2000年代の映画

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マイケル・ムーア監督『ボウリング・フォー・コロンバイン』カナダ=USA、2002

 日本にはむかし、岩波映画が盛んだった頃に素晴らしいドキュメンタリー映画がたくさんあったのに(今でも細々と作ってはいるけどね)、ドキュメンタリー映画見るなんてはじめて、とかいう人は……いや、まあ普通そうなのかな……私もあんまり見たことないしな。でも、これで今までアメリカがこんな国だとは思ってなかった人ってのは……、けっこういたのかな。日本みたいなアメリカべったりの国では、新聞記事とかでもなかなかアメリカ批判の記事が少ないし(最近はそうでもないが、ちゃんと取材はしていない)、人類史上、こんな凶悪な国が出現したことはなかったわけで、ある意味、こういう国の邪悪さというのを想像するってこと自体、かつて人類が想像だにしなかったことなのであって……ええと、まあ要するに、この国のしてきたことを書き連ねるだけで、「人類史上最悪の出来事」みたいなのがずらずらと並ぶわけで、そういうのを知ったり理解するだけでも今まで人類が必要としてこなかった想像力が必要になるわけだということです。んで、さらに想像を絶するのは、そういう国の内実だということをこの映画は言っているわけよね。だって考えてもみてよ、自分の国がしていることが人類史上最悪の歴史的なことばかりだと知ったら、正常な良心や意識を持ったまま暮らしていけますか? そんな国で生きているってこと自体があるいみ狂気なのであって、その狂気から身を守るためには、人の苦痛に完全に無関心になるしかないでしょ、あの全米ライフル協会みたいにね。いや、もともと人の苦痛に無関心だからこそ、人類史上最悪の凶悪なことばかり外でできるのかもしれんが。
 でも1999年4月20日のあの事件はアメリカ人を変えた。どう変えたか。これはアメリカ映画にも繰り返し出てきたあの兆候まんまでみんな驚くでしょ。そら、例の「敵は内にもいるし外にもいて、誰が敵かは分からない」。そこがアメリカという国の素晴らしいところ。ああうちらは仲間を平気で傷つける社会を作ってしまっていたんだ、ひどい国だ、とは思わないのね。「ああいう連中はどこにでもいる、さっさと始末するべきだ」と思うわけ。アメリカ万歳! そうでなくっちゃあねえ。いくつものアメリカ映画が描き続けてきたものが、いかにアメリカ人の心情を写し取っていたか、それがほんとによく分かりますね。最近のアメリカ映画が病的だと思ったら、そのまんまアメリカ人が病的なの。やっぱり映画ってのはその国の鏡なんだねえ。
 映画そのものはたいしたことないけれど、これが大受けしたのは、アメリカって言う国がそんだけとんでもない国だってこと。それだけ恵比寿の観客を引きつける底知れんものがあって、それだけでも普通の映画よりすごいってこと。この点について、やはりちゃんと言及しないといけないと思います。だって、夢も希望もないでしょ、あの国に。人間あそこでまでなったことないと思うよ、人類史上。どんな特効薬ももはやあの人たちを救うのは不可能でしょ。正直、むかしのソドムとゴモラみたいに、単に享楽に溺れていただけで全滅させられるなんて、今のアメリカを見ていると公平だとは言えないですよ神様。知らないこと、他人の苦痛を、自分の国がしでかしていることを知らないこと、知らないで平気でいること。これこそ、最も許されないことだし、最も救いようがないことだってことまで、神様は教えてくれなかったの。そんなことが可能だなんて旧約聖書のころにはどんな悪人だって考えもしなかったから。
 そゆうけで、オサマ・ビンラディンはタワーに飛行機つっこませるんじゃなくって、デンバーとかそういう南部とかすべてに水爆みたいなのをつっこまさせるべきだったの。だってあの国に残された唯一の道は滅びることだけだから。それで世界がまだましになるわけだから実際どんなに情状酌量したとしてもそれはもう否定しようがないことなの、とソドムとゴモラを滅ぼした神様もきっと考えると思う。でもそうせずに、ムーアはこの映画を作ったわけ。まあ、それってなかなかできることじゃあないと思うよ。そういやさあ、むかしに、日本人の留学生でアメリカでFreez!って言われて逃げなかったから撃たれたって話あったじゃない? あんとき日本では、もっと使える英語を教えようって話になって、アメリカではそういう時に人を撃って何が悪いって話になってたよね(もちろん、それぞれに対する異論もあったけどね)。あのときに、この映画があったらあの高校生は死なずにすんだのにね。あの事件のあと日本人は誰もこんな映画を作らなかったんだから(知ってる限り……)ムーアの欠点をあげつらうことはできないと思います。少なくとも……

ガス・ヴァン・サント監督『Elephant』 (製作総指揮 ダイアン・キートン / ビル・ロビンソン、製作 ダニー・ウルフ、脚本 ガス・ヴァン・サント、撮影 ハリス・サビデス、美術 ベンジャミン・ヘイデン、出演 アレックス・フロスト / エリック・デューレン / ジョン・ロビンソン / エリアス・マコネル / ジョーダン・テイラー / ブリタニー・マウンテン / アリシア・マイルズ / ベニー・ディクソン / ティモシー・ボトムズ / マット・マーロイ / キム・ケニー / マイケル・ポールセン / アルフレッド・オノ / エリス・ウィリアムズ)スタンダード、アメリカ映画、2003

 このサイトをごらんのみなさんはもうおわかりだと思うけれども、私はカンヌで賞を取るような映画よりも、美男美女が活躍する普通の劇映画の方がまあ好きなのだ。しかしまあ、スペクタクル映画ばっかり見てると馬鹿扱いされるから、たまには「真面目」な映画も見に行くのである。……まあ、別に意識してジャンル分けて見ているわけではないけれども、さすがにこの映画とか、『ヴァンダの部屋』とかは娯楽のために見に行く映画ではないよね? で、何が言いたいのかというと、そういうことをよく意識して映画を見る人、一方の、まあ「真面目」な映画を主に見てハリウッド映画を馬鹿にすることを生き甲斐にしている人たちはこの映画を文句なしにほめるだろうし、他方の、そのハリウッド映画などを主に見ている人はこの映画をつまんないと言うだろう、という意味ではある点、けっこう典型的な映画ではないだろうか、この映画。
 んで、どうしてそういう二極化が生じるかというと、単にいろんな映画があるというだけで、一方では娯楽を提供するという目的の映画、他方では娯楽よりも芸術性を追求する映画があるわけよね。でも第三の種類の映画があって、それはいわゆる「同時代もの」映画、ととりあえず呼ぶけれども、まあ要するにノンフィクションとかがこのジャンルに入るんだけれども、社会的なものを題材にした映画のことね。さて、映画がはじまって以来、この第三のジャンルが今ほど注目されていることはないと思われます。その証拠に、2004年のカンヌもこのジャンルの映画がパルムを取りましたね。実際、映画は小説なんかよりずっと早く世界中で上映されることができるし、小説よりずっと多くの人に直接訴えかけるという効果があるので、このジャンルこそまさに映画の大きな役割として今後も発展していくに違いないのです。まあ、昔は劇映画のなかにこのジャンルは収まっていた気がするのだけれど、今やもっと直接的なメッセージを持った映画がたくさん作られるようになってきているのではないでしょうかね。
 というわけで、この映画はあのボウリング銃乱射事件を題材にした映画なのだけれど、こういう映画が作らなければならなかった状況というのは、日本のオウム事件なんかを思い出してみてもよくわかる。あの事件は「狂った」浅原の狂気が生み出した異常な事件であって、特殊な出来事なのだ、という感じ方ですね。同じくUSAでも、「異常な」高校生が引き起こした特殊な事件なのだ、というふうにメディアも報道していたらしい。それにしても、同様の事件が北米各地で多発していたよね、あの当時……。まあしかし、『アンダーグラウンド』なんかを読んでもらってもよく分かるように、あれは普通の日常を送っていた普通の人々を本当に突然襲った事件なんであって、誰も当日被害にあうなんて夢にも思っていなかったのよね。そこを襲うというその暴力はほんとうにとんでもないもので、ホントーに恐怖なわけなんです……
 まあ、そういう「恐怖」を呼び覚ます、というのはこうした事件に向き合うためには確かに必要なことで、この映画その点においては成功していると言えるでしょう。しかし……あの流麗なカメラワークはいいんだけど、同じシーンが違う人物の視点から繰り返されたりとかでいささか技巧的すぎるのと、同時録音じゃないのが不自然だったりするのが、せっかくのナチュラルな素人さんの演技をぶちこわしにしていたような気がします。そして、唯一まともそうなのがカメラの少年だけで、あとはみんななんか倦怠しきっているっつうのも、どうもありきたりで、社会批判としては凡庸としか言いようがない。
 ただ、大勢がいるなかで一人の人物を追っかけて、その周辺も含めてドキュメンタリー風に撮るっていうのは、けっこう好きなやり方だし、それぞれの日常も見てるとなんだか覗き見しているみたいで純粋に楽しいってのはある。ただ、非常に多様な側面を持っているだろう事件を、なんか非常に批評的な見地から作り上げている、という面は否めない。とはいえ、この映画の本領は、 なかなか成功している緊張感にあるのでしょう。普通のホラー映画よりかはぜったい怖いです。と言うか、あんまりに怖いので気持ち悪くなると思いますよ、気の弱い人はね。

ヴォルフガング・ペーターゼン監督『トロイ』(製作総指揮=ブルース・バーマン、製作=ゲイル・カッツ / ヴォルフガング・ペーターゼン / ダイアナ・ラスバン / コリン・ウィルソン、脚本=デビッド・ベニオフ、原作=ホメロス、撮影=ロジャー・プラット、美術=ナイジェル・フェルプス、音楽=ジェームズ・ホーナー、衣装=ボブ・リングウッド、特撮=アレキサンダー・ガン / ジョス・ウィリアムズ / ジョン・サム / チャス・ジャレット / ニック・デイビス、出演=ブラッド・ピット、エリック・バナ / オーランド・ブルーム / ダイアン・クルーガー / ショーン・ビーン / ブライアン・コックス / ピーター・オトゥール / ブレンダン・グリーソン / サフロン・バロウズ / ジュリー・クリスティ)、アメリカ映画、ワーナー、2004

 子供のとき胸をわくわくして見たあの『ネヴァーエンディング・ストーリー』のヴォルフガング・ペーターゼン監督の『トロイ』を今の子供たちもやはり胸をどきどきさせながら見るのでしょうかね。なんと言ってもエリック・バナが素晴らしいです。敗北を早くから悟っていた彼が戦いに出かける前の口上なんかは、お子さんたちの胸を熱くさせること間違いありません。そして、お父様たちにはなんと言っても、ピーター・オトゥールですかね。コックスは『25時』にも出てたけれど、オトゥールさんに会うのは『ラスト・エンペラー』以来という人も多いのではないでしょうか。プリアモスを彼がやっているというのが、この映画の映画史的な寄与と言えるかもしれません。
 『タイタニック』や『サハラに舞う羽根』のジェームズ・ホーナーが音楽を担当しているので、どうもくだらない音楽が雰囲気をぶち壊しにしてくれていますが、まあそれはご愛敬ということで……。で、そのぶち壊しにされたブラピとバナの戦闘シーンですが、これはなかなか新鮮だったんじゃないでしょうかね。ダンスみたいだし。二人ともとても戦闘の儀礼みたいなものを守りながら戦っているのが感じられていいですね。アキレスと一番気が合いそうなのが、じつはこのヘクトルなんだけれども、そういう雰囲気が出ていたと思います。
 んで、あんまり原作には忠実ではないこの映画(たとえばアイネイアスは出てくるけれど、木馬のシーンでカッサンドラは出てこない)だけど、プリアモスがアキレスのところを尋ねるシーンは、なんだか古典的な味わいがありました。でも意地悪な見方をすると、オトゥールの演技力にたじたじのブラピが眼をきょろきょろさせているだけにしか見えなくって、その次のシーンで、なんであんた泣いてるの? ということになりますね。はい。
 『Invitation』でも特集があったとおり、今や数十年ぶりの歴史スペクタクル全盛期。まあなんというか、この手の映画はなんか懐かしい味わいがありますね。しかし、大勢の戦闘のシーンでは、『ロード・オブ・ザ・リングス』と比べるとけっこう見劣りはするし、全体の完成度という点から見ても……。じつはあの大作が、エンターテイメントとしてだけではなく、細部をとってみてもいかにすぐれた映像を作り上げていたか、というのが今になってよく分かりますね。まあとにかく、見事な役者たちの競演を見るだけでも、なかなか価値があると思います。火葬のシーンなんかも、ちゃんと調べているようで雰囲気出てますしね。

永遠の語らい』、監督・脚本=マノエル・デ・オリヴェイラ、製作=パウロ・ブランコ、撮影=エマニュエル・マシュエル、美術=ゼ・ブランコ、衣装=イザベル・ブランコ、出演=レオノール・シルベイラ、フィリパ・デ・アルメイダ、ジョン・マルコヴィッチ、カトリーヌ・ドヌーブ、ステファニア・サンドレッリ、イレーネ・パパス、ルイス・ミゲル・シントラ、ポルトガル=仏=伊、2003

 地中海をクルーズしながら、訪れる土地の歴史的な建物を回る、という映画は、もしかしたらたくさんの人が実現しようとしたのかもしれないし、実際にあるのかもしれない。しかしそれを実践したこのオリヴェイラの新作は、ちゃんとした、いやそれどころか、なかなか面白い映画になっているのはホント不思議だ。リスボンでエンリケ王子の像を船から眺め、マルセイユではギリシャ文明の恩恵が語られ、ポンペイでは廃墟になった街を観光し、アテネではギリシャ正教の神父と「アシナ」の像やギリシャ正教について教わり、イスタンブールでは宗教の戦争の歴史を知り、カイロでは奴隷として働かされたユダヤ人たちについて知り、アデンではアラブ人たちについて知る、レオノール・シルベイラのかわいい娘の旅は、実際にありそうな旅だし、あるいはこうした旅をしたことのある人ならこれがそのまま映画にもなりそうなほど豊かな旅をしたと思うだろうものだし、そして実際に、こうして人類の数千年の歴史を旅する見事な映画として実際にスクリーンに映っていることの幸福というものは、もちろん現実に対する映画の敗北というようなものではなくて、下手をすれば単なる嫌みな観光映画になってしまうところが、魅惑的な映像とやりとりに満ちた、心地よい時間を提供してくれる(もちろん、それだけではないのだけれど)。
 ソフィア寺院の床に着いているバッテンとか、カイロで出会うルイーシュ・ミゲラとか、そして特にマルセイユのあの子犬とか、そこに実際に行ってみたくなるような魅力を持ってそ土地は語られるのだけれど、娘がいつも疑問に思うのは、どこでもいつでも戦争ばかりしている人間(あるいは男)の歴史だ。これが衝撃のラストにつながっていくのだけれども、問題は、三人の有名人である女性たちの会話が長々と挿入されることだろうか。確かにこの女性たちは西洋文明の危機をさも重大そうに語って見せたり、それに対する自分の意見を一席ぶってみたりするのだけれど、この会話が、母と娘の会話ほど魅力的かどうかというのはかなり疑わしい。この三人の会話を、オリヴェイラの本心ととるのではなく、母娘の会話との対比で捉えるのが、まあ正当な理解だと思われるんだけど……。だからこそ、シルベイラが船長の招待を断るシーンがあるのだし、「娘との時間を大切にしたい」というその言葉こそがこの二人を特権化しているわけだ。ドヌーヴら豪華な三人の女達もこの美しい二人を前にしては、ただただ彼女らをうらやむことしかできないのはなかなか愉快だ。
 ほんと素晴らしいマルコヴィッチの、あの驚きの顔でストップして映画が終わるのもまたほんとすごい。このラストの解釈はまあ、それぞれの観客に投げ出されているのだ、ということでいいのではないでしょうか。

花とアリス』、監督&脚本&音楽=岩井俊二、撮影=篠田昇、美術=種田陽平、衣装=中谷弘美、出演=鈴木杏 / 蒼井優 / 郭智博 / 相田翔子 / 阿部寛 / 平泉成 / 木村多江 / 大沢たかお / 広末涼子(日本、カラー/アメリカンヴィスタ、2004)

 いいですね、これ。冒頭からすんごい皮膚的な感覚で訴えてくる映像。これで二人の世界に一気にはいってく。で、まるで映画中が花だらけ。んで、正統派美少女河合塾の蒼井優ちゃん。あう〜〜〜〜かわいいぞ。絶対中学生に見えます。『1980』のときよか断然いいですね。変な顔をするときがすんごいかわいいのよ。こう、無理に美少女を撮ろうとせずに、ほんとに女子高生が友達にするよーな顔を撮ったのが成功の秘訣ですね。こういう映画って、撮るのなかなか難しいんじゃないかと思います。んで、コメディなのがまたいいですな。もっと恥ずかしい映画化とおもっちまってたい。
 正直言うと、蒼井優のお父さんのなんともいえん馬鹿っぽさとか、ダンスのシーンでの大沢たかおのアップは不愉快だし、広末が映るシーンは無駄に長すぎるし、最後の告白のシーンは編集過剰だしやりすぎだとか、郭智博あれは何?とかいろいろ不満はあるし、こういういかにも「少女を撮りました」ってのに賛同するのは、なかなか恥ずかしいことではある。しかしここでは監督うんうんよりも、やはり主演二人の女の子の演技に打ちのめされるだけで十分なんです。これはほんとに素晴らしい。
『Invitation』でも特集が組まれていたけれど、昨今の少女アイドルは本格派女優の風格があります。鈴木杏の演技はマジ上手いと思うしね。そして彼女たちはみんなどこか最近の子によくあるどこか謎めいた雰囲気がある。というわけで、ひたすら表情豊かな彼女たちの演技を堪能してください。絶対、幸福なひとときを楽しめますから。

ビッグ・フィッシュ(ティム・バートン) 、2003

 こういうお話には弱いんだよね〜、もともと。でも、試写会に来ていた、つまんなかったらさっさと帰っちゃおう的なモチベーションの低い観客をぐいぐい映画に引き込み、最後には感動の渦潮の鳴門に巻き込んでいったのは、ティム・バートンの見事で(蓮實氏曰く)「律儀な」演出のたまものでしょう。それに、ユアン・マクレガー、ジェシカ・ラング、ヘレナ・ボナム・カーター(二役!)、アルバート・フィニーといった、これでもかこれでもかッというほどの名優揃いの競演が見応えたっぷりだからだ。
 印象的なステキなシーンも数多い。靴を電線に引っかけたり、年老いた妻が服を着たまま夫と一緒にバスタブに浸かったり、水に浸かった車の横を人魚が泳いでいくのを眺めたり、一面の水仙の花畑の中で恋が実ったり、などなど。どれもこれもティムの演出が光ってるんですよ。相変わらず木がむきむきと動いたりとファンタジックなシーンも多いあるよ。でも、ゴシック調ではないけれどもね。
 いつも家にいなかった父親のホラ話をまともに受け取ろうとしない息子が、父親の死に際して、その人生の意味に気づいていく……。それは「真実」というものではなくて、父親自身が自分の人生に対して感じていた「意味」そのものを息子が体験していく、という課程なのね。でもそれって、「物語」そのものの本来的な機能だと思うのよね。シェヘラザード以来のね。だからこそ、息子が、父親の物語を引き継いで語るシーンが異様なまでに美しいのよね。文句なしに。これは、映画史上、最も 「いい」シーンのうちの一つだと思います(ほんとかよ)。
 ティム・バートンはこれで唯一無二の名監督になったわけだけども、この彼の変化の兆候をいち早く見抜いていた蓮實さんはやっぱりすごいわね。次は『チョコレート工場の秘密』の再映画化だってね。これは死ぬほど愉しみです。なんてったって子供の時の愛読書なんだもん。

APPLESEED荒牧伸志) 日本、2004

 士郎正宗原作の漫画のアニメ化。全編CGで制作されているけれど、人間はなんか微妙に普通のアニメっぽい質感なので、いささか違和感がある。原作は途中までしか読んでいないし、もともと未完なのだけれど、これ結構アレンジしているのではないかと思う。原作にはちょっとありえないほどお涙頂戴物になっているのはちょっとがっかりかも。全編CGと言っても『イノセンス』ほどの重量感はなく、佳作といったところか。
 誰でもわかることだけど、これカメラワークがハリウッド映画みたいなのよ。3Dじゃないアニメってさあ、カメラワークが単調で、劇場で見るとなんか物足りなかったりするでしょ? でもこれはほんとすごいよ。空中戦のシーンが多いので、特にそう思いますね。細かい描写も多いので、やはり大きなスクリーンのある劇場で見た方がいいかも(テレビで見るよりも、ということではなく、小さなスクリーンのシネコンでよりも、という意味です。念のため)。
 けっこう設定が多い話なので、それを追っかけるだけでけっこういっぱいいっぱいだったりして、まあそんなに上手な映画ではないかな。でもそのぶんストーリーはわかりやすくなっていて、『イノセンス』よりは一般ウケするだろうけど。でも、主人公の声優がちょっと違和感あるかな……。
 しかし、CGもどんどん進化しているみたいだなあ。昔は、CGの映画なんていかにもまがい物っぽくて見る気しなかったんだけど、物質の描写に関しては今や実写と見間違うほどだもんなあ。ただやはり、人の描写はまだまだ難しいみたいだけど。でもまあ、日本のアニメなのにハリウッド映画みたいなアクション映画なので、そういう珍しいものとしても見る価値はありますよ。多少音楽が無神経にうるさいけど……。ともかく、見て、びっくりしてくださいな。

イン・ザ・カット(ジェーン・カンピオン)USA、2003

 『ホーリー・スモーク』のときは何年も公開が遅れたあげく単館系の上映だったのに、なんでメグ・ライアンが出ているだけで拡大公開になるのか疑問なジェーン・カンピオン監督最新作。明らかにこの映画の観客ではない人が間違えて見に行っているみたいなんですけど……。でも、これはサスペンスやミステリー映画でもなければ、エロ映画でもないし、見る人限られてくると思うんだよね。ちなみに、ここに書いてある意見はけっこう合っている。
 いったん愛しちゃったら、たとえその男が殺人犯かもしれなくても、愛しちゃうのをやめられない女の性ってやつがこの映画のモチーフで、その男への疑念にさいなまれながら性に溺れていく中年女の主観的な視点からのみ撮られていて、猟奇的な殺人事件が起きるたびに恐怖感と緊張感が盛り上がっていく。メグの感情に同調できるかどうかが、この映画の持ち味である緊張感を味わうことができるかどうかの分かれ目なんだけど……。
 そうかあ、ジェーン・カンピオンって、女性の心や欲望の揺れ動きを緊張感をもって描き出すってのがいつも作品にはあるのね。メグ・ライアンの演技はとてもよかったと思います。いかにもそれらしくって。ほんと最後まで怖くってドキドキしたしね。あとあと、これ結構手持ちカメラを多用していて、何も分からないメグの視線ってのが表現されていて、まあこういう使い方はよくあると言えばよくあるんだけども、なかなか効果的だと思います。でもさあ、あんな変な男(ってケビン・ベーコンなんだけど)と軽くセックスを楽しめる女がいきなし現れた男と思いがけない愛に陥り、かつてなく性に溺れていくっていうのはちょっとよく分からん。ケビン・ベーコンは不要だったんではないだろーか。あと、腹違いの妹ともっとあやしい関係だったら面白かったのに……。とはいえ、本気で恋愛をしたことのある女性や、インテリの女性が見れば、共感できることはたくさんある映画だと思います。メグ・ライアンもなかなかセクシーだしね。
 しかしこういう、中年になって性に溺れるっての、男が主役のやつはたくさんあるよね。でも、これは女性の「愛」が女性たちによって描かれているのが新しいのかしらん。そう言われるとそういう気もするよね。しかし間違った公開のされ方をしましたね、これ。

