1990年代の映画
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1999( 、『顔』)

『ギャラクシー・クエスト』1999

『アイアン・ジャイアント』1999

『遠い空の向こうに』1999

『ファイトクラブ』1999

『トイ・ストーリー2』1999

『スリーピー・ホロウ』1999

『マルコビッチの穴』1999

『マグノリア』1999

『アイスリンク』1999

『キシュ島の物語』1999

『カリスマ』1999

ジェーン・カンピオン『ホーリースモークHoly Smoke(製作総指揮 ジュリー・ゴールドスタイン / ボブ・ワインスタイン / ハーヴェイ・ワインスタイン、製作 ジャン・チャップマン、脚本 ジェーン・カンピオン / アンナ・カンピオン、撮影 ディオン・ビーブ、美術 ジャネット・パターソン、音楽 アンジェロ・バダラメンティ / アラニス・モリセット、衣装 ジャネット・パターソン、出演 ケイト・ウィンスレット / ハーヴェイ・カイテル / ジュリー・ハミルトン / ソフィー・リー / パム・グリアー / ダン・ワイリー / ポール・ゴダード / ティム・ロバートソン / ジョージ・マンゴス / ケリー・ウォーカー)オーストラリア=USA、1999。

 あれまあ! いや、この映画は一種のコメディなんではないでしょうかね? コミカルなトゥルーラブストォリーって言うべきかなあ。たいへん面白い映画です。日本では、こういうカルトとかに言及した話しってすんごく真面目に受け取られるし、それに、英語の映画にインドが出てくるってだけでも、相当ようじんしちゃうのは確かで、それでだいぶん偏見のまなざしを向けられているのは確かだよね。でも、こうしたエピソードはあくまで導入というか、小道具にすぎないのであって、カンピオン姉妹は男と女の話を撮りたかっただけなんだと思います。
 あの、この世で最も美しいと思われた忘れがたい『ピアノ・レッスン』も、壮絶な状況のもとでの愛の物語でした。これも同じ。描き方が表層的だとは思わない。表層的なのはケイトの自我や信仰だけで、それもちゃんと、というか、ものすんごく上手く演じられていて、ちょっと驚きです。カイテルも真っ青ってかんじだったよ。
 全編はユーモラスだけれども、カイテル以降はサスペンスフル(?)でドキドキもの。で、やっぱしこれがオーストラリアでの愛のカタチってわけよねー、と勝手に納得してしまうのでした。でもあれだ、あの広大な荒野を「you oughta know」とか大音量で聴きながら歌いながら車で(とびだしてくるカンガルーに気をつけながら)あたり一体ぜんぶに広がってどうしもない夕焼けに向かってぶっぱなしたいもんだわ、オーストラリアでね。この映画の、この開放感それはやっぱりあそこならではのものなんだろうなあ。 しかしともかく、カイテル君がケイト・ウィンスレットを殴っちゃうあたりからの展開はばつぐんに面白い。うきうきするようなあ、ああいうの。タマリマセン。

柳と風(モハマド・アリ・タレビ)イラン 、1999 (ユーロスペース)

 どうしてイラン映画は感動の不意打ちに満ちているのでしょうか。どうして私たちは映画によってはじめて世界と接することができるのでしょうか。映画では視覚と聴覚しか働いていないのに、どうして五感が働いている日常においてよりも豊かな体験をすることができてしまうのでしょうか。とゆうことをイラン映画は思わせてくれますね。

MATRIX(ウォシャウスキー兄弟)USA、1999

 ボードリヤールさんは怒っているけれど、ハリウッド映画を楽しむためには彼みたく真面目にさえならなければいいのである。つまりだな、シミュラークルに関してのこの映画の問題の出し方は正しくなく、それは電脳空間ではないし、現実の外部にあるものでもない。さらに、ヴァーチャルなものは私たちの現実をとりまいているのあって、このことを忘れると現実をその外部にでることができる偽のもの、というなんだかエセ東洋思想的な (あるいは山内さんが『天使の記号学』で言う「現代のグノーシス主義」的)現世否定になってしまって (案の定二作目ではMONKが出てくるし〜)、その外部にでることができたもの、悟った者は、まるでこの世界を一種のゲームのようにみてしまって、そこでは何をすることも許される、という教えが生まれかねないし、それは実際に東京の地下で実行されたのだった……ということを真面目に考える必要はないのである。これはたとえば 『甲殻機動隊』といった日本のアニメのハリウッド的展開、つまり日本のアニメをスーパーマン的アクションと映像の世界へと結合することを目的とされた映画なのであって、それを楽しめばいいのである。 ああ、ちなみに、みなさんご存じでしょうけれど、コンピューターにより私たちが体験している現象すべてをヴァーチャルに再現できると考えるのはもちろん誤りで、これはちらっっと映画の中でもいわれているかも知れないけれど(「どんなものを食べても同じ味がする」……のにMATRIXのほうがいいと言っている人がいつのはまあ不可解だけども)、そもそも私たちが体験している現実というのは無限な要素を含んでいるのであって、それが潜在性というやつなんだけれども、この現実の無限の豊かさと、それを私たちが感じる複雑きわまりない回路とは、どうやってもコンピューターとか、それと直結された脳とかのみで再現できるものではなくて(唯脳論が間違っているということの証明は進んでいて、養老さんは仕方がないからくだらない本を書いている……ようだ)、それは程度の問題ではなく、絶対的にそうなのだ、ということ……は、わざわざ繰り返すまでもないですね、はい。
 そういうわけだから、キアヌ君のカンフーがどうも冗談にしか見えなくって、彼の役にジャン・クロード・バンダム(まだ生きてるよね?)を使うことによってブルース・リーへの敬意を より正当に(ただ仕草だけじゃなくってさ)表明すべきだというのは誤りなのであって、じつはキアヌ君ってかわいいおめめをしているんだなあ、と喜ぶべきなのである。だからして、携帯電話ではMATRIXから出入りすることはできないのに、固定電話では可能だということは、わけがわからないし、士郎正宗ならそんな初歩的な矛盾を放置することはないなどと難癖をつけるのは無益であって、これは 『スーパーマン』へのオマージュなのだと微笑むべきなのである。それゆえに、コンピューターが人間の生死を管理しているのに、なんでわざわざMATRIXみたいな複雑なものを作る必要があるのか、単に眠らせているだけでいいじゃん、とかつっこみを入れたり、こんな設定なら、 萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』にもちらっと出てきているし、あっちのほうがはるかに複雑な設定と世界観を持っていて、MATRIX程度を難解だなんていっている脳軟化野郎どもには、萩尾望都の (原作は光瀬龍だけど)深遠なストーリーは永遠に理解できないだろうとかいかにもしかつめらしく語る必要はないのであって、そういえばこういうのは『エイリアン』以来だなあ、でもやっぱしエイリアンの方が怖かったなあ、とか、ハリウッドの映画をいろいろと思い出 す程度にしておけばいいのである。
 で、個人的には、こういう、管理された世界から、その事実に気がついた人間たちが反抗し、戦うという物語は大好きなのである。なんせこのストーリーってよくあるけど、竹宮さんの『テラへ』もそうだったけれど、なんだか満足いく解決に至ったことがないような気がするので、 今回の映画の結末も楽しみなのである。『テラへ』は設定は面白かったし、よくできていたのに、どうもあの人には大きな物語を強力に展開する力には欠けているところがある。イズァローン伝説 なんかもね……。大きな世界観と、人間のドラマ(恋愛とか)をどううまくからませながらお話を進めるのか……SFやファンタジーの永遠の課題だよなあ、これ。
 しかしこの映画、アクションシーンもそれほどすごいとは思わない(カッコはいいかもしれない、というか衣装が斬新)し、テンポもいいけど、この程度ならやはりハリウッド映画でなくても、香港映画にもいいテンポのアクション映画はたくさんあるし……、うーん、でもやはり俳優がかっこいいよね。んで、この映画がエポックメイキングだったというのは、こういうアニメなものを実写でやるのなら、もっと面白い映画ができるんではないだろうか、そしてそのネタは日本の漫画やアニメにごろごろと転がっているのではないだろうか、とハリウッドに気づかせたことでしょう。しかしそれでも、いつになったら『マージナル』を映画化しようとする人は現れるのだろうか……。ちなみにMATRIXは「マトリックス」じゃなくて、「メイトリックス」という発音なんだけど、日本語ではマトリックって、いつ定着したものなんだろ〜。
 しかしこの映画、なかなかにマニアックですが、逆に言えば、あなたも実はマニアックだよねーという信号を発しているのは確か。いやいやそれだけでなくて、私たちの世界認識あるいは哲学と、実践つまり倫理とがいかに密接に関わり合っているのか、そしてそれがこうしたMATRIX的な安易な世界観を打ち破るためにもいかに必要なものであるかということを気づかせてくれたということも、なかなかに有益なことでしたね。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(ヴェンダース) キューバ、1999

