映画に関するエッセイ

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芸術と現代

 今日の芸術が果たす役割とは何か、このことを映画ほど問い続けている芸術も珍しいだろう。多くの文学が文学の世界に閉じこもってしまいがちに見えるのに対して、映画は現代や現実との関わりをやめようとはしないからだ。つまり、芸術は現代においてどうあるべきなのか、その意義はと絶えず問うているのだが、その問いはもちろん映画そのものに直接むけられることになる。
 しかしこの問いは、そう思われがちだが、映画製作そのものを映画のテーマにするといった、あからさまに自己言及的なやり方でやされるものとは限らない。たとえば映画に関する問いを含んだ映画として、フェリーニの『8 2/1』が必ず挙げられるのだが、あそこで映画そのものに関する本質的な問いが提出されているわけではなく、いくらかの皮肉をまじえた自虐がとりあげられているにすぎない。映画への問いというものは、真剣に映画作りに取り組んでいる映画作家になら、誰にでも見られる問いなのであり、ある決まった形式を必要とするものではないはずだ。
 こうした映画への問いは、60年代からゴダールなどが執拗に続けているものだが、とくに70年代の彼のやり方は映画批評であり、映画そのものを云々している段階であって、芸術そのものを問題にしているかどうかは疑わしいと思える。むしろここでは、90年代に登場してきたアジア人の映画監督を挙げておくほうがふさわいいと思われる。というより、単に私にとって、ゴダールよりも彼らの方が、映画に関して考えるときにより重要だと思われるというだけなのだけれども。
 とはいえ、誰もがキアロスタミの初期のあの三部作は映画にかんする問いをはらんだものとして受け入れるだろう。とくに『そして人生は続く』は、再現されたドキュメンタリーという、かつてない形の映画であり、ある種の異様さを漂わせている。最後に監督は少年を見つけるのをやめるのだが、あの断念というのは、日々を生きる人たちの活力への映画への敗北宣言であったようにも思われる。彼は非常にナイーブな映画監督であり、現実の多彩さと豊かさを映画を通して語るということにその関心は向けられている。そのスタイルを完成させたのが『10話』であり、劇映画とドキュメンタリーとの境界をますますなくしつつある。小津へのトリビュート映画は、彼のこうした資質を純粋に見ることができるという点で貴重な映画だ。彼は世界と映画をまったく信頼しきっており、その態度は感動的なものであると言える。
 ホウ・シャオシェンは『非情城市』でそう思われているように、台湾の歴史を描くことをその課題としているわけではない。彼はむしろ、ある過去に生きた人々の人生が、いかに私たちに係わってくるのか、そしてそのことに映画はどんな役割を果たせるかということを問題にしている監督である。『好男好女』の好とは人間としての生命力、情というものを指すらしいのだが、ここにはキアロスタミのテーマとの類似性がうかがえる。しかしそのアプローチはまったく異なっており、ホウのほうがはるかに複雑な戦略をとっている。彼にとって人間としての生命力は、過去との積極的なかかわりによってかろうじて保てるもののようにも見える。もちろんそれは失われた青春への郷愁といったものではなく、自分をも含めた過去に生きた人々との記憶の交信といったものによって達せられる。同じく台湾現代三部作の戯夢人生 』でもこのテーマは現れているのだが、この三部作が「現代」と名付けられていることに私たちはもっと驚かなくてはならないはずだ。彼の映画によって私たちは過去との交信が可能になるのだが、それは同時に自分が忘れてしまったような自分の過去との交信でもある。おそらくホウ・シャオシェンにとっての映画とは、今まで考えられてきたものとはまったく異なったものだ。彼は映画を作るのにストーリーなど必要としないし、それまで頼られてきた多くの映画的な技法もあまり必要としていないように見える。彼の映画はたとえば『ミレニアム・マンボ』に見られるように、驚くほど執拗なワンシーン・ワンカットによって撮られているが、そこで何か劇的なことが起こるわけでもなく、ただ日常が映されているだけなのだ。しかしその持続する時間が、私たちに強烈な生命力を感じさせる。
 多くの芸術が芸術という象牙の塔に閉じこもりつつあるように思える現代において、映画は果敢に今日の「芸術」に挑戦している。それは完成され、完結したものではなく、私たちに訴えかけ、私たちに応えるものだ。それは私たちに新しい生きる仕方を教えてくれるはずだ。だがその達成は、映画という芸術への深い問いかけなくしては生まれてこないものだろう。そうした問いかけは、明らかな体裁をとっていなくても、今日の映画のなかに深く埋め込まれている。私たちは映画を通して、
人間にとって芸術が根本的な役割を果たしているこの現代を知ることができるのだ。

感受性

 感受性というのはほっとくと低下するもので、とくに都会にいるとどんどんと低下していく。感受性というのは一面では自分を無限に増殖させて、ありとあらゆるとこにもぐりこんでいって、世界を味わうものだと思うんだけど、汚い東京みたいな都会では味わうものがなくて、いらだつことも多く、感受性を外に広げずにみんな自分のうちに閉じこもっていく。そんなとき映画を見ると、そこではすべてが生きている。映画はスクリーンのすみからすみまで監督らの感受性が行き届いていて、世界をみずみずしく感じ取っていることが伝わってくる。そこでは何も切り捨てられないし、ちぢこまっていない。ところが、感覚を拡大して、すべてを生々しく感じる一方、映画は他方で感覚をとぎすまし、一点に集中させたりすることもできる。その両方は一方が他方の裏面になっていることもスクリーンは教えてくれる。映画において、わたしたちは自分の生を回復し、感受性を生き返らすことができる……。

絶対的な処女作

蓮實重彦がジャック・ロジエの『アデュー・フィリピーヌ』、チョン・ジェウンの『子猫をお願い』、レイの『夜の人々』、カネフスキーの『動くな、死ね、蘇れ!』、ベロッキオの『ポケットの中の握り拳』、ジャ・ジャンクーの『一瞬の夢』といった作品は、「絶対的な処女作」であり、たとえ映画の歴史すべてがなかったとしても、彼らはその作品を生み出すために映画そのものを発明するだろう、とする映画。

 

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