柄谷行人

 詩の雑誌の編集をしている人から何度かこういう話をきいたことがある。詩の投稿者のうちで、高校生・受験生にすぐれた作品が多く、それで注目していると、彼らが大学生になるやいなやまったく陳腐なものしか書いてこない、と。たぶんそれは小説についてもあてはまる。理由は簡単で、今日の若者のうち、高校生や受験生だけが「生きて」おり、現実ともろに接触しているからである。運命と出会っているといっても過言ではない。大学に入ればこの緊張感はうしなわれ、「現実」とやらをみまわしはじめるが、ありきたりの観念しかみえない。今度はその観念のもてあそび方、そのなかでの泳ぎ方をおぼえる。

<『反文学論』より>

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