この映画でワンシーンと言えば、断然ピアノの前で踊りたわむれる少女たちのシーンです! これは譲れない。ああ人生の歓び! 音楽の楽しさ! とにかく好みのシーンはやっぱり、時間がとまったようなシーンなのです。普段の生活では見過ごすようなそんな時間がゆっくりと流れる、そんな映画がいいですね。見て聞いて感動にうち震えてください。

ポーラX(レオス・カラックス)フランス 、1999

 こんな怖い映画は初めてみました。いくつも素晴らしいシーンがあって、これ一つっていうのはけちくさいのですが、はじめのころの主人公の恋人が鏡の前で白い綿の下着を脱ぎかけたところに、そのうえからキスをするシーンなんかいいですよね。はっと息を呑んでしまいました。美しいです。セックスシーンも、とってもきれいです。でも、主人公がでているテレビ番組を女性二人が雨の流れるガラスごしに眺めるシーンなんか「ああこの監督は主人公を殺すつもりだな」と思わせるぞっとするシーンでした。監督の冷酷さが映像に溢れていますね。

1998(『恋におちたシェイクスピア』、『永遠と一日』、『あ、春』、『』)

『ハピネス』1998

ポール・オースター『ルル・オン・ザ・ブリッジ』Lulu on the Bridge(製作総指揮 シャロン・ハレル / ジェーン・バークレイ / アイラ・デューチマン、製作 ピーター・ニューマン / グレッグ・ジョンソン / エイミー・J・カウフマン、脚本 ポール・オースター、撮影 エイリック・サカロフ、美術 カリナ・イワノフ、音楽 グレーム・レベル、衣装 アデル・ラッツ、出演 ハーヴェイ・カイテル / ミラ・ソルビーノ / ウィレム・デフォー / ジーナ・ガーション / マンディ・パティンキン / ヴァネッサ・レッドグレイヴ / ヴィクター・アーゴ / ハロルド・ペリノー)米、1998

 ちょっと昔に見た映画だけど、いろんなシーンをまだ覚えています。ちょっと幻想的な色合いの強いシーンが多くて、それもけっこう気に入りました。とても内面的な映画なんだよね。でも、これが記憶に残っているのは、もう絶版になっているけれど、新潮文庫で出ていたシナリオを読んだから。シナリオで細かいことまで指定しているのには驚いたし、ワンシ−ンワンシーンにかけている手間を知ってびっくりしたりもした。冒頭のトイレに貼ってある写真とか、部屋の家具とかそういうところ。まあ、一つの映画について詳しく知ったのははじめてだったんだよね。
 淀川さんもいかにも文学者が撮った映画だ、みたいなことを言っているけれど、私はそんなに悪い映画じゃあないと思うなあ。これ、ミラ・ソルヴィーノがすごく美しく撮れているでしょ。それだけでもうOKだと思うんだよね。彼女が魔法のような石をもって部屋に座っているシーンなんかとてもきれいだし。あと、最後のシーンでミラの方にカメラが向くあたりまでのカメラの動きにはぞくぞくしたなあ。
 「ルル」っていうのはもちろん、ルイーズ・ブルックスのことで、ミラが彼女の『パンドラの箱』のリメイクに抜擢されるっていうのもストーリーにある。この映画を見ているともっと面白いかも。セリアの名がフランス語でS'il y aと綴れるっていうのがキーワードになっているのはちょっとゴダールっぽい。

『いつか来た道』COSI RIDEVANO(監督:ジャンニ・アメリオ、製作:マリオ・チェッキ・ゴーリ、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ、脚本:ジャンニ・アメリオ、出演:エンリコ・ロー・ヴェルソ、フランチェスコ・ジュフリッダ、ロザリア・ダンツェ、クラウディオ・コンタルテセ)イタリア、1998

