水村美苗『私小説 from left to right』

 この小説で問題になっているのは日本とアメリカのどちらを美苗が選択するかという問題などではない。そんな問題にははじめから決着がでている。つまりこの物語のクライマックスは美苗が日本に帰ることを決意する瞬間にあるのではない。問題は、その決意が何を意味するのかにある。

 改造社版の日本文学全集を合衆国にわたったのちに読み続けて、日本近代文学を通して日本へのあこがれを保ちつづけた美苗。その日本はもはや現実に存在するものでないことはよく分かっている。彼女が日本に帰ることは、その空想の日本が失われた日本で生きていくことを意味する。それは現実の世界に自分の故郷を持たないことを受け入れることになるだろう。

 それゆえこの小説が感動的なのは、10台前半で異国の地にわたり、姉や両親ともその地での孤独を分かち合えないがために日本文学の世界に暮らしてきた美苗の姿にあるわけでもなく、それぞれが孤独でちぐはぐなその家族の姿が描かれているためでもなく、やはり同じように異国のアメリカ・異なる言語環境へと移ってきたユダヤ人などの姿がそれでもやはり日本人には想像できない境遇の持ち主だと距離を置いて描かれているからでもなく、また彼女の筆がかつてなく率直にアメリカという国で生きることそのものにつきまとう本質的な孤独さに触れえているからでもなく、彼女の中の日本を幻想として一度はきっぱりと断ち切りつつも今度はその幻想の日本を彼女自身の言葉の中に立ち上げていこうとするがゆえに、つまり現実のアメリカでも日本でもない日本語で書く文学を彼女が積極的に選び取るがゆえになのだ。

 その選択は幻想の日本という場を断念することでしか可能でないのだが、その断念こそが彼女が書きはじめる動機となっている。この小説は作家が作家になる瞬間、すなわち人がものを書き始めるという決意の瞬間を見事にとらえた。


水村美苗
生年不詳
12歳のころ、家族とともに渡米。
イェール大学大学院でフランス文学を専攻。
1985年に一時帰国したあと再び渡米し、プリンストン大学などで日本近代文学を教える。
1988年から1990年にかけて『季刊思潮』に「續明暗」を連載。
1992年から1994年にかけて「日本近代文学 私小説 from left to right」を連載。


『私小説』で語られていること
@ アメリカ滞在20年間の水村一家(「父」「母」「奈苗」「美苗」)の記憶
A 「奈苗」との会話
B 過去の自分を見る今の「美苗」の視点
C アメリカの中で自分たちは「東洋人」、coloredにすぎないという意識
D アメリカを外から見る視点
E 日本を外から見る視点
F アメリカで出会ったさまざまな移民たちについての記憶
G 「日本」への思い
H 「日本語」への思い
I 日本へ戻り、日本語で小説を書こうとする決意


『私小説』について
1.英語と日本語(外国語か母国語か。英語と日本語の非対称性。英語による体験を日本語へ)
2.英語への抵抗(英語には翻訳不可能。)
3.日本語への抵抗(横書きの英語混じり。私小説ではない私小説。)

《日本語以外の言葉に接するということが、いかに精神を癒してくれるか。その時、そもそもアメリカであそこまで日本語に執着したのも、向こうでは日本語が外国語だったからだというのに気がつきました。/人間の精神には、今ここに流通する言葉から抜け出したいという欲求がある。外国語というものは、その欲求にもっともじかに呼応するものなのです。逆にいえば、その欲求を満たすのに、かならずしも外国語である必要はない。今ここに流通する言葉との距離さえあればいい。古典でもいい(事実、荷風は江戸の人情本は読み続けている)。もっと根源的には、孤立した人間の言葉ならいいのです。》
辻邦生/水村美苗『手紙、栞を添えて』より