イノセンス(押井守)、日本、2004

 あーあ、あれだけ鳴り物いりで登場したのに、世間の評価はさんざんですね、このアニメ。でも、このアニメが世界で最も異常なアニメだという事実は変わりません。ああ、20億円の制作費はいったいどれだけ回収できるんだろ……。これがものすごい労力と地道な努力の結晶だってことは、見た人なら誰もがうなずくんだけども……。この失敗は、観客が映画に何を望んでいるのかを読み違えたか、あるいはそんなことそもそも考えなかったことからきているのでしょう。いったいどれだけの観客がこのごちゃごちゃした世界観と圧倒的な情報量の背景を見に行くために映画にいくのだろうかしら。
 もちろん、前作と同じ伊藤君子の歌や、バトー君に再会できることの喜びにひたれないわけでもないのだけど、ストーリーはオイオイって感じだし、引用も空回りしてて、なんか必死に知的に見せかけようとしているみたいでイタイ。正直、どうしてロボットと人間の問題をとりあげる人って、 よりによってデカルトなんかに言及したがるのかね。この監督が『モナドロジー』を少しでも理解していたら、もっと内容のなる物語になっていただろうに。
 ハイライトの一つ、チャイニーズ・ゴシックのシーンも唐突で、ストーリーに何の寄与もしていないし、いかにもまがい物っぽくて、映像のリアリテイがあるだけに、ひたすらグロテスクだ。物語上の仕掛けなんかもありきたりで、新鮮味がないねえ。食料品店のシーンは、ここだけに十ヶ月もかけたというだけあって、とてもいいのだけど。でも、十ヶ月って……際限知らなさすぎ。 
 そうそう、テレビ版の『攻殻機動隊』はすんごく面白いので、毎回見逃さないようにね。タチコマも出てくるし〜。しっかしこの映画は、これに数年間捧げてきた低賃金のアニメーターたちと押井さんの今後が気になりすぎるので、後味悪いですね、今は。USAでならヒットするかもしれないけれどね……。

ドッグヴィル(ラース・フォン・トリアー) 、デンマーク、2003

 2003年のカンヌで衝撃的なデビューを飾りつつも、賞を取れなかった曰く付きの話題作なんですが……。なるほどぉ、こりゃあ話題になるわ、そして賞はちょっと……(今のカンヌの体質からしてね)。でもね、これ、前作よりは好きよ。いいと思うよ、あれよりかは。あれはほんとにゲロゲロって感じだったんですが(まあそれなりに、いろいろと作り込んであって、内容は豊かな映画だったのは確かだけど……)、今回はあからさまにゲロゲロ的な内容なのに、むしろそうならなくって、ドッグヴィルの人たちが突っ走っていくのを見ていて楽しめるし、最後の章では視点を逆にして、ニコール側に同情しちゃえば、感情移入もばっちりできて、お客も満足ってわけよ。
 最大の欠点を挙げるとすると、『エデンより彼方に』でゴシップ好きの裕福な隣人を演じていたパトリシア・クラークソンは、あんな田舎のどうしようもない馬鹿ちんたちの村のおばさんって役にしては、美人で知的すぎるように見えることですかね。クロエ・セヴィニーはすんごいなりきってたよね。彼女だって最後までわかんなかったや。
 まあ確かに露悪趣味(以前やはりカンヌをもらった『ロゼッタ』みたくね)なのは事実だけど、脚本を書いたラースの、人間を観察する眼の細かさは、素直に評価すべきでしょう。まあ、どんな映画にも必要なものだけど、それは。チョークだけのセットで、あんだけ緊張感のある演技を引き出したのもすごいよね。ニコールがカーテンをあけるシーンなんかすごかったですね。はい。ただ、シーンを細かく切りすぎていてあからさまな「これ編集しました」色が出ているのはどうなんでしょ? 手持ちカメラというのは、この監督なので仕方がないし(そういうもんか?)、この映画にもそこそこふさわしかったような気がする(でも手持ちカメラというは映画的ではない道具だと、執拗に思い続けることには変わりないのですが)。
 え? なんか思想的なこと言えって? これはアメリカの歴史だよね、とか、最後にあんなことするんだったらニコールも同じ穴の……じゃん、とかそういうくだんないことを言えって? じゃあ一つだけ言うとしたら、最初に、ニコールが受け入れてもらうように努力するって考える時点で、あの物書きは間違っていたわけで、今日の歓待論のレッッスンによれば、そしてそもそものあの人の思想からすれば、歓待する側こそが、受け入れるよう努力すべきだったんだよね。無条件な歓待。無条件な贈与。んで、正義は必要です、とかデリダみたく言っちゃうのがいいのかな? あるいは、無条件の赦しが必要だ、とか? まあデリダ的な倫理の問題のほぼすべてがこの映画にはあることは確かだわ。
 前作のあれがすんごい異常なヒットだったから、ああいう甘ちゃんな感じの映画で今回も客が呼べたはずなのに、こういう異常な映画を作ろうとするのって、なかなか大変なことだ。たとえ、この監督の全作品でも小津のワンカットとは引き替えようにしようと思いませんということが事実だとしても、いやあ、マジでこの監督、見直しましたよ。B。

ラブ・アクチュアリー』監督・製作総指揮・脚本=リチャード・カーティス、 製作総指揮 モハメド・アル・ファイド、製作 ティム・ビーバン / エリック・フェルナー / ダンカン・ケンワーシー、撮影 マイケル・コールター、美術 ジム・クレイ、音楽 クレイグ・アームストロング、衣装 ジョアンナ・ジョンストン、出演 ヒュー・グラント / リーアム・ニーソン / エマ・トンプソン / アラン・リックマン / ビル・ナイ / コリン・ファース / ローラ・リニー / マルティン・マカッチョン / キーラ・ナイトレイ / ローワン・アトキンソン / アンドリュー・リンカーン / グレゴール・フィッシャー / ルシア・モニス / ロドリゴ・サントロ / トーマス・サングスター / オリヴィア・オルソン / ハイケ・マカチュ / マーティン・フリーマン / ジョアンナ・ペイジ / キウェテル・イジョフォー / クリス・マーシャル / アブダル・サリス / ビリー・ボブ・ソーントン / シェンナ・ギロリー / イワナ・ミリスビック / ジャニュアリー・ジョーンズ / エリシャ・カスバート / クローディア・シファー / シャノン・エリザベス / デニーズ・リチャーズ、イギリス、2003

 ラブ・コメってとりたてて芸術的なジャンルでもないし、ちょっと軽めのジャンルだと思われているようで、それはまあラブ・コメの普及のためには正当な考えなのだけれども、ラブ・コメだって大きな感動を与えることのできるジャンルだってことはもっと注目されたっていいのよ。ああ、違うって、「だから愛っていいよね!」的な感動じゃないんだってば。そうじゃなくって、男と女がまともな会話とかもかわさなくってたって、いつのまにかつっくいちゃうっていうそのことが、ある人間同士を結びつけずにはおかない不思議な信頼感とでもいうべきものが描かれているときに、感動するわけです。前置きはこれくらいにしといて……
 正直、イギリスの大統領はどう思いました? あの二人の出会い方にしても、近づき方にしても、ちょっとあれでござんしたねえ。率直に言うと凡庸というか、退屈というか、もっと下品にしちゃってもいいのにって感じ。でも、大統領が彼女のうちに行って、みんながいるところで彼女が動揺するシーンはなかなかいいですね。まあtypicalなシーンではあるけれど……。でもそのあとの歌のシーンが恥ずかしいものにならないのは、おつきのお堅そうな人が一緒に歌をうたっちゃうところでした。そう、この映画、真面目なラブ・シーンはあんまり上手くないけれども、こういうユーモアっぽいシーンが楽しくっていいのです。 脚本は『ブリジット・ジョーンズの日記』と同じリチャード・カーティスだけど、あれよりは恥ずかしいシーンが少ないですよね。コリン・ファースとヒュー・グラントもあの映画以来の競演だけど、こっちは純粋のイギリス映画なだけに二人もよりイキイキしているかも?
 で、この映画は愛を得る人だけではなくて、愛を得られなかった人のことも描いているのよね。その描き方は上手いとは思わないけれども(やはりいささか凡庸)、少なくともこの映画に深みを与えているのは確かです。で、そういう布石が最大限に活用されるのがラストの小学校の学芸会のシーンですね。まあ、この映画のいろんな登場人物がこのラストで顔を並べるって感じなんです。ここがいいのは、今までの人物関係の清算や、確認に終わるのではなく、まさにそこで新しい人間関係が生まれようとしている場として描かれていることなんですね。それまで描写されてきたさまざまな人間関係が言わば下地となって、ここで新しい上地が挿入されるといった感じ。そうなんだよね、これは愛の映画ではあるけれど、私たちが感動するのは、この映画の中で人間関係が生まれ(あるいは流産し)、それがそれぞれの人間を変えていくのを目撃しちゃうことにあるんだと思います。上手く言えませんがねえ。
 さらに秀逸なのが、9.11の事件を下敷きとした最初の空港の映像のシーンと、最後の空港のシーンとか呼応し合っていること。最後で私たちが目撃するものが、まさに、actually, 最初のシーンで、空港で人々が駆けつけ合うシーンとほとんど同じなんだよね(今や親しい人たちも含まれているけれど)。YES, love actually. あとラブ・コメってよくそうなんだけど、言葉を大切にしているのも好感がもてます。 休日に家族で見るビデオとしても、いいと思いますよ、これ。

ジョゼと虎と魚たち』監督=犬童一心、日本、2003

 ちまたで大好評のこの映画。これを見て感動しない奴はまともな恋愛経験のないやつだ、という雰囲気まであるので、もはや否定的な意見を提出することさえためらわれるようなこの映画。でも、私の評価は「まあまあ」ですね。どう考えてもA級の映画ではないでしょ。
 妻夫木さんは意外といい演技をしていて、オドロキました。なんかナチュナルな演技でよかったですね。彼のがんばりなくしてこの映画の成功はなかったわけだし。でも、この役以外に演技できるのかどうかは疑問だという意見が……。池脇千鶴は文句ないでしょう。『大阪物語』であんなにまだ子供だったのに、大人の女性になっていたのに感激ですよ……。ほかには、江口徳子が与えられた役以上に存在感があって困っちゃいますよね。上野樹里って『てるてる家族』の秋子役だったんだよね、全然役柄違うけど、やっぱり演技下手だったからあのドラマでも影が一番薄かったんだなあ……。
 正直、演出というか、二人の関係の見せ方がちょっと一本調子で、なんかこう、オドロカされるシーンがないんだよなあ。卵焼き食べる以外に、なんかもっと二人の細かな日常のやりとりを描いていたら、ぜんぜんいい映画になってたのに。この監督、平均的すぎるんだよなあ。
 あと、妻夫木と上野樹里が再会するシーンなんかは安直すぎ。彼がどうして彼女を選ぶのかも納得できないし。ああいう強烈な人と付き合った後なら、単にかわいいだけの女の子となんて付き合わないでしょ。二人がどうして別れることになったのか、そのへんの経緯を描かないと、たんに「男ってこういうもんだよね」みたいな終わり方になっちゃってるじゃない? これは原作にはない部分らしいけれども、ほら、こういうところで監督さんがイマイチなのがよく分かります。でも、ジョゼが電気椅子で元気に通りをぶっとばしているところはよかったけどね。

幸福の鐘(SABU)

ヴァイブレータ()2003、日本

 同じ時期に公開されている映画として、『ブラウン・バニー』とこの映画を比較してしまわないわけにはいかないでしょう。まあ、ロード・ムービーっつうのは、もともとなんか私的な映画のジャンルなんだけど、ほんとどちらもそうだからなあ。でも確かに『ブラウン・バニー』のほうが痛い映画なのに、これより映像ははるかに夢のように美しかったなあ。まあ、どちらもアマアマだと私は思いますけど。
 そう、最近ほんと気になるんだよなあ。手持ちカメラ。もう手持ちカメラで全編とっている映画なんてはじめから決してみないことに決めていたとしても、そんなに人生損をしないのではないか、と思うぐらい手持ちカメラはいいと思わない。まあ、狭い車内で手持ちカメラは便利だってのは分かるんだけど、それって単に安易なだけだよね。
 大竹じゃないや寺島しのぶは確かにすごいいい。まあ、彼女を見たいだけだったので、いいや、満足。愛されていて満足している女の人の表情がほんとよく創れていたと思います。でももっといい役をもっと若いころからもっともらっておくべきだった俳優なのではないのか、この人は。彼女と比べると、大森南朋なんて嘘くさい演技しているとしか思えなかったもんなあ。ほんと実力って残酷にスクリーンに映るよね。
 結論。そんなに悪い映画ではないけれども、まあはっきし言って退屈な映画だな。どきっとするような部分が全然ない。よく眠れるのは保証するけど。『ブラウン・バニー』のとこでも言いましたが、これを今年一番の映画だとか主張する輩ってのは、ほんと母親離れができてないひよっこちゃんなんだろうな、と思います。わたしゃあ、もっとキリキリと心にくる映画を見たい。冬だからと言って、ぽわわんと癒されたりするのはごめんこうむりたいものですな。

ブラウン・バニー(ヴィンセント・ギャロ)2003

 ぎゃろぎゃろぎゃろ〜ぎゃ〜ろ〜。うううううん、なるほどロード・ムーヴィーかぁ。この人、ちょっと古いアメリカ映画なんかがすごい好きなんだよね。まあ、『バッファロー』はそれで点を稼いでたんだけど。まあでも、私がそんなに評価しないであろう監督であることはもとから分かってはいるでしょうけれど、みなさん。でもカンヌでも話題になったこの問題作、なんか眠い日に、しかし見ないわけにはまいりませんでした。まあ個人的な体調の問題で申し訳ないけれど、非情に心地よく眠ることができました。心地よく眠られる映画というのは、じつはなかなかいい映画だったりするので、この映画もほめてあげなきゃいけないな。
 センチメンタルで甘くって、美しい映像がずっと流れていて、でもどことなく夢想のようだなあ、と夢うつつに思いつつ見る映画ですね、これは。まあ、こういう私的な映画ってのは、見る人がそういうのにいくらかでも近い体験をしているかしてないかで全く共感できる度合いが違うものなんだけど、でも、これはこれで一つのスタイルでしょう。ぼんやりとなにやら昔の体験か何かを思い出しながら見ればいいのではないでしょうか。それはやはり、映画でしかできない不思議な体験だと思うのよね。
 でも、この映画を2003年最高の映画の一つだ、とか言っている人たちにはやはり言っとかないといけない。これだったら、すでにホウ・シャオシェンがいい映画をたくさん撮っていて、あのレベルに到達はしてないじゃないか、と。まあ、好みの問題なんだろうけどね。

赤目四十八瀧心中未遂(荒戸源次郎) 、2003。車谷長吉の同名小説の映画化。

 ここでレビューするのはなるだけいい映画と思えるものだけに絞って書いているつもりなんだけど(まあたまにケナすことはあるけどね)、これは全然駄目ですっていうのがあったら書いておかなければ、なんでこれ駄目駄目って誰も教えてくれなかったんだよー、と激怒なさる方がいたら困るので、たまにはけちょんけちょんに×印をつけておくのも有意義と言えましょう。じつは自分がそう思ってたりして。
 ……これ、映画ですか? 映画のことホントにこの監督知ってるんですか? いままで映画に感動したことのある人なんですか、この監督。いや、マジで。シンジラレネーションです。ありえません、こんな映画撮るなんて。これが映画だと全人類が主張するのなら、わたしゃ清水寺から飛び降りてもいいぞ。
 大西滝次郎とかいう新人が主役なんだけど、この人がなんかワナワナと顔を硬直させるところをアップで五秒も撮るのを見て、すごーくイヤーな予感がしたんだよね、冒頭から。これ、ジョークだよね? 誰かそう言ってよ。そうでなきゃ私の頭が狂っているのか? この主役のなんだか安っぽい文学青年な感じは何なんですか? 今年、2003年だよね? いつのまにかタイムスリップしちゃってる? いったい誰がいまの世で、なんか内面に屈折したものを持っているよくわかんないけどありがちな文学青年を映画で見たいと思うのですか? しかもアップで五秒も。しかも単にわなわなとしてるだけのとこ。ありえない。なんすかこれ。いや、監督がたとえそう演技しろって言ったとしてもよ、ちょっとは映画を見てる役者なら、そんな演技できません、ぼくも将来があるので、っていって断るでしょ? だって、あまり言葉を発しないけれど、ちゃんと人間らしさを持っていて、なんかしんないけど怒りをためこんでいるらしい主人公の「内面」なるものをここぞとばかりに、お顔ワナワナで表現しようとするのよ? オーマイガッ。残念だけど、この俳優は二度といい映画に呼ばれることはないでしょう。舞台も見たいとは思わない。まあ新人さんがこの、人生の底に行き着いた男を演じるってのもそもそも無理があったのは認めるが……
 小説はすごくいいのに……。いや、舞台とか、女性の脇役とかはすごくいいよ。寺島しのぶさんに大楠道代さん。でも男優は全滅状態。ひどいね、これは。なんだか監督周辺の人材を使ってるらしくてねえ……。子役もこんなんでOKをだすというのが信じられないレベル。面白いのは、みんなすごくそれぞれの役をやりたかったらしいんだけど、大楠道代さんだけはやりたくなくってどうしようもなくて、途中で病気になったら辞められるのにと思いつつ最後までやった、なんてことを言ってるの(それ言っちゃうのがやはり常人ではないですね)。でも彼女が一番いいんだもんなあ。ほんとのプロってやっぱりすごいもんですなあ。それに比べると内田裕也は……。極道関係はほんとヒドイ。監督、ちゃんと取材した?
 一番ヒドイのは、なんと長廻しをしちゃっていること。同じシーンが何秒も続くのに、なんつーか、画面にまったく強度がない。あのね、長廻しなんてのはね、それをしてもいい監督と、そうでない人がいるの。あんた、溝口の長廻しにかなうと思いますか? ゴダールの、タルコフスキーの、ホウシャオシェンの長廻しほどの緊張感をもった画面を持続させることができると思っているんですか。一目瞭然でしょう。編集ときに誰も言わなかったのかなあ、ダメだねこりゃって。だって、映画みんな見てるんでしょ? なんすかこの面白くもないシーンの積み重ねは。まったく映画的なシーンがないの。映画って、こんなに、苦痛なものでありうるなんて、はじめて実感しました。同じく小説原作の『夜を賭けて』の長廻しは素晴らしかったんだけど、あんだけのエネルギーをもったシーンを撮るか、それともシャオシェンみたいな、いやあれはまねできないだろうけど、なんともいえん充実した、でもあんまり変化のないシーンを撮るか。それができなきゃ長廻しなんて普通選択肢のうちに入ってこないと思うんだけど……
 え? 山根貞男が「目の力がすごい」って評価してたって? あんたねえ、そんなの褒め言葉でもなんでもないのよ。目の力って……。確かにおめんめにやたら力込めてカメラには映っていたけどね、それを演技だとか一瞬でも思うこと自体、ありえないことなんですよ。カメラも凡庸だね。これと比べると、これよりはるかに特異な作風だった『沙羅双樹』のほうがいかにまともな映画として成立していたことか。こっちは、映画としてもこれをとりまとめるほどの統一感というものもない、ただのシーンの連なり。この監督にはほんとに映画をまとめることも、完成させることもできないんだなあ、と思わせるだけ。
 この監督、前作で『ファザーファッカー』を撮っているらしいことからして、なんだか私小説的な文学に憧れているんだろうね。でもね、私小説は映画になんないのよね。そもそも、文学へのあこがれと映画って何の関係もないものなの。というか、それで1910年代ぐらいのヨーロッパー映画が失敗したって言う映画史の歴史をご存じないわけじゃああるまい? 何にせよ、こういう映画がいいと思っちゃう倒錯した状況ってのが確かにあることは認めるけれども、それに対してはやはり本来のアメリカ映画のよさってのが映画そのものなんだってことを、きちんと知っておく必要があるでしょう。っていうか、常識? ああ、疲れた、二時間四十分も見るだけで疲れる映画だし、語るのも疲れるわ。

10話(キアロスタミ、イラン、スタンダード、2002)

 これは奇跡だ。こんな奇跡を私たちは、いやキアロスタミその人でさえ、今まで十分に映画に期待してきていただろうか。私たちは知らず知らずのうちに映画に求めるものを限定し、その可能性をいつのまにか過小評価していたのではないだろうか。私たちはいつのまにか、映画に奇跡を期待することをやめてしまっていたのではないのだろうか。しかし奇跡は起こった。誰の予想も期待もそれは見事に裏切ってくれたのだ。
 始めのシーン。アミンとと呼ばれる男の子にデジタルビデオカメラは向けられている。車のダッシュボードに置かれたDVだ。アミンは母親と口論している。一見、よくある親と子の際限のない言い争いのような会話だ。男の子はそれに耐えられずに、ついに爆発して「お母さんは結局、お父さんと別れてよかったって言いたいんだ」と言う。ものすごく顔をゆがめて、身振り手振りで、不満を爆発させた口ぶり、それも長い間じっくりとためられてきた不満が爆発するときのどこかしら無力感も混じった怒りの口ぶりでそういう。この子どもは、いや子役は、恐ろしい役者だと誰もが思う。しかしこの子の表情がやりとりのなかでなんとも歪んできて、口ぶりもより辛辣になり、母親と一歩も譲らない知的な言い争いとどうしようもない感情の爆発をさらに見せだすと、もうこれはただの天才子役なんかではない、いったいこれは何なのか、と驚きどころか恐怖さえ感じずにはいられない。私が見ているのはいったい何なのか、これはいったいほんとに映画なのだろうか。
 これがはたして映画なのか、そうでないのか、などというのは無意味な議論だ。キアロスタミはカメラを車において、撮影した映像をあとで編集しただけだ。役者たちにはシチュエーションだけを伝えて、その演技のほとんどが即興だという。そんな、信じがたいと思うだろうか。しかし信じがたいのはこの映画だ、ここに映っているほんのわずかな表情の変化で多くを私たちに語ってくれる人たちのほうだ。その信じがたさのまえには、ほかの驚きは色あせてしまう。
 母親は若くて、知的な顔立ちをしている美しい女性だ。彼女は次々と自分の車に他人をのせて、行きたいところまでとどけてあげる。毎日三回霊廟へのお参りをかかさない老婆はもう人生で何もかも失って自分の全財産はこのお守りだけだといって彼女に手渡して見せる。夜の町で偶然拾った娼婦と話しているうちに、彼女は男に裏切られたことがあって、以来男を愛さないでいるようにしようと決めたのだ、と本音をもらす。保育園で働いている彼女の姉は、アミンには父親が必要なのだから、父親のところにやればいいと言う。彼女は父親のところで住んでいるアミンを車で迎えに行く。アミンはおばあちゃんの家にいくと言う。アミンは車が家の方に向かっているといってわめきだすが、母親はこの道が近道なのだ、と何事もない。やがてアミンもこの道はまえにタクシーで通ったと言って落ち着く。アミンは彼女にキスもしようとしない。霊廟にお参りにいった帰りに、やはり同じ く帰りの女性を車に乗せる。その女性は結婚したい相手がいるのだが、男のほうは煮え切らないのでお参りにくるという。彼女の友達を食事にレストランに連れて行く間、その友達はずっと泣き続けている。最近男に振られたのだ。泣いていても仕方がないのだ、普段から男に頼って生きているからそんなに泣くはめになるのだ、情けないと、彼女は友達に容赦ない。どうして自我をもてないのだ、自立できないのだ、と苛立つのだが、その苛立ちは友達に対してとは思えないほど厳しく、あまりに非情に思える。彼女はまた父親のところへアミンを迎えに行く。アミンはあばあちゃんの家にいくといって、またこの道は家に向かう道だと言ってヒステリーを起こすし、母親におばあちゃんの家にも泊まって欲しくないと言う。さらにアミンは、新しいお母さんは彼女よりましだと言う。お母さんはぼくより仕事が一番大切なんだ、今度のお母さんは彼女と違ってお皿を毎日洗うし、毎日食事がおいしいという。彼女は参ったと言う。再びお参りに来ていた女性を乗せる。彼女は男に結婚を断られたという。そして彼女は以前とは違った姿を見せる。彼女はすこし涙を流し、母親はそれを手でぬぐってやる。そして言う「ええ、失うのはつらいことね」。三度アミンを迎えに行き、乗せる。
 ここにはいろいろなものが描かれていると見えるだろう。イランでの女性の立場や、その苦しさ。あるいはより普遍的な、女性としての悲しさや苦しみ。母親と子どもとの関係や、イランに住む人びとの信仰心などなど。しかしここで物語の大きな筋となっているのは、ずっと運転席に座っている母親の、微妙な心情の変化だ。彼女ははじめはアミンと一緒に住んでいて、別れた父親のところにはいかせたくないと思っている。彼女はアミンが彼女を独占したいから不満なのだと言って、自分がアミンを独占したいと思っていることには気づいていない。やがて姉の説得によりアミンを父親のところにあずけ、そこでアミンが幸せそうに暮らしていることを知る。はじめの彼女は信仰心が薄く、お参りなんてしないが、老婆と出会ったことをきっかけに霊廟に訪れるようになる。彼女ははじめは女性の自立や、自分の自由ということを主張して、男を失ったことに泣く友達にいらつくが、お参りの帰りに乗せた女性が男に振られたことと、そのかわりはてた(?)姿を見て彼女の悲しみに共感を示す。
 彼女に訪れた変化はほんとにかすかなものだが、しかし決定的な変化だ。なんせ彼女はまだ25なのだ。彼女が離婚し、息子と仲違いし、男に裏切られた女性たちの話しを何度もきくうちに、彼女が主張する自我や自立や自由とかいうものではどうしようもない人間の感情にわずかだが共感を示すようになる。ささやかだが、これ以上はありえないといってよいほどの変化だ。これはひとつの奇跡だ。
 キアロスタミがこの映画を撮ったというわけではないのかもしれないが、人間をよく知っている彼でなければつくることはできなかっただろう。「『10話』はもう二度と撮れない作品だったかもしれないと、時折自分に言い聞かせる……。『10話』……ほぼすべてがここに要約されている」とキアロスタミは言っている。彼がなした仕事はある神聖なたぐいのものであり、彼もそのことをよく知っているのだ。しかし、それにしても、大きなスケールの物語なんかではない、こんなささやかで素っ気のない映画が、なぜこんなにつきることのない感動を与えてくるのだろうか。まったくもって奇跡的な映画だ。S。