 はあ……イタリア映画ってやっぱりすごいのね。いや、今は戦後以来のイタリア映画復興の時代らしいんだけど、ぜんぜん見れてなくって、これだけでもなんとか見られてほんとによかったと思いました。ロッセリーニをスクリーンで見たらやっぱりこんな感じなのかなあと思ったりしました。日本ではベニーニとか「感動系」みたいな映画しかイタリア映画ははいってこなくて、こんな本格的な傑作が公開はされたけれどもあんまり話題にならないのはほんと不幸なことだと思う。時代に損しているというか……。製作は『イル・ポスティーノ』や『愛のめぐりあい』なんかを手がけた人。
 カメラがいいですね。はじめに登場する南部の家族連れの男の人をフルショットとかで捉え続けるあたり。トリノの街は見せなくて、街にびっくりしているその男の呆然とした表情だけを映すっていうのがまたいい。駅で人がたくさん歩いているところの群衆ショット(?)も被写体にすごく寄り添って撮っていて、ざわざわした雰囲気というのがよくでている。リアリズムだねえ。手持ちカメラとかも使いつつ、こういう重厚な映像を撮れるってのはじつはあんまりいない才能だと思うの。カメラマンがいいんでしょうが。
 それで、人物の描き方も良い。戦後のイタリアを描いているんだけど、その視線は今でも続いている南北の経済格差とか、社会の不平等とか、そういう現代に生きるイタリア人の絶望感を反映したものになっていて、戦後はよかったなんていう雰囲気はぜんぜんでていなんだよね。お兄さんに学校に行かせてもらっている弟も、はじめから静かに社会に絶望していて、ぜんぜん駄目なやつなんだけど、どこか悟ったというか小ずるいところがあって、父兄面談に先生の代わりに別の大人を向かわせて自分に都合のいいことを言わせようとする。おそらく彼は、北部でいくらがんばっても南部の自分は出世できないし、勉強したところで評価されるのは自分の力とは別の部分なのだということをなぜだか知っているみたい。実際、学校の入学試験はあらかじめ予備校の先生に教えてもらっていた対策をこなすだけで突破できたし……。このへんの人物と社会の描き方の皮肉さというのがすごい味わいで、こんな映画見たことないと思ったのです。
 だから、戦後を書いているといっても、すごく現代的なとらえ方なんだよね。政治的な批判も別にしてないしね。弟はせっかく学校進学できそうではじめて生き生きとした表情を見せるんだけど、それも兄が囲っている女性が故郷の知り合いで、しかも自分がまえ兄につれていかされた娼婦宿で買った女性だったり(!シュールな展開だなあ)、お兄さんが街で成功しているのはわかったんだけどどこか怪しいと思っていて、それがすぐに現実のものになって、一気にひどい境遇になるんだけど、その細かい過程を映画は映さないのね。これも上手いところなんで、ちょっと説明します。
 映画は六つの章にわかれているんだけど、それが寓意的なものじゃなくって、一日だけを見せるのね。それで、章がかわるごとにどんどん年月が進んでいって、二人の関係がどうかわっていっているのかを観客は想像しながら見るわけよ。最後の章がいちばん説明が少なくて、にぶい人はいったい弟がどういう境遇なのかなかなか分からない。説明すくなに、ただ場面を撮るっていう手法なんだけど、やっぱりこれがいいですね。ストーリーを説明するために映画があるんじゃなくって、そこに映っているもののためにあるんだからね。まあ、そういう映画に対する確かな確信っていうのがこの映画を支えているのはすごくよく伝わってくるのよ。だから、やはりこれはこの監督やスタッフ・キャストも素晴らしいんだけど、伝統っていうものの力があるのかなってうらやましく思いました。こういう映画が国内ですごく評価されているなんて、ほんと文化度が高いよね(自分の国の文化に対する誇りみたいなのはこの映画の冒頭ですごく感じることができますが)。歴史や社会に対する視線も面白いので、イタリアに興味がある人とかにもおすすめできます。現代イタリア映画を代表する一本らしいです。

ジャン=リュック・ゴダール映画史』HISTOIR(S) DU CINEMA( 出演=ジュリー・デルピー、サビーヌ・アゼマ、ジュリエット・ビノシュ、アラン・キュニー、アンドレ・マルロー、ジャン=リュック・ゴダール、セルジュ・ダノー、ジャン=ピエール・ゴス、アンヌ=マリー・ミエヴィル、パウル・ツェラン、エズラ・パウンド)フランス・スイス、1989-1998

