……おそらく私はあまりに困難な問題に深入りしすぎてしまった。初めに愛があり、そしてまた次にも愛があるのだが、この試論が目指していたのはそのさらに先にあるかもしれないという愛なのだった。そして、萩尾望都がその本領を発揮するのはこの第三の困難な愛を描こうとするときであって、それはほとんどの少女漫画家が描ききれずにいるテーマであった(そのわずかな例外の一つが山岸涼子の『アラベスク』だと思われる)ことを見てきた。そしてフロイトがその第三の愛へと患者を誘導することを精神分析の最終目標として疑わなかったかぎりにおいて(「転移の流動性について」)、精神分析の(おそらく今では疑わしいと思われているだろうその)目標と萩尾望都が描くストーリーの向かう方向とが同じであることも見た。(「分析において、私たちは愛しか問題にしておらず、それ以外の道によっては分析は行なわれません。この奇妙な道、愛と区別されないかぎりでの感情転移……」。ラカン『アンコール』)。しかし萩尾望都がさらに深い地点に達するのは第三の愛へと向かう過程を喪の作業と不可分のものとして描くときなのである。『残酷な神が支配する』全編はまさにこの過程を描くためにのみあるといってもよい……
……少年漫画よりはるかにバラエティーと文学的深さに富んでいた少女漫画は七十年代にその頂点を迎えた。この時期の少女漫画がおそらく世界文化史上にとって異例の事件であったのは、奇跡的に高レベルな作者と読者が大衆文化という場で存在していたからではなく、その両者が異常なほどの猛烈な転移関係のうちにあったということなのだ。おそらく世界漫画文化においてこれほどの作者と読者の関係が存在することはもう二度とないだろうし、この時代の輝きを漫画が取り戻すことも決してないだろう……
……少年たちより少女たちが恋愛の専門家であると見なされ、少年漫画においてではなく少女漫画においてありとあらゆる種類の恋愛の形態が描かれるということ、少女たちが恋愛のディスクールの特権的担い手であると見なされるのはゆえなきことではなく、それは単に少女たちのナルシシズムがより強いからなのだ。恋愛とはナルシシズムの産物にほかならないのだから。そして特に己のナルシシズムにまかせて恋愛を夢みて空想し実行する少女たちは、自分のすべてをただ無条件に愛されさえすればなにもかもうまくいく、そんな願望と幻想を少女漫画に投影して読みとってしまわずにはいられないがゆえに少女漫画を読み続けてしまうのだろう。例えば山岸涼子の「パニュキス」。想像力が強く、二人だけの幻想の世界を生きていた兄と妹は兄が世間にでるにつれて離ればなれになるが、妹の方は自分の分身であった兄を愛し続ける。妹は兄に「パニュキス」と呼ばれて愛されることを望み続けるが、しかし兄は戦争で死に、その友人は生き残る。最後にはその友人が彼女を愛していたことが分かり、彼女はその愛を受け入れる。きっかけとなるのは、その彼がアンドレ・シュニエの「パニュキス」を読み、「子供のころこの詩を読んで、自分は絶対にパニュキスのような恋人を見つけようと思っていました」という一言だ。兄が死ぬことにより、友人がいまや不在となったその位置に入れかわることができるようになり、友人はまさに兄の生まれ変わりとして妹の子供のころからの願望をそっくりすくいとることができたのだ。こうして少女のナルシシズムは愛によって存続を許され、完結する。これは少女漫画の最も典型的な筋立てであり、少女はそこで安心して恋愛を楽しむことができるだろう。しかし少女もやがては気づくことになる。自分が愛されたところでもはやすべてが解決するわけではないということに。そして「パニュキス」を注意深く読めば、途中一度、この妹は自分が兄に抱いていた愛を子供のエゴにすぎないとし、その欲望にすでに別れを告げていたのに気づくことができるだろう。さらに今まで読んできた少女漫画を読みかえせば、主人公である少女が少なからず一度は自分の過去の願望に決着をつけていることが見えてくるだろう。少女漫画は主人公の思い通りの好都合な恋愛の結果を常に手に入れられるよう完全に保証され守られた世界の少女の物語だけを描いているのではなく、むしろそうした子どもっぽい願望と別れを告げることこそがより重大な主題として描かれていたことを例えば同じく山岸涼子の特異な作品である『日出処の天子』にさえも見出したりすることができるだろう。だがしかし、もちろん例外はいるだろう。子どもの時に自分が望んでいたままの愛を手に入れ、完全に満足しきり、幸運にも自分の分身を見出したと信じているような永遠の子どもが。おそらくそうした少女は今でも、同じ単行本(自選作品集『シュリンクス・パーン』文春文庫)に載っている、主婦が主役の作品「パイド・パイパー」などには感情移入をせずにいられるのだろう。少女を主役にした少女漫画ならラストは結婚でたいがいはおさまるが、主婦を主役にしたのなら旦那の愛をふたたび確認し直すか、あるいは別れるしかない。後者の筋立てのこの漫画に感情移入できるのは、ナルシシズムを毀損なく維持したままの読者ではありえまい。