鏡の女たち吉田喜重)、日本、2002。 (東京都写真美術館

 むかし『ぴあ』に「この人とこの映画を見に行きたい」とかいうミニシアター紹介のコラムがあったのだけれど、その流儀でこの映画を紹介するなら、まさに野田秀樹とこの映画を一緒に見たい、ってことになるでしょう。野田さんの『パンドラの鐘』に挿入されている蝶々夫人のエピソードが、吉田監督がUSAで演出を担当した現代版『マダム・バタフライ』から明らかに着想を得ているだろうこと、彼の『オイル』もまたこの映画と同じく原爆がテーマとしてあることなど、両者の同時代的な共振だけがその理由なのではなく、この映画そのものがなんだか野田の二重三重に時間がからまりあうその芝居の原作にでもすぐになってしまいそうだからだ。
 三世代にわたる女性たちは、それぞれがお互いの話しを引き出しつつも、その引き出した話がまた各人の話へと反響し、それを書き換え、また新しい話しを引き出していく。しかし、それぞれの話しが重なり合うことは なく、三者のあいだの溝が埋まることはない。それはそのまま三者の生きてきた時間の差そのものであって、それぞれが抱える記憶の重みでもある。それでも岡田茉莉子の話しに残りの二人が耳を傾けるところは、ちょっと涙なくしては見られない。うーん、お見事。
 詳しいことは2003年4月臨時増刊号の『ユリイカ』の吉田喜重特集をよく読んで下さい。これは 間違いなく日本映画史に残る傑作です。 A+。

ラストサムライ( 監督・脚本・製作=エドワード・ズウィック)USA、2003

 言うまでもなく、マスメディアはスターの時代を可能にしてきた。とはいえ、メディアこそがスターを生み出した、とかメディア論では語られるけれども、なぜ浅野忠信がスターであって、寺島進がいい役者ではあっても、スターではないのかの説明はしてくれない。それはやはり、選ばれたものだけがなることのできるものなのだ。んで、この映画のすんごいところは、三人ものスター男優を揃えてあるところにある。もうそれだけでほんとにすごいことだと思います。
 映画館に一年に数回しか行かない人たちと映画を見ることってのはまれなことで、しかも初めての映画館で見る、というのもまれなことだったので、少し観客がおとなしく映画を見てくれのか心配だったのだけれど、みんな少なくとも十分以上は並んで見ただけあって、みんなスクリーンに熱中して見ていました。というか、それぐらいの映画ではあったことにとりあえずは安心しました。ふう。しかし、この映画をまあよくできた、日本の過去へのノスタルジーに満ちたただの娯楽映画だとするには、やはりスター三人の力が大きすぎるのです。
 小雪も予告編なんかを見たときはちょっと違和感あったけれど、ああいう経緯をもっている女性だから、あんな感じの冷たい顔立ちでいいのではないかと感じたのか、映画の中では違和感はぜんぜんなかったです。いやいや、トム・クルーズに思いがけず不意に女性的な仕草をじっとみつめられるときの色っぽさと言ったら、ちょっとそのへんはやはり西洋の女性なんかにはとうてい出せっこない日本女性の艶やかさがが撮れていた……とまで言葉を費やすのはさすがに野暮だな。一言で言えば、セクシーですた。いやいやいやいや、そんなシーンよりも、トム・クルーズが彼女の前の旦那の鎧を着るために服を脱がされて新しい衣を着せられるシーンのあのなまめかしさと言ったら、あんた、ほとんどこの映画には似つかわしくないほどだったじゃあないですか! あれは、あのシーンは、まさにスターならではのセクシーさ(トムのね)に満ちあふれていて、くらくらしました。あそこが、この映画一番の泣き所(ぽろってやつ)だと思うんだけどなあ、なんでみんな渡辺兼が死ぬところでぐすんぐすん泣くかなあ。おっと、また野暮なこといっちまった、勘弁してくんねえ(だいたい、ぽろっと人が泣いたかどうかなんて映画館のなかじゃあわかんないよね)。
 まあそういうわけなので、あんた、「こんなの典型的な、西洋人(ラフカディオ・ハーンとかね)がよく抱く滅び行く日本の美への哀愁みたいな映画じゃん」(と言うか、それをハリウッドが撮ることなんて未だかつてなかった事件ではあるんだけども)とか、「確かにハリウッドとかが日本の歴史ものを撮るときの違和感は少ないけれども、こんなのぜんぜん日本の歴史になんかない話じゃん」(西郷どんはちと違うよなあ……)とか、「だいたい武士道を美化しすぎなんだよ、うちの大学では卒業式のときに馬鹿な学長がいきなり新渡戸の『武士道』の話なんかしだしてあっけにとられたことあったけれどもさあ、あんな武士道一辺倒の村が実在したわけないじゃん、村民みんな侍かっつーの!」(いや、江戸時代に武士なんて誇りもへったくれもなくなっていて、だからこそ寄せ集めの新撰組なんかが活躍せざるをえなかった歴史をみなさんご存じのはずだし、明治に生きた鴎外だって、武士道の内実がどんなものであるかという歴史小説を書いていたことを忘れてはならないわけでして……)とかを指摘するのは上で私が言っちゃったことよりもはるかに野暮なことなのである。あんた、この映画はスターを見ればそれでいいあるのよ。真田広之がほかの二人が主役になってるおかげで割りを喰ってたのは、長年のファンとしてはいただけなかったけれども、あの渡辺兼が時代物にまた出てくれた、ということはですな、もう一度『独眼流正宗』を一年かけて見直せばもうこの世に思い残すことはないって感じですよ。でも、日本人ならついついほめちゃうこの二人はおいておいて、ここはやはりトム・クルーズにみなさん、正当にびっくりしてあげないといけません。 だめだ、蓮實さんの言うほどにはうまく書けません。
 ただ、やっぱり野暮なことだけども、これを見て、武士道ってやっぱり素晴らしい! とか抜かしている人たちにはちゃんと言わないといけないことがあるよね。まず現実には、欧米人(韓国人や中国人も)が日本の社会に触れて、その良さに気づくということがたとえあったとしても、その考え方まで日本人のに染まるというのは到底ありえないでしょう。彼らにとってみれば、日本は情緒的で論理に欠けすぎていて、個人としての一貫性や主張をもたなさすぎです。まあ、一般論だと思わずに聞きなよ。だってこの映画、まさにトム・クルーズが日本的な美徳である、周囲との調和ってやつ、つまりなんか変な村の人々や日本の風景なんかとべったり和解しちゃうのがたまんない映画なんでしょ? そういうのはほんと幻想だよね。アメリカ人がこれを作ったというのも、あまりこれが可能的であることを説得的にはしないでしょう。だって、単なるノスタルジーと、アメリカを否定したいっていう欲望から生まれた歪んだものにすぎないもの。それから『武士道』ね。これもそんなにすごい本なのか? まあ日本を賛美したくて、日本が諸外国とうまくいかないことがあっても、それは日本が文化的に特殊だから、文化的な差異は尊重しましょうね、とかなんとか一見左翼的な言説をはいているつもりで結局は日本の閉鎖性を守るだけの保守的な言説を紡ぎ出している人たちとかには貴重な本なのかもしれないけれどね。んで大学の卒業式なんかで、総長が訓辞として、この本を引用なんかしたりして、社会や外国に出ても日本人の心を忘れるな、とかなんとかたわごとを言うために使用されるんだよね。それから、会社に忠誠を尽くすよう徹底的に思想改造されている日本の東京のサラリーマンたちにも、自分の生き方を見直すためのよい導きになるわけだ。右翼にも、左翼に愛される本ってすごいよねっ! 

東京ゴッドファーザーズ(今敏) 日本、2003

 東京のホームレスたちを主人公にしたクリスマス物語。そういや、クリスマスものっていろいろあるし、村上春樹訳のあの本も読んだけれど、いやはや、この一作にとどめをさされました。だって、赤ちゃんの話なんだよ、天使の赤ちゃんのおはなし。それとホームレスの。この組み合わせだけで、十分面白いお話になりそうだっていうのを、ほんと裏切らないでくれたよ、このアニメ。
 しかし、アニメってここまで実写に近いものになるもんなんだねえ。東京のビルとか、看板にかかれたマクド(マックなんて言ったら、パソコンと間違えますよ!)のバーガーとか、あんた、我が眼を疑いますよ。しかも、ストーリーだってけっこうリアリズムで、まあアクションはあるけれど、あの程度ならハリウッドとかなら十分ありえるし、ほんと、実写でも十分通用するんですよ、この脚本。でも、それをあえてアニメでやるのがこの作品の野心なんだよね。あっぱれ。でも一般受けなかったけど。見た人はみんなよかったって言ってるんだけど……。
 でもでも、実写じゃあ無理なのももちろんあって、じつはそういう部分が、やっぱし一番面白かったりもしたのです。たとえば超個性的な主人公たちね。この人たちはとても性格がはっきりしてるから、ほんと記号的な表情なんかをするんだけど、それがギャグになっていて、面白いんですな。オカマのオジサンがいるんだけど、これがオカマなもんだから、怒ると首に筋がびちっと走るのね、一瞬。そういうところが強調して描かれていたりして、かなりいいのよ。
 で、おきまりの、三人のホームレスが赤ちゃん騒動をきっかけに、帰るところをみつける、というオハナシなんだけどさ、このときの三人の果たすそれぞれの役割(とくに家出少女のそれ)とか、どんでん返しとか、意味のないアクションシーンとか、とにかく脚本がよく錬られていてすばらしい。最後の、赤ちゃんを助けるシーンの奇跡は、ちょっと美しかったですね。東京を舞台に、こんな美しいシーンを作ることができる想像力ってのはほんとすごい。これがまあ、このアニメの見所なんですな。今年公開されたアニメのなかではピカ一であろうこのアニメ、ぜひごらんあそばせ。 そうそう、声優の演技も、人物の感情の動きをアニメにしては例外的なまでに表現したこの映画にふさわしいだけの、名演でしたよ! 言うまでもないことですが、とくに江守徹! わたしは彼のほうが仲代達矢なんかよりはるかに好きなんですが、その正しさが証明されたと嬉しかったです。と言うか、声優もするなんて知りませんでしたよ! だってNHKのスタジオパークからこんにちはに出ていたときには、そんなこと微塵も言ってなかったんだもん……

1980(ケラリーノ・サンドロヴィッチ、主演=ともさかりえ、犬山犬子)日本、2003

 うーん、ともさかりえってさあ、実は演技あんまりできないの、私知ってたんです、ええ、そりゃもう。『ロッカーのHanakoさん』はよかったんだけど、あれはキャラがよかったんであって、別に演技はどうでもよかったんだよね、実は。あああ。これは、今年一番の脱力系映画かも。いや、ナイロン10㏄のファンなら、十分楽しめる世界であろうことは、想像に難くはないんですがね……
 しっかしこの映画のあちこちに見受けられるこの既視感。いや、これが1980年の12月を舞台にした映画だから感じるんじゃないぞ。だって、そんとき私まだ生まれてないし(嘘付け)。いやいや、なんつーか、すっごいありきたりなこの設定やキャラが、なーんか昔あったくだらな〜いテレビドラマにどことな〜く似ているからなんだろうな。昔は、こういうくだらな〜い脱力系のドラマって、けっこうあったような気がするんだよな〜。まあ、そういう「ノリ」なわけですよ。
 というわけで、はっきり申し上げると、この映画の魅力は、犬山犬子につきる、と言えるでしょう。ええ、彼女の迫力ある演技に、なんと言うか、ノックアウトされてくださいな。なんてったって、そこはやはり看板女優、ほかのアイドル役者とは役者が違う。まあ串田和美とか、田口トモロヲとか、なんで出ているのかよくわからない連中はぬきにしてですが……。ほんと、なんで出てるんだろうね、やつら。
 安っぽいストーリではあるんだけど、それぞれのシーンはどことなく可笑しかったりする。んが、やはりこの監督、映画の作り方が上手いとはちょっとお世辞にも言えないな。うーん。映画って難しいものですな、と締めくくったところで、次、行きますか。なんせ2003年は年末になって、話題の日本映画が続出ですからね。

座頭市(北野武)(2003ベネチア監督賞) 、日本、2003

 ちょっとあんた、知ってた? ビートたけしって実はスーパーサイヤ人だってこと! いやーあの人と仲いい人なんかは、今度あの人と握手なんかしたら知らないうちに手切られちゃうんじゃないかって、夢に見るだろうねえ。変身したときに髪は逆立たないけれど、あれはまさにスーパーサイヤ人。いや、それより強いかも。マジで。最強の宇宙人だって蓮實さんが書いていたけど、ありゃほんとだわ。実写でマンガを超えるなんて……
 じつはね、みんなそうだと思うんだけども、最近日本映画界が活発になりつつあって、独立系でもいい映画がでているのは知ってるし、いい時代かもしれないとは思ってはいるわけよ。観客数も増えてきてるしね。でも、やっぱり、あの50年代あたりの黄金時代と比べれば、そもそも桁が違うのであって、あんな空前絶後の栄光の時代はもう二度とないし、あの時代のような完成度と、普遍性というか、歴史的な作品が日本から大量にでるなんてことは、さすがに夢想だにしてないのよね。そうでしょ? あれはもう過ぎ去った、そして二度とやってこない夢の時代だったと、誰もがそう思って、密かに思い憧れていただけなのよね。でも、そうじゃない人がいた、それが北野武だったの。彼がそんな夢を持っていたなんて、そんなこと、少なくともわたしは知らなかった。
 もちろん、これがただ昔の映画を模倣した映画だなんてことを言っているんじゃあありません。それどころか、非日本的な要素もたっぷり入ってます。それは音楽。タップだけじゃなくって、殺陣にしてもそうだけど、乾いた音と、リズムがこの映画そのものを運んでいくでしょ。日本映画では、ここまでリズムにのって創られるってことは、あんまりないのよね。まるでミュージカルみたい。シーンが切り替わるタイミングも完璧に計算されていて、あるリズム感がずっと貫かれてる。カメラはそれほど面白いというわけではないのだろうけど、でもこれは、いくらか古典的で、時代劇というか、日本映画だなあ、と思わせる部分だね。とにかく、徹底して美学が守られていて、それだけで十分楽しいのだよ。
 でもこれは娯楽映画でもあるし、わかりやすい映画だと思うんだけども……インファナル・アフェアの方が難解でわかりにくい映画じゃないかなあとか思わないでもないのだが、しかしむしろ後者のほうが一般受けしているのは驚きだなあ。うーん、この映画は話題性とかで見に行った人が多いからかもしれないけど。
 で、何が嬉しいかというと、浅野ただのぶってこんなにいい役者だったのかってことを再度確認できたことだなあ。すごいよ彼。ビートたけしはあの程度カメラにうつっていれば十分で、やっぱりほかに主役級の俳優が必要なんだなあ、とか。いや、殺陣のシーンは別よ。まああれも一瞬なんだけど。でも、いまの日本の役者たち、柄本さんとか 大楠道代さんとか、そういう名優たちが、こういう作品にでてくれてるということってのは、この時代に、私たちが生きた時代に、日本でもいい役者がいたってことが後世に伝わるってことなんだから、これはなんか嬉しいよねえ。
 そうなんだよね。それがこの映画の素晴らしいところなんです。私たちがいかに日本映画を愛していたか、いかに楽しい映画をまち望んでいたのか、いい役者がスクリーンで活躍してくれることがどんなに嬉しいことなのか、それを思い出させてくれるってこと。タップダンスは映画へのそうした賛歌にほかならないのよ。北野さんのその思いに、嬉しくなりました。ありがとう。

たまゆらの女(監督=スン・チョウ(孫周)、主演=コン・リー)中国=日本、2003

 ついに来た! 一般受け、というかけっこうこういうシネスイッチとかに映画を見に来る観客にもあんまり受け入れられなくってすぐに公開終了してしまうような映画だけど、だんぜん素晴らしい映画が来たのだ! こういう映画こそ、まさにわれわれが擁護すべきものであるし、まさしく こうしたチャンスをわれわれ(って誰?)は待ち望んでいたのであった。
 はじめのシーンの、コン・リーが汽車の中でたらたらと歩いて一人の乗客に火をもらい、煙をふか〜と吐くそのシーンから、そのコン・リーの仕草の、まるでもう何度となくそうした行動を堂々と繰り返してきたというその威風を見せられるとき、ああ、なんてコン・リーかっこいいんだろ〜と、のたうちまわらずにはいられない。そうだ、この映画でのコン・リーはチャン・イーモウが撮ったときののような、可愛いけど反抗的でしっかりしているというだけじゃなくて、なああんと、えらくカッコいいのであるぞコン・リーが。三十近いがまだまだ美しい女性がこんなにかっこいい映画なんて、なんかイタリア映画みたいだぞ。コン・リーまるで中国の女性じゃないみたいだぞ。
 しかしこの映画は、ただコン・リーにのけぞりまくる映画なのではない。この映画は見事に映画的な演出に充ち満ちていて、映画を見ることの快楽を十分に堪能させてくれる。愛する詩人に会うために何時間もかけて乗りまくる汽車。この汽車は 「愛への長い道のり」なんてどうしようもない観念を表すことなんて一度もない。この汽車という装置は、彼女の愛のさまざまな側面とじつに見事に共鳴する。まずは、詩人の世界という「ロマンチックな」世界への移行という側面。彼女は汽車の中ですでにゆっくりと詩人の世界へと耽溺していくのだ。汽車にのっている時間なくしては彼女はその愛を確かなものとして確認することはできないだろう。つまりこの側面は、愛の確認としての汽車通愛(?)という側面に通じているわけだ。セックスと汽車とが素晴らしいリズムで交互に挿入されるシーンはこの映画の、あるいは中国映画史上(ほんとかよ)最も美しいシーンで、まあ誰でも気づくことが出来るだろうけれども、ここでは愛と汽車での時間とのまか不思議な相互作用、あるいは分離不可能な関係を示唆しているわけですね。とまあここまでは基本ですな。しか〜し、この映画がなんとも素晴らしいのは、二人の関係が微妙なものになっていく過程での、汽車やケーブルカーといった乗り物の絶妙な使い方にこそある。ぜえぜえ。
 愛というものはほんの些細な心の動きから大きくすれ違ってしまったりするものである、のはずである。あと、これと一見似たようなことだけれども別のことなんだけど、二人の心のすれ違いが些細なきっかけから、目に見える大きなすれ違いとしてあらわれることもあったりする。この映画ではまあどちらかといえば後者の方だけれど、そうしたすれ違いが乗り物におけるすれ違いとして描かれているわけです。このすれ違いは始めの男とあとの男との二つのパターンでそれぞれ別の形で繰り返されたりして、もうなんとも言えない愛のすれ違いの、その、どうしようもなく完全に通いあわない心同士の表現として、そうしたすれ違いがひたすらに繰り返される。
 あなた、これが映画です。そう、この汽車の見事な使い方、これが映画そのものなんです。そうです、この監督が見事な見事な映画を創りあげたということに比べればですな、なんかウォン・カーウェイみたいなスロー・モーションは何の効果を挙げているのか疑問だとか、コン・リーの異常に大きい胸やおしりを監督は好んで撮りすぎているかもしれないとか、二人の男優がなんとなくコン・リーと釣り合ってないとかだとか、もう一人の女、つまり語り手を設定したことの意味がよくわかんなかったとか、そもそもエピソードが断片的に語られすぎてよくわかんかったとかいう非難は、まあどうでもいいのである。
 そうそう、汽車とコン・リーの見事さ以外にもたいへんいいところがある。それはこの映画の見事なリズムです。なんとも軽快にぽんぽんシーン切り替わっていって、しかもそのモンタージュしぐあいがほんとに絶妙なあたりは、そうとう計算されつくしていて、なんとも心地よい。いや、精確に言えば、スリリングで楽しいとなるのか。このなんともスリリングな展開、それがコン・リー演ずるキャラのほんっとに情熱的で行動的な性格をなんか表現してもいて、もう素晴らしいとか言いようがないです。男と女の会話がイマイチつまんないとかいうのは、まあご愛敬。あなた、この映画見ないともったいないですよ。A

