金井美恵子『道化師の恋』

人は物語なくしては生きられない。よかれ悪しかれ人は「自分の」物語を求めそこで生きようとしているし、そんな欲望はまったくありふれたものだ。毎日のように週刊誌にのっている「新しい私を発見する」という物語、「恋に生きる」という物語、エトセトラエトセトラ。誰もが求めているこうした欲望を金井美恵子はアイロニーを込めて描く。描かれるのはとりわけて文学的な人間でもないのに小説の新人賞をとってしまう大学生と、小説で読んだような恋にあこがれるボヴァリー夫人二世の佐藤桜子だ。当然二人は恋をして、ありきたりの物語が生みだされることになる。

 人は誰でもすでに文学的な概念に取り囲まれて生きている。というのは、自分の一生を自分の「人生」として、始まりと終りをもった一つの全体として捉えるということが 文学的な視点であり、物語化なのだから。人はそこに歩みや成長、成功や失敗といった物語を賦与して生きている。そうして、独自の過去と未来をもった一人の人間として、アイデンティティーをもった人間として生きることですでに文学や物語に汚染されている。なら小説を書くということは、人が生きる物語についての物語になるだろう。つまり、人が、どのようにして「自分の」物語を生きることになるのかということについての物語になるだろう。

 『道化師の恋』で中心的に描かれるのは、自分の物語を対象化して見ることのできない人が生きる物語の物語であり(「気取った言葉 づかいや言い回しに腐心することで、じゃんじゃん、自分の真実の気持ちから、書かれた文章が遠ざかっていく、と気がついた時、あたしは、初めて、素直にありのままの自分の姿を文章のなかにさらけだせたのね」)、小説の中ではなくて自分の人生という物語のなかで生きている人々についての物語である(「どうしてこの人たちは、映画を見なかったり小説を読まなかったりすることに大騒ぎするんだろう。それ以外に、世の中にはもっといろんなことがあるのに、もっとずっと重要なことがあるだろうに。絶対、 あるのに」)。

 しかしこうした人々とは逆に、自分の人生を直接的に生きるのではなく、小説や映画によって間接的に生きている(と思われる)一群の人々も描かれる。これはもちろん作家自身の分身により近いのだろう。具体的には桃子や、小説家のおばさんなどがそこに当てはまる。後者によって前者の人物像が馬鹿にされているといえばそうなのだけれど、 前者が生きる凡庸だが甘美な物語も繊細な手つきで描かれている。また、後者の考え方や視点も登場人物の一人となることによって相対化される。どちらの人種も物語を求めずに入られない、ということには代りがないのだから。

 そして、愛の物語を実際に生きることができるのは、当然、後者なのだ。それが繊細な愛の言語の持ち主であれば、その物語はゆるやかで密かな魅惑に満ちたものとなるだろう。逆に前者の人々は、そうした物語を書くことしかできないのかもしれない。物語を生きられる者だけが愛という物語を生きることができるのだから。さて、あなたはどちらの人種なのだろうか?

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