子どもを殺す−こわれ続ける世界のために

萩尾望都試論その1

「死ぬことが意味するのはこうだ。死んだ、君はすでに。記憶にもない過去のなかで。君のものでなかった死を、したがって君が知りもせず生きもしなかった死を、しかし、その死の驚異の下で生きるよう呼びかけられていると君が信じる死を……ひとは、自己のうちで(他者のうちでも)幼児(インファンス)を殺して初めて生き、かつ話すのだ。だが幼児とは何か?」ブランショ

 私があの子を殺したのだろうか。きらきらとゆらめく乳白色の水の中で夢みていた子どもをばらばらにしたのだろうか。美しい無垢な世界もまだ知らないあの子を私の命と引き替えに殺したのだろうか。あれから私は言葉を、世界と他人を知った。しかし私は生きているのだろうか。私は生きながら死んでいて、あのとき失ったものをいつまでもいつまでも失いつづけていくのだろうか。


 死ぬこと、それは私が知ることもない未来にいつかやってくるだろうある決まった瞬間なのではなく、ひとが生きることそのもののうちに切迫し、潜んでいる。つねに来たるべきものであり、非人称としての死。あなたが子どものころからそうなのだ、と言うだけでは十分ではない。その死は子どものあなた、あるいはあなたの子どもなのだ。夢の子ども、素晴らしい子ども、未来を担う子ども、万能の子ども。あなたはそうであったし今でもそうであるだろう。だがあなたが見ている夢、その夢はあなた自身の夢なのか? その夢は生きていてあなたを生かしているのだろうか、それとも殺しているのだろうか。母親と見た夢、父親と見た夢。それと別れるには両親を殺すだけでは十分ではない。子どもの夢と死、親殺しと一次ナルシシズム。こうした問題を萩尾望都ほど執拗に描き続けているものはいない。

 『残酷な神が支配する』のジェルミがずっとかかえて苦しんでいたものは母親への怒りだった。自分の手で殺めた母親をもう一度殺すこと。弱く、支えていなければならなかったその美しい母親の記憶を殺すこと。それこそ彼が避けようとしてきたことだが不可欠かつ必然的な経過だ。この殺害は母親とともに過ごした年月をも否定し、そこで生きていた自分をも否定するだろう。母親の幸せを願うことで母親にしばられてきた自分と母への怒りがついにあふれ出すことだろう。母親に抱かれていた自分を殺すこと、それが父親と母親の殺害の後に続かなければならない。

「かつて心よりわたしを愛した人があったという記憶はなんとゆたかなものだろう」(「オーマイ ケ セイラ セラ」)そう、それはあたりまえのこと。だが幼児のあなたを愛した人が入り込んでいればいるほど、その愛と別れることなくしては他者に触れることなく、真に語ることも自らを知ることもないだろう。いかにその記憶が甘美なものであれ、また苦痛に満ちたものであれ、またその愛の記憶ゆえに人から無償の愛を狂おしく求めることになろうとも。


「殺すべき子ども、栄光を讃えるべき子ども、全能の子ども、恐るべき子ども。それは一次ナルシシズム代理の表象である。呪われた、またわれわれひとりひとりの遺産を普遍的に分与された部分。不可能であるのと同じくらい必要不可欠な殺害の対象。」(セルジュ・ルクレール『子どもが殺される』)

 殺さなければならない子ども、それをインファンスと名づけよう。それが恐るべき子どもであるのは、まさにその子どもこそが両親の殺害権を持っているからだ。自我もエスもまだない状態で生まれる一次ナルシシズム、それは両親のナルシシズムの遺産である(フロイト「ナルシシズム入門」)。それに別れを告げるためには一次ナルシシズムについての表象を抱くだけでは十分でなく、それ自体を、インファンスを両親もろとも殺さなければならない。それを「一次的な死」とルクレールに習って呼んでみよう。だが一次ナルシシズムそのものがすでにして死ではないのだろうか。そこには影もなければ希望もないとルクレールは言っているが、それこそひとが別れを告げなければならない死、より精確には死でも生でもないほとんど虚無なのだ。「それを断念すること、それは死ぬことである。もはや生きる理由をもたないということである。しかしそれにしがみついているふりを装うこと、それはもはや生きてはいないという羽目に陥ることである。われわれひとりひとりにとって、つねに、殺すべきひとりの子どもというものがある……かつての自分であったのかもしれないこの素晴らしい子どもを繰り返し喪失することのない者は、辺獄に、そして乳白色をした期待の光のなかにとどまる。そこには影もなければ希望もない」(ルクレール)