アイデンティティ( ジェームズ・マンゴールド)USA、2003

 解離性同一性 障害というのはいわゆる多重人格というやつです。これは精神分裂病とも違いますし、ただの妄想でもなく、「解離能力(=催眠感受性)、外傷体験、外的影響力と内的素質の相互作用、保護や慰めの欠如」などが原因で、「安全な場所を確保し、多彩な身体症状、精神症状に対処しながら、行動化(アクティングアウト)に対応する」ものらしいです。つまり、幼年期による虐待などが原因で、人格を喪失したかのような状態になることによって自分の 否定的な感情によって傷つかないようにするというある種の防衛体制なのですね。人格分裂というのはその人の脳内でのみ起こるのではなく、身体的な変化も伴うらしいので、そこで起こっていることは単に内面のことでもないし、もちろん夢でもない。という基本的なことを念頭に置いてと……
 人によってそれぞれだろうけど、怖い映画が苦手という人もいて、怖いことが起こりそうだな〜と思ってみていようと見ていまいと突然怖い出来事がおこっちゃうってのが心臓に悪いんだけども、じつは私も、サスペンスやホラーって、ヒッチコックでさえもあんまり見ていないのは、じつはそういうのが苦手だったことに最近気づいたのだけど、何を間違ったのかこの映画は見たかったのだな。サスペンスとかはテレビとかで見るとあんまり怖くないのに、映画館で見ると怖さ倍増だからなあ。
 んで、これはよくできたサスペンスで、なかなかに演出が上手い。正当なものだけど、でもセンスがいい。雨のモーテルに集められた10人が死んでいくっていうホントありがちなストーリーを上手に見せている。で、誰が犯人か? というよりは次は誰が殺されるの? というお話で、実は……というドンデン返しがあるらしい。しかし原題はIdentitiesと複数形にすべきじゃあないのかな? おっと、これを言っちゃあ駄目なんだった。
 しっかしこういう映画を見るたびにオチがつまらんとかいいとかそれだけで映画の評価を決める連中ってどうにかならんもんかなあ。そういう連中ってのはオチで楽しむということを目的として、ストーリーを手段として、ストーリー&オチという回路と目的論でしか映画を見ていないのだろうか。まあそういうレベルの低い観客を生み出してきたのが今のアメリカ映画の責任だとしても、この映画はそういう映画ではないよね。だいたいサスペンス映画って、オチというよりかは、その怖い過程を楽しむものなんぢゃあ……
 さて、ジョン・キューザックはいい役者のようですね。この人、よくある顔なんだけど、でもいいですね。上手いよね。あと、ディランの I want you はいい曲だよね。これが唯一映画の中で歌われる歌だっていうのは、けっこう重要みたいですね。オチが別だったら、もっと面白いかもしんないし、そうでなくっても、もっとひねっているのだったら、もっともっと面白いかもしれない。でもまあ、こういうのって、ほんっっっとにアメリカ人好きだよね。トラウマ、二重人格、心理療法。こういうの多いが、それが萩尾望都(『バルバラ異界』とか)的なレベルまで掘り下げて語られているのは見たことがない。いや、でもこれはサスペンスとしては、けっこうよくできた映画だと思います。怖いのお好きは人は、ぜひドキドキしてください。

ハルク(アン・リー)USA、2003

 アメコミを香港出身の映画人がどんな作品にするのかってことが興味深くて見に行きました。でもこれ、すごくシリアスなアンチ・ヒーローものなのね。アメリカってお気楽な漫画しかないのかと思っていたけれど、こんな深刻なも のがあったなんんてびっくりでした。
 マッド・サイエンティストな父親によって、怪物に変身しちゃう因子を埋め込まれた主人公は、放射線かなんかを大量に浴びる事件によって、その因子を覚醒させてしまい、彼は次第に怪物になっていく……。というお話。変身するときのきっかけが、怒りなんだけれども、その怒りがなぜ生まれるかというと、子供のときに体験したショッキングな出来事がトラウマになってのことらしい。でも本人はその体験を意識には記憶していない……。
 このお話のテーマとなっているのは、実は緑色の怪物ではなくって、その彼の怒りなんだってことは、その過去にかかわる諸々の思い出に執拗に接近される、ということからもお分かりになるでしょう。この怒りというやつ、これは体験したことのない人には分からない感情らしい。え、嘘でしょ? というあなた、いや、驚きな事にほんとらしいの。世の中にはほんとに怒りを覚えない人っているんですよ、これが。うそでしょ、見せないだけでしょ、とあなた思いましたね。でもね、わたしは見ました。手ひどく裏切られた(と私は思うんだけど)人が全然怒ってないのを。これがほんとに怒ってはないのよね。困ってはいるけれど。
 この怒りってやつは、実は案外、まだまだ謎の感情らしい。精神分析事典なんかを見てみても、明確な定義をされていないみたいなの。これって不思議だよね。だって、怒りってすごく人間の心を支配するものだから。キングは人間の感情の中で最も強烈なものは恐怖だっていったけど、私は怒りだと思うのよね。怒りってほんとに怖くて、一時的な感情じゃなくって、持続的に、無意識的に作用して、いつまでも消え去らないものなの。私もときどき昔いだいた怒りの感情を夢の中とかで再体験するときがありますもんね。
 で、この映画ではハルクが抱いている怒りが結局なんなのか、イマイチはっきりしない。でも、この彼の怒りってのは、やはりほかの人にはわかんないもんなんだろうね、本質的にね。まあ、あんな光景を見たってことが怒りにつながるのか、実際、なんか違うんじゃないだろうか、と思わずにはいられないのはありますが……。
 ストーリの話しばっかりになるけれど、もちっと我慢してね。でもこのお話が興味深いのは、「怒り」を扱った話しって以外とあんまりないような気がするからなんんだよね。ドキュメンタリーの分野では、『心臓を貫かれて』とかあるけれども。まあこういうのは身を切られような種の涙なくしては読めないし、作家の内面にもあまりにも接近しすぎるので、ちょっと書きづらいってのはあるでしょうね。しかし萩尾望都がいますね。彼女の『残酷な神が支配する』はまさに怒りをもろに描いた作品だったのよね。でもこの漫画がハルクよりはるかに先を行っているのは、この怒りをどう処理して人は生きていくのかってことにも焦点が置かれていたからなんだよね。ほかにも、ハルクでは怒りが爆発するのは他人の暴力が直接のきっかけなんだけど、この漫画ではそうではない。ハルクでは怒りの描写が単純なのに対して、萩尾望都はそれをさまざまな感情を含むものとして描く、などなど。別に萩尾望都をほめたたえようとしているんじゃないよ、こんなアメコミとなんかそもそも比較になるわけないし、彼女と比べられるものなんてまあないんだからね。ただ、ハルクではテーマとなってるわりには、怒りの描き方が弱くて、単純すぎるんだよなあ。ボーンと飛び回るだけじゃあねえ……。
 ニック・ノルティの演技はオイオイだけども、ジェニファー・コネリーが唯一の見所ってのは、賛成できる意見だね。彼女、ほんとに知的そうで(実際アイヴィー・リーグらしいんだけど)いかにもあういう研究所とかにいそうな (ちなみに申し上げておきますと、現実にいます、そういうところにそういう女性)ばりばりできるけれど女性的でもあって魅力的な女性(でもなぜかここでの役柄は馬鹿な行動ばっかり)って感じだよね〜。「彼女にかかればハルクもイチコロ」っていうシーンは、いたくしっくりときましたです。あんなシーンの撮り方(カメラの動かし方とか)は、ちょっとハリウッド出身のダサイ監督とは違う気がしましたね(ええと、スプリットスクリーンについてはよく言われるけれど、この映画で面白いのはシーンの切り替わり方だと思う。多彩な切り替え方をしていて、これが面白くて、それぞれの切り替わり方も凝ってはいるけれどねちっこいわけではなくってさらっとしていて気持ちいい。次のシーンが予想できるときに、今度はどう切り替わって、どうつながるんだろうとか。これはいいです。ただこれが説話論的に機能していたかどうかは疑問だけどね)。そうそう、けっこうはっきりとアメリカの軍とかを批判していたのには驚きましたね。マッドサイエンティストの言葉ってことになっているけれど、こういう主人公っていう設定そのものが、あの社会への批判なわけなんですね、ハイ。
 しかしこんな痛快でないアクション映画、あんまり受けないよね、わたしは板妻につながる何を感じましたけどね。いや、さすがに褒めすぎかな……

MATRIX REVOLUTIONS(ウォシャウスキー兄弟)USA、2003

 Welcomeback Mr. Anderson. え? 全然わかんなかったって? では不肖わたくしめが解説いたしましょう。システムの一部として機能していたはずのネオコンが暴走をしはじめたとき、裏でシステムを操るボスは、システムから意図的に脱落していたものたちの一人であるテロリストの力を借りて、この連中を倒そうとした。しかし両者はじつはシステムが生み出した表面と裏面にすぎず、ブッシュとフセインに本質的な違いはない。んで、システムは救われ、イラクの人々も救われたが、USAで資本主義という幻想につかっている連中は救われたわけではなく、彼らはやはり眠り続けるのである……。ちなみに、ここでネオ君は人間と機械の中間的な存在になっていて、映画のはじめで両者の中間地点としての「駅」にいたわけだし、現実の機械にも影響をもつことができる。というわけなので、自然と腐海の両方に理解を示すナウシカはどちらの世界をも救うことができたのであった、メデタシメデタシ、って宮崎さんが聞いたら怒り狂いそうだなあ。
 なるほど、革命ね。革命とはシステムを壊すことなどではなく、システムに変化をもたらすものでしかない、というか、そうであるべきだっていうのは、正しい認識だと思います。しっかしウォシャウスキーズはこの映画を本気で哲学的なものとして提出したかったらしい……。まあこの三作目では、前二作よりそのことにいくらか成功しているような気がしないでもないけどねえ。いやでもね、これがすごいのは、監督ら自身がこのシリーズをぶっ壊そうとして作っていることなんだと思うのよ。
 冗談にしか思えない現実世界での戦闘シーンなんかでもそう感じたんだけども、これはある意味、映画にはまっている人たちをつきはなすような物語になっているでしょ? そのへんの妥協しない姿勢にはいくらか関心いたしました。 でも一方では、結末を整合的にまとめようとして、設定とかを超えたある種の「詩」には到達してないとも言える。ナウシカ漫画版みたいなね。まあそんなのもともとハリウッド映画には期待していないんだけども。
 しかしスミス君とネオ君との戦闘シーン、あそこまでやるんだったら、カメハメ波と気功法で戦ってほしかったかも……。しかし「予言」の使い方はあんまりうまくなかったなあ。非常にくだらない、と言うか具体的すぎる予言しかしないし。『指輪物語』の予言なんか、とっても上手く使ってるんだけどなあ。
 しかし最近多い黙示録的な映画の結末って、どうしてシステムを批判するような態度をとりつつ、結局は現状肯定みたいになっちゃうんだろうか。現実では、やはりUSAは「ならず者国家」を生み出し続け、それを定期的に攻撃し続けるでしょうに(「救世主」なんかはでてこないが……マシン・シティに直接 大規模な攻撃をしかけるテロリストは出てくる)。でもまあ、これが私たちの住む千年王国なのだが。んで今回は 、ヘーゲルが、フランシス・フクヤマが偉大だったってことではなくって、『ザンス』シリーズは偉大だったってことで、みなさんよろしいでしょうか。 より詳しい解説はここをみてみてください。

沙羅双樹(河瀬直美)日本、2003。

 これはすごい映画です。「すごい」なんて形容詞を使うほかないような映画なんです、わかってください。じゃあ、パワフルな映画、とでも呼ぼうかな。もう力強すぎて、びっくり仰天しちゃうような映画です。たまげた。
 最初のシーンでまず驚かされるのはこの映画の形式的な側4面で、なんと手持ちカメラに現場での録音というドキュメンタリーのような作風で撮っていること。いや、この手法そのものは今や珍しくもないけれど、少年二人が前速力で走っていくのをカメラも必死になって走ってついていくっていうのにまず驚き。少年たちはカメラの下から横から走り回ってついて行くのに精一杯……と思ったらついていけなくなった少年の一人が忽然と角を曲がったあと消えてしまう、というところからお話は始まるのであった。そこで登場するのは河瀬さんが演じる母親役なんです……。
 実はワタクシ、公開初日の舞台挨拶も見て来ちゃったのですが、監督は映画に出ているときよりもお美しくて服装も斬新で素晴らしく、主役の男の子は口べたで人前に出るのが慣れてなさそうな人で、女の子はほんとに普通の女子高生か大学一年生って感じの子で、ちょっとなんかチガウゾってカンジだったんですそりゃあもう。この監督は美人だけどもきりっとしていて、凛々しくもあるぞってお人なんですが、映画は繊細で初々しく、しかし確信に満ちた優しい視線にあふれていました。
 ハイライトはもちろんバサラ祭りで、これはもう信じがたいシーンなんですが、ここで初めて手持ちカメラで撮っていた訳が分かったワタクシは愚か者でした。つまり、役者の一瞬の動きをカメラに生き生きとした形で収めるために、一つのカメラで撮ってたわけなんですね、はい。それが祭りのシーンでは完璧な効果をあげていて、信じがたいほどです。
 通り雨が祭りの最中に降るのですが、それがまた素晴らしい。一時ものすごく土砂降りになって、でもすぐに晴れて、空は明るいのだけれど、その降って晴れてというタイミングが信じられない出来で、その雨のなかで踊る役者さんたちが余計に生き生きしていて嬉しくなっちゃう。これは偶然で撮れたものなんだろうけれど、そういう偶然を見事に活かしてしまうのが才能なのかしらん。このシーンには、本当にゾクゾクさせられましたよ。ゾクゾクどころじゃないくて、恍惚に近いものを感じました。えくせれんとです。これはぜったいに大きなスクリーンで見るべきでしょう、体調のいいときにね。奈良の商店街や住まいや習慣も見事に撮れていると思います。
 それで最近つらつら思うにね、映画には二種類あって、古い映画を再生したり、作り替えたりして、新しい形で提出する映画と、それとは別に、まったく新しい映画があるのだなあ、と。「まったく新しい映画」ってのは、例えばヌーヴェル・ヴァーグがかつてそうであったように、それまでの映画の文法を守らず、語る内容もスタイルも全く新しい映画のことです。つまり、映画の語り口というか、ディスクールが新しい映画のことです。例えばキアロスタミとか、ホウ・シャオシェンとか、黒沢清とか、この河瀬さんとかそういう監督たちの作品のことですね、最近では。ゴダールもオリヴィエラもそういう監督ですね、今だに。
 そういう映画を見たときに抱く印象は「衝撃的」なものであって、もうただショックなんですが、逆に言えば、そういうたぐいのショックを与える映画がそういう種類の映画なわけです。「ああ〜いい映画だなあ〜」という映画よりはむしろ、なんぢゃあこの映画は〜? という反応や、言葉を失うほどのショックを受けるような映画なわけです。そういう映画は同時代的な評価ってのは難しいこともありますが、ただ間違いなく言えることは、そういう映画こそが映画の未来を作っていくってことです。この映画は、その「未来」の映画の「パワフルさ」をひたすら強烈に発散しているのでした。同時代の映画を見ることができる歓喜のA+。

2002(この年は、イーストウッドの『ブラッド・ワーク』、黒沢清の『アカルイミライ』、北野武の『ドールズ』、ジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』、カウリスマキの『過去のない男』、リモザン『ノボ』、ソクーロフ『エルミタージュ幻想』、吉田喜重『鏡の女たち』などが制作されました。)

ルールズ・オブ・アトラクション(ロジャー・エイヴァリー)配給=ギャガ、USA、2002。ファンが作ったサイトも見よ

 アメリカ英語ってのはほんと鼻につく言葉で、美しくないよなあ。美しい中国や台湾のことば(上海語以外)や優雅なスペイン語やポルトガル語とは大違いだ。なんせ最近のアメリカ映画って、fuckingを何回言っていることやら、見当もつかないぐらいだもんね。Ass wholeとか。ところであんた、日本語がいくら乱れているとか言っても、日本映画でそんな汚い言葉ばっかり使うってことはありえないでしょ? 「ら」が抜けているとか言ってるぐらい、ほんとかわいいもんだわ。まあ、そういうことを指摘して得意となっている連中に限って、なぜ「使えられる」と言わずに、「使える」と言うのか、説明できないだろうしね(このばかげた問題に関するプロの意見はここを参照のこと。言うまでもなく「ら抜き」言葉現象ってのは、日頃ひまをもてあましている主婦とかなんかが、たまに文化的な貢献を社会にたいして何かしたい、というわけのわかんない衝動を解決させてあげるためにひつこく指摘された、というかねつ造された「問題」なのであって、このおかげで、彼女らは、それは「ら抜き言葉だ」、とか新聞とかテレビに言うことで、その衝動を満足させることができる、というサービスになっているわけだよね。まあ、それだけのことなんだけど。ちなみに、テアトル・エコーはこれをテーマに超楽しい舞台『ら抜きの殺意』を作った)。まあ、そう考えると、ほんと日本はまだUSAなんかよりはずっとましな国だよ。石原都知事 と与党をのぞけばね。話は大きくずれたこと、言いたいことはそゆことね。
 で、この映画、ブレット・イーストン エリスの同名小説
が原作。なぜえんえんと汚い言葉の話をしたかというと、そういう汚い言葉を話す大学生が登場人物だからなのね。で、ほんとに汚い言葉しか使わない。美しい言葉なんて一つもない。というか、しゃべれないの、この人たち。fuckingを使わないで話してみろっつたら、まあ1分もぬきでしゃべることなんかできないだろうね。奴らが考えることは、ドラッグとセックスだけ。パーティーやって、ドラッグやろうって言って自分の部屋に誘って(自分の部屋に誘う言葉として「ドラッグあるよ」しか持ってないの)、ヤル。that's it. that's only way of their life. おーほんとUSAというのは面白い国だ。一方ではあいもかわらず、幻想にみちみちた恋愛の映画をバカバカ作っているけれど、他方では、まあメジャーの制作ではないが、愛なんて冗談としか思えない人たちが愛のないままセックスだけはひっきりなしに求めている、という現実を描く映画を送ってくる。これは水村美苗も言っていたことなんだけど、USAでは誰も愛なんて信じていないらしい、ホントに。マジで。あそこは、そういう国なんだよね。だから虐待 なんかもあたりまえだし、離婚なんかしなきゃ狂ってる、というわけよ。
 で、だからこの映画は素晴らしいのだ。愛のない享楽的な若者の生活を描いたものといえば、ヤンの『カップルズ』なんかが思い浮かぶけど、この映画では、とにかく無茶苦茶な彼らの日常がけっこう細かく描かれている。主に三人の主人公がいるんだけど、それぞれの視点がひたすら独立していて、みんなじつは孤独なんだよね。というのは、じつは三角関係なんだけど、この関係がどれもうまくいかないままなのよ。まあ、当然なんだけれども。一人はゲイだし。いや、このゲイの子(イアン・サマーホルダー)が、映画を超楽しいものにしているのは間違いない。助演男優賞ものだ。
 んでゲイじゃない男が恋をするんだけど、このきっかけというのがラブレターだっつうのがいいじゃないの。恋愛の本質的な部分ってのは、人間が人間である限りそうかわらないものなんだよね、どんな生活を送っていようとも。で、この男、麻薬のディーラーをやっているロクデナシなんだけど、そいつが恋する。いいじゃないの、この展開。
 で、途中はしょるけど、まともな恋なんてしたことのない連中がどうしても上手くいかないってことなんだよね。んで、ほんとにどうしようもなくって自殺する連中なんかがけっこういる、ということまで描かれる。そういうことお互いに話題にもしないし、まともに気持ちを伝えあうような環境にもないだけ、ひそかに歪んだ形ではぐくまれた愛は悲劇的な結末をたどるっつう話なんだよね。で、それだけならよくある小説のネタなんだけど、それをちゃんとした映画にできているのは見事でした。とくにゲイのにいちゃんが可愛いし。その三人をスプリットスクリーンとか、逆 回転とかいろいろ駆使して、まあ要するに編集しまくって見せてるんですな。でもこういう凝った作りの映画って、しかもこういうただただビターな映画って、ぜっっっったい受けないもんなんだけどね。大赤字だろうな、かわいそうに。でもいい映画だし、男同士のキスとか裸とかたくさん出てくるので、女性にはかなりおすすめできます。青臭い若者が書いた救いのない虚無的な原作小説なんか読んでもどうせくだらないだろうけど、こうして映画にすると、面白いものになるもんなんですね。扱っていることはヘビーだけどノリは軽いし、一見はちゃめちゃだけどR指定でもないし(なぜ?)、オハナシとしては正当派の、よくできた、「今」を写した映画だと思いました。ほんと雰囲気がよく作れていると思います。ドノヴァンやニルソンの音楽も懐かしい、というかセンスいい。B−。