この小文はしかし少なくとも、徐々に「パニュキス」よりむしろ「パイド・パイパー」の主人公の方に、無条件に愛される少女よりむしろ子供時代の自らの願望を殺すことに苦しんでいる主人公の方に次第により感情移入をするようになってしまったかつての少女たちや少年たちのために書かれる。
しかし、少女漫画に救いとしての愛というテーマしか読みとらない少女たちが証明するように、ある種の転移においてしかテクストは読まれることはない。いやむしろ、転移なくしては読むことはまったく不可能なのであり、この試論が読まれうるのもその転移においてでしかないが、その転移を引きおこすのは作者でも読者でもないもうひとつのある見えない力なのだ。あらゆる読みはその不思議な力に引きずられているのである……
……フロイトが性的な満足と呼ぶものは性器的満足から区別されねばならず、性的な満足とは身体機能に基づく満足、例えば乳房を含んだときの口唇的快感などであり、こうした快感が自体愛と呼ばれるものを形成する。だがいったん口腔が乳児に対象として、それが乳児によって快感の源泉という意味を与えられると同時に、口腔は乳児の内部にイメージとして存在し始める。これは自分の身体を自分のものとして発見するということであって、リビドーはまず自分の身体に備給されるのだ。これが一次ナルシシズムという状態であり、ここで発見された身体は理想自我として想像的に作られたものである。
フロイトは一九一〇年につけた「性欲論」の註において「同性愛者は……自分を女性と同一視し、自分自身を性対象として選ぶようになる。つまり、ナルシシズムから出発して、母親が自分たちを愛したように自分たちを愛してくれる、若くて自分自身に似た男性を求めるのだ」と書き、ナルシシズムが対象選択に果たす役割について着目し始める。ここで言われているナルシシズムとは二次ナルシシズムのことであり、これは一次ナルシシズムを(両親の批判などによって)そのままでは保てなくなった幼児期以降に、子どもが理想自我を基盤に自我(自我理想)を形成したその結果生まれてくるものである。この自我とは主体にとって他者にほかならない想像的なものでしかないのだが、主体はそれを自分だとみなしてしまう。同じように、人が他者を愛するときはそれを自分だと知ることのないまま他者だとみなすのであって、同性愛者であってもなくてもその対象選択の本質に代わりはないのである。こうして、フロイトは次第にナルシシズムがただ否定したり克服したりするべきだけのものではなく、人が生きていく上で不可欠な働きを担っていることを発見していく。
整理しておこう。リビドーをあまねく備給された自我が絶対的な全能感の下にある原初的な状態が一次ナルシシズムであり、そこではいまだ未分化な自我とエスに全リビドーが蓄積されている。やがて自我が発生し、エスが性愛対象へ向けていたリビドーを自分のものとし、自分をエスの対象として課す。これが二次ナルシシズムである。いったん外部に備給された対象リビドーが自我へと回帰することによって一次ナルシシズム的状態が再び現前化される。「かつて存在していた状態の拡大であり、あからさまな出現」(「ナルシシズムを導入するために」)。ここで必要とされる自我は自己の理想像であり、それは両親のナルシシズムの遺産として与えられるだろう。
