<小説>
カフカ「断食芸人」
アンデルセン「歯痛たおばさん」「赤い靴」
石川淳『佳人』『マルスの歌』『普賢』
初期の作品で石川淳が書こうとしていた作者以前の作者(書こうとしている<わたし>)という熱い問題……初期作品のほどんどが、書こうとしている<私>という一人称の主人公が、まさに書く人間=作者であることによって、文学創造そのもののアナロジーとなりおおせている……(『添寝の悪夢・午睡の夢』)
河野多恵子『草いきれ』文芸春秋、1970
私が河野多恵子の小説の読者として、その作品の謎にひきつけられる理由は、それ自体がわたし自信の書く行為と結びついた地点で成立する情熱、すなわち、彼女の作品の周辺を旅することによって、その謎を解き明かしたいという情熱による……(『添寝の悪夢・午睡の夢』)
倉橋由美子『スミヤキストQの冒険』講談社文芸文庫、
倉橋由美子氏の小説は、作品の中から思想(観念と言い直してもいいだろう)を見つけだそうとする親切な読者でもある私のような作家を、非常に驚かせることに、彼女自身も書いていたように、作品そのものが観念の鉄骨で出来た、醜悪な塔のようなものであり、私などの読者には、この醜悪さがたまらない(むろん、たまらなくいい、ということだ)。(『添寝の悪夢・午睡の夢』)
<批評>
ロラン・バルト『神話作用』(67)、『零度のエクリチュール』(71)、『エッセ・クリティック』(72)、『モードの体系』(72)。(カッコ内は翻訳がでた年)
<小説は書くという意志の形態そのもの>という指摘……わたしたちはこのバルトの言う意味での小説を考える時、実はすでに小説とか詩とかのジャンルをこえて、文学創造の原理そのものについて、いわば作品の存在に関する二つの方向(書くことと読むこと)から接近するのだ。(『添寝の悪夢・午睡の夢』)
ビュトール『批評と創造』
ブランショ『文学空間』(62)思潮社
バタイユ『文学と悪』(59)紀伊國屋
世界との孤独な闘いの中に身を投げ出された者は、いつでも弱々しく純潔な少年少女の姿で彷徨する以外にないのだ。(『添寝の悪夢・午睡の夢』)
<外なる文学史>
清水博子の『街の座標』集英社文庫
どう考えても金井美恵子がモデルらしき女性作家が登場する。多少悪意がないわけでもない描かれ方がすてき。
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