 世界を喪失する者は幸いだ。世界は崩壊し、また新たに生まれ変わることができるからだ。失うことができない者、インファンスを殺すことができない者こそこの世でもあの世でもない眠りこけた世界をただようことになるだろう。目覚める前の世界、そこは乳白色なのだろうか。それとも希望の光さえない世界なのだろうか。その世界は死んでいるのだろうか、それとも夢みているのだろうか。

 「エッグ・スタンド」の舞台は第二次大戦ドイツ占領下パリ。親鳥に温められすぎて孵化せずに死んでしまった黒いひよこ。ドイツ高官の手先として、子どもである自分を利用しつつ一度親しくなった上で相手を暗殺する仕事を繰り返すラウルは、そんなヒヨコに自分を重ねる。「あまりあたためすぎて死んだ黒いヒヨコのように」彼を愛しすぎた母親を殺して村をでたラウルは言う「ぼくは目を覚ましてカラの外に出たくて、ママを殺して村をとびだしたけれど、まだ自分が生きてるのか死んでるのかわからない」。

「この一次ナルシシズム表象は、まさしく、インファンスというその名に値する。それは決して語らない。やがて語るようになることも決してない。人は、この表象を殺しはじめるまさにその限りにおいて語りはじめる。この表象を殺し続ける限りにおいて、人は真の意味で語り続ける。欲望し続ける。」(ルクレール)

 母親の過剰な愛によって生み出された恐るべき子ども。幸せな幼年時代など何処にもないのだろうか。それは辺獄でしかないのだろうか。「孵化しなかったタマゴが、まちがえてゆでられて食卓に出される。死んだヒヨコは黒い」。そのヒヨコは殻を割れなかったのではなく、眠っていたのかもしれない。そして自分が死んだことに気づいてさえいないのかもしれない。母親の愛に窒息したまま。それは死んだまま目覚めることのない戦争中の世界そのものだ。

 生きながら死んでいること。そして回復のレッスン。

「精神分析の実践は、死の力の恒常的な作業を明るみに出すということにもとづいており、素晴らしい(あるいは恐ろしい)子どもを殺すということ、世代から世代へ、両親の夢と欲望を証言するこの子どもを殺すということに帰着する。この奇妙な初源的イメージ、われわれの誕生が書き込まれているこのイメージを殺すという犠牲を払わない限り、生は存在しない。実現不可能ではあるが、しかし必要不可欠な殺人。絶えず再生してくる<素晴らしい子ども>を殺すのをやめると、生は可能ではなくなる。欲望の生も創造の生も可能ではなくなるからだ」(ルクレール)



マージナル』の「夢の子どもキラ」は父親イワンの見ていた死の夢に囚われ、世界の破滅を願った。にもかかわらず彼は生き延び、男だけの世界となっている地球で第二の生を送り始める。「…世界は…終わったんだ。イワンと一緒に。じゃあ、ここにいるぼくはなんだろう? ここに目の前にある世界はなんだろう?」。皮肉なことに、不毛で病んだ地球はイワンの世界よりもまだ生に満ちている。キラを拾ったグリンシャは言う。「死者の夢は死と共に葬り、おまえのことを語れ」。
 物語のすべてが驚くほど緊密に絡み合っているこの傑作をここで詳しく読むことはできないが、イワンが語っていたことを少し思い出しておこう。子宮用の脳である原始的な脳、副腎髄質は胎児に何億年もの過去を、地球の歴史を語りかける。「子宮の見る夢の結晶体」である胎児は地球の、親の、受け継がれてきた祖先の夢を背負って生まれてくるのだ。しかし、トラウマが生み出したイワンの夢は死の夢でしかない。キラがそれを葬るとき「夢が寝返りをうって別の仮面を見せにくる」。キラを閉じこめ自分の夢を見ることを禁じていたイワンの夢。そこからのがれるために父と母を殺すだけでは十分でなく、また別の夢、不毛な地球が見ていた夢こそがキラと地球を救いえた。
 しかし、とは言え、あの、物言わぬ胎児、万能の子どもを殺すこと、あるいはそれを見出すことさえ容易ではないのだが。