 はじめ見たときはただただ驚いたけれど、だんだんその映画史へのアプローチの仕方がけっこう気に入ってきました。ドゥルーズのように映画を分類して理論的に分析することもできるけど、シーンごとに取り出すってのももちろんありだと思うんだよね。ま、ゴダールがここでやっているのは時代ごとに作品を取り出しているっていう手法がほとんどだったけど。音楽や絵画がたくさん引用されるのはその意図がほとんど分からなかった。本に関してはやはりエミリー・ブロンテ詩が引用されるのは謎だけど、ジュリー・デルピーがボードレールの「旅」を読みながら『狩人の夜』の船出のシーンが映し出されるところはこの映画の最も美しいシーンだし、ペギーの『クリオ』、ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』、エリー・フォール『美術史』の「レンブラント」の章、ドニ・ド・ルージュモンの『手で考える』、シャルル=フェルディナン・ラミュの『徴は至る所に』(これは最後の章のタイトルになっている)あたりの引用もちゃんと原典にあたってみて検討してみたい気にはなる。
 とくに重点がおかれて引用されている作品はロッセリーニの各作品、ラングの『
死滅の谷』、ジョージ・スティーブンズ『陽のあたる場所』(1951)、キング・ヴィダー『白昼の決闘』(1946)、ストローブ=ユイレの『雲から抵抗へ』、マルセル・カルネの『悪魔が夜来る』(1942)、ウェルズ『偉大なるアンバーソン家の人々』、『大人は判ってくれない』(1959)、『去年マリエンバートで』(1961)、『フォーエヴァー・モーツアルト』、エイゼンシュテインの『ベージン草原』(断片しか残っていないし、日本で上映されることもほとんどないフィルムだがゴダールは頻繁に取りあげている) などかな。このへんをこれから見る人はぜひ見ておいてね、と。すごい面白かったのが、『現金に手を出すな』のギャバンと『奇跡の丘』のキリストがモンタージュされるところで、びっくりしたのだけれど詳細は忘れました。
 最も感動的なのは疑いなく第五章と第六章で、とくの第五章のカンツォーネにのせたイタリア映画への賛美にはそれまでの雰囲気とあまりにちがうものだからちょっと驚いてしまった。確かにこの時期の映画が映画の新しい次元を切り開いたのは映画史的事実なんだろうけどもね。
 アンリ・ラングロワの写真なんか持ってこられてもそんな人の顔知らんって、とつっこみを入れたくなるようなところはけっこうある。かなり個人的な思い入れのある映画史であるのは間違いない。でも、これを見て昔の映画はやっぱり素晴らしいなあと思ったのも確かよ。『狩人の夜』なんかは激しく見たくなったし、エイゼンシュタインの『イワン雷帝』とか、バルネットの『青い青い海』などなど。あれ、でもこれ金井美恵子が『愉しみはTVの彼方に』で取りあげて、しかも写真までのっけているシーンとけっこうかぶってたなあ(金井美恵子姉妹はのちにそのことで大喜びしたらしいのだけど)。映画史を勉強するときに見る映画のリスト作りに役立つのも便利だし、その映画を見た後でまたこの『映画史』を見て、そういえばあんなシーンがあったこんなシーンがあったとか、思い出したりするのもきっと楽しいのだろうなあ。高いDVDセット買っても、けっこう見直すだろうし、インデックス見てるだけで楽しそうだから、元が取れそうな気もする。
 さて、この映画もなんとか寺の石庭と同じく、そのものよりもこれについて書かれた文章を読むのが面白い。堀潤之さんのHPにのっている、「『映画史』―映画的イマージュと歴史の痕跡」と「映画的イマージュと世紀の痕跡―『映画史』の歴史叙述をめぐって」や、公式HPの野崎歓氏による「映画史をめぐって」なんかがウェブで見つかります。全体の解説「『映画史』解説」までウェブにあります。これらを読んでいると、なるほどアンドレ・バザンの言う「映像の存在論」が大いにゴダールに影響しているんだなあと気づかされます(『映画は何か II』の収録されているこの論についての解説はここにある)。おっと、バルトの『明るい部屋』だったのか、バザンの論ってば、うーむ。
 でもゴダールが言うのとは逆に、わたしゃあその存在論が今日、コンピューターやCG程度で脅かされるとは思わないんだよね。人間の感性なんて鈍い人は鈍っていくだけなんだし昔から。あと、ホロコーストについて映画が取り組んだことへの評価や、冒頭で見せたオルタナティブな歴史学への手探り、それを支えるモンタージュへの信頼と評価、あるいはゴダールのカトリシズムなどなど、検討しはじめればきりがない問題もたくさんあるし、それもまたこの映画を面白くしているのだと思う。そう、これは一種のゴダールによる映画論の結集でもあって、そういった映画理論に私たちを紹介してくれているってこともありがたいんだよね。これをきっかけにいろんなことを知ることができるのだから。ああ、二回もめげずに映画館に通ってよかったなあ。個人的には、ベルクソニスムに基づいたという『クリオ』が重要な作品っぽいので読んでみたくなりました。

シャンドライの恋(ベルトリッチ) イタリア、1998

 この映画は生まれ変わったかベルトリッチっていう作品です。『リトル・ブッダ』なんて撮っちゃっていたころとは比べ物にならないでしょう。これも身体がふるえちゃうような美しいシーンがたくさんありますが、お気に入りは、いろんな装飾品がある部屋をハンドカメラがぐるっとまわりながらピントを変えていくところ。でもスクリーンで見なきゃわかんないだろうな。とにかくこの映画はカメラの使い方が上手いのです。 光と影も印象深いし。暗殺の森はヴィットリオ・ストラーロだったんだけど、この映画は誰だっけ? 忘れてしまいましたがいいでしょう。色彩と光に満ちた映画です。なみだあふれます!

アルマゲドン(マイケル・ベイ)、1998

 これ、映画の中で誰かがつぶやいていたように、題はWrong staffでいいんじゃないの? ブルース・ウィリスってこういう役似合わないよねえ。というか、もったいないかな。リブ・タイラーの美しさだけが唯一美しい映画なので、彼女の美しさを何より際だたせて見えることができかも。
 まあ、ここでこういう映画を取り上げるのは、ただ批判するためだけだろうと思われるかもしれませんが、でもでも、
ここでも言われているけど、宇宙空間で思いっきり炎をあげて爆発するような映画で、しかもこれがすごい科学的裏付けのもと制作された、というふれこみなんもんだから、馬鹿にしたくなるというよりは、口をあんぐりあけてみるべきものだと思うんだよね。スター・ウォーズの方が何倍リアルだったことか……。
 んで、思うにこの手の映画はもうアメリカでは、ということは世界では、作られることはなくなりましたね。NYのツイン・タワーの上が欠けて煙り出ているシーンまでちゃんと映っているし、ビルが壊れて上から降ってくるシーンもある。これ、今見るとね、なんかアメリカがいかに破壊されることへの恐怖を持っていたかが見えるような気がするの。後半はひたすらお馬鹿映画だけど、この前半は見る価値あると思うな。
 実際、どんな芸術もある程度そうだけど、映画のレベルもそれを見る観客のレベルに左右されます。こういう映画を作ってしかもヒットさせていた合衆国は、想像を絶するほど馬鹿なのでしょうし、この映画が理解不可能なのも、彼らの愚かさが理解不可能なのとパラレルなわけです。だからね、あちらがマジで作っている映画はどんな馬鹿っぽいものでも、それなりに衝撃的なのです。とくにこの監督さん、次回作でもやってくれたみたいだしね……

ノラ・エフロンユーガットメイル、 製作=ローレン・シュラー・ドナー、ノラ・エフロン、製作総指揮 デリア・エフロン / ジュリー・ダーク / G・マック・ブラウン、脚本=ノラ・エフロン、デリア・エフロン、撮影 ジョン・リンドレイ、音楽 ジョージ・フェントン、出演 トム・ハンクス、メグ・ライアン、パーカー・ポージー、ジーン・ステイプルトン、スティーブ・ザーン、デビッド・チャペル、グレッグ・キニア、USA、ワーナー 、1998