アララトの聖母』(アトム・エゴヤン) 配給=ギャガ、ビスタサイズ、カナダ、2002。ストーリーの概要はここを見てください。

 どうせここに書いている文章はお気楽なもので、とくにこういう重要な作品に対してはこの後、膨大な量の言説が紡ぎ出されることになるのだから、まあこんな文章はどうでもいいようなものなんです。だから一気に書きますね。
 第一次大戦中のトルコ軍によるアルメニア人の虐殺という、正直いままで聞いたことのない歴史的事実を背景とした、現代と過去が交錯する複雑なドラマとしてこの映画は語られる。ドラマは一つではなく、複数であり、いくつものドラマがそこにはある。がしかし、主人公はあくまでも、アルメニア人の「テロリスト」を父親に持つカナダ生まれの若者であって、彼がその、トルコ大使を殺そうとして死んだ父親のことを知ろうとしてトルコに旅し、帰ってきたところでカナダの空港の税関で検査官に話をしているところから、彼と、その大学教授の母親がかかわった、アルメニア人虐殺とアルメニア生まれの現代アメリカ画家のアーシル・ゴーキーとを直接にあつかった映画の撮影の記憶などを織り込みつつ、またその撮影のなかでまるで史的事実そのもののように描かれる虐殺の記録も映画の中にはいってくる。そしてときにはUSAで 『芸術家と母親』という、この映画のモチーフともなっている絵を描いているゴーキーも映像としてうつされる。交錯するのは、こうしたいくつもの時間や空間だけではなく、世代も交錯し、虐殺で母を失ったアルメニア生まれの映画監督(シャルル・アズナブール。彼の両親は虐殺を逃れてトルコを離れたアルメニア人だ)、映画に協力する美術史家のアニ(アルシネ・カルジャン)、その子供のアルメニア系カナダ人ラフィ(デヴィッド・アルペイ)という三成代が交錯する。一番上の世代は実際に虐殺を体験したらしく(ということは、この映画は10年以上まえの世界を舞台にしているのだろうか)、その次の世代はその虐殺の記憶をもつ人々であり、三世代目はもうその記憶を持たず、あるいは聞いたこともない。しかし主人公の若者は、この出来事を理解していないために、父親のことも理解できていないまま、そのことで母親とうまく関係できないでいる。この映画の見事な点は、この若者を主人公として、今、虐殺のことを知らない若者が、しかしその出来事とは結びついていて、ある複雑な生を生きざるをえないが、その状況そのものへの視線を中心にすえているということだ。いま、わたしたちにとって、ここ(カナダ)で、それは、いったい何なのか。エゴヤンはトルコが否定し、その否定を欧米社会が許可しているという虐殺の事実を、それをただ訴えることをせずに、まさにアクチュアルな問題として提出しようとする。これは、ひどく倫理的な態度なのだ。
 ジェノサイドは何もショアーだけでなく、人類の歴史のいたるところにあり、またそれを人類は絶えず忘却しようと努めてさえいる。忘却されようがされまいが、その事実は未だに影響を及ぼしていて、とくにショアーなんかは今のヨーロッパのさまざまな事実を知るにつれ、ますますその衝撃の甚大さが知られる、ということになっている。しかし一方で、ショアーだけが特権視されたり、超越化されたりということも起こってくる。アルメニア人の虐殺という事件は、そういう事態とは今の時点ではほとんど無縁であるにもかかわらず、エゴヤン監督はそうした、虐殺を語ることのさまざまな危険にひどく意識的で、歴史を映像として語ることが持つ恐ろしさをなんとかして消し去ろうとする。あるいは、そうしたことすべてを映画に織り込みさえする(「監督が撮っていた歴史映画のそのプレミア上映で、出演者たち自身が、その映像イメージが作り出す暴力性にショックを受けている」とエゴヤンは語っている)。そうか、この映画はランズマンの『ショアー』と同じことをしようとするのではないのだ(そもそも、ショアーと違って虐殺の生存者はもういないだろうし)。あれをつきつめていくと、証言の不可能性とか、たいして生産的ともいえない議論が展開されることになってしまうだろうけれども、この映画が語りたいのはそういうことではなく、今、ここの生の問題なんだ。 そういえば、こういう手法ってホウ・シャオシェンが『好男好女』で使っていたのではなかっただろうかね。
 映画をみる私たちは、そうした歴史が織りなす複雑な生のただなかに放り込まれる。映画のはじめには一体何が起きているのか観客はまったく理解できないが、いくつもの時間と空間が混在するヘテロトピアを通過するうちに、若者がおかれている状況を理解しはじめる。あるいは、その状況を理解するためには、さまざまな時間と空間を経過する必要がある……。その体験は、テオ・アンゲロプロスのように、映画の主人公とともに彷徨するのではなく、むしろ、同時にいくつもの生を生きるようにと呼びかけてくるようなそんな体験かもしれない。素晴らしいのは、引退間近の税関の検査官で、彼は若者からアルメニアの虐殺や彼の父親や、映画の話など、彼が最近体験し、知ったことすべてを話していくのを聞くうちに、もはやただの検査官(それが彼の最後の仕事なのだが)ではなくなり、彼とともに真実へと近づく人間となっていく。しかし、これは、映画を見る私たちの姿そのものでもあるのではないだろうか。
 つまりこの映画は、歴史を映画にすることへの批評的な精神を示しつつジェノサイドという歴史に関わりつつ生きる人々や、その人々の関係を語ったりするだけではなくって、そうした人々や、あるいはその事実を知らずにいた人々に対してさえにも、芸術というものが、そうした事実に対してもつ力というものを伝えてくる。この映画そのものをゴーキーの『 芸術家と母親』にしようとしているわけだ。
 今でもジェノサイドについてはさまざまに、思想的にもとりあげられているし、映像にもされているだろうと思う。しかし、この映画ほど、そうした語られている問題だけではなく、ジェノサイドという事実とその歴史とを芸術の問題として真摯に受け止めつつ、これほど高度なレベルで語ったものは、かつてなかっただろうと思う。このレベルは、確かに、世界でも少数の作家によってのみ到達されるであろうレベル(大江とかね)だと思われる。しかし、それを映画でできるとは。ほんとに、度肝抜かれた。とくに、アズナブールが、「一番つらいことは、故郷や人々を失ったことではない。いまだに私たちが憎まれていると言うことだ。彼らは憎んでいると言うことを否定する。否定し、そしてますます憎む。なぜなんだ」という言葉や、虐殺という事実をそれほどたいしたこととは思っていない半トルコ人が「虐殺は過去のことだ。今は誰もキミを滅ぼしたりしない」のに対して、ラフィが「ヒトラーがユダヤ人を殺す命令をだすときに将校に『誰がアルメニア虐殺を覚えている?』言った」といい、さらに半トルコ人が「そのとおりだ。誰も覚えていない」と答えるくだりなんかは、生々しい肉声が感じられる。なんにしても、この映画は、虐殺についての言説のあり方を変えることになるだろうし、映画そのものの可能性も広げた のではないか(確かにシャオシェンという先駆者がいるが、彼はすこし抽象的すぎるんだよなあ、大好きなんだけど、それが)。そして私たちが感じるのは、そうした革命を可能にした、いやそうすることなしには真摯に語ることができなかった、現在に生きるアルメニア人の生というものなのだ。

ぼくの好きな先生(ニコラ・フィリベール)フランス、2002。文部科学省選定

 フランス中部オーベルニュ地方にあるという小学校の、いかにも優しそうな先生とその子供たちを映したドキュメンタリー。この映画の音楽がとってもよくって、予告編からとりこになってしまった私はほとんど内容を知らないまま、その予告編の情報だけで見に行ったんだけど、でもほんとに授業風景がほとんどで、あとは子供の家庭での様子とか、その地方の自然とかがおまけ程度に映される、というとてもシンプルな映画でした。ちなみに、音楽は公式ホームページから流れています。バックミュージックとかにいかがでしょう。なお、現代のEtre et avoireっていうのは、英語に直すとBe and have(これじゃあ題にならないね。英語って野暮ったい言葉だ)です。
 ジョジョとか、ナタリーとかジョナサンとかいった子供たちがほんとに可愛くて、授業風景もとってもほのぼのしている。どうやら幼稚園なんかもかねているらしくて、abcから教えているの。先生の教え方もよくって、ほんとに辛抱強い。まあそういうゆ〜くりとした時間がひたすら流れていくのがなんとも心地よい(気持ちよく眠れそう)。
 映画の始めは、なんだか雪がつもっているところを牛かなんかを連れ戻すところで、そのシーンがとても見事にとれていてびっくりしました。音の拾い型がとっても上手くて、その効果がよく分かっていると思う。とにかく、ほんとにこの監督とかスタッフは、レベルが無茶苦茶高いのですよ。大部分は授業風景を映しているだけなんだけど、それだけで映画になっているんだもんなあ。なぜなんだろう。
 日本の小学校とかはほんとに規律社会の見本のような学校制度になっていて、授業も堅苦しくって、創造性なんかは押し殺されるように教育されていて、自由な発言なんかは許されないっていう雰囲気がある(と思います、一部の私立は違うと思うけれども)。そういう環境で育った自分としては、イランとかの教室を映した映画とかを見るたびに思うんだけども、いやーこういう世界があるんだなあ、って感じなのよね。
 そうそう、フランスの教育と言えば、我々の永遠のあこがれであるかの厳格な古典教育がみっちとされているっていう印象があるんだけど、この学校ではほんとにどこかの田舎の素朴な学校なんだよね。でもね、この先生、スペイン生まれらしいの。アンダルシア。移民の子供だからこそ、フランスの厳格な教育理念っていうのを無視ししてこういう穏やかな教室を実現できたんではないだろうか。それにしても、移民の子供を学校の(正規の)先生にするなんて、日本ではありえないことだよね。まあなんというか、文部科学省はこの映画を選定するのはいいにしても、もっとちゃんとせなあかんぜよ。あまりに低レベルすぎる。幼稚、ナンセンス、おまえの母ちゃんでべそ。それをほったらかしにしている知識人たちも同罪だけどね。それに、こういう映画が日本では撮られるわけがないのは、映画人にしてもこんなドキュメンタリーを撮ろうとは思わないから、というのもある。まあ撮ろうとしても無理だろうけど。
 おっと、ついつい愚痴がでちゃいますけれど、そういうむしゃくしゃした気分を吹き飛ばしてくれるいい映画ですよ、これ。そうそう、この監督が十年以上前に撮ったルーヴル美術館のドキュメンタリー映画"La ville Louvre"もこの秋公開らしいです。これもすごい質が高そう。要チェックだね。

クジラの島の少女(ニキ・カーロ) ニュージーランド=ドイツ、2002

 ニュージーランドのタマオ族の少女を主人公にした映画。今年の少数部族もの第二弾ってな感じかな。まあそう悪い映画ではないのだけれども、こうまであちこちで感動を呼んでいると、なんか感動しなかった自分が悪者みたいに思えてきて、ちょい逆ギレ気味になっています。いや、そうだ、これはわしゃあすかん、そう言っちまえ!
 お話としては、タマオ族の族長の家系に生まれた少女が、男でないばっかりにおじいちゃんに族長として認められず(でもけっこう仲良くはやっていたのだけど)に、ほかの子供たちの中から族長を養成しようとするおじいちゃんに認められたくて、こっそりとその訓練を盗み見したり、こっそり訓練したりする、で、最後には……というお話。うーん、これってなんかありがちな設定じゃない???? まあありがちはありがちでいいとしても、頑固なおじいちゃんってのがさぁ……醜悪なんだよね、映画的にね。もう、こういう人物って、頑固だけど根は優しくて、でも伝統とかを重んじていて、女性には理解が乏しいけれども、リーダーシップはあるとかなんとか、まあなんつーか、つっぱっているけども根はいいワルガキみたいな、こてこてのキャラクターなわけです。いいですか、このおじいさんが副主人公なのよ、この映画。なんかそれだけでもう疲れちゃうよね。
 んで、お話的にもなーんのヒネリもない。認められないけれども努力して、最後には認められる主人公ものって、オイオイいったい何十年前の少女漫画真面目にやっているんですかあなた、と突っ込みをいれないでいるなんてことは私にはできません。なんか主人公の女の子がね、英語のスピーチコンテストかなんかで賞をもらってみんなのまえで読むんだけども、そのときに一番聞いて欲しかったおじいちゃんが来てなくって、しくしく泣きながらがんばって言うシーンがあるんだけども、そのシーンであろうことに、延々と女の子を顔を映し続けるの。はぁ。こんなシーンでお涙ちょうだいしちゃえと思っていそうな馬鹿な監督って死んでもらいたいんだけど。
 さらにさらに醜悪なのがね、おじいちゃんが部族長要請に失敗して落ち込むシーンがあるんだけど、そのシーンで、どうやら落ち込んでいるらしいそのじじの顔やら背中やら歩き方やらを延々と撮るわけ。で、役者も役者で言葉一つ言わずに、私落ち込んでいます、みたいな表情と雰囲気をたっぷりと作り出すわけよ。……。言葉でいってやりましょう。てんてんてん。あなた、これ映画なのよ。そんな、「私には内面あります」的なそーゆう演技や演出なんて、いまだに信じてやっている人なんて時代遅れなのよ、あなた。はぁ。ほんとに、この演技見ていてあなたたち疲れなかったんですか? と私はこの映画を見て感激した人に聞いてみたいのよ。ほんとに。
 え? おまえの心はねじまがってるって? そうです。私はこんなお涙ちょうだいシンプルに静かな心にしみる感動ムービーってのに素直に感動できちゃうほどシンプルではないのよね、あいにく。わるうござんした。
 しかし、これがそれほどいい映画ではないと言えるのは、この映画にはどきどきするようなシーンがひとっつもなかったということからも言えるのです。たとえば同じく可愛い少女が主人公だった『藍色夏恋』と比べてみても、あの映画では落書きを二人が消すシーンで、がしがし二人が足でその落書きのシールかなんかをはがそうとするシーンで、なんだか二人がステップを踏んで踊っているような感じがして、しかもそれがほんとにさらっと撮られていてびっくりするんだけども、そういうシーンがひとつもこの映画にはありませんでした。クジラのシーンにしても、いかにも意味ありげにスローモーションとかぶっこいてて、もううんざり。こういう素晴らしいシーンがありましたってことはイチイチ下のレビューでは書いていませんが、いい映画だって私が言うには、必ずそういうシーンがあるような映画のことを言っているのであって、もうそれが当然だとも思っているので、わざわざ言わない(というかシーンを解説するのって面倒だし、カメラの動きとかまで入れてきちんと説明できる自信もないしね)のだけれども。しかし、こういう映画をいい映画だと思っちゃう人がたくさんいるようだから、やはり、基本的には、いい映画の魅力ってやつは、どきどきするシーンなんだってことを(『10話』みたいな例外的な映画も百年に一度ぐらいはあるけれど)、イチイチ言う必要がありそうですね。
 ケイシャ・キャッスル=ヒューズというその少女役の子がほんとに可愛いくて演技も上手いだけに、残念無念な映画だよね。この子、USAでも大受けらしくって、スターウォーズのエピソード3とかに使いたいって話しがあったんだけど、ハリウッドは非現実的だからヤダ、将来は学校の先生になりたいってことわったんだって! ハリウッドジャンキーの日本人には信じられない発言だよね。素晴らしい育ち方をされている。そう、この子はもう映画に出るつもりはあんまりないみたいなのよ〜。それだけに、残念だよね、ほんとに。

アマロ神父の罪(カルロス・カレラ)メキシコ、ビスタ、2002

 いやはや、これだから映画ってのは見てみないとわからない。だって、この映画の売り文句は「愛の物語」なんだからね〜。内容とぜんっぜん関係ないのよ、これ。まあオリヴェイラの超問題作だった新作も「媚薬のような愛」というコピーだったしなあ。まああれはもともと宣伝文句なんかつけようのない変な映画だったけれども、これははっきりとした明確な映画なのです。いいですか、これは恐ろしきカトリックとその支配下にある恐ろしきメキシコ社会についての映画なのですよ(「人間の原罪」を描いた映画だとかぬかすやつはカトリックの回し者なのか?)
 20世紀は大きな世俗化の動きがヨーロッパ全体やイスラム社会(仏教社会でよりかは……)で広がっていった時代でした。この「世俗化」というのは一般的には宗教の社会的な支配力が弱まっていくっていうことなんだけど、あの恐るべき合衆国やイランや南米とか特殊な地域では逆に宗教化が強まったって考えられがちなんです(USAのあるあほっぽい学者はこっちのほうの動きのほうが標準的で、合衆国はそれゆえに世界のモデルなんだって信じられないこと言ってたけどw、まああんたの頭を標準化することからはじめたほうがいいって感じだね)。でも実際のところ、「世俗化」というのは宗教それ自体の世俗化をも意味しているのであって、たとえば合衆国ではいまや宗教はもっぱら馬鹿な国民を操作する道具のようだし(先進国であそこほど冗談みたいに政教一体がすすめられているところはほかにはないのはみなさんご存じの通り)、カトリック世界でも教会の世俗化(まあこれはカトリックにとっては古くて新しい問題だけども)は容赦なく進行しているわけで……。おっと、つい真面目になっちゃった。でもこれはまあけっこう真面目にカトリックを批判しているのよねえ。いや、ほんとに感心いたします。
 ガエル・ガルシア演ずる若きアマロ神父が田舎の教区に赴任してくるんだけど、そこにはいろんな現実があって、まず教区の主任神父(?)はやもめの女を愛人にしてるし、麻薬マフィアのマネーロンダリングに手を貸してるし、麻薬マフィアに苦しめられている農民たちに手助けしているというナタリオとかいう神父(これが唯一の美しい人間として力強く描かれる)はいるしで、もう無茶苦茶。彼自身もマフィアと神父との関係をすっぱぬいた新聞に圧力をかけて記事を撤回させる(教会の社会的な力ってのはもんのすごいらしい)ことを引き受けるわ、16歳の娘に手を出すわで、だんだんはじめに持っていた純真さを面白いほどに失っていくってわけ。 
 いかにも世俗的な生活を送る神父たちの俗っぽさが丹念に描かれるのも面白いけれども、カトリックにそんなに詳しくない私としてはですな、そういやそれってカトリックではタブーだったんだっけぇという神父の妻帯とか、うーんメキシコってそんなにスペインから入ってきたであろう教会の社会的な地位が高いんだ〜とか、その教会の制度とか、そういうところが部外者にもよくわかるように描かれていて面白かったですな。ほかにも聖体拝領の儀式なんかもちゃんとあって、なんやらおどろおどろしい教会の中それ自体も細かく映し出されるし、こまごまとしたカトリック的な世界みたいなのが描かれることによって、その馬鹿馬鹿しさというのが分かるようになっているわけ。ほんとに信心深そうな人びとなんかも出てきて、こんな腐った神父連中に信仰心をにぎられて支配されている善良な人のかわいそさってのもあるし、もちろん信仰で排他的になっている恐ろしい群衆なんかもでてきたりする。
 時代設定が2002年になっているのは、おいおいほんとにこんな世界なのかよいまだにメキシコって、て思うんだけど、ある程度そうじゃなきゃこんなにカトリックを批判しようとする映画なんて撮ろうと思わないんじゃないかなあ……。まあそれで受けをねらったっていうのもあるかもしれないけど。実際これは、メキシコやUSAでは抗議運動や監督への脅迫事件なんかもあったらしくって、けっこう話題になったらしい。物語としてはものすごーくオーソドックスな堕落した聖職者ものなんだけれども、舞台がメキシコってことでなんかリアルな怖さが付け加わりましたね。演出もくどくなくってとっても心得ている。これは、力のある監督だと思いますよ。メキシコ映画には、これから目が離せないみたいですね。

藍色夏恋(原題=藍色大門 Blue Gate Crossing、監督=イー・ツーイェン)、台湾=フランス、2002。

 スクリーンのまん前に座って、映画がはじまったときからクラクラしっぱなしでした。もう、この映画はルンメイちゃんのすばらしさにつきます。それだけでいいんです。
 日本人的な見地からすれば、普通はルンメイちゃんの友達役の女の子のほうがかわいいし、青春映画では主役になってもおかしくなさそうじゃない? でも台湾では違うのよねー。無表情で、青白くて、ボーイッシュで、だけどとってもハンサムなルンメイちゃんを主役に選んで、ひたすら彼女のアップで映画を撮ろうと思った監督は限りなく正しいのである。彼女がほんのときおり見せる笑顔はほとんど神聖でさえあって、それに比べればチェン・ボーリンなんてへらへら笑っていいるだけの大根でしかない(言い過ぎか)。もし台湾がイタリアだったら、この映画は『ローマの休日』みたいに町とかももっと印象的に撮られていて、ルンメイはオードリーになっていたんじゃないだろうか(わけわかんない)。いや、じっさい、女性の笑顔がこんなに喜ばしく清らかなものとして撮られた映画っていえば『ローマの……』といい勝負だなあと思ってしまったのですよ。
 しっかし、ルンメイちゃんってこのとき18歳ぐらいなんだよねー。15歳ぐらいでもよさそう。よくこの年までこんなにボーイッシュでいられたもんだなあ。ある少女の一時期に見られる、透明で美しい年頃が見事にとらえられているんですなあ。もう嬉しくってしかたない。
 そう、だからこの映画に厳しさが欠けているとか、「痛さ」がそんなにないとか言ってみても、あまり益のないことである。なんせルンメイちゃんを撮るだけでせいいっぱいんだんもん、この映画。それに、演技は素人のルンメイちゃんにエドワード・ヤンの映画みたいな役をつけてもできないだろうし。松浦寿輝さんはこれを見て、日本の80年代みたく台湾は保守化しつつあるのではないか、と危惧しておられるけれども、まあそれが一部では事実だとしても(なんせ今世界中で保守化のうねりはすごいから)、この監督は今まで台湾ではあんまり語れていなかった若者の性というテーマに取り組んでいるのだし、まだまだ期待できるんではないでしょーか。いや、そもそもヤンとかシャオシェン級の監督がそんなにボロボロでてくるわけないのだしねえ。
 ルンメイちゃんはあまり俳優業をするつもりはないみたいだね。もったいないなあ。もっと怖い役とかも似合いそうなので、ホラー映画とかにもぜひ出て欲しいですな、って個人的な趣味かも、これ。

トーク・トゥ・ハー(ペドロ・アルモドバル) スペイン、2002。

 決定的な傑作です、この映画。決定的って何がよって思われるでしょうね、きっと。でも、いろんな意味で決定的なんですよ、この映画は。今年日本公開作のなかで一番という意味でも決定的だし、この映画をいいと思えるかどうかでその人がどの程度人間というものを愛しているかどうかも分かってしまうという意味でも決定的なの。
 私たちの生は平凡な繰り返しの中に埋没しているようではあるけれど、よく見ると細かな変化に富んでいるし、命の輝きもあちこちに見いだすことも可能だし、もちろん愛も。この監督はそのことをよく知っている。たとえば、マルコがアリシアをはじめて見るときに、アリシアの目が開くシーン、これはマルコの存在にアリシアが気づいて目を開けて見つめたとも思えなくもない奇跡的なシーンなのだけれども、こうしたシーン(伏線としての役割もある)を特別意味深な演出で際だたせることなく続くシーンにとけ込ませるやり口に、この監督の人生へのまなざしをはっきりと見ることができるように思われます。
 監督はある種の人生の真実なるものを、いくつもの対立によって少しずつあぶりだしていきます。まず対比されるのはマルコとベニグノ。アリシアに話しかけるベニグノとリディアにまったく話しかけないマルコ。一方ではマルコはだんだんベニグノに親しみを持っていくのだけれど、しかし他方では彼のアリシアへの接し方には苛立ちを持ち続けるというこの二人の関係の描き方はほんとうに絶妙。この二人との関連でアリシアとリディアの生と死も対比されるし、アリシアとベニグノとの関係とマルコとリディアとの関係も見事な対比をなしている。
 シンプルといえばまあそうなんだけど、この映画について語るには数千語必要になるでしょう。ピナ・バウシュやカエターノ・ヴェローゾの使い方の見事さや演技派を揃えた俳優の演技のすばらしさ(ベニグノ役のカマラは介護の技能を学ぶために四ヶ月かけたらしく、外界に反応せずに眠り続けるためにワトリングはヨガを学んだらしい)についてはまあ絶賛するだけにしておいて、ここでは監督の視線のすばらしさを称えたいのよね、いいですか?
 アルモドバルが描くのは悪意のない人びとなんだよね。誰も悪意を持っていないのに、人生には悲劇が起こる。でもそうした人々に投げかける彼の視線はものすごく暖かなのよね。たとえばマンションの管理人のおばさん、彼女は噂好きだし、けっこうお節介焼きやさんに違いなし、けっこう俗っぽい人間でもあるのに、驚くべきことに悪意はまったく感じられない。まあこういう人間ってのはよっぽど注意していたとしても(注意していればそれだけ)見つかるものでないのに、アルモドバルはなんなくこういう人間を造形してしまう。こうした人間のあり方、これがアルモドバルだと思うの、きっとね。みんな悪意はないし、いい人であるだろうに、しかしどこか孤独で、なぜかそれぞれの行為が相手を悲しませたり、傷つけたりもするし、悲劇を呼んだり、奇跡を起こしたりする。これはもうマジックです。
 でもまあこれは要するにコミュニケーションの映画。このコミュニケーションがかな〜〜り問題含みではあるのだけども。しかしそれぞれの関係は次の関係につながっていく。もうそのつながり方が絶妙なのです。というのも、どんな形であっても、ある二人の関係はそれだけで閉じるものではなくって、次の別な関係を生み出すことになるのだから。このへんは、キェシロフスキの『赤の愛』みたい。キェシロフスキと同じくアルモドバルもロマンチックで、とくに最後のシーン、もうこれで終わりだろうなーと思っているときに「マルコとアリシア(彼女はベニグノの介護によって事故以前よりも若返っているように見える、というか、同じ人物には見えなかった、一見)」とテロップがでてくるなんて最高! こうしてアルモドバルはキェシロフスキを見事に超えてくれたのでした。
 最後にもひとつ。マルコとベニグノが向かい合って涙を流すシーンはとんでもなく美しいよね。こんなに男の涙を見事に描いた映画ってほかになかったんじゃないかしらん。よく感情をおもてに表すであろうスペイン人だけどさ、でもこんなに男性の感情を素敵に描ききったのは、やはりこの監督ならではの才能ゆえと言えるでしょう。ああもういろいろ書き出すときりがないや。でも、この映画を絶賛することは今日のわれわれの大いなる使命であるのよね。A++。

アカルイミライ黒澤清)日本、2002。(シネ・アミューズ)

