スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』
一つのテキストを前に何かを語ろうとすると、どうもうんざりしてしまう。と言うのは、お釈迦様の手の中にいる孫悟空のような気持ちになるからだ。テキストは世界のように広く、深く、それを語り尽くす言葉などありはしない。テキストを織りなす一本の糸を語ろうとすれば、その言葉は必然的に他の糸を語る言葉へと導かれていき、そうしていくつもの糸をたどっていくうちに、「一つのテキスト」と思われていたものが実はいくつものテクストの集まりであり、そのなかの一本の糸は多くの糸の集まりであり、テクストの内へ外へといくつもの糸へと接合していっていること知るのだ。私は気づく、あるテキストを前にしたときにおぼえる自分の言葉の無力感は、何も書かれていない紙を前にしたときの作家の逡巡と同じものであることに。
ところで、「訳者あとがき」というものは、作品の中身を読まないで「あとがき」だけ読んでその作品の内容を知ったつもりになろうとする者を必ずと言っていいほどその作品について誤解させるのだから、「あとがき」なぞそもそも必要としていない作品に対して失礼かつ不必要どころか、有害なのではないだろうか、と、私が思ったのは、『Xのアーチ』の「訳者あとがき」がつまらなかったからだ。柴田元幸は細部が読めていないように思える。「愛か自由かを選ぶ主体の決断が歴史を変える」というのはちょっとロマンティックすぎるし、この読みではウェイドやカーラやゲオルギーなどのエピソードが抜け落ちてしまう。これらのチョイ役の人物をとても奥行き深く描くことのできる作家エリクソンの細かな人間への眼差しがこの作品を可能にしていると私は思うのだが。
「愛か自由か」というテーゼに対して、私が提出するものは「愛を得られる人間とそうでない人間との物語」というテーゼだ。この作品には様々なタイプの男が出てくるが、その男たちがサリーなどの女と出会い、求めることによって物語は進んでいく。それらの多くの「出会いと別れ」がこの作品を重層的にしているのだが、私が注目するのは、女たちとの関わり方を通して現れるその男の性(さが)とでも言うものだ。
先のテーゼに沿って登場人物を分類すると、愛を得られる側の人間としては、サリーとその娘ポリー、愛を得られない者は、トマス、カーラ、モナ、ウェイド、どちらかわからない人物は、エッチャーとエリクソン、愛なんかに興味がなさそうなのは、ハリーとゲオルギー、ということになる。特にエッチャーの存在は大きく、読者は彼が最後まで愛を得られるのかどうかもじもじはらはらさせられる。エッチャーは一度サリーの愛を得るのだが、サリーは愛を恐れ、エッチャーは一人孤独に彼女を思い続ける。彼と対照的なのがトマスで、彼は自分の力を利用し、サリーを男性的に支配する。サリーにはこれがトラウマになって、エッチャーには彼女に奉仕(?)させるとも言える。サリーが恐れているのは、愛が相手を支配する道具になってしまうことだ。
ではこれから、トマスとエッチャーという重要な二人の人物を比較して、その人物の違いと、彼らが物語を通じてどう変わったかを明らかにすることによって、私が読み取った最終的な真のテーゼ「男はなぜ愛を得られないのか、あるいは得られるのか?」に迫る。
2.エッチャーのケース。
エッチャーは物語に登場した時点から、「女を耐えられなくするほど激しく愛する男」として描かれる。彼はサリーと出会うまで何人かの女と関わるが、どれも最後には失敗に終わる。その度に、彼の中で何かが死んで行き、愛など信じられなくなってから、ついに「運命の女」サリーと出会う。エッチャーはサリーと出会うことによって、自分を束縛していたものから自由になり、それを象徴するかのように「無意識の歴史無削除版」を「教会」から持ち出していく。サリーへの無制限の愛はエッチャーをだんだん無謀にさせていく。だがそれは、自分の力の使い方を知っていく、という過程でもあった。はじめはしがない公文書庫の事務員で、何事にも受動的だった彼が、やがては自分の所有する力を盾に、権力と対抗(ささやかなものだが)していくようになる。
しかしエッチャーは、最後までサリーの愛情を確かめることができない。今際の際のサリーをエッチャーは必死になって看病するが、彼女を救うことはできないのだ。サリーは死んで、エッチャーと、彼の彼女に対する愛、そしてポリーが荒野の中に取り残される。この状況は、歳月が流れた後、エッチャーが死ぬ場面でも反復される。エッチャーが息をひきとる前、彼は監獄で、毎日ポリーが訪ねてくるのを待つ。しかし彼女は訪ねてこない。そしてエッチャーは死ぬ。その最期の孤独さにもかかわらず、ポリーが彼の遺体を引き取った後のシーンで、まるでエッチャーが開放されたかのような印象を受けるのは、エリクソンのその描写の上手さもさることながら、やはりエッチャーが「愛」と「自由」の両方を求めて生きた人物だったからではないだろうか。