 まったくもって、日本の映画業界のレベルの低さってのは、何かあるたびに思い知らされるものなんだし、ましてやジャーナリズムの映画に関する無知さ加減も明らかなわけで、それにいちいち腹を立てたりはしないのだけれども(だいだいマスコミなんてそんなもん)、しかし、ろくすっぽまともに新作映画も紹介できていない配給や評論家ども(というか、ただの感想家さんたちが大勢なんだけど、勘違いされているようで)にはアタマクル。だってこの映画の紹介のされ方、覚えてます? なにやらワーナーとAOLが組んだ、「Eメールの恋」だって言われてなかったですか? いや、ほんと正直、ちょっと信じられません。ありえません。そこまで、程度の低い紹介しかしないなんて、これは何かの冗談なんでしょうか? ZDNNの記事じゃなくって、映画の紹介の記事にそんなこと書くか? 「Eメールの恋」とか。それともなんすか、そういう幼稚な宣伝をしておいて、たまたま映画好きな人間が「まあたまにはメグ・ライアンの出ているトレンディな映画でも暇だし見てみるか」、とかいって映画館に入ったのを、びっくりさせるために、わざと情報を制限してながしてるのかね?
 まあそういうわけで、あなた、びっくりしたでしょ? まさかアメリカ映画でこんなに粋な映画を未だに見ることができるなんてことにね。わたしゃあトム・ハンクスなんてあの幼稚なアメリカ万歳の映画の演技にかなりうんざりさせられたので、そう簡単にいいとは思えないんですけどね、でもね、彼、なかなかまともな演技をしてたかもしれないね、この映画では。メグもなかなかはまっていたと思いますね。いや、でもほんよに珍しいよね、ハリウッド映画でここまで引用が多い映画ってのも。ルビッチのShop around the cornerに、Pride and prejudiceね。それにセリフが楽しいよね、洒落てるね。メールの内容も美しいしね。Fackという言葉が一度もでてこなかったしね。これは画期的なことでしょう、アメリカ映画にとっては。
 んで、お金持ちのダービーと小さな本屋を経営しているエリザベスのやりとりがほんとに面白い映画ですから、これはぜひ英語をじっくりと聞いてもらいたいもんですな。発音もはっきりしているしね、アメリカ映画にしては。ちゃんと、buisinessとpersonalも聞き取ってね、字幕ではいろいろ訳し分けられているけれど(戸田奈津子の字幕はこれだから)。でね、一番すてきなところは、メグ・ライアンが、彼が彼だと理解した後にも、トム・ハンクスとそれまでのやりとりを続けるところなのね。これ、彼女の小説の、そう、ジェイン・オースティンの有名なエスプリ(だったっけ?)ってやつね、これが愉しいんだよね、やってる本人も、見ている人にも。いや、よくわかってるじゃないですか、アメリカ人も。いや、というか、ニューヨーク人にだけかもしれないな。「152」の意味するところのやりとりはほんと最高!
 んで、ちょっとわかんないことがありまして、これって、ワーナーの映画なんだよね。でもこのテイストや、音楽が、FOXのアリーマイ・ラブのそれとおんなじなのよね。うーん、どう考えても、似てるんだよなあ。それとも、ランディ・ニューマンやジョニ・ミッチェルなんかは、ニューヨークでは当然のように聞かれているのかね? FOXが悪者になっていたのは笑えるし、その資本の論理を批判した映画をとっているのも、まさに資本の論理で世界の映画市場を独占しているアメリカ映画メジャー会社だってのも、笑えるけど。これ、そういうわけで、かなりセンスのいい連中が作ってるんですね。ただ、テーブルランプなんかは、もうちょっと趣味のいいやつを使ってもよさそうだけどね、まああれがニューヨーク的な画面作りなのかもしんないけれど 。
 あと、不満な点といえば、オースティンの話では、必ずincredibleに滑稽な人物がでてくるのね。そういう人物がいてもよかったなあ、と思いますね。ここまでいろいろ引用されているエスプリあふれた映画なのに、Eメールという点にしか注目できないincredibleに無教養で誠意のない恥知らずに馬鹿な映画紹介者とかがでてきてもよかったもしれません。オースティンしてるし、Tall decafe captinoだし、なんせ本屋さんのオハナシだし、でてくる人物みんな映画に詳しいし、会話に映画のセリフの引用なんかもいれてくれるし(うう、レジのネーチャンとの会話が何の引用なのかわかりません……しくしく)、ニューヨーカーの街に対する愛情も伝わってくるし、お手紙のやりとりではぐくまれる愛、という古典的な話だし、いろいろとヒットした 素晴らしい映画でした。

リンク DVD Fantasium : Movie Clippings 第2話 「ユー・ガット・メール」でニューヨークを満喫

1997(『L.A.コンフィデンシャル』『HANA-BI』)

ジャ・ジャンクー監督『一瞬の夢』(製作 ジャ・ジャンクー / リー・キットミン、脚本 ジャ・ジャンクー、撮影 ユー・リクウァイ、出演 ワン・ホンワァイ / ハオ・ホンジャン / ズオ・バイタオ / マー・ジンレイ)中国語映画、1997ここ

『キッズ・リターン』1996

ウォン・カーウァイ『楽園の瑕』香港、1996

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1995 手持ちカメラとロケを基本とするドグマ95運動がデンマークではじまる。

クロード・ソーテ『とまどい』1995

アン・リー『いつか晴れた日に』1995

ジャン・リュック・ゴダール『JLG/自画像』1995

ウォン・カーウァイ『天使の涙』香港、1995

ホウ・シャオシエン監督『好男好女 』(製作総指揮=奥山和由、ヤン・ダンクイ、製作=水野勝博、市山尚三、シェ・ピンハン、キン・ジェウェン、脚本=チュー・ティエンウェン、原作=ジャン・ピーユ、ラン・ボーチョウ、撮影=チェン・ホワイエン、美術=ホァン・ウェンイン、音楽=ジャン・シャオウェン、出演=伊能静 、リン・チャン、カオ・ジエ、ウェイ・シャオホェイ、キン・ジェウェン、ツァイ・チェンナン、ラン・ボーチョウ、ルー・リーチン、ガオ・ミン)日=台湾、1995DVDボックスに収録)