 また愛の問題がある。しかし愛もまたひとつのワナでしかないのかもしれない。というのも、ひとはこの幼児から逃れて、愛の安息所へと逃げ込むことは許されていないように思われるからだ。その恐るべき子どもを生み出したのも確かに愛なのだから。イワンとジェルミの間に横たわる問題はおそらくこうしたものだ。
『残酷な神が支配する』の最終巻ではついに「子どもは親の神への供物であり、親の人生への供養として存在するんだ」とあまりに直截に語られる。『レッド・スター』『銀の三角』『Marginal』と壮大なスケールで展開された物語群にすでに現われていた形象である「こわれ続ける世界」は、祖先から親へと連綿と受け継がれてきた破れた夢や欲望であり、その欲望の供養として子どもを必要としている世界が物語の背後に描かれていたのだった。物言わぬ子どもはこわれかけている世界の犠牲とされ、その死(これは二次的な死だ)の瞬間は時間の消去そのものとなる(『銀の三角』)。この失われた瞬間である永遠に時を与えること、それがおそらく書くこと、そして語ることなのであり、作品の要請なのだ。作品の誕生そのものとしての物語−


モザイク・ラセン」に登場するシャム双生児の物語は「半神」のわずか八ページで驚くほど深化される。ユージーは美しくツヤツヤだが頭は空っぽ。ユーシーは賢いがカサカサで醜い。ユージーはみなに愛され、妹に体の栄養をとられながらもその面倒を見なければならないユーシーはいつも邪魔者扱い。すでにして一方が他方の死である双子に、ついに切り離されるべき時がやってくる。成功の望みの薄い手術だがユーシーは喜ぶ。「耐えてみせるわ。それで一人になれるのなら」。シャム双生児の分離、それは一つの体では生きていくことのできない妹の衰弱死を意味した。大人並の知能を持つユーシーが生き延び、いつまでも子どものままだったユージーが死ぬ。夢の子ども、素晴らしい子ども。栄養をユージーに取られなくなったユーシーはやがてかつてのユーシーのように美しくなり、みなに愛されるようになる。一人になった彼女は初めて孤独というものの味を知るだろう。
 萩尾望都作品に頻出する双子のテーマ−それまで半身の中にしか自分を見ることのなかったユーシーは、ユージーを自分のイメージとしていた。そのためユージーの死後ユーシーはユージーのイメージを求めることになる。ユーシーは自分とすれ違い続けることになるだろう。ユーシーはかつて一度も生き始めたことがなく、それゆえかつて孤独を味わったこともない。これまで死の中に生きていたユーシーは、生き始めることによって初めて死を意識するようになる。

 ……死
 どこへいった?
   遠い旅へ
 もう会えない?
   いない
 なぜ?
   天使になった
 そう……?

 いつ彼女は死んでしまったのだろう? 死んだのはほんとうに彼女なのだろうか? 死んだのはわたしで、生き延びたのは彼女だったのかもしれない。わたしは死んで、彼女は生き延びたのなら、それはいつ? それはわたしが生き始めるまえのこと? それとも死に始めるまえ? わたしは生きていて死んでいるのか、死んでいて生きているのか。いつ死んでしまったのかもわからずに? 臨終の時さえ知らないその死をどうやって悼むことができるだろう。不可能にして根源的な喪を。誰がそれをなしえるだろう。記憶にもないそれの死の喪の作業を。

