たとえば上のシーンの会話のやりとりを見てほしい。この時点で読者にも何が起きたのかはっきり分かっていない。ただ、試合に和也がこなかったこと、そして達也もこなかったこと。その達也はなぜか病院の待合室のテレビで兄貴がでていない自分の高校の試合を応援しており、その背後から医者が「お気の毒ですが……」と声をかける、そんなコマが提示されてきているところだ。そこに、今すぐ南を病院に、ではなく、「試合が終わったら病院に」と伝言を残すことによって、読者にはその出来事がもう終わってしまっていることが知らされるのみだ。そして、それがもう終わってしまったことであるからこそ、もう取り返しのつかない決定的な出来事であったことが暗示されている。もうこの一連のシーンは秀逸としかいいようのないものであり、このまま映画にしても十分いい映画になりそうなほどだ。そしてこの漫画の素晴らしいところは、こうした、赤裸々な感情の描写が徹底的に省かれているという点が徹底していることだ。和也が亡くなったあとの日々の出だしの描き方を覚えているだろうか。
とこういう風に始まるのだけれど、すばらしくさわやかな再開の仕方である。
あだち充は『タッチ』だけではなくほかの漫画もまた素晴らしい。これほど同じジャンルでずっと活躍している漫画も珍しいほどだ。それは、彼がほかの漫画家にはない独自の特色を十分に持っていることの結果だろう。野球漫画のほかに、彼は少女漫画なども書いており、それにも面白いものが多い。どれも基本的には高校生を主人公にしており、一組の男女が惹かれ逢っていく話である。『みゆき』ではその男女間に決定的なハードルがもうけられていた。『ラフ』では因縁めいた関係の男女の物語だった。余韻を残したラストで有名な『陽あたり良好』はライバルが野球の相手ではないが、話のなかに野球のシーンはある。そうすると、「障害型」の恋愛ものと、『タッチ』などの「ライバル型」の恋愛ものにあだち充の作る話はすべからく分類されるだろう(『いつも美空』などのようなどちらにも属さない話もあるが……)。しかし、92年から99年にかけて連載された『H2』はこの両ジャンルを混ぜ合わせたような話で、主人公に一応相手はいるが、それとは別に幼なじみの女の子がおり、その恋人が主人公のライバルとなっている。一見ライバル関係は野球の上でのことのようだが、次第に……という展開で、四角関係が微妙な緊張感でもって描かれている。こうしたどちらとも言えない曖昧な男女の関係を描かせたらあだち充にかなう漫画家はおらず、その魅力を最大限にいかした設定となっているのだ。
というわけで、あだち充の作品は進化しつづけていると言えるだろう。たとえば、むかしは無地で無柄のパンチラしか書いていなかったのが、今ではいろいろな種類のパンチラを書いていることからそれは伺える……はずだ。ワンパターンではありながらも、緊張感に満ちた空白のコマを描くことのできる漫画家として、あだち充は不滅なのである。
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