 台湾の抗日戦に参加した白色テロの顛末をフィクションで映画化するために撮影を始める映画人と、女優の生活を通して、台湾の現在と40-50年代の台湾とを描写することを試みた、台湾現代史 3部作の完結編。脚本は侯孝賢の作品を担当し続けた朱天文、原作は実際の政治犯であった蒋碧玉、藍博洲、撮影は陳懐恩、音楽も撮影の陳懐恩と江考文、編集は廖慶松、美術は黄文英、録音は杜篤之が担当し、主に侯孝賢のスタッフが結集している。現代の女優、梁静と政治犯、蒋碧玉の2役を中国圏の人気アイドル伊能静が演じている。 監督曰く、「『好』とは人間としての生命力、情というものを指す。時代を超えて変わらないもの、それをこの言葉に表わしたかった。」
 悲情城市でもとりあげられた『
幌馬車の歌』(藍博洲)のエピソードが全面的に展開された作品。白色テロに関するものだったこのエピソードは悲情城市では2・28事件のものとして誤って引用されていた、ということもあるが、そもそも、台湾人たちでさえ白色テロのことなど、ほとんど知らなかったというのが実情で、あの映画を機に、歴史に対する興味があちこちでわいてきた結果、好男好女で白色テロを語る土壌が台湾で生まれてきた、ということもあるだろう。もっとも、ホウ・シャオシェンは歴史的な事実を事実そのものとして映像化して映画にしようとするのではなく、その歴史に一見なんのかかわりもなさそうな若い女性が、蒋碧玉を演じるという物語にしている。つまり歴史はあくまでも舞台の上で演じられているものとして扱われる。これは、残虐な歴史を語る、ひどく高等な手段だ。今や、残虐が歴史があったそのことを人々に訴えることが映画の使命なのではない。その歴史とどうかかわって今の人々が生きているのか、いないのか、そして芸術(ここでは演じるということ)がそこで果たす役割とは何なのか。こうした複雑な問題を提出するために、ホウ・シャオシェンは三つの時間を映画のなかにはさみこむ。映画女優の撮影時の「現在」と、彼女が今は亡き男と過ごした還らない「過去」、そして抗日戦争から白色テロにいたるまでの「歴史的時間」。彼女の恋人はもう死んでしまったが、彼女が当時書き付けていた日記がファックスで送られてくるし、無言電話がかかってきて、たえず彼女にその恋人と過ごした、そのときは無限だった無為で豊かな時間を思い起こさせるだろう。一方で彼女は蒋碧玉を演じ、彼女は、日本と戦おうと台湾から大陸へと、夫の浩東と共に向かうが、日本軍のスパイと間違えられて危うく銃殺されそうになり、台湾に帰ってからは国をよくするために共産主義的活動をおこなうが、台湾の反共政策によって夫が死刑になり、自分は生き残る……。死んだ二人の男は彼女の中でとけあい、彼女は……。
 映画のほとんどの時間は、「過去」で二人がミラーボールで遊んでいるとこを延々とロングで移したりとか、あんまり変化がない映像で占められている。しかしそれが逆に、濃厚な時間を私たちに感じさせる。この歴史の、時間の、そして男と女の愛の、その人生の語り方は、いまだかつてどんな映画もなしえなかった次元に達している。この映画を見てしまったひとは、この映画を見たという記憶からファックスを、そのファックスにはあなたが恋人と過ごした日記が書かれているのかもしれないし、そうでないかもしれないのだが、ともかく映画そのものではなく、この映画があなたにひきおこした何かからのファックスを、受け取り続けることになるだろう。
 このひたすらに主人公を写し続けることで何か透明な情動に向かうこの映画の手法によって、ホウ・シャオシェンは新しい境地に至ったのではないだろうか。彼は『ミレニアム・マンボ』でこの手法をさらに徹底させており、あまり評価が高くなかったこの作品でのやり方に 自信を持っていることがうかがえる。映画はここではただただ純粋に主人公の心そのものを与えるのだ。映画は心を直接にやりとりする純粋な装置になったかのようだ。この映画が私たちに情動的な思考をうながすのは、一人の女性に結晶化された現在と過去(これはドゥルーズの言う「時間のクリスタル」の新しい形だと思う)が私たちに見えない形で提示するある生なのかもしれない。この映画で私たちはまったく新しい体験をするのだが、それはもはや映画のものではない、別の次元のもののようでもある……

伊能静インタビュー・前編

台湾の政治弾圧「白色テロ」の歴史を清算へ

マニラトナム『ボンベイ』製作=S・シュリーラーム、脚本=マニラトナム、撮影=ラージーブ・メーナン、音楽=A・R・ラフマーン、出演=アルヴィンド・スワーミ / マニーシャー・コイララ / ナーザル / キッティ)タミル語映画、1995

 人生ではじめて出会ったインド映画がこれ。インドは世界最大の映画産地なんですが、日本で劇場公開されることは稀。これは実際にあった「アヨディヤ事件」を題材にした映画なんだけど、そういう事件があったことすらしらない大多数の日本人でも愉しむことのできる優れた映画です。というか、みなさんご存じですよね?
 インド映画は必ずミュージカルみたいに歌と踊りがはいるんだけど、これはその歌と踊りのシーンがすんごく美しい。結婚式の踊りは素晴らしいし、波がザバーンってくるところで歌う愛の歌もいい。どれもこれも忘れがたいほどいいよなあ。マニーシャー・コイララは美人だし。
 さて、じつはここでインドについての解説をしたいんですよ。インドは言語地域によって映画も異なり、独立した映画圏形成している。これはタミル語映画で、同じ時期に公開された『ムトゥ』なんかと同じですね。このタミル語ってのは、日本語の起源になったとかならないとかで、そりゃもう美しい言葉なんです。インド映画ブームのときにはタミル語映画がよく紹介されたので、タミル語語を学ぶ日本人が増えたそうです。
 アヨディヤ事件とは、1992年にヒンドゥー教徒がインド北部アヨディヤのモスクを破壊したことをきっかけに、全インドでイスラム教徒への虐殺がおきたという事件。額の赤のしるしはビンディといって、ヒンドゥ教徒(とくに女性)がつけるものらしい。
 しかし、『ムトゥ』は言葉が違ったような気がしたんだけどなあ、同じタミル語なのか……

ウォン・カーウァイ『恋する惑星』香港、1994

オリーブの林をぬけて(キアロスタミ) イラン、1994

これを書いちゃうとネタバレになるのですが……でもまさかこのページの読者はネタバレだ!とか怒ってしまうような野暮な人はいないでしょう。もちろんラストシーンです。いや、オープニングもいいのだけど。いや、全編いいのだけど。でもとにかくラストシーンです。映画史に残るラストシーンです。やっぱりこれ以上は言えません。見てご確認下さい。これがキアロスタミのなかでは一押しです。と言うか、恋愛映画としても史上ベストワンだと思います。この評価に関しては、淀川さんのお墨付きですからね。