いずれにせよ主体はギリシャ神話のナルシスなのであって、主体が他者を他者そのものとして愛するようになる可能性どころか、主体の外部に目を向けようとする必然性はどこにもない。だがしかし、もはや物言わぬ幼児でなくなった人はその原初的なナルシシズム的満足を自我理想のなかに移しかえ、世界のなかに自己像を見出そうとする。「自我の発達は、一次ナルシシズムの遠ざかり、そしてこのナルシシズムを再び見出そうとする強い欲求を生み出すことになる」そして「自分自身に対するこの二重の関係のために、彼の世界のすべての対象は常に、まさに彼の自我というさまよう影のまわりに構造化される」(ラカン『セミネール第二巻』)そうしてその偏在する影、自己像が人間関係を確立させるだろう。その外で人は生きることはできない。対象へのリビドー備給は、自己像と現実を一致させようとする努力にほかならない。「ナルシシズムとは、人間であろうとする情熱、このいわばまさに魂の情熱として、たとえいかに気高いものであろうとすべての欲望にその構造を課す」(ラカン「心的因果性について」)。だがこれらナルシシズムを取り戻そうとする努力のすべてが同時に一次ナルシシズムの喪の作業に違いないことは人間というものの大いなるパラドックスと言えるだろう……
……『Marginal』のラストでは女性のナルシシズムがどういったイメージに陥りがちなのかがうかがえる。まるで妊婦のようにふくらんだ腹部を見せながら海へと流れ込んでいくキラ。彼女は母=海となって地球を救うだろう。漫画やアニメはさまざまなファンタスムを取り集めてきたが、これはその中でもとびきりきわめつけだ。妊娠した女性が河の流れに呑まれて海となり、地球が夢みていた原始の至福の世界を取り戻す。
この、母の体内へと取り込まれた妊婦という女性のイメージは、男性にはいささか抱くのが難しい女性のナルシシズム的ファンタスムの究極の形だろう。これは一次ナルシシズムへの回帰に他ならず、幼児への(また両親への)決別という萩尾望都的主題に挿入された、再び生まれ変わる新たな世界という手塚治虫的ストーリー(しかしより感動的な)であり、自分の子供のみならず母さえも優しく抱きとめて河から海へと流れこむ岡本かの子的母性(しかしはるかに壮大な)であるように思われる。世界を救うというテーマが再び変奏される『海のアリア』(1993年完結)においては、進化の止まった惑星の夢のために犠牲となるのは男であり、その男・音楽家(プレーヤー)は死すべきものとして描かれるが、『Marginal』のキラの母性は永遠でありまた不死のものだった。結局キラは死ぬことなく、物語の中で死ぬのは男だけであったことに注目しよう。この調和した(しかしそれでもあまりに夢に満ちた)解決は、おそらくワナでしかないだろう。キラにとって、より困難だが不可欠な道は、原始の幸福な(地球の夢みる)時間に戻ることではない。それは母への、海への回帰であり、またそれらの河はあの「宇宙」へと続くものでさえあるのだ(有吉京子の『ニジンスキー寓話』で描かれたあの恥ずべき宇宙!)。その道程は、もはや人間であることをやめること、永遠なものへと参入して滅却してしまうことを意味するのではないだろうか。そうした道程ほど物語と書くことの本質からかけ離れたものはない。河の入り口でとどまらなければならないのだ。死んでしまったインファンスを悼むこと・レクイエムを歌うことがそこで要求されるだろう。その要求に応えることなくしては、ひとは愛する相手(ベリンモン)と真に共感することは不可能だろう。創造の生も欲望の生も可能ではないだろう。
萩尾望都が『Marginal』でのように幻想的に決着をつけられるSF世界ではなく、『残酷な神が支配する』(2001年完結)で現実のイギリス・アメリカを舞台に、何度も繰り返されてきたこのテーマをもう一度語らなければならなかった理由はここにある(さらには男性ではなく女性を主人公にした物語も語られなければならないだろうが、『イグアナの娘』はその試みの先端にある。この文庫版の解説「どこまでも、いく」で江國香織が「ああ、私、こんなにも遠くまで来てしまったのか。小径を、ではなく、人生を」と感想をもらしていたのもうなずける。ところで、大塚英志は萩尾望都の漫画を女性性、さらには母性との和解の物語と解釈しているが、イグアナの娘と母親との葛藤の解決が母性への回帰などであるわけがないし、そもそも少女漫画といえばフェミニズム的読解しかできない評論家など死に絶えてしまえ。しかし
、自らの母性に対し違和感を抱き続けなければ書くことはできないだろう女性性の問題は、男性評論家の手に余るものなのかもしれないのではあるが)。母親に裏切られていたことを知ったジェルミは、もはや母親と一体になっていたあの乳白色の期待の光の時代へとは決して戻ることはできない。イアンに母親のような役割を求めてもそれは一時しのぎでしかないだろう。物語が決定的な解決を持たないまま終わるのは必然的だった。
