指輪物語の悪役と善役(?)について

『指輪物語』は一人のなかに善と悪が入り交じっていることを見事に描いたお話ですが、トールキンはもともと神話的な世界をそこで構築しようとしていたというのもあり、神話的に完全無欠に近い理想の人間も登場します。特にアラゴルンとファラミアがそうです。この二人はともに指輪の誘惑を退けることに成功した人物であり、物語の最後にそれぞれ結婚するという点も同じです。二人とも指輪の誘惑に抵抗できなかったボロミアと対比されており、それによって指輪戦争後の指導者となりうる資質を認められているとも言えます。ところが、映画版では両者はもう少し不完全な人間として描かれます。ピーター・ジャクソン監督の映画で男性陣みないくらか矮小化されて描かれていると思うのですが、特にこの二人はトールキンが理想的な人物像をその中に込めていることをいわば無視して改変していると言えるのです。これは映画による翻案あのですが、ところがこうした改変によって映画では原作よりも、ホビットたちのなした業績がより価値のあるものとして描かれているようにも思えます。というのは、トールキンの原作では二人のような理想的な人物が登場するために、指輪の誘惑に抗しきれなかった一人のホビットの行為の意義が少し曖昧になっているからです。

 そもそも、指輪物語はトールキンのペシミスティックな世界観が色濃く出ている話です。世界の滅亡という危機に対して中つ国で最も力のある者たちは、指輪を葬るという最大の仕事を自らの手でなすことができません。そして、それをなすことのできる者は実際に誰もいなかったとして語られます。ここには、はっきりと世界の悪に対するトールキンの無力感が現れているでしょう。しかも、善は悪に勝てないどころか、悪に打ち勝とうとするあまりに悪に陥るものであるがゆえに構造として悪に勝てないものであることも描かれています。ガンダルフやアラゴルンたちの戦いも敗北に向かうものとして書かれています。もちろん、絶望的な状況でも戦うことを決意するということが善たるものの条件ということは語られていますが、それが十分条件であるということはないようです。

ファラミアを人格者にするとフロドとサムに対してだけでなく、指輪との関係でもインパクトが弱まる。これまで指輪がいかに邪悪かを描いてきたが、もしファラミアが指輪に興味を示さなければ、その力が小さいと思われてしまう」

 

 トールキンは悪については明確なイメージをもって書いています。Ringwraithたちは自分の意志を持たない者として描かれるばかりでなく、自分の声さえ持たず、人に話しかけるときは人の声色を借りて話すのです。こうした悪の描写には、二つの大戦を体験したトールキンの人間観がよく出ています。指輪にしても、それはあらゆる力の象徴であり、力というのが制御しきれないものであるために悪であることが繰り返し語られます。小さい人であるホビットだけがその向上心のなさから指輪の誘惑になかなか屈することがないのです。こうした指輪の性格のために、どんなに完全無欠そうなアラゴルンやファラミアでさえ、指輪保持者としてはふさわしくないとされています。指輪の誘惑に屈してしまったボロミアは弱者などではなく、一人の苦悩する人間であり、また執政者であり、誰よりも自分が守るべき人民のことを考えているがために指輪の力を欲してしまう、という設定になっています。これは映画のほうでより丁寧に語られていますが……。さて、このボロミアを指輪物語本編中ではそれでも一人のヒーローとして描いていますが、第三部の出版のさいに付けらたAppendiceにおいてははっきりと否定的に書かれています。トールキンがこの物語を書き始めたのが1936年で脱稿が1949年、そして第三部の出版が1955年ですから、ボロミアを書いていた時期と、追補編を書いた時期とは十数年の間があいていたと考えられます。この間に、トールキンのボロミアに対する評価というものが変わってしまったのではないでしょうか。

 あるいは、トールキンが人間に向ける視線そのものがより冷淡になったのかもしれません。大戦後トールキンは指輪のような規模での物語を書こうとはしませんでしたし、書くとしても指輪物語以前の中つ国の伝説に関するものだったのです(それら草稿は息子さんによって続々と出版されました)。指輪戦争後、中つ国は以前のようではなくなり、人間の住む今日の地球になっていく、とトールキンは考えていましたが、そのきっかけというのはやはり指輪をめぐる物語でしょう。一つの指輪の出現によって伝説の時代が終焉するのは、この指輪がすべての者の弱さを明らかにするからです。最も優れた種であるエルフの最も優れた長であるガラドリエルさえも指輪の誘惑を意識し、そのことによって中つ国を去ることを選びます。トールキンは、指輪戦争がすべての種、すべてのものに傷を与えたと、深い哀しみをもって書いていますが、それはやはり現実の世界に対する哀愁がにじみ出たものでしょう。トールキンは非常に高潔な人物だったそうですが、そういう人物だったからこそ、大戦で明らかになった人間の弱さに絶望し、そうしてボロミアのことをもう肯定的にはとらえられなくなってしまったのではないでしょうか。そしてトールキンが指輪物語を完成した後に再び長編小説を書かなかったのは、ファンタジーにおいて善を提示することに困難を感じたからではなかったかと思うのです。


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