赤の愛(キェシロフスキ)スイス、1994、

 いやーん、この映画、すっごく気に入っちゃったわ、どうしましょう……。イレーヌ・ジャコブの純真っぽい表情がいいね。トランティニアンの演技もうますぎ。こういう性格の判事っていう設定はすんごく好きだね。でもね、この映画、はじめはただならぬ雰囲気なのに、案外明るいのよねえ。だってテーマは博愛だし? 
 んで、すごいのはディティールがものすごくリアルだってこと。自然なのよね、なにもかもが。光が入るところあるでしょ? あれはまあ判事の心が開かれていくっつのを暗示していたりするんだろうけれど、そうだと主張されるような感じで撮られているわけでもないし、そのシーンも全然わざとらしくもな く美しい。まあ、いろんな見方もできるしね。
 最後の一連のシーンは明らかに不自然だけれども、まあそこにそれぞれの死からの生還というテーマを読みとってもいいし、欧州統合への暗示的なメッセージともとってもいい。またイレーヌの横顔が広告のそれと同じなのにも、虚構を現実とする可能性だとかそんなのを読みとるのもご自由。でもここでは、それらもみなひっくるめて、キェシロフスキがそこで見せた人生への明るい肯定を受け止めることにしておきましょう。

1993

ホウ・シャオシエン監督『戯夢人生』(製作=チウ・フーション、脚本=ウー・ニエンジェン、チュー・ティエンウェン、撮影=リー・ピンビン、美術=ジャン・ホン、ツァイ・ジャオイー、ルー・ミンジン、ホー・シエンクー、音楽=チェン・ミンジャン、ジャン・ホンター、出演=リー・ティエンルー、リン・チャン、ヤン・ソーイン)台湾 、1993

 台湾現代史3部作の第一部だが、劇映画というよりはリー・ティエンルーへのインタビューを中心に当時の情景を再現したものといったふしぎな映画。 北京語はぜんぜん使われていないらしい。指人形劇をなりわいとしてきたこの老人の歴史に揺さぶられ続けた(と言っても劇的なものではないが)生涯が、リー・ピンビンの美しい映像によってまるで夢のような調子を加えられる。もともとはホウ監督の常連俳優だったこの老人から自然発生したような映画なのだろう。監督やスタッフがこの老人に魅了されたであろうように、われわれもこの人物に深く魅了され、その人生について思いをめぐらさずにはいられない。

『テルミン』1993

ゴダール『ゴダールの決別』Helas Pur Moi!、1993

 ゴダール作品のなかで最も難解な映画。まあ、おまえみたいな頭悪い奴がこの映画について語る資格はないシネと思われるかもしれませんけど、一応二回は見たのでちょっと書かせてもらいます。二回目は5.1チャンネルで見たんだけど、DVDでは音声の出る場所が右(登場人物の独白)だったり左(神様の声)だったり中央だったりして、けっこう効果的でした。
 前半はなんだかとりとめのない印象で、いろんなセリフや言葉や出会いが画面を飛び交い、大まかなストーリーをああかじめ知っておかないとちんぷんかんぷん。でも後半になって、ラシェルと神との対話のあたりなんかは緊迫感もあって、映像も美しく、またエロティックで素晴らしい。まあ、とにかく、一度gooのサイトであらすじを読んでおくことを強くお勧めします。 でも、シモン・ドナデューがSi mon don à dieuになるっていうのはびっくりしたなあ。
 後半のシーンで、神になったドパルデューの演技とセリフがあまりにいいので、もしかしてこれは傑作ではないだろうかと評論家ぶる気にもなってしまいそうな、そんな危うい魅力をもっている映画ではある。映画全編で色彩がとても美しく、登場人物たちはまるで運命を演じているようでなんだか神話のようだ。もちろん、ギリシャ神話をテーマにしているんだろうけれど、ここでは一神教の色が強い。また、「真実は伝えることができない」など、体験に裏打ちされた言葉もけっこう響いてくる。何にしても、これはあんまり若い人が見ても楽しめない映画であることは間違いないと思う。けっこう登場人物たちが予想外の行動を取るのを楽しめる人は別だけれど。
 ゴダールの映画だからって、過剰に芸術的なわけでもなく、ほんと意外性に溢れた映画でもある。それに、いくつもの解釈が可能だろうから、限りなく観客に開かれた映画でもある。この映画についての論文を読んでみたい気にさせられる。かなり映像も綺麗だ。一時間半にも満たないのに、二時間くらいあったのではないかと思わせるボリュームはある。というか、ゴダールの映画はどれも密度が尋常じゃないほど濃いので、体調のいいときに見られることをお勧めします。まあなんだかんだ言って、この人の作り出す世界はほかの監督では見られないものだからね。

『日の名残り』1993

『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』1993

ティエン・チュアンチュアン『青い凧』1993

青の愛(キェシロフスキ)フランス、1993

 うわーん、キェシロフスキの映画って怖いよー。青ってとっても怖い色なんだよねえってことをはじめて気づかされたこの映画。心理描写がうますぎ、というか、そういう体験のある人にとっては、真に迫りすぎていて見るのも怖いらしい。そこまで人の心を覗けるとは……この監督、人間じゃあないぜよ。
 ジュリエット・ビノシュはこの息詰まる演技で映画史に永遠にその名をとどめることになった……。というか、こんな演技、いままで誰も見たことないでしょ? その心理を描き出すカメラの使い方もすんごい。でもね、これはとってもストレートな映画。音楽の意味づけとかもストレートだし。……はぁ、とにかくこれは完璧な映画だわ。
 あ、そういやワンシーンなんて挙げてないね。でもね、キェシロフスキの映画はこのシーンがいいよねえ、とかそーいう映画じゃあないんだって。うんうん、そうだよね。顔とか手の表情とか、そういう細かいところを楽しむ映画なの。え、セクスシーンがよかったって? そうね……まあね……

『われらの歪んだ英雄』1992

 イ・スンマン大統領による独裁政権時代を背景として、田舎の小学校の舞台に、ソウルからの転校生を主人公とした物語。クラスは級長ソクテが完全に支配していて、先生もそれを認めている。影ではいろいろと悪いこともいているし、試験なんかも替え玉で受けているけれど、すごい度胸と統率力でみんなを圧している。しかしこの級長、小学生だからけっこうかわいいし、どう見ても悪いやつには見えないんだよな。はじめは反抗していたのに、ついには服従して、ナバー2にまでなって、権力に酔いしれるという転校生ビョンテのほうが卑小に見える。かわいいけど。

