居の大きな特徴だ。野田の芝居を見てすぐに気がつくのは駄洒落やユーモアやジョークなどの笑いの要素がとても多いことだ。この「笑い」の効果は、観客との即時的なやりとりを可能にする。俳優が言葉遊びを言って、観客が笑う。このやりとりはまるで漫才のようだ。笑いを生み出す「間」がとても上手いのだ。蜷川版『パンドラ』では、この間が下手くそで残念な思いをしたものだが、これはそう簡単なものではないのだろう。

 こうして観客と舞台との間に一体感が生まれる。しかもこれは芝居が始まってすぐに開始される行程だ。初めはものすごい勢いで人が動き回りしゃべりまくり笑いを取りまくる。完全な躁状態に観客は巻き込まれる。想像力が要請されるゆえに、観客はますます芝居の中に入り込んでいく。舞台の雰囲気が次第次第に劇場全体を包み始める。劇場全体が祝祭の場と化す。もはや芝居を眺めているのではなくて、参加し、創造しているのだ。

 観客の想像力が最大限に酷使されなければならない理由はほかにもある。野田の芝居はあまりに複雑なのだ。ぼーと見ている観客の思考スピードなど軽やかに追い越して芝居は進んでいく。『パンドラの鐘』では、長崎の遺跡を発掘している昭和初期の日本と、古代長崎の女王と墓堀男との恋物語が瞬時に入れ替わり立ち替わりで演じられる。長崎では考古学の教授と助手が棺の残骸を見つけ、やがて次々と世界中の財宝を発掘していく。古代王国では、国王の棺を埋葬しようとしていた墓堀職人がその棺が空であることを知ったため、新しい女王に死刑にされそうになるが、「みずを」は女王の愛を強引に勝ち取り命拾いする。未来では巨大な鐘が発見され、その中には一人の女性の死体が見つかるが、それはどうやら女王だったらしい。さらにその鐘の内部に解読できない文字が刻まれているのを発見する。発掘作業にはアメリカ人女性(蝶々夫人)がかかわっている。どうやらアメリカがその鐘の秘密を守りたがっているらしく、助手の成果を横取りして真実を暴こうとする教授を口封じしようとする。だが教授は狂気のふりをして危うく難を逃れる。過去では、権力を握った「みずを」がひたすら戦争をしては略奪し、国の戦死者を埋葬するたびに戦利品であった鐘をつかせ、やがてその鐘をならす回数が頻繁になるにつれ、民衆はその意味を分かってしまう。そして陰謀が企てられ、女王と「みずを」を失脚させるため、死んだことにされている気が狂って兄王が引っぱり出される。それは未来では気が狂ったふりをしている教授なのだが、その狂王が「もうひとつの太陽」をこの国に落とすという他国からの宣戦布告の書状をもっていたことが分かる。クーデターは失敗し、女王は鐘に書いてある文字が「もうひとつの太陽」の作り方であることを知る。そして過去と未来が出会い、「みずを」はその名の由来を思い出す……。このように、ひどく入り組んだ筋のうえ、過去と未来の入れ替わりが頻繁かつ瞬時に行なわれるため、観客は必死にならないと劇についていけない。

 芝居のクライマックスが訪れるのは、はちゃめちゃな躁状態が静まり、今まで舞台で動き狂っていたたくさんの俳優たちが突然姿を消して主人公一人だけになるときに訪れる。そのとき、俳優は恍惚となってモノローグをはじめ、人生についての詩的で感傷的な言葉を高くふるえる細い声で語りはじめる。ものすごい速度でぐちゃぐちゃに流れていた時間はとまり、人物の内面が一気に吹き出る。それはまるで萩尾望都の漫画で、突然登場人物が幻想的だが暗示的な背景をバックにモノローグをするときに似ている。そして萩尾望都と同じく野田秀樹のモノローグも、人の内面が宇宙に通じている、あるいは人の内面が宇宙をつくっているという印象を強く与える。野田劇の主人公は宇宙を持っており、そのスケールが物語の大きさと平行している。ここで劇全体が一人の人間の内部に入り込んでいくのだ。凝縮される生の宇宙、深みに降りていく物語。今までのテンポや展開との落差に、観客はほとんどめまいを覚えるだろう。こうして物語の全貌がとてつもない大きさと深さをともなって明らかになってくる。

 ちなみに、野田はNODA・MAPをつくるまでは主人公をほとんど自分で演じており、モノローグも当然自分でしていたのだが、やはり野田の芝居のモノローグは野田自身がするのが最高だ。野田自身がとても魅力的な俳優であるのは当然のこと、劇そのものがやはり野田のなかにあるからなのだろう。逆に、野田が脇役になると主演役を喰ってしまって、少し邪魔な存在になってしまいがちだ。『ローリング・ストーン』ではひさびさに野田自身が主人公になっている貴重な作品だ。まだまだ若い野田さんに是非ともまだまだ主演役をやってほしいものである。

 最後に。やはり芝居はテレビでは見ることが出来ない。三次元の世界、俳優が実際にその場にいるという臨場感はテレビではとても再現できない。劇場ではよく響く野田の声も高いせいか、テレビではあまり聞き取ることが出来ない。そして何より、観客と舞台が一緒になって盛り上がり、芝居に包まれていくその雰囲気と恍惚感をテレビで味わおうとすれば、超人的な集中力と想像力が必要になってくるだろう。テレビで見れば『パンドラの鐘』も野田版よりも蜷川版のほうがわかりやすく、よく見えるかも知れない。しかしはっきり言って、劇場での観客の反応は相当違っていたし(蜷川の方では寝ている客がいた!)、その雰囲気こそが劇を楽しむ上では欠かせないものだ。それは映画館で映画を見るというのといくらか似てはいるがやはり違う。野田の芝居を生で見るのはとても疲れるし、チケットは取りにくいのだが、それでも、観客のほとんどが感動し涙を流し芝居に包まれてる劇場で野田の芝居を見ないことには、この時代の日本で生きている意味はない。

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