 これ、すばらしいですショッキングです。ねえ、みんないい加減、物語だのテーマだので映画見るのやめようよ。これ、テーマは古いんだけど、描き方がものすんごく新鮮だったなあ。とても五十代の監督が作ったとは思えない。登場人物の誰にも感情移入できないんだけど、それがいいのです。世代間理解の問題なんてのがテーマじゃないのさ、オダギリ演じるわけわかんない若者と観客がつきあう映画なのよ〜。浅野忠信も『ディスタンス』のときみたいだけどもっと積極的な役で、いい雰囲気だしていると思う。オダギリ君はよかったなあ、ほんとに。でも、女弁護士だけはあんまりにもちょっとひどかったけど、監督、なんか女弁護士になんか個人的にうらみあるのかね。まああんまり出てこないからぶちこわしにはしてないけどさあ……。画面はざらざらとしてるんだけど、でもけっこう綺麗なの。そのざらざらきれいってのが、この映画にぴったりなんですよ。東京の明かりとか、雨のときの暗がりとかきれいでしたねえ。 音楽の使い方も不思議。衣装もよくて、相当みごとでした。
 んで、恥ずかしいこと言うと、こんな映画を見たのはじつは初めてなんじゃないだろーかという印象を抱きました。清さんの映画はじめてっつうのもあるのだろうけど、この描き方がね、やはり斬新なんだと思うね。こんな映画撮る人いるんだって、そんな感じ。青山さんの『ユリイカ』なんかとはまったくスタンスが違うんだけども、見事にこの時代を描いていると思う。描いているだけじゃなくて、ある種のスタンスっつうのも『ユリイカ』以上に見事に打ち出しているのだよなあ。 もちろんそれは、「現代の映画」なるものへのひとつの解答にもなっているんだけれども。 ざらざらした画面といい、この物語の投げ出し方といい、なんだか映画への強烈な肯定のメッセージを聞き取ったような気がいたします。いやあ、かっこいいなあ頭いいなあ。
 んで、この作品がAの評価を獲得するのは、ラストなんですね。「あいつ、今なにやってんだろー」ってそんな第三者の視点で終わって、見事というしかないなあ。最後に白い文字でタイトル出たのに、じつは一番カンドーしました。不思議な不思議なでもいい映画でした。CNMの
大沢氏による評はよく物語を読めています、オドロキ。

エデンより彼方に(トッド・ヘインズ)、USA、2002。

 あまりに美しい紅葉の町の中で繰り広げられる50年代を舞台にしたメロドラマの傑作、と聞けば今の時代にそんな映画がどうなのよ?と思ってしまうけれども、これはその昔のハリウッド映画のスタイルを踏襲しつつ、しかし見事な演出でそれを豊かな表現力に満ちた作品へと昇華させてしまっています。完成されたスタイルというのは、それが制約されているからこそ豊かなものになりうるということを証明しているのですな。
 ニューヨークの映画で、インディペンデント(独立プロ)なんだけど、もんのすごくお金がかかっていて、やっぱしアメリカ映画はすごいって思わせる。家は実際に造ったものだし(ここまで50年代風を気取るなら、ベッドはツインで、階段にはあと10段ほどのゆるやかなカーヴが必要だって、蓮實さんは異様な鋭さでつっこんでいますが……)、町も50年代風のぴっかぴっかな感じにするために徹底的に掃除したって話しだし、走っている車も全部50年代のものだし、もちろんメイクも(口紅まで)50年代を完璧に再現していて、その細部へのこだわりはすさまじいです。
 登場人物の人物造形も素晴らしい。演技も最高だし、音楽もいいし、クレーンをいいところで上手く使っていたりするアクセントのあるカメラワークも見事だし、文句のつけどころがない映画ってあるのだなあ。しかもそれがアメリカ映画だなんて……。主演のジュリアン・ムーアもそんなに若くないはずなのに、美しくってびっくりしちゃう。「これほど多様な女優たちを苦もなく構図におさめてみせるのだから、トッド・ヘインズは女性には真の興味を覚えることのない男性なのだろう」と蓮實さんは言っていますが、面白いですね。
 全体的にとっても上等な感性がフルに生かされた上品な映画で、スタッフの趣味の良さと、監督の確かな手腕を感じます。とくにラストシーンはとっても上質な余韻を与えてくれます。そしてもちろん、マイリティという問題を、USAの歴史というテーマをこんな形で題材にしたのは、やはり知的だし、それを蓮實さんいわく「ひたむきな演出で」映画にしているのはほんとに感心します。が……
 不満がないわけでもないぞ。そうだ!言ってしまえ。確かに黒人とジュリアン・ムーアとの関係の描き方はどうも中途半端だ。うーん、なんだかこれじゃあ不完全燃焼じゃあないか! このへんは「そーいう社会だったから」っていう優等生的コメントで終わらすのではなくって、やはりもっと映画的な展開をつくってもよかったのではないか。それにこれも金井美恵子さんの言うとおりなんだけど、スカーフの使い方も確かに『春の惑い』でのハンカチーフの使い方と比べるとほとんど映画的な機能を果たしていないよね。さすがに妊娠中のジュリアン・ムーアの体型は映画的じゃないなんてひどいことまでは言わないけれどもさ(実は気がつかなかった……)。

夜を賭けて( 監督=金守珍。原作=ヤン・ソギル)日本=韓国、2002

山本太郎がかっこいいです。ひたすらにかっこいいです。かっこいいいいいいいいいいぞおおおおお山本太郎! ああ、こんなに男優が男らしくかっこいい映画って、なんか懐かしいよねえ。芝居もなんだか大げさで、ちょっと昔の映画のような感じ。どうやら新宿の情況劇場出身らしい、この監督。男二人が雨の中どろどろになりながら殴り合うシーンなんかも、ワンシーンで撮ってしまう。そう、これは古き良き、そして楽しくちょっとばっかし臭い日本映画賛歌なのかもしんない。みなさん熱演で、たいへんいいです。山本太郎はこれで名優になりましたが、しかしこーいうタイプの俳優って、象徴的な意味ではもはや日本を代表する存在になるのは不可能なのが、いまの日本映画の哀しいところかもしれないなあ。佐藤忠夫氏によるレビューもどーぞ。 B+。

インファナル・アフェア(トニー・レオン&アンディ・ラウ主演)香港、2002

 アジア映画特集ということを目的にこのページを作ってるわけではないのだけど、なんだかついついアジア映画をよく見ちゃうので(じっさいに質の高いのが多いし)40パーセントくらいアジア映画になってますね、このページ。しかしですな、この映画はそんなアジア映画マニアにだけでなく、むしろハリウッド映画ファンとかにこの映画を見てもらいたい。絶対面白いから。というか、いかにほとんどのハリウッド映画がつまんなくて、アジア映画が素晴らしいかということがよく分かるから。アジアはサイコーです。
 レオン君とラウ君は、マフィアに忍び込んだ警官のスパイと、警察に忍び込んだスパイなのである。想像してみてよ、もしどちらかの仕事をやれと言われたら、あなたどちらを選ぶ? ほんとの警官の役の方がいいって? いやいや、マフィア役のスパイだって、ちゃんと警察免許もってるのよ。そして生活でも警官として社会的にも安定しているしね。レオン君はかわいそうなマフィアに潜入している警官の役で、長い間ちゃんとした警官でなくって、生活上ではヤクザしているから、なんか不安定で気力を失ってきている表情をしている。HEROでがんがん剣をふりまわしていて力強かったあのレオンが、なんだか役所広司みたいな役をしている! 彼は世界一すごい男優だねっ!
 脚本としては、両者の心理的なコンプレックスや、事件が起きていく中で感じるいろんな動揺、その微妙な立場からくる互いのいろんな優位な点や不利な点、などなど、考えられる限りの繊細さをもって描かれていくわけ。このへんの書き込みぐあいはほんとに細かくって、よくできすぎている。描写の仕方もくどくなくて、淡々としていていいねえ。 んで、この映画のかんどころは、そこで起こっている事件を決して観客に見せないのよね。ただいきなり結果がつきつけられるだけ。鉄砲がんがんうつシーンとかはあんまりなくって、いきなり死体が見える。こわーい。これ怖いよママーンってかんじだよ、これって。こういう編集ってのが、強い緊張感を観客に与えて、よりその出来事をリアルなものと感じさせるんだよなあ、そーだよなあ。この点でいかにこの映画が正しくてハリウッド映画が間違っているかなんてことは、これ以上言わないことにして……
 そして何よりこの映画をアーティスティックなものにしているのは、そのキャメラや、編集、つまりまあ映画の基本がよくできているわけなんだけども、これはほんとにテンポがよく作られていて、韓国映画にも受け継がれたあの抜群のスタイリッシュさで決めてくるのよね。でもそれがたんなるカッコつけではなくって、映画的な演出として十分に面白い。そのおかげで、とんでもないドキドキ感が、その緊張感が薄れることなく最後まで持続するのである! おお、まっさにサスペンス (サスペンスの定義とは、「観客が登場人物よりも先に彼らの関係を知ることによって、映画の中に入り込むことによって生じる」というものなのだから、これはまさにその王道をいってるわけです)! サスペンス映画としてこれは歴史に残りますね。野崎さんが、松浦さんが大絶賛しているのもうなずける。
 けっこう複雑な展開をして、しかもテンポも早いから頭が映画についてくのに大変だったけれど、でもそれでもちゃんと理解したと思っていたんだよね、伏線とかほとんど。でも細かいところはじつはよくわかっていなかったというのが、後で分かりました。警部が最後に言おうとしてためらったのはなぜ? あの娘さんは誰の娘なの? 最後に出てきた彼は今までどんな役をしてたんだっけ? とかね。うーん、やはり内容が濃いわ、この映画。脚本も、役者の演技も、キャメラも、演出も、編集も、音も素晴らしいこの映画は向かうところ敵なし、まさに最強の映画です。香港は映画が下火になっていたというけれど、この一本で活気づいたというのもよくわかりますなあ。日本の『踊る2』みたいなもんかなあ……

HERO(監督=チャン・イーモウ)2002

 あのチャン・イーモウがついにハリウッドに挑戦の映画。アクションシーンがなんといっても面白いのだけども、始めの囲碁や、書のシーンなんかも中国の独特の文化で見ていて楽しい。なんだかんだいって痛快な映画ですよ。
 個人的には『初恋〜』でちょこちょこ歩いていて超かわいかったチャン・ツィーちゃんが剣でもってがしがし男とやりあうのがなんともたまりませんでした。しかも必ず負けるし。いや、もっともっとがしがし負けてほしかったのだけど……。いやいや、こりはいかん。
 なんというか、『ドラゴンボール』なんかの実写版という趣もなきにしもあらずで、あれをこんなに緊張感のある戦闘シーンにしてくれているのはやっぱりちと快感である。CGもよくできているし、滑稽なまでにすみずみまで美意識が貫かれているのも楽しい。とくに宮廷のカーテンが落ちるシーンなんかはいいですね。
 あと、この映画の魅力は、中国名勝紀行にもなっているところで、とくに湖のシーンなんかは撮影にひどく苦労しただけあって、たいへん美しい。中国はやっぱり日本と違って雄大で、幽玄だねえ。
 大きなスクリーン(ミニシアターの小さなのじゃなくって)で映画を見ることの贅沢さを十分味わわせてくれる映画でした。しかしチャン・イーモウはこの次どんな映画を作るのかしらねえ……。まあ、どーでもいいか……

ノボ( 監督=ジャン=ピエール・リモザン、主演=エドゥアルド・ノリエガ&アナ・ムグラリス)フランス、2002。

 いやはや、才能ってのはこんなにも雄弁なものだったのか。昨日見た『ソラリス』とその違いにただもうびっくりしてしまいました。映画ってこんなにも驚きに満ちたものでありうるのねっ。
 監督はヌーヴェルヴァーグ第三世代か第四世代(?)の人で、手持ちキャメラでどんどん人物を追っかけて撮っちゃうし、カラックスみたく超アップで素早い動作を映したりと、冒頭からついうきうきしちゃうような手さばきで映画を始めてしまうのよ。とっても若々しい映画になっていると思います。
 主人公はどうやら五分くらいしか記憶がもたない男で、そのユニークさに女が恋をして……という展開なのだけど、これをやたら説明くさくまだるっこしい映画にせず、ひたすら控えめに物語は語られていき、でもとっても爽やかで軽やかでそれぞれのシーンが信じがたいほど生き生きしていて、まったく感歎すべき映画ですよ。うむむむ、編集もカメラワークも音楽の使い方もムグラリスの髪型も何もかも見事だねえ。ほれぼれするなあ。しかもオドロキなのは、フランスらしい開けっぴろげさがあって、R指定なんだけど、全然エッチでも扇情的でもなくて、しかも露出度が高いのにはアングリですな。登場人物の裸がやけに多いんだけど、そのおおらかさというか、照れのなさがとても好ましいです。イエス。セックスと愛の(両者の対立あるいは二律背反としての)問題って、なかなか日本では大っぴらには語られがたいところなわけで、それをこんなポップかつ哲学的な形で問題となしえているのはやはり おフランスならではって感じで、蓮實さんが絶賛するのもいかにもだって思われるかもしれないねえ。(記憶喪失ってのは、このテーマをより明瞭に取り上げるための装置にすぎないわけです……念のため)。……ほんとはスペイン人らしいノリエガのフランス語はちょっとフランス語には思えないこともあったけれど(字幕作成の型はさぞかし苦労なさったことでせう)。
 ちなみに、二人が現代芸術の美術館で見ているおしりのアップが延々と続くフィルムはオノ・ヨーコのものらしいです。おしりの毛を剃るシーンもあったよね、映画の中で。もうオドロキすぎ。んで、最後の駐車場でのシーンはありきたりといえばありきたりな展開なのだけれど、それがハリウッド的なありきたりさではない、新鮮なオドロキに満ちているのはほんと不思議です。バンザイなA+。

ソラリス(監督=ソダーバーグ、制作=ジェームズ・キャメロン、主演=ジョージ・クルーニー)USA、2002

Fox の映画を見るのはとっても久しぶりで(10年ぶりくらいか?)、つまりハリウッド映画を見るのはかなり久々で、アメリカ映画もひさびさで、しかも初体験のサウンドシステム(なんとスターウォーズ・エピソード1のためにわざわざ作られたシステムらしい)で、しかもはじめての映画館でと、はつものづくしで見たこの映画、皆さんご存じの、あのソラリスの二回目の映画化なわけ。しかも一回目の映画化は映画史において最も特異な作風を作り上げた奇跡の芸術家タルコフスキー作品なわけであって、あの超傑作に現代の退廃したハリウッドがどう退行いや対抗するのか???とかなーり見る前から疑問が多かったこの作品……はたしてその出来はいかに?
 USAではさんざんな評価だったらしいんだけど、まともな頭をもった日本人にとってはそんなに悪い映画だとは思えないというのが、とりあえずの評価かな。なんせあのroguesときたら、白黒はっきりしている映画しか受け付けなくて、それで『千と千尋』とかも、はやらなかったっていう話しだからねえ……。そんなにいいわけじゃないけど、頭に来たりすることはない程度の出来にはなっていると思います。音楽がやけにうるさくって頭きたりはするけど、それはおいておいて。
 リメイクではないにしても、タルコを意識しているのは始めのシーンから雨の音がしたりと明らかなわけだけど、残念なのはタルコほどの現実感というか、質料が画面にでてこないことなんですなあ。なんせタルコときたらよ、初監督作品の『僕の村は戦場だった』においてすでに異様なほどのリアリティを画面に定着させているのであってですね、あの闇の中の沼をボートでこいでいくシーンなんて生々しすぎ て息詰まるほどだったよね? 『惑星ソラリス』でもソラリスに漂う「もや」が異様に生々しく撮られていて、不気味だったんだけど、今回のソラリスの「もや」(なぜかオーロラみたいな明るいものになってるんだけど)は良くできたCGにすぎない。そしてドラマにしてみても、主人公がはじめてクルーに出会うシーンとか、はじめて「客」にであうシーンにしてみても、はるかに驚きに満ちたショッキングなドラマ性をもっていたことは否めない……。まあそんなのは所詮ハリウッド監督の作品と世紀の天才の監督の作品とを比べると当然の結果なんだけど、文句ばっかり言っていないで、この作品のいいところは……
 「客」の気持ちがより主観的に描かれていたってことが今回の作品の特徴です。まあこれは、最後のシーンの伏線になっていて、これは前作とは全然違う。まあここでようやくハリウッドっぽい恋愛ものってことに落ちきそうな感じのラストになっているわけよ。タルコのだとあまりにも救いがなくって哀れだもんね。 でもまあそれが逆に無茶苦茶いいところなんだけどもさ。ともかく、いい原作ですよ、これは。こーいう内面的な物語は大好きです。まあそれがこの映画がいい映画だということの理由にはなんないのかもしれないけれど。そうそう、あの遊泳シーンがなかったのも残念だったかも。うーん、やっぱりタルコフスキーの映画は偉大だなーと思い知らされる映画だなあ、これ。

春の惑い( 監督=田荘荘、撮影=リー・ピンビン)中国、2002。

    中国映画ベスト1にも挙げられるフェイ・ムーの「小城之春」をリメイクしたもの。これも映画史に残る傑作っぽいことは予告編を見るだけで分かります。 お話は、抗日戦争が終わった数年後の中国蘇州の春に住んでいる病がちの夫と、夫とうまくいっていない妻の元に、それぞれのかつての友達(夫にとって)であり恋人であった(妻にとって)医者が訪れるというお話。10年ぶりに会った男と女はおたがいの感情をあからさまにはできないという状況にあるのだから、観客の関心は、お互いがどんな状況において、どのような形で感情を表明するのか、ということに向けられるのだけども、そこにいたるまでの三者の感情の微妙な揺れ動きをも観察することになる。カメラはずっと引いたままで、登場人物によるモノローグもないこの映画では、三人の心の内面を一つ一つ描き、濃い心理劇を展開させていく。それはなんと豊かな映画であることか。
 三人のほかに夫の妹である女学生が登場するのだけど、これがいい役割をしている。ちょうど16歳の誕生日を迎える彼女は三人のあいだの心の葛藤のことなど何も知らないのだけど。それだけに明るく、一人だけ無邪気で、そして一人だけ若い。医者の恋人だったとき妻は16歳だったのだけど、今はもうそれほど若くはなく、愛していない夫持ちになっている。いつもにこにこしていて少し落ち着きのない妹と、いつも落ち着いていて表情のあまりない妻がうまく対比的に描かれて、過ぎ去った10年間の月日を思わせるのだけど、それが見事な効果をみせているのは、妹の誕生日の夜だ。まあしかしそれはここでは書かないでおきたい。
 リー・ピンビンのカメラも美しいし、衣装も、セリフも小道具も素晴らしいのだけど、何より最高なのはヒロインのフー・ジンファン。その秘められた感情と、わずかに男を誘惑したり翻弄したりかけひきをしたりするその様や、男に夫の部屋に「戻れ」と言われたときに見せるのその微妙な表情の変化や、外を歩くときなどのその気品ある立ち居振る舞いなど、何もかも素晴らしい。そんなに美人というわけではないのだし、どこか邪悪っぽい気がしないのでもないのだけど、しかし美しい。
 ちなみに、ル・シネマが出しているパンフは、この映画に描かれた個人主義に注目している佐藤忠男の文章や、「ハンカチーフ」に注目した茅野裕城子のものや、野崎歓さんの文章のほか、監督のインタビューももちろん、スクリプトも収録していて、なかなかいい。吉田広明による
レヴューはこちら