……世界で最も美しい漫画『ポーの一族』で真の対立項となっているのはそれゆえバンパネラと人間の対立ではない。境界線はもっと微妙なところに引かれている。大人のバンパネラと最愛の妹メリーベルを亡くす前のエドガーとを、後のエドガーとアランとを分ける境界はいったいどこにあるのだろうか。それは他人を愛そうとするかどうかの差だ。バンパネラたちは年をとらないがゆえに一所の人間の世界で生きていくことはできず、絶えず住処を代えていかなければならない。むしろ人間たちのほうが彼/女らを追い回すのである。
まだ愛する相手とともに吸血鬼になれた者は良いものの、そうでない者や相手を失ってしまった者たちは、エドガーのようにすべてを過ぎゆく眼差しで眺めてただ記憶の中でだけ生きていくことしかできないだろう。だがこのバンパネラの造形が見事な点は、彼/女らもまた死すべき者たちであるということだ。これこそ少年という特異な時期の特質そのものではないだろうか(それゆえ野田秀樹と萩尾望都という二十世紀を代表する天才同士の出会いほど偶然ではないものは他にない)。アランが最後に死ぬのはもうひとたび人間として生きようと欲したからなのだ。エドガーはつぶやいていた、「傷つくのは君のほうなのに」。そう、彼らは薄れることも癒やされることもない傷をもちながらも人間とかすかに関わり合いながら生きていくしかない。しかしバンパネラが真に生きだすには再び死なねばならず、恋という銀の玉を打ち込まれなければならないのだ(銀の玉は狼男か)。
……ああしかしこれらすべての問いを男性では野田秀樹ほど執拗に描きつづけている者がほかにいるだろうか。まずは萩尾望都にその舞台の魅力を語ってもらうことにしよう。
「特に好きな舞台のひとつに劇団“夢の遊眠社”の舞台がある。“小指の思い出”、“瓶詰めのナポレオン”、また“野獣降臨(のけものきたりて)”などを見たが、どれもなんともまかふしぎな劇だ。まるでジグソーパズルのように展開していく舞台に意識は右へ左へとゆすぶられ、ドラマのクライマックスとともに感覚は空白となり、かなたへととびさってしまう。」(「フィジカル!’85」in『萩尾望都作品集I-15』)
だがこう語る萩尾望都ほど野田秀樹の舞台の魔力を漫画に移しかえることのできるものはいない……
……ここで野田秀樹について語ることはあまりできないが、『少年狩り』や『小指の思い出』といった野田初期の戯曲はその狂騒的な動きの裏では明らかに一次ナルシシズムが主題にされている。それは内なる子どもと外の世界の両者に引き裂かれざるをえないナルシス的人間の悲劇を……
……オイディプスが目を持っているのは何も見ないためである。だが彼は迫りくる真実への予感を前にして二度ほど叫ぶだろう。「おお、テーバイの町よ、町よ!」「おお、ゼウスよ、あなたはわたしにどうしようと計られたのだ!」。しかしすでに答えは沈黙のなかに出ている。その沈黙の意味をオイディプスは二度も聞き逃してしまう。テレイシアス「まえにわからなかったのか。それとも言葉を繋いで、もっと言わせようとするのか」。召使い「いえ、さっき(返答は)与えましたと申しました」。オイディプスはここで、彼らが言葉にする前に何を言わんとしているのかをさぐりあてなければならなかったのだ。オイディプスは自らの思考よりも言語よりも論理よりも早く走り出さなければならない。それが自らについて知る唯一の方法なのだから。だが自らは己を知ることのできない盲目のオイディプスを真実へと駆り立てるものはいったい何なのか。彼がその「全知の時」を振り捨ててまで自らについての知を求めようとさせるものはいったい何なのだろうか。彼が両目を失ってまで手に入れたもの、それはしかしやはり知ることの喜びではなかったか。知ることはいついかなる状況であろうともやはり喜び以外のものではない。それは唯一の良きことなのだ。そう、君は知ることができる(Scilicet)。そしてラカンの、「科学が成立したのちに精神分析が創出された理由、それは愛について話すということはいつになっても悦びであるからだ」(『アンコール』)という言葉を思い起こすならば、知ることと愛について語ることとは喜びという大きな共通項で結ばれているのが見えるだろう。無意識の欲動が支配する愛と、その欲動には無知なままの知とはどこで和解することができるのか、そこが結局は精神分析の掛け金のすべてなのだ……
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