@
《もともとその傾向のあった母だが、あのころからは、何かに憑かれたように奈苗の結婚に執心するようになった。それは母の時代の言葉で言えば「傷物」となった娘をどうにか「ふつうのお嬢さん」として日本の男と「まともな結婚」をさせなければということに尽きた。(略)私は今も驚きとともに、あの火だるまのような母の情熱を思い出す。(略)長い異国生活の中で、あたかも孤島にいるように家族の関係が密になってしまったやりきれなさを、私はそのころから感じ始めた。》pp.153-155

A
《―あたし今になって思うんだけどさあ、なぜ結婚しなけりゃならないのかって、それは親がチャンと教えるべきじゃなかった? 結婚しろ結婚しろって言われるだけで、なぜ結婚しなきゃなんないんだか分かんないんだから、rationalに考えられなくて、途中から反発ばかりしていた。/―結婚しなければ一人で食べなきゃならないってことをねえ。》p.157

B
《いつしか私が父や母も軽薄なモダンな人間に見えるほど時代遅れな娘になっていったのも仕方のないことであった。もちろん私は自分が時代遅れな娘になっていったとは夢にも知らず、たんに純粋な日本娘であり続けたいと思っていた。しかもそれを少なからず誇りに思っていたのである。/家をたまに訪れた父と同年輩の日本の紳士たちは口をそろえて言った。/―いやあ、日本的なお嬢さんですね。少しもアメリカナイズされていない。》p.133

C
《その韓国人はすてきな人じゃなかったの? と私がおずおずと尋ねた。/東京の郊外に育った奈苗が韓国人あるいは朝鮮人というものに対して私以上に偏見を植えつけられているとは思えなかった。/―背が低くて太ってて脂ぎってて猪首。もっとも嫌いなタイプだった。/奈苗はまるで練習したセリフを言うように言下に言い放った。三人の背の高いアメリカ人の間にはさまって、ずんぐりしたその男が登場した様が眼に見えるようであった。私は奈苗の衝撃を自分のもののように感じた。(略)日本人も韓国人もないというアメリカの現実は母にとってはアメリカという異国の国の現実でしかなかったが、奈苗と私にとっては、そこで自分の居場所を見つけねばならない現実そのものであった。》pp.246-247

D
《それは都会の孤独と日本語で呼ばれるものとはちがった。東京で同じ孤独を感じるとは想像できなかったし、その反対に、アメリカだったら田舎でも同じ孤独を感じるのではないかと想像されたからであった。何しろここでは人と人とは孤島のように切り離されてこそあたりまえだというのが前提であった。そしてその前提が強要する孤独に耐えられるものは、少しづつ精神の均衡を失い、社会から落伍していくよりほかはなかった。》p.402

E
《外から見れば日本という島国全体が大きなシャボン玉に包み込まれ、その大きなシャボン玉から無数の小さなシャボン玉が、ひとつひとつに日本人を包み込んで日本の外に飛び立っているようであった。日本人が日系人から身を遠ざけようとするのは、彼らこそその透明の膜に守られていない、居心地の悪い認識にさらされた人たちだからにちがいない。私だって、そのシャボン玉に包まれてかつて日本を飛び立ったのであった。》pp.312-313

F
《―Home is not a place to return to./ふるさとは戻るべき場所には非ず。/黒いつややかな髪と黒い瞳と紅い唇をした彼女はイスラエルの出身だったのである。故郷に帰らぬことを前提に生きていたというより、そもそも二千年にわたって故郷というものをもたなかった民族の一人なのであった。(略)もっとも強く打たれたのはMadame Ellemanにとってふるさとというもののみならず、母国語というものも大して意味をもたなかったということであった。》pp.375-376

G
《驚いたことに私はもう若い娘ではなかった。私はついに自分がぎりぎりのところまできてしまったのを知った。知らざるをえなかった。そしてそのとき初めて自分の心の奥底を知ったのである。日本に対する思い入れはもうどうしようもない深いところで私を形づくってしまっており、病とともにあまりに長い間暮らし、癒されるのを恐れるに至った病人のように、日本に対する思い入れが消えるのが恐ろしくなっていったのであった。》p.65