MATRIX RELOADED(ウォシャウスキー兄弟)USA、2002

 コンピュータのプログラムとかっていうのは、大学でも研究されているようなものなんだけど、これって思うんだけど、ものすごく応用・拡張的な分野なんだよね、きっと。ある与えられた状況をいかに効率よく解決するようなアルゴリズムを生み出すか、なんてことがきっと考えられているんだろうけれども(違うかも……)、これって要するに人間の思考のあり方をコンピュータに適用しようとするもので、そもそも人間の思考はどうなっているのか、というところから考えないといけなかったりするんでしょう。だからこそ、心理学とか哲学がこういう分野には意外と役に立つ、という可能性も非常に大きいのである。
 だから、人工知能が作ったシステム、が話題になっているこのパート2で哲学的な議論が頻出することにもあまり違和感はないでしょう。しかし、はっきり言うと、MATRIXの哲学、なんて本も出ているけれど、ここで言われている議論は全部うすっぺらい、こけだましのものにすぎませんね。だいたい、この監督のようなマニアックな人たちっていうのはこういう衒学的な議論を非常に好む傾向があるが、中身のあるものは少ないよね。これなら小説の『ザンス』シリーズのほうがはるかに哲学的だし、主人公自身がシステムの一部であり、そこでどう行動すべきか、という問題もはるかに上手く提出している(というか、いつもこの問題ばっかで飽きるほど)。 サイバネティクスもまったく知らないみたいね(原因と結果、こればっかだし)。
 ああ、なるほどね。感情や自由意志の問題とコンピュータ・システムとの関連を持ち出してきているわけね、この映画。まあこれは古典的な問題なんだけど……。感情の動きは決定されているのか、いないのか、というのは哲学者によっても立場が分かれるけれど、たとえばスピノザは決定されていると考える。エチカ第二部定理48の証明をみよ。しかし、たとえそうだとしても、いみじくもフロイトが言ったように、われわれは普段その原因を 明確に見いだすことはできない(精神分析もそれを可能にはしない)。んで、監督がきっと言いたいのは、この、人間の感情と行動の最終的な予測不可能性とシステムの バグの予測不可能性のことなのかなあ、という気がします。システムを支える個々のプログラム同士のミスマッチな関係から生まれるバグは予測できない(だからソフト開発会社のプログラマは徹夜をする)。デリートされていない余ったプログラムたちがこの映画で人間的なものとして扱われているのはそういう対比からのことではないでしょうか ?(感情をバグと類比的に捉えるってのも、コンピュータオタクにはありそうな発想だ。というか、『攻殻』そのまんま。しかしいつも思うんだけど、論理的ってことの意味を、こういうエセ理系の連中がまったく理解していないのはナゼなの? 論理は選択を可能にするものじゃあないのにね。カント読めよな。でもこういう初歩的な誤解から、彼らが感情の機能について何も理解していないことがよくわかるよね。 「オラクル」あんなプログラムありえないっつうの。まあ英米系の哲学や心理学とかって、こういう問題がとても苦手みたいだから多少おおめに見てやるべきかもしれないが) 話を進めると、システムを作った超越的なプログラムにも、そのバグによってシステムに深刻な変更が加えられるのを止めることはできない。それで「彼」は解決策として、あらかじめそうした不確定要因をある程度想定して、システムをより柔軟なものとし、そのバグ自身もシステムにとりこめるように、システムにある特殊な領域をもうけておけばいい。それがザイオンなんでしょう 。
 意志とは何か、知性とは何か、これはまあ古い問題ですよね。でもこの監督はぜんぜんこの問題の本質を理解していないみたいですね。まず基本的なこととして、人工知能は感情をもちません。こう言うと、真面目に人工知能に感情を持たせようという研究をしているところもあるみたいだからお怒りを買うかも知れませんが、でもそうなのです、と言うしかない。え? 人間の感情だって決定されてるって言うんだったら、その決定の過程を全部プログラムに書けばいいんじゃないのって? なるほど、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』か。でもね、感情ってのは、ある刺激への反応ってことだけから生まれるのじゃあないのです。それは私たちが生きていって、生きていこうとするその衝動に根ざしているものなのね。基本的に、生きていくのによいことは「快」、そうでないのは「不快」。でもやはりフロイトが言ったように、この関係が逆転するってことも人間にはある(なぜなら私たちがそこに身を置いている生は想像的なものでも、象徴的なものでもあるから。想像界、象徴界。ちなみに、動物も想像界を持っているようだ。死んだ子供の亡骸を抱えたまま生活する親猿。)。まあつまり、かなり複雑なわけ。こうした有機的な生をコンピュータは送ることはできない。ゆえに快感原則を持たず、心をもたない。
 哲学史上にも、これを説明する寓話がある。ビュリタンのラバという賢いラバがいたんだけど、こいつは距離や目方がみただけで正確に把握できる。あるとき、左右ちょうど同じ距離に、同じ分量だけの藁が与えられたことがあった。一ミリの狂いも、一グラムの狂いもなくぴったり。でもロバはあまりにも理性的だったために、どちらの藁を選ぶかその基準を見いだすことができずに、迷ったまま餓え死にした。これはライプニッツも『弁神論』などで、スピノザもエチカ第二部定理49の注解で言及している、よく知られた話です。
 じつはね、感動したんだけど、いまAIがぶちあたっている問題点もまさにこれで、ある行動の基準、選択する基準をコンピュータはもっていないから、何かを自発的にするってことが難しいってNHKの番組で言ってたの。つまり、いくらかしこくっても、AIはピュリダンのラバなんですな。たとえば、料理の仕方を教えたロボットでも、自発的に料理をするってことはありえない。何日何時何秒にどういった料理をするってことをあらかじめプログラムしておかない限りは。だってコンピュータは体をもたないんだもん。何かを選択するなんてことは、身体をもった有機体のみにしか、できないことなんですよ。知性と意志が一致すると言ったスピノザだって、人間の心と身体との並行論を前提としているんだよね。なお、スピノザ的に言えば、コンピュータは知性も持たないってことになるだろうね。ホーキング博士は「われわれ人類の知性とは対照的に,コンピュータの性能は18カ月おきに2倍になっている。コンピュータが知性を持ち,世界を支配するという危険は現実のものとなっている」「人類を電子システムより優れた存在にしておきたいのなら,われわれは遺伝子操作の道を進むべきだ」と言っているみたいだけど、こんなの完全にくるっちまっているとしか思えません。遺伝子操作? 馬鹿すぎ。理系の学者ってどうしてこんな馬鹿なこと言うんだろうね。どんなに遺伝子操作しても、ちゃんと考えることを学ぼうとしなければ、人類はますます愚かになっていくだろうけれども、いま人間がしなくちゃいけない仕事がコンピュータの発達によってできるようになるんだったら、人間の余暇が増えて、馬鹿な物理学者が書いたのでないまともな本を読む時間が増えるでしょ? まあそううまくはいかないにしても、基本的には両者の関係はそう単純には対立はしません。
 え? まだ納得いかないって? やっぱり、コンピュータに行動の決定する法則をたくさん覚えさせれば、人間にちかくなるんじゃないかって? まあそれは否定しませんよ。良心回路とかいいよね。貧しい人にお金を寄付をするのはよいことであり、よいこととは悪いことよりも優先してなすべきことであるって教えておけば、お給料を際限なくブランド品につぎこむ日本人よりかは倫理的なロボットができると思うよ。でもそれとこれとは別。AIがなんかのきっかけで人間のような感情をもつことなんてのはありえないってこと。それに、たとえMATRIXを作ったAIが人間によって感情プログラムを植え込まれていたとしても、それが人間をあんなふうに扱うようなものになるとはちと考えにくい……いや、そーゆうひねくれたマッドプログラマの作品だったとしたら、それはそれで面白いか……。でもまああんなプログラムを作ることなんて、物理的に不可能だと思うけどね、人類総動員したとしても、何年かけても。そもそも、自己組織化するシステム(オートポイエーシス・システム)の構造なんてものは、最近研究がはじまったにすぎないのだし、それがコンピュータシステムにあれほど高度なレベルで応用できる日がくるとも今の時点では思えない。有機体とコンピュータは根本的にその構造が違うのです。ただ、コンピュータやロボットの研究が、人間の複雑さや奥深さを明るみに出しているのは事実で、とくにロボットの研究者たちの多くはそっちの方が目的らしいってことはなんともすばらしいことだけどもね。彼らの研究が、数百年も前の哲学者たちが人間について考えていたいろんなことがいかに正しかったかってことを証明してくれるのだから。 それにきっと、人間の感情が果たしていることについても、もっとよく理解できるようになるかもしんない。哲学書の言葉よりは簡単なモデルでね。
 ああ、際限なく脇道にそれたけど、この映画は前ほどはウケなかったみたいね。まあ二作目ってのは新鮮さがなくなるのは仕方ないよね。それよりすごいと思うべきなのは、全作の驚異的な成功を糧にして、とんでもなくお金をかけた映画を作ったってことだよね。まさにハリウッドシステムの勝利。でも、そうしたアクションシーンにも、監督なりの美学が貫かれているのはいいと思います。なんだかんだいって、センスはいいよね。というか、それがヒットの最大の要因なんだけど。これってさあ、まさに人々がハリウッド映画に求める 娯楽的世界そのものを映像にしたものじゃない? 自由に体を使える幻想の世界だし。前作ではこの世界のお気楽さがウケたんだろうけど、今回はこの世界観が重くなってきたからウケなかったんでしょ? でもだいたい、みんながハリウッド映画に求めるものしか、映画そのものにも求めないってのがこのハリウッドによる資本搾取の原因だってことを、あたしは声を大にして言いたい。だからこの二作目は一作目と ほとんど同じぐらいいい、あるいはくだらないと言うことができるけれども、それよりホントに私が言いたいのは、これより『インファナル・アフェア』のほうが娯楽映画としても楽しいし、純粋に映画そのものとしてもよくできていると思うってことだね。あれは日本ではあんまりヒットしなかったみたいだし。ブラピによるリメイクなんかがヒットした日ににゃあ怒りくるぞわりゃあ。これはまあまあ面白いと思うけれども、これに70億(円だったっけドルだったっけ)もかけたのかと思うと しょうもないと思うし頭くる。

黒水仙(ペ・チャンホ)、韓国、2002

 ええと、この監督は韓国の監督としてはけっこう前衛的なほうで、溝口のまねしたような映画とかもがんばって撮っている人らしい。そういう人が、こーゆう今の韓国映画の主流になっている作風で、つまりチープなハリウッド映画の模倣という作風で、商業的な映画を作んなきゃやっていけない韓国の映画事情って相当くるしいのだろうかしらん、日本での韓国映画やドラマのぶれいくはこういう結果しか生まないのか〜と哀しい気持ちになってしまったりするものの、まあこれはそこそこ楽しめる娯楽作ではある……。
 なんつーか、ハリウッド映画の文法を完璧に守って、しかもあちこちでその文法を極度に律儀に守ることによってある種のユーモアさえ生み出しつつ、しかも観客の期待を裏切らない作品にしているのは、確かに相当な力量ではありますよ。でも……あまりにベタというか、なんつーか、いやはや……。まああれだ、日本のドラマとか見慣れている我々にしてみれば、そのまま日本でも通用しそうないかにもな俳優たち(全俳優のオルタナティブが日本にもいるとも言える)が期待通りの役柄を演じてしまうように思えてしまうというのも、ベタだなあと思ってしまう一因ではあるのよ。主役の彼、山本太郎に似てるし。というか、彼にやらせたらもっといい映画になるぞよ(いや、でも主要役者たちは演技に力は入っていたよ ね)。それはおいといて……と。この問題に関しては、監督自身から興味深い発言があったのだ。「『黒水仙』は、リアリズムを追求するというよりは、古典的でオーソドックスなストーリーテリングの映画を作りたい、という思いで製作した作品です。ところが韓国ではこの映画を見た人たちの中で、若ければ若いほどこの映画に共感しづらい、という現象があった。韓国では逆にオーソドックスなストーリーテリング物というのが、若い人たちにとってはなじみが薄かったのかもしれません。もっと分かりやすい上に刺激的なものを今の若い人たちは求めているのだと思うのですが、この作品は集中して考えることを要求される映画ですし、朝鮮戦争が背景になっていて、映画でまた北朝鮮の話を聞かされることにひょっとしたら嫌気がさしていたのかもしれません。年齢層が高ければ高いほどこの映画に対する反応は良かったんです。」ああああ、そうだったのか、この映画の語り口は若い人には古典的すぎるのねー。うーむ、さすがに韓国でもそうなのか。うーむ……、これ、1950年代ぐらいのスタイルなのかなあ。
 しかし、日本(この映画では美しい宮崎)が懐かしい風景として、アジア映画でよく描かれるのはなんとも不思議。この映画ではただの観光地だけどね。あと、これ全部ジョークな笑える映画だと信じていたのに、クレジットになって『イマジン』が流れ出すとボーゼンとしちゃうのは、あたしだけなのか?(いや、韓国の若者もそうだて、監督言ってますよね)C−。

家宝(O Principio da Incerteza) 監督・脚本=マノエル・デ・オリヴェイラ、製作=パウロ・ブランコ、撮影=レナート・ベルタ、美術=ゼ・ブランコ、衣装=イザベル・ブランコ、出演=レオノール・バルダック、レオノール・シルベイラ、イザベル・ルート、リカルド・トレパ、イヴォ・カネラシュ、ルイス・ミゲル・シントラ、仏=ポルトガル、2002。

 あまりに謎な映画。肝心なことは何も映像にあらわされず、出来事は事後的に会話で語られるだけ。いったい何が起こったのかは本当には分からないまま、不気味な結末を迎えてしまう。これは、とっても難解なんではないでしょうか?
 会話劇として進行していくんだけど、そこではじつはほとんど何も起こらない。人物たちはひたすらすれ違い続けるというだけがその理由なのではなくて、例えば、プロポーズの言葉が「自由にこのプールも家も使っていいよ」と出会いざまに言うことだったりするような、そんな、微妙なやりとりが続くといった感じ。カミーラはまあ、実際殺人鬼というか、かなりの悪人なんだけど、それも暗示されるだけだし。しかし、そんな筋などどうでもいいぐらい、この映画のディスクールが特異なのだ。
 映画監督って、つくづく不思議な芸術家だよね。100歳近いというのに、こちらの常識など軽々と飛び越えてしまうような若々しい映画を作ることができるなんて。それを言うなら、清さんもシャオシェンもそうなんだけどね。いやー、まいったまいった。ちなみに、この映画には続編もあるとのこと。ちょっと楽しみだなあ。

愛してる、愛してない……(A la folie... PAS DU TOUT)(コロンバニ)フランス、2002。 オドレイ・トトゥ主演

 題名の解説いたしましょう。aimer à la folie という言い方で、熱烈に愛する、といいう意味になります。pas du toutはぜんぜんそうじゃない、という意味。まあここまでは邦題と一緒ですね。しかし問題はà la folieには、狂気のうちにいる、と文字通りにとれることもできる、ということ。これに、pas du toutが続くとどういう意味になるかはお分かりですね。そうです、そうなんです。彼女、確信犯なんですね。まあつまり、『アメリ』を現実の世界に移したらこうなる、という夢も希望もない映画なんですね、これ。精神病ってのはああいうのじゃないと思うし(まあ実際そうじゃないんだけど、それは曖昧なわけだし、とくに邦題では)、精神病者が攻撃的だという誤った偏見(実際には、普通の人より攻撃的な人物である可能性は低いらしい)を植え付けるという点でも教育によろしくない。後半もありきたりかつ結末が見えているというサスペンスになっていて、どうも退屈でしょうがない。でもまあトトゥの声はかわいいし、彼女の表情の変化も面白い、というか、まるで自分の恋人とつきあっているような気にさせられるかも。しかしこの映画は、映画の、意味がありそうなカットをつなげていくというその手法を逆に利用し、その虚構性をあばいたところにおもしろさがあるんだろうけど……うーん、C+。

エルミタージュ幻想( アレクサンドル・ソクーロフ)ロシア ・ドイツ・日本、2002

 今年はサンクトペテルブルク建設300年らしくて、きっとそれに合わせて作られた映画なのでしょう。ロシアの栄光と没落(?)の歴史が封じ込められたエルミタージュをワンカットで、しかもストーリー付きで撮るというとんでもない映画。面白いのは、案内役の男がフランス人で、ロシアの芸術にことごとくケチをつけながら美術館を歩いていくところ。この人物のおかげで、単純なロシア賛歌の映画になっていないのは、さすがソクーロフなのかしら。監督の批評的な視点はあちこちで発揮されているのだろうけれど、それを理解するには相当の教養が必要だと思われる。ほかには、主人公のぼそぼそ声はやけに耳に残るし、彼がどうやら見えたり見えなかったりするのも幻想的な雰囲気を一層強めていていい。そう考えると、邦題は見事ですね。最後に映る海はなんだかタルコフスキーみたいでちょっと怖い。

過去のない男アキ・カウリスマキ)フィンランド、2002。

 音楽の使われ方がとても見事なこの映画にぜひとも不可欠なのはあのジュークボックス。実際ひどいところに主人公は住んでいるのだけど、そこにジュークボックスから音楽がなり出すと驚くほど豊かな空間に変わって、はたして比較的豊かな生活を送っているはずの自分はかつてこれほど暖かい空間で暮らしたことがあるのかどうか疑わしくなってくる。音楽の重要さは、主人公が新しい職で活躍し、だんだん自身を得てくる過程にもよくあらわれている。まったく記憶をなくしているはずの男が音楽によって心の落ち着きを取り戻し、恋人も作ってしまうというその進展に、音楽(とくにロックだけど)への賛歌が驚くほどの信念をもって込められているのに、ちょっと感動しました。 B。

アレクセイと泉(本橋成一)2002。

見終わった後だいぶん経ってから、じわじわといい映画だったなあと、ふと思い出すような映画です。そして、初見から一年以上たった今、これはほんとによい映画だと言えます。

2001(この年は、ロメールの『グレースと侯爵』、ワイズマンの『ドメスティック・バイオレンス』、ゴダールの『愛の世紀』、オリヴェイラの『家路』、黒沢清の『回路』、ストローブ・ユイレの『労働者たち、農民たち』、ホウ・シャオシェンの『ミレニアム・マンボ』、ジェ・ジャンクーの『プラットフォーム』、ティム・バートンの『プラネット・オブ・エイプス』などが制作されましたね。)

『ロード・オブ・ザ・リングス 旅の仲間』ピーター・ジャクソン、アメリカ映画、2001-2002

『ブリジット・ジョーンズの日記』製作総指揮 ヘレン・フィールディング、製作 ティム・ビーバン / エリック・フェルナー / ジョナサン・カベンディッシュ、監督 シャロン・マグワイア、脚本=アンドリュー・デイビーズ / リチャード・カーティス、原作・原案・脚本=ヘレン・フィールディング、撮影 スチュアート・ドライバラ、美術 ジェンマ・ジャクソン、音楽 パトリック・ドイル、衣装 レイチェル・フレミング、出演 レニー・ゼルウィガー / コリン・ファース / ヒュー・グラント / ジェンマ・ジョーンズ / ジム・ブロードベント / シャーリー・ヘンダーソン / サリー・フィリップス / ジェームズ・コリス / エンベス・デイビッツ / リサ・バービュシア、ミラマックス、アメリカ映画、2001

 映画ってやっぱり女性のものなんだよねえ、ほんと。短期間しか上映されないこの文化装置はやっぱりいかに宣伝されるか、そしていかに話題になるかねからというのが大ヒットの用件なんであって、そうした条件を可能にするのはやはり男性よりも女性の口コミが大きな力をもつ。んで、この映画はその口コミを最大限に利用して成功したお気楽少女漫画風ラブコメなわけ。
 だってこれ、すんごい女性の願望丸出し映画でしょ。だっておんなお馬鹿さんが知的な本(?)を出版していそうな出版社に努められるわけがないし、弁護士みたいなインテリが惹かれるわけもない。いきなり都合よくテレビ局とかに転職もできないだろうし、いきなりレポーター なんてやらせてもらえるわけもない。イギリス女性の役なのに全然そうは見えないレニー・ゼルウィガーが悪いわけじゃあないけれど(だってまわりんぽ男はほんとのイギリス人俳優だし)、いたるところにリアリティの欠如とご都合主義的転回と、なんか不愉快で面白くもない会話と、ひきのばされるばっかしで全然進展しない恋愛話とがイライラさせる。……ダーシー氏ね、BBCテレビで本物のダーシー役をやってたコリン・ファースまでひっぱり出してきてやらせたものの、これって全然オースティンっぽくない。オースティンだったらあんなネタの引っ張り方しないもん。真実を知るのと一方を振るのと他方とくっつくのと、ドラマチックなことはすべて同時におこんなきゃいけないのが鉄則なのに。何をだらだらとやっとるんですか? 理解に苦しむなあ。98年の『ユーガッタメイル』の方がオースティンの現代版として圧倒的出来です。でも、似たような俳優とこの映画の脚本家リチャード・カーティスが監督もやった『ラブ・アクチュアリー』は素晴らしい出来でした。
 いろんなとこに中途半端なこの映画、もっと音楽も効果的に全編で使うべきなんだろうけど、さすがにプリテンダーズとか、フィフス・ディメンションとか古すぎ、『フレンチ・キス』でも使われたヴァン・モリソンのSomeone like youはいいけどね。

『シュレック』製作総指揮 ペニー・フィンケルマン・コックス / サンドラ・ラビンズ / スティーブン・スピルバーグ、製作 ジェフリー・カッツェンバーグ / アーロン・ワーナー / ジョン・H・ウィリアムズ、監督 アンドリュー・アダムソン / ビッキー・ジェンソン、脚本 テッド・エリオット / テリー・ロッシオ / ジョー・スティルマン / ロジャー・S・H・シュルマン、原作 ウィリアム・ステイグ、音楽 ハリー・グレッグソン・ウィリアムズ / ジョン・パウエル、声の出演=マイク・マイヤーズ / キャメロン・ディアス / エディ・マーフィ / ジョン・リスゴー / ヴァンサン・カッセル / ピーター・デニス / ジム・カミングス、USA、ドリームワークス、2001

 よく見ると、下の映画と出演者がかぶっていますね……。しかし、日本語吹き替えでみちゃったのでわかんないや。吹き替えっていつもつまんない(俳優の自然な演技をいかにも演技してますって感じの声で台無しにしちゃう)んですが、濱田雅功さんの関西弁(正確には?大阪弁)シュレックはかなり面白い試みだと思います。もともとがアイルランドなまりなので……ということらしいんだけど、シュレックの性格からして関西弁でよかったんではないでしょうか。秋田弁とか宮崎弁(〜だっちゃ)とかだと絶対変だし。大阪弁に違和感があったあなたは、きっと関東育ちで、大阪弁(「関西弁」というのはすごく多様な様々な方言の総称にすぎませんので……念のため)とはお笑い芸人を通してしか触れていない人ですね(なぜか断言)。まあ、そういう色眼鏡で感じられることも多い大阪弁(……「関西弁」というと大阪弁とは全然違う京都言葉も含まれるのに東京の人は変に思わないんでしょうかね。関西から見れば、東京の言葉も横浜の言葉も埼玉の言葉もみんな同じだ……ってそんなに違わないか)ですが、日本語訳はかなり自然な大阪弁(まあやはり関西には長い歴史があるのでそれだけ言葉も多彩なんですね)になっていて、素晴らしかったです。しかし変な形であれ少なくともそれとして認知されている大阪弁(だから「関西弁」っていうのは……はい、ごめんなさい、もうやめます)はまだましで、可愛そうなのは宮崎弁だ……。ラムちゃんのイメージがあまんまりに強い「だっちゃ」はほんとジョークにしかならないもんなあ。まあそれはそれとして……。
 ちょっと変なこのヒーローファンタジーギャクパロディアニメは、やはり脚本がすごくしっかりしていると思いますね(原作はこれ→)。キャラがすんごくよく描けている。んで、何より全編CGというその映像の出来。なんか変なポリゴンめいたところとかあんまりなくって、むしろ昔のアニメの雰囲気をけっこうがんばって出していたのではないでしょうか。特に赤ドラゴンとか。
 ストーリーもいい……とかそういう総評めいたコメントを書くHPではないんだってば、ここは! まったく個人的な感想を言うとだね、音楽の選曲が素晴らしい! イイイイいい! うーん、これだからアメリカ映画は好きなんだよね。特にオドロキだったのは、レナード・コーエン作曲の「ハレルヤ」がすんごい重要なシーンで、しかも曲の歌詞の意味とそこにダブラせて使っていることでした。こういうの、日本の曲でやろうとしても、なんかあんまりにも臭くなっちゃう気がするんですが……レナード・コーエンは周知のように、非霊的恋愛と宗教的な感情をダイレクトにつっくけて歌っちゃう人なので、ここではシュレックの感情や、そのシーンが伝えてくる情念を臭くならずに見事に、ある意味この映画さえも超えた地点で表現していましたね。って単にレナード・コーエン褒めてるだけになっちゃった。歌ってるの別の人なのに。ちなみにレナード・コーエン自身が歌っている「ハレルヤ」はもっと強烈でもっと感情的です。20世紀の名曲の一つと言えますね! ってそれはそれとして……
 いや、だからね、こうなんか偏屈なシュレックだけどさ、映画はなんかすんごいエモーショナルなんだよね。でも臭くなくってサラっとしている。二人の男友達にしてみても、すんごいサラっとしている。いや、確かにロバ君はねちっこいんだけど、いい意味で鈍感な行動におけるしつこさで、日本人にありがちな感情レベルでのしつこさとは全然違う。こういうキャラクターは日本映画ではぜっったいに作れないと思います。それがあの馬鹿で「善良」なアメリカの不思議なところですよな。うーん、しかしやはりロバ君のめげなさぶりにはオドロキですよ。彼なくしては物語は進まないんだけども……ある種の鈍感な率直さというのが実はこの一見ひねくれたパロディ映画のキモだと私は思います。当たり前か……
 んで、お子様も間違いなく楽しめる映画であるってことは、大人も間違いなく楽しめるってこと。とくに小学生低学年あたりの子なら、間違いなく(当社の調査では93パーセント)歌って踊り出しますね、とくに最後のカラオケで。まあ、あそこは吹き替えがないので、字幕があればよかったんだけど……。似たような話で作りとしては『グリンチ』の方が間違いなく(当社比)名作なんですが、歌って踊れるという点ではこっちのほうがノリノリ。ぜひ、その年頃のお子さんたちか、お子さんや借りてこられるお子さんをお持ちの方々は休日にみんなDVDでいいので、見ましょう。なんだかんだ言っても、子供がこんなに楽しめるってのはすごいことです、というかこんなに面白い子供向けの映画(いろいろ)を見られるお子さんがちょっとうらやましいな……。

リード・マイ・リップス』監督=ジャック・オーディアール、脚本=ジャック・オーディアール&トニーノ・ブナキスタ、撮影=マチュー・ヴァドゥピエ、出演=バンサン・カッセル / エマニュエル・ドゥボス / オリビエ・グルメ / オリビエ・ペリエ / オリビア・ボナミー / ベルナール・アラーヌ / セリーヌ・サミー( フランス、2001)

 エマニュエル・ドゥボス扮する主人公の性格のおもしろさがすべてと言っていいへんな映画です。カメラは最近のフランス映画によくある、手持ちカメラで人の目線を追うってやつなんですが、ここではこの手法はなかなか成功していたのではと思います。主人公で恋もする女性が、聴覚障害のためか、ブスのせいか、それとも秘書という会社での地位のせいか、けっこうひねくれていて、とんでもない。求人の際に、「手がきれいな若い男性」なんて言っちゃうあたり、かなり夢見る少女なところ、あるいは初心なところもある。鏡に全裸を映してみたりとか。こうした人間の多彩な面を描くことにかけては、やはりフランス映画はちょっと優れていると思ってしまうのよね。
 ヴァンサン・カッセルもドゥボスにふりまわされるだけじゃなくて、さらなる悪の道へと誘うんだけど、そのへんの展開がやけにすんなりしていて変で面白い。で、途中ちょっと凡庸だけど、最後の話が動き出すところがこれまたビックリ。二人はかなり危ない橋を渡りながらも、愛する二人ゆえの確信をもって行動して、やっぱり最後にはそうなるんだけど、そのへんの展開だけを見るなら、ここもすんなりしている(実際はかなりオイオイ……だけど)。うーむ、やりたい放題だ。犯罪ものとしてけっこうクラシックなところもあるけれど、こうしたジャンルに新しい風を吹き込んだとは言えるのではないでしょうか。Bかな。

