水村美苗

水村美苗の小説は、どのページを開いてもひとしずくの涙がこめられています。しかし読者はそうと知らずいつのまにかずんずんと読んでしまいます。そして気がついたときには、その一滴々々の涙がたまりにたまってもはやこらえきれなくなってしまいます。いったんそうなってしまった後には、もはやどのページを開いてもその涙のしずくが目についてしまいます。

これまでの作品、『續明暗』は続『明暗』で、『私小説』は私小説です。

連載中の『本格小説』は本格小説です。戦後に子供時代を過ごした実業家と戦前から裕福だった一族との奇妙な関わりの、愛の物語を、そこで勤めていた女中から聞いた青年が作者にその話をもたらす、という設定です。「美苗」はその実業家を子どもの時に知っていたことがあったのです。

しかしこれは裏『私小説』とでも言うべきものでもあって、田舎から東京の富裕な一族に仕えるようになった女中の身の上や、育ちの違いゆえにその一族に受け入れられず孤独な思いをする子供時代の実業家の姿は、どことなく『私小説』の「美苗」や「奈苗」に重なります。そして何より、豊かな一族も貧しい一家も含めた戦後日本のある人間関係を見事に浮かび上がらせています。三代にもまたがる一族の物語もあれば、一人の男の何十年にもわたる悲恋の物語もあり、それらすべてがまじりあって一つの交響曲をかなでます。

『私小説』であまりに感動してしまった読者も、『本格小説』を読んで後悔することはないでしょう。

読書案内

"Renunciation", in The Lesson of Paul de Man : Yale French Studies 69, 1985, pp. 81-97. (秀逸なポール・ド・マン論)
『續明暗』新潮社、1990年。『続明暗』新潮文庫、1995年。
『私小説 from left to right』新潮文庫、1998年。
辻邦生・水村美苗『手紙、栞を添えて』朝日新聞社、1998年。朝日文庫、2001年。
「インドの『貧しさ』と日本の『豊かさ』」、『群像』、講談社、1996年7月号、51-7。
「双子の家」、『群像』、講談社、1998年6月号、95-6。
『UP』、26(4)、1997.
『本格小説』新潮社、2002.

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