 前半はそういう級長による支配の日常を丹念に描写しているのが見事なんです。でもソウルから若い先生がきて担任になると、いきなり状況は一転する。替え玉受験がばれて、みんながソクテの悪いことを告発するに及んで、彼の支配体制は終焉する。このとき、一番よわい立場にあった子供一人が「でもみんなも悪い」と泣きながら言うのだけれど、ここで独裁を支えてきたクラス全員が糾弾され、全員罰を受ける。しかしすぐに新しい級長を決めようと先生がいったので、みんなはソクテを馬鹿にするような発言をし、ソクテは飛び出してどっかに行ってしまう。それ以降かれを見たものはいない……。
 ここで面白いのは、大人になったクラスメートたちが出てくるところで、ただ主人公だけがみんなが悪かったのだということを覚えているという点。ほかの連中は金持ちになったことを笠に着てほかの同級生を馬鹿にしようとさえする。主人公は最後までソクテに会いたかったと思っているところも興味深い。ただの好奇心だけではなくて、なんとも言えない罪悪感を抱えていることは十分にうかがえるからだ。

 映画では当時の独裁体制を批判し、ひいては現在の社会をも批判しようという意図がけっこう出てしまっているので、いささか説教臭くなっている。けれども、子供たちはみんなほんとに魅力的な演技をしているし、ソクテは両義的に描かれてもいる。ビョンテが先生の前で「ぼくはわかりません」と言うあたりなんかはすごく素晴らしい。小学校という狭い社会での子供たちの心情が見事に描かれた名作だと思う。もちろん、今の学校にこんな統率力のある番長なんていないだろうし、日本の学校ではすべてを支配下に置きたがっている先生がいて、目に見えないより悪しき種類の権力がはびこっているだけだろうから、こういうクラスのほうがちょびっと魅力的にも見えてくるのは逆説的だし、皮肉だ。今の学校のほうがより陰惨だし、映画になるような被写体もいないだろうから、これはこれで古い時代の懐かしい話としても見えてしまうのだ。そのへんもまたこの映画の魅力でもある。

アンゲロプロス『こうのとり、たちずさんで』1991

ジャン・リュック・ゴダール『ゴダールの新ドイツ零年』1991

キェシロフスキ『二人のベロニカ』フランス=ポーランド、1991

 CinemaScapeなんかを見ると、こういう作品に対して「肌が合わない」とかそういう理由で低い得点をつけているやからが必ずいていらいらさせられるのだけれど、もし私が独裁者だったら、そういうどうしもなく感性もなく、また自分に感性のないことに一生涯気づかないし、そのことを恥もしないで映画について書くような人物、つまり要するに、そもそも生まれつき映画と縁のない連中が映画についてものを書くのを禁止するだろうし、そうした連中を処刑もするだろうと思う。基本的に、芸術とは幸福な少数の人間にのみ享受されうるものだし、キェシロフスキなどはもうまったく見手を選ぶような監督だ。もちろん、この監督が完璧な監督だと言いたいわいたけではないのだけれど、こうした映画を撮る監督に対してなにか批判的なことを言う必要があるのだろうか。
 キェシロフスキの映画の美しさは、その説明の少なさに、その最小限の感情の露出に、その静謐さにある。彼の映画では言葉のやりとりより光のやりとりが重視され、愛を伝えるために手紙ではなく、何も入っていない箱が送られる。このような美しい映画に対して、長々と解説を加えるような愚だけは避けなければならない。しかしこの映画に影響を受けて作られたのが『ラブ・レター』だっていうのは、あの監督はキェシロフスキのいいところを何も分かってないんじゃないだろうか。雪の中で大声で相手への愛を叫ぶなんていうシーンはキェシロフスキでは絶対にあり得ない(まあ、キェシロフスキでなくてもあり得ないけど)。恋愛映画においてセリフを多用する監督は、映画そのものの効力(あるいは恋愛そのもの)を本質的に理解していない。自意識過剰なガキ同士の恋愛ならともかく、相手の仕草や行動に潜む互いのいくつかの協和にさえ気づくことができれば、恋というものは成立しうるし、映画とはそういう些細なことがらを描くのに最も適した表現方法なのだ。
 二人目のベロニクが持つ霊感とは、それゆえ、もう一人の自分を感じる能力と人を愛する能力のことであり、この二つの能力は一つにして同じものなのだ。死んでしまったベロニカのことを、想像界における自分のように捉えてはならない。それはつねに自分と共存している潜在的なもう一つの生ではないだろうか。

1990

『シェルタリング・スカイ』1990

ウォン・カーウァイ『欲望の翼(阿飛正傳)』(製作総指揮 アラン・タン、製作 ローバー・タン、脚本 ウォン・カーウァイ、撮影 クリストファー・ドイル、美術 ウィリアム・チャン、出演 レスリー・チャン / カリーナ・ラウ / アンディ・ラウ / マギー・チャン / ジャッキー・チュン / トニー・レオン) プレノンアッシュ配給、香港、1990

 どっちがカリーナでどちがマギーか分かんなかった。だってみんな若いんだもん。でもこれすごいなあ、香港オールスターズ。べつに『2046』が特別ってわけじゃあないのよ。アンディとカリーナがからむシーンなんて、『インファナル・アフェア2』を思い出すし(つっても俳優はラウじゃないんだけど……)、最後のトニー・レオンのカットはわけわかなんないし……(あれはパート2につながるシーンだったらしい)。なんにせよ、このテーマに監督が再び取り組むのは『花様年華』になってからなわけですが、この作品がいかにカーウェイにとって重要だったのかってことは分かります。だってほんとまったくと言っていいほど同じテーマなんだもん。キューバ音楽なんかもすでに使っているしね。
 むかしウォン・カーウェイはよくテレビでやっていて(今では考えられんなあ)、この一般受けしない作品もゴールデンタイムで見たことがあって、冒頭のシーンや、フィリピンでの乱闘シーンなんかはよく覚えていました。んでも、人物の顔がまともに映らないので、小さなテレビでは理解できず、最後にはちんぷんかんぷんだったはず。アンディ・ラウの顔なんて途中まで帽子の影になってて映ってないじゃん! 『インファナル・アフェア』を見た後だからこそあの口の形でわかるけど……(この作品では本物の警官役w)。いや、彼の顔が変わっていないことに感謝。女性二人の顔はけっこう変わっていると思う。あ、どーでもいいことですね。ノーメイクで陰影豊かな撮影をされたマギーはこの映画により大女優への道を歩むことになったらしいし、レスリーもこの役で色男の役柄を初めて演じることになった(『香港映画の街角』より)。ジャッキー・チュンはジャッキー・チェンとは別人で、最近はあまり日本に紹介される映画には出ていないみたい。
 カーウェイ監督作品を見慣れている人にとってはどうってことはないけれど、アパートの一室とその周辺のみで、しかもミドルからアップのみで空間がほとんど示されないこの映画に拒否反応を起こす人もいるかもしれない。