H
《それは私とアメリカとの間の溝ではなかった。私という人間がいてその外にアメリカがあるわけではなかった。気がついたときに私はすでにアメリカの中に生きていた。アメリカの中に日常的な居場所があった。ひと握りだけだとはいえ、その中でMinaeと呼ばれる人間関係もあった。だからその溝は私とアメリカとの溝ではなかったのである。それは「私」と「アメリカの私」との間の溝、あるいは、「日本の私」と「アメリカの私」との間の溝というべきもの−いや、より正確には、「日本語の中の私」と「英語の中の私」との間の溝というべきものであった。なぜなら「日本の私」はアメリカに来たことによって消えてしまったわけではなく、アメリカに来てからも日本語を使う限りにおいては存在し続けたからである。そして、「日本語の中の私」こそを真の自分だと考え、日本にさえ帰ればその真の自分を回復できるという思いを抱きながら生きていったのは、「英語の中の私」が私にとってとても自分とは思えない何ものかだったからにほかならない。》p.192

I
《―Well, whatever you do, try not to mix up your Japanese with English./―I'll try not to.
 そう応えながら、ふいに私はこの期に及んで私を悩ましはじめた疑問を口に出したい欲求に捉えられた。私は言った。カリフォルニアの日系人のようにアメリカに根をおろし、英語で物書きになろうとしていた人生の方がよかったのではないだろうかと。
 彼の反応は速かった。
 ―Nonsense!
 断固とした口調で言った。うって変わった真面目な声であった。 
 ―You won't be what you are now.
 そうしたら、私が私でなくなってしまう。
 私は期待通りに慰められた。彼だからそう言ってくれるのがよくかっていて訊いたのである。日本語の世界も英語の世界もよく知っている彼は、言葉が人間を創ってしまうのを知っていた−というより、言葉そのものが世界を創ってしまうのを知っていた。》p.382
以上、水村美苗『私小説from left to right』より


《だが、それにもかかわらず、私は自分を日本につなげているきずながあると感じる。それは、日本から私に向かって来るものではない。むしろ私のほうから日本に向かって行くものである。それは、要請ではなく、自発的な結びつきであり、その意味でかならずしも私を日本という「国家」には近づけない。が、決してそれは単に個人的なきずなではない。私を含みながら、しかも私を超えているからである。もちろん、それは言葉である。私という個体を、万葉集以来今日までの日本の文学と思想の全体につなげている日本語という言葉である。》
江藤淳『アメリカと私』



参考文献
水村美苗『私小説from left to right』、新潮文庫、1998年。
辻邦生/水村美苗『手紙、栞を添えて』、朝日新聞社、1998年。
水村美苗「インドの『貧しさ』と日本の『豊かさ』」、『群像』、講談社、1996年7月号、51-7。
水村美苗「双子の家」、『群像』、講談社、1998年6月号、95-6。
『UP』、26(4)、1997
小森陽一『<ゆらぎ>の日本文学』、NHKブックス、1998年。
小森陽一「言語と文化の複綜性」、『群像』、講談社、1996年7月号、51-7。
芳川泰久「母国語契約者の出現を待ちながら」、『世界現在文学 作家ファイル』、国書刊行会、1996年。
多和田葉子「罫線という私」、『新潮』、新潮社、1995年11月号、92-11。
加藤周一「夕陽妄語」、『朝日新聞』、1996年2月21日号夕刊。
「ひと 水村美苗さん」、『朝日新聞』、1995年12月17日朝刊。

リービ英雄『日本語の勝利』、『新宿の万葉集』
柄谷行人/多和田葉子「言葉の傷口」、『群像』、講談社、1996年7月号、51-7。
江藤淳『アメリカと私』
村上春樹『やがて哀しき外国語』


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