『四千の日と夜』(1956)
田村隆一 (1923.3-1998)


腐刻画

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入ってゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋母親は美しく発狂した


沈める寺

 全世界の人間が死の論証を求めている しかし誰一人として死を目撃したものはいないのだ ついに人間は幻影にすぎず 現実とはかかるものの最大公約数なのかもしれん 人間にとってかわって逆に全事物が問いはじめる 生について その存在について それが一個の椅子から発せられたにしても俺は恐れねばならぬ 現実とはかかるものの最小公倍数なのかもしれん ところで人間の運命に憂愁を感じ得ぬものがどうしてこの動乱の世界に生身を賭けることができるだろうか ときに天才も現れたが虚無を一層精緻なものとしただけであった 自明なるものも白昼の渦動を深めただけであった

 彼はなにやら語りかけようとしたのかもしれない だが私は事実についてのみ書いておこう はじめに膝から折れるように地について彼は倒れた駆けよってきた人たちのなかでちょうど私ぐらいの年ごろの青年が思わずこんな具合に呟いた「美しい顔だ それに悪いことに世界を花のごとく信じている!」


四千の日と夜

一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆行線を
われわれは射殺した

聴け、
雨のふるあらゆる都市、鎔鉱炉、
真夏の波止場と炭坑から
たったひとりの飢えた子供の涙がいるばかりに、
四千の日の愛と四千の夜の憐みを
われわれは暗殺した

記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した

一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない


再会

どこでお逢いしましたか
どこで どこでお逢いしましたか
死と仲のいいお友だち わたしの古いお友だち!
この都会の真昼
影という影は灰色の戸口のなかに消えてしまって
わたしたちの悩ましい記憶も都会の大きな幻影のなかに失われてしまって
あなたは想い出すことができない
わたしの微笑
わたしはどこかであなたに囁いたことがある
「苦悩は微笑する」

僕には死火山が見えます
僕には性的な都会の窓が見えます
僕には太陽のない秩序が見えます
わたしの手のなかで乾いて死んだ公園の午後
わたしの歯で砕かれた永遠の夏
わたしの乳房の下で眠っている地球の暗い部分
どこでお逢いしましたか どこで
僕は十七歳の少年でした
僕は都会の裏街を歩き廻ったものでした
驟雨!
僕は肩をたたかれて振り返る
「あなた 地球はザラザラしている!」

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