月曜日に乾杯!(イオセリアーニ) フランス=イタリア、2001(2002ベルリン銀熊)

 ここんとこ、なぜか映画的な映画を見てなくって不満がたまっていたんだけど、この一本でよくやく満足できました。映画的な映画ってのは、映画ならではの快楽に満ちあふれている映画のことで、それはまあ要するに、ひたすら濃密な時間がその映像のなかで流れている映画のことなんですね。たとえば、ホウ・シャオシェンの映画だったら、ワンシーンにいくつもの出来事が同時に起こっていたりして、細かな出来事の積み重ねや、キャラクターの行動の豊かさが濃密な時間を形成するわけ。で、イオセリアーニ監督のこの映画では、ワンシーンのなかで同時に、というのではなくって、むしろ一つのシークエンス( この監督さんはワンショットで撮っちゃうんだけど)のなかで、カメラが動いたり、あるいは登場人物が入れ替わることによって、いくつもの出来事が入れ替わり立ち替わり進行する、というスタイルなんだけど、そういうふうにいろんな人物の日常が描かれることによって、どうやらパリ郊外であるらしい田舎の濃密な時間が映画になっているわけ。
 こういう映画に巡り会えることの幸福ってのは、なかなか言葉にしずらいものなんだけど、あえて言い表すとするならば、なんつーか、本当に豊かな人生を自分も生きている気になるというか、いや、より正確に言うと、不思議なことなんだけれども、幸福を感じる、という言い方しか、やっぱり適切ではないような気がするんだよね。ただただ豊かな時間を生きることの幸福、というようなものの。
 はっきり言って、あからさまに過剰な仕草やディティールで満ちあふれているこの映画をすべて理解するのはちょっと難しい。
蓮實さんが言っているような、この主人公がロシア亡命将校の末裔ではないのか、という指摘なんて、絶対ふつうにはなかなか気づかない。でも、そうした細かな細かなディティールや、背景がこの、ただフランス郊外の日常や仕事風景と、旅先のヴェネツィアでで主人公が出会った人々との行動を撮っただけの映画を、これほどリアルで、濃密なものにしていることは理解できる。いやはや、ほんとすごいですよ、これ。撮ろうと思って撮れる映画じゃあない。なんか、すごい古典的な手法ではあるような気もするんだけど、一種の芸となっているようなこのスタイルは、なかなか他人がまねすることができないに違いない。ほんっと職人芸です。
 主人公はセリフをほとんど言わないんだけど、それでもこいつは十分に面白いやつだ。『幸福の鐘』の寺島進がそうであったような、単なる道化回しじゃあなくって、ちゃんと主役の役割を果たしている。その子供や、おじいさんや、おばあさんもすんごい面白いキャラっぽい。何より面白くって死にそうなのが、ヴェネチアのあの侯爵。あれは監督自身が演じているらしんだよね。そして、この映画のワンシーンはと言えば、ヴェネチアで一泊させてもらって、朝でてったあとに、その同じシーンでその娘がおきて、淡々と糸をつむいでいるかなんかしていたお母さんに、「おかあさんおはよう」って言って伸びをするところ。あそこには、ぞくぞくしました。なんかこの映画が描いている幸せが濃縮されているみたい。
 もう2003年はすぎてしまったけれども、この映画は2003年のベスト10には確実に入る映画でした。こういう年季の入った味のする映画というのは、ほんといいものですね。

女はみんな生きている CHAOS( 監督・脚本コリーヌ・セロー、出演カトリーヌ・フロ、ラシダ・ブラクニ、ヴァンサン・ランドン、リーヌ・ルノー)フランス、2001年

 とくに何も言うべきことのないようなくらい、明快なお話です。女性の監督で、この邦題だからって、女の復讐、みたいな映画だって言われているけれど、そうではないよね。女性たちが自らの人生を取り戻すっていうお話で、そのからみで男が死ぬことはまあどうでもよくって、むしろ、女性たちの行動にともなった、旦那さんの心情の変化までもが描かれているのが、この映画の素晴らしい点だということは、ぜひとも言わねばならないでしょう。
 娼婦ものってのはゴダールの『男と女のいる舗道』なんかでもあったフランス映画の定番ですよな。でも、あきらかにむごいお話を、かなりコミカルなタッチで、しかもかなりの速度で語るってのがこの映画。カトリーヌ・フロは素晴らしいし、ラシダ・ブラクニは存在感があるよね。カメラは最近はやりの、デジタルカメラで手の動きとかそういう細かい動きまでカメラを雑に動かして撮るってかんじのやつで、これは私はあんまり好きじゃあない。美しいシーンを撮ろうとしないのは、いささかアメリカ映画ちっくなのかもしれん
 ああそうそう、こういうむごい状況から女性がぬけだして、それをもう一人の女性が助けて、しかも両者の間には奇妙な連帯感が生まれている、となると、日本映画なんかでこういう同じ設定で撮ると、ど〜〜〜〜〜〜〜〜しても湿っぽく、しかも女性の関係がなんだかねちっこく描かれてしまうような気がします。まあきっとそうなるだろうね。この映画ではそういうことがない。まあフランス人だし。愛なんか知らないって、娼婦の人言ってるし。でも、それでいいんです。それを肯定するのがこの映画なんです。だから最後のシーンでみんながベンチに座ってるだけで、よいのですね。 
 ラシダ・ブラクニはホントにbeurette(アルジェリア人を親に持つフランス人)で、弁護士になりたくて、弁護士をするには演劇とかできたら役に立つだろうと思って、演劇学校に通ううちに、ラシーヌとかシェイクスピアの作品にであって、この職についたらしい。なんだかこの役にぴったりの人だよなあ。この人、いまフランスで最も注目されている女優みたいだね。
 しかし大変笑える映画です。多少ブラックだけどね。でも、多少あざといところはある。男性は全員コミカルなキャラでしかないし、体制=男性という図式も今ではありえない。娼婦が育てられた家庭がイスラム教で偽善的だというふうに描くのも、まあ実際そういうことがたくさんあるにしても、ちと今のフランスの状況からすると微妙な問題をはらむでしょう。まあ、あちこちで、あんまりにも典型的で図式的な人間の書き方ってのが目立ちはします。そういうことなんか考えると、私は、やはりゴダールの映画は素晴らしいと思いますね。でもまあ笑えたコメディでした。B−。

氷海の伝説ザカリアス・クヌク) カナダ、2001

 映画史上はじめてのイヌイト映画。キャストもスタッフもほとんどイヌイト人で、映画で使われている言葉もイヌイト語。そして映画の内容は、今から千年前ぐらいが舞台の、イヌイトに伝わる伝説というもの。このことがどういう事実を伝えているのか、ということがまず面白いのであるのです。
 まず、今のカナダのイヌイト人は、ここで描かれているような生活はまったくしていなくて、木造の住宅に住み、アイスモービルで駆け回り、ケーブル付きのテレビでプレイステーションかなんかをやっていて、キリスト教を信仰していて、英語を母語としている。この映画のイヌイト人はほんとに冬は氷の家を造ってアザラシ猟に行き、白夜の夏はテントを作って卵をとったり鳥をとったりして暮らしている。このへんの生活の再現は努力のたまものだろう。なんせもうそんな暮らしをしている人なんていないから、文献や長老とかに聞いたりして苦労して再現したのだからね。
 で、そうしたイヌイトの伝統的な生活が絶滅しかかっているときにこの映画が撮られた理由はもうお分かりでしょう。イヌイト人たち自身が自分たちの今の状況に危機感を抱いて、こうして映画にその伝統を保存しようとしたわけ。この映画が何よりも伝えてくるのは、そうしたイヌイト人の危機感なのです。
 この映画、ほんとによくできてるんだけども、よくわからないところも多かったです。シャーマンやら呪術やらが普通にいる世界のお話で、なんかそのへんの超常現象がそうなのだってことがよくわからなかったの。これは思うに、映画製作者たちがそうした特異なイヌイト人たちの内面とか世界観をうまく映像にできなかったんじゃないのかなあ。
 だから単純に、イヌイト人たちによるイヌイトの映画だといって、これを無条件に賛美するってのはちょっと複雑な問題だと思う。そう賛美できるのは、イヌイト語の映画ってことだけじゃなくて、独自なイヌイトの美学や感じ方で撮られた映画が創られたときでしょう……。何にしても、現代のグローバリゼーション化とそれに対する危機感とをよく伝えてくれる作品ですね。はい。

名もなきアフリカの地でNirgendwo in Afrika監督=カロリーヌ・リンク)、ドイツ、2001

 二次大戦中にアフリカにのがれて生活していたユダヤ人一家の物語で、2003年のオスカーの外国語映画賞なんかを受賞した。期待して見に行ったんだけども……
 これは……失敗作というやつじゃあないのか? なにもかも中途半端な描写で、なにも語られていないも同然なかんじ。ほんとに何一つ。ケニア人についても、ユダヤ人についても、レギーナの成長についても、彼女のアフリカ人の男友達についても、ケニアのイギリス学校についても、農場についても、イエッテル(ユリアーネ・ケーラー)についても、ああもう何一つ。なんすか、これ。ウワーン全然なっちゃいないよこの映画。
 この監督、なーんにも考えずに、原作読んだだだけでこの映画撮っちゃったのか?と思わせる。ユダヤ人の二次大戦中の苦悩の描き方にしてもものすごーく安易で、この苦しみを夫婦は愚かにもお互いへの憎しみに置き換えるだけなので、どうもばかばかしくみえてしようがない。イエッテルについて語ろうとしているにもかかわらず、キャラクターがまったく生き生きしてこずに、なんかもう安直きわまりない。こんなんじゃあ演技もしようがない。それに隣人役のマティアス・ハービッヒなんかもぜんぜんいいと思える演技をできていないのには驚くばかり。せっかくいい俳優(らしい)を使っているのにこの脚本じゃあねえ……。唯一の光は子役のレア・クルカがかわいいことだね。
 これがオスカーをとって、日本でもそこそこ観客受けしているのは、なんといってもそのテーマにある。なんつーか、ユダヤ人の苦悩だの、ヨーロッパ人とアフリカ人との交流だの、まあなんか政治的に受けそうなテーマではあるのよ。 いや、うがった見方をすれば(そううがってもないけど)ユダヤ人が主役になっていたからオスカーが取れたのだろうなあ。でもだらだらと長いだけの映画である、というのが私の結論です。この監督は、受ける企画を作るのが上手いんだから、今度からはプロデューサーになったほうがいいと思われます。映画的な楽しみはあんまり味わえませんが、ハリウッド的な娯楽作としてみれば、まあなかなかいいと思えるかもしれません。

神に選ばれし無敵の男(Invincible)( ヴェルナー・ヘルツォーク) ドイツ=イギリス、2001。

 あんまり映画を形容する言葉は持ち合わせていないのが残念なんだけど、この映画にぴったりの形容詞といえば、まず「重厚な」という貧しい言葉しかでてこない。重厚で、見事な映画。筋よりも、テーマ、演技で攻める作品です。
 ティム・ロスという実力派に素人二人をぶっつけたというから、あんまり期待してなかったんだけど、これが、よかった。たいへんよかった。ティム・ロスはすごすぎる。嘘くさいけど真剣で権力欲につかれた(催眠術を使うってのがその権力欲の上手い象徴になっているのだけどね)詐欺師っていうのがはまりすぎています。戦慄をおぼえるほど完璧な演技でした。「私のおしり〜」という場面がすごくよくて、見事に狂気を演じてましたね。これは監督がいいのだけども。主役の彼ももちいいよね。なんか純朴そうな青年すぎる。アンナ・ゴラーリは演技はあんまりしてないけど、表情がすごくよかったです(してるのか)。何より、ピアノが、上手いというよりは、すごいなあと思ったら、本物のピアニストだった。本物だからすごい、というよりは、この人だからすごいというピアノを引いていて、感動しました。いや、本物だからこそああいうピアノを弾くのか。これは、こんなに音楽を感動的に弾いている映画ってちょっとお目にかかったことがないです。
 で、もちろんこの監督が描きたかったのは、二人のユダヤ人の物語。過ぎ越しの祭とか、会話とか、そういうのがよく撮れていて、さすがですね。正しきユダヤ人、というお話は、キルケゴールを思い出せます。これは、そういう、 「二人」の「正しき」ユダヤ人の話しなんだと思います。ちなみに、チェコのユダヤ人ってのは、カフカもそうだったけど、徹底的に社会的な弱者で、ユダヤ性を捨ててチ ェコ人化しようとするユダヤ人も多かったところなんですね。そういうところで育ったからこそ、ああいう認識と欲望にとりつかれてしまうのでしょう。
 Invincibleという原題になっている単語には、神学用語として、Invincible ignoranceという術語があって、これは自分ではどうにもならない無知、不可抗力的無知、つまりは人間にとって必然的な無知という意味なんだろうけど、こっちの意味のほうがこの映画にとっては重要なのかも。ユダヤ人の自らの運命に対する無知と、それに対比される無敵の(かつ運命を悟った)男。どちらにも同じ単語がかかわるというのは、とっても不思議。B+。

少女の髪どめマジッド・マジディ)イラン、2001。

 恋をした相手を見つめ、その人に近づいたり、物を受け取ったり、何かと親切にしようとする瞬間を心待ちにする。それは息苦しい思いにとらわれている時間であると同時に、また官能的な時間でもあるのだけれども、そうした濃密な時間をフィルムに撮るだけで、映画はできてしまうだろう。いやいや、この映画はイランに出稼ぎに来ているアフガン人たちの貧しく苦しい現実をもきちんと描いているのだけれど(この映画は9.11以前に制作されている)、これが『カンダハール』のようなメッセージ色が強い映画になっていないのは、まさに恋の映画だからなのである。
 無償の恋というテーマで似たものにはもちろん『シャンドライの恋』があるのだけれど、こちらはひたすら押さえられた恋の感情の描き方がすばらしい。少女だとはじめて分かるシーンで、髪だけが影になって映っているシーンのすばらしさ、そしてはじめて少女が見せるわずかな心の動揺を捉えたシーンに、化粧をしていてまったく見違えた少女に少年自身も気づかないシーンの見事さ、ほんとにこの監督は映画の撮り方をよく知っている。
 前の二作と違って工事現場といった殺風景なところが舞台だし、愛くるしいと言えるような子どもたちも出てこないので、この監督の撮る対象の代わりぶりにびっくりしたけれど、そういえば、運動靴……も貧しい子どもたちの現状をユーモアに包んで描いたものだったし、太陽は……も盲目の子どもといったリアルなテーマがあったのだ。美しい風景と子どもを撮るだけがイラン映画ではないのは当然だけど、あの事件をさかいにこうした、今まで日本では公開されなかったような映画が公開されるようになる(しかもシネマライズというちょっとおしゃれな映画館で!)のは皮肉なものである。
 ところで、この映画に出てくるイラン人たちはトルコ系(アゼリー人)で、しゃべるのもトルコ語。アフガニスタン人はダリー語というアフガニスタンで使われるペルシャ語を話しているとのこと。アフガン人はトルコ語がわかるけど、イラン人はペルシャ語が分からないみたい。うーん、複雑。
 最後のシーンで(イラン映画に特徴的なものだけども)雨がざーとふるなか、少女の×○(……秘密)が映されて終わるのはなんとも素晴らしい。これ以上のラストはあり得ないと思われる。脱帽だす。 B+。

カンダハールマフバルバフ)イラン、2001

9.11.後の無批判な絶賛の後これを見るとたしかにいかがわしい映画に見えるのだし、これがマフバルバフの映画のなかでも出来がいいほうでもないのだろうけれど、しかしいったいなんのか、この映画は。と思っていたら批評空間のホームページに評がのっていました。(『カンダハール』:いかにもいかがわしく、かつ極めてリアルな映画/橋本一径)しかしマフバルバフって映画評論家には受けがわるいよなあ。と言うこの私もキアロスタミのほうが好きなのは事実だけど ね。

少林サッカー(チャウ・シンチー)香港、2001

 みなさんご存じの、日本ではWCにあわせて公開されて大ヒットしたアジア映画。日頃アジア映画なんてみない人にもこの映画を見させた配給の戦略は素晴らしいです。いや、むしろこういうばかばかしい映画が、日本人が抱いているばかばかしい香港映画という少し懐かしいイメージにぴったり合致したというだけの話かもしれないけれども。その証拠に……まあいいや。
 ウォシャウスキー兄弟(ホウシャウシェン、みたいな名前だよな、つくづく)のMATRIXがブルース・リーへの言及をしていたっつうのは、アメリカ映画にしてはけっこう珍しいことだと思うんだけど(だいたいハリウッド映画って銃のうちあいはあるけど、拳法系のマーシャル・アーツはあんまりないもんね)これがこの映画を作りだすきっかけになったのはきっと、間違いないでしょう。チャウ・シンチーはすっごくリーファンで、今までの監督作でもよく引用していたんだって。でも本格的に少林をテーマに作ったのはこれがはじめてらしい。
 映画におけるリアリティっつうのはまあ実はいろいろあるんだけれども、このまったくCGづくしの映画にもリアリティはある。これはね、少林は素晴らしい、ゆえに中国文化は素晴らしい。ブルース・リーは素晴らしい。ゆえに香港映画は素晴らしい。っつう、ちとナショリスティックなメッセージが込められているわけ。最後のチームが、アメリカのドーピング薬をつかって、少林チームに対抗していたこと、敵役の男がいかにもアメリカンな生活と服装、それに葉巻をいつもくわえていたこと、などからもこの映画のメッセージは明確だよね。それに、主人公の兄弟たちがみなほとんど貧しい生活をしていたこと、それが少林正法によって自信をとりもどすことなど、アメリカ式の生活にすっかり民族としてのアイデンティティを失いつつある彼ら(唯一まともな職についていた人だってその一人)が、自分の文化に誇りをもつことによって自信を取り戻すっていうストーリーになっているわけだし。とはいえ、ただそれだけでオメデトウってわけじゃあない。だって、彼らが誇りをとりもどすのは、ヨーロッパから伝わったサッカーによってなんだし、この映画だって、ハリウッドの馬鹿映画がお得意としてきたCGをこれでもかっていうぐらいに使っているわけだしね。サッカー+CGだからこそ、映画もヒットしたわけだし。そういう矛盾点からも、アジア映画がおかれている立場っつうのが、痛切に感じられるわけでして……
 USAではこの映画をリメイクじゃなくってそのまま公開することにしたんだけど(そもそも、あっちでは全部ハリウッド映画にしなきゃ気が済まないから、外国の映画をそのまま全米で公開するってことが少ないらしい)、なかなか公開しなかったんだって。それはまあ、あちらでは大統領も全盲だっていうほどだから、字幕を読むことができる人が少ないってのもあるんだろうけど、この映画が発する、中国文化万歳、アメリカくそったれ、みたいなメッセージがいやだったんだろうね(でも公開を延期しているうちにファイル交換ソフトでたくさん出回っちゃったから公開に踏み切ったのかもしれない)。なんせむこうでは、正義のアメリカ人は世界中で愛されていて、イラクでもアメリカのすばらしい占領政策は何の問題もなく進んでいるっていう情報しか流されていないってことだから、いきなしこういう映画を見せつけられるとパニックになって、逆ギレされかねないし。んで元の話に戻ると、この映画のリアリティっつうのは、USAに感じているコンプレックスっていうのと、実際複雑な状況とを、この映画がとてもよく反映しているってこと。フルーツ・チャンなんかはそのへんをかなり意識していて反省的ですらあるんだけども、この映画ではそういう感情がかなり無邪気なかたちで、ほとんど自然にあふれてきているって感じだから、なかなか爽やかですね。しかしそれにしてもやはり、ブルース・リーは偉大だってことだよなあ。

2000(深作欣二の『バトル・ロワイヤル』、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、イーストウッド『スペース・カウボーイ』)

チベットの女−イシの生涯(Song of Tibet)(シエ・フェイ)、中国、2000

 「第四世代」と呼ばれるシエ・フェイによる最後の監督作品らしい。なんと映画史上二番目というオールチベットロケで、もちろんチベット語による本格的中国製チベット映画。そう、チベットがなんとも映画的な舞台であるだろうことはチベットロケではない『セブン・イヤーズ・イン・〜』においてでさえ、我々はそのことを想像することができたのだ。そのチベットが、いままさに、そのものが、ああ我々の目の前に……。……というのはちと大げさすぎるんだけど、まあなかなかチベットの風景が美しく撮られていて、それだけでも見る価値はある(この風景のために旅させられるイシは悲惨だが……)
 お話としては古典的で、農奴の生まれで、歌が抜群に上手かったイシという女性が三人の男たちと関わって、でも一人の男とだけ人生をともにして生きてきて……という愛と人生のお話。ちと気になったのは、室内でもカメラが左右に動くのがわざとらしかったんだけど、そのへんのダサさが第五世代と違うところと言ったら怒られそうだな。でも、誰でもそう思ってしまう「クラシックさ」(と言っておこうではないか)がこの映画にはある。でもま、チベットってもっと映画が撮られてもいいところだなあ、と思わせます。実際には、中国による検閲とかで厳しいのだろうけど。この映画もそうとうあちこち引っかかったみたいで、当局の意向による編集もなされているのだろう(それがモロに出ているところはすぐに分かるんだけどね)。
 ちなみに、原作は有名なザシダワ。この人はマジックリアリズムの作家らしい。そゆわけでこの映画、かなりいいスタッフによって作られているんですねー。監督のインタヴューでも読んでみて下さい。B−。

『ウォーターボーイズ』矢口史靖(日本、2000)

これは予告編をよく映画館で見ていて、ちょっと気をひかれていました。が、なんだか色物っぽいし、はずかしそうだしで、映画館に足を運ぶことはなかったのでした。しかし、まさにそのころ、この映画を上映している館では、何度もこの映画を見に来ている観客たちが挿入歌を一緒に歌ったりしていたのでした。ああ……これを見に行かなかったことは映画好きとして一生の不覚。さて、この映画のワンシーンといえば、学校が火事になって急いで駆けつけたところに、校門近くで「火事だ火事だ」なんとか言いながら踊っている三人の子どものシーンです。あれは何なんでござんしょうか? しかしそんな遊び心があふれていて、なおかつ笑いのツボを職人芸的に押さえたこの映画はひさびさの気持ちいい傑作でした。映画だからこそできることをできるだけやろうとしているのは、制作者たちに映画への愛情があふれているからですぞ。

おばあちゃんの家

二重スパイ

ガン&トークス

パイラン

『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』、

  幼くって可愛い姉妹がひたすら活躍する映画です。もうそれだけでも十分だと言えますね。

25時』(スパイク・リー)

マグダレンの祈り』(2002ベネチア金獅子)「カトリック」って恐ろしいぞ特集その二号!

ニューオーリンズ・トライアル』(ゲイリー・フレダー)

コンフィデンス(ジェームズ・フォーリー)

イン・ディス・ワールド(ウィンターボトム)(2003ベルリン金熊賞)

フリーダ()

『テヘラン悪がき日記』

ラブストーリー()、レビューはここ

オアシス()

めざめ(デルフィーヌ・グレーズ)

マスター・アンド・コマンダー(ピーター・ウィアー)

アダプテーション()

ひめごと()、シャンテシネ

連句アニメーション 冬の日()日本、、

美しい夏キリシマ()日本、2003、

『息子のまなざし』()、


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