 子どもたち−からだより大きな心をもつ子どもたち−その心を束縛している半身をふりほどき大人になった子どもたちはしかし、なんとさみしそうなのだろう。

「半神」を舞台化した野田秀樹はユージーをマリアに、ユーシーをシュラへと変換し、どちらが生き延びたのかを決定不可能な謎とする。しかしこのことは、すでに萩尾望都の作品にも描かれていた。生き延びた半身である「わたし」は「鏡の中に、あんなにきらっていた妹の姿をみつける。わたしはわからなくなる。だれ? あれは。やせて死んでいった妹は、ひきはなされた半身は、あれは、わたし。」

 私があの子を殺したのだろうか。きらきらとゆらめく乳白色の水の中で夢みていた子どもをばらばらにしたのだろうか。美しい無垢な世界もまだ知らないあの子を私の命と引き替えに殺したのだろうか。あれから私は言葉を、世界と他人を知った。しかし私は生きているのだろうか。私は生きながら死んでいて、あのとき失ったものをいつまでもいつまでも失いつづけていくのだろうか。

 どちらがいなくなったのだろうか。いなくなったのはマリアの心をもらったシュラなのか、シュラの心をもらったマリアなのか。確かなのは、どちらかが消えてしまったか、それとも死んでしまい、誰の心にもとどまっていないということだ。

シュラ  誰?
先生  新しい家庭教師だよ。
シュラ  ふうん。
先生  今、そこのらせん階段で、小さなひつぎとすれ違った。
      誰か、死んだの?
シュラ  先生、それはあたしの妹なの。
先生  妹?
シュラ  いつも、あたしの横に坐っていたの。
先生  仲が良かったんだね。
シュラ  ううん、あたし達、くっついていたの。
先生  くっついていた?
シュラ  うん。
先生  そんな、話し、誰も信じないよ。
シュラ  誰もが、そう言うの。切り離されてからは。

 それは記憶にもない過去のことだった。すでに死んだその子どものことをひとは知らず、知ることもない。それがいつ、どこで起こったのかさえも。ゆえにその死は時間を破壊し、消去する。物語の終わりに繰り返される物語の初めであるこの場面では、時間が消えてしまったことが語られている。
 したがって、野田の舞台では時間そのものが演じられていると言うだけでは十分ではない。そこでは、時間を消去する前原初的な瞬間への接近が不断に再開され続けるのだ。「子どもが殺される」。この不断の瞬間、この死せる永遠に別れを告げて新たな夢へと−それがまたもうひとつの死であろうとも−入り込むためには、その永遠に時間を与えなければならない。そうして初めて、語ること、あるいは書くことが可能になるだろう。

「この世の誰もきいたことのない音、この海原ごしに呼びかけて船に警告してやる声が要る。その声をつくってやろう。これまでにあったどんな時間、どんな霧にも似合った声をつくってやろう。たとえば夜ふけてある、きみのそばのからっぽのベッド、訪うて人の誰もいない家、また葉のちってしまった晩秋の木々に似合った……そんな声をつくってやろう。泣きながら南方へ去る鳥の声、11月の風や……さみしい浜辺によする波に似た音、そんな音をつくってやろう。それはあまりにも孤独な音なので、誰もそれをききもらすはずはなく、それを耳にしては誰もがひそかにしのび泣きをし、遠くの町できけばいっそう我家があたたかくなつかしく思われる……そんな音をつくってやろう。おれは我と我身を一つの音、一つの機械としてやろう。そうすれば、それを人は霧笛と呼び、それをきく人はみな永遠というものの悲しみと生きることのはかなさを知るだろう。」(野田秀樹・萩尾望都『半神』。原作はレイ・ブラッドベリ「霧笛」『ウは宇宙船のウ』)

 ひとが作品を書くときにはあの見知らぬ子どもをつねに殺しながら書かなければならない。またその殺害こそが作品を要請している。そうして書かれた作品が私たちの心を打つのは、こわれ続ける世界に捧げられた子どもの死を悼むことをそれが初めて可能にしてくれるからなのだ。

 

参考文献

フロイト「ナルシシズム入門」

フロイト「喪とメランコリー」

ラカン「『私』の機能の形成としての鏡像段階」、『エクリ

ルクレール『子どもが殺される

Blanchot, L'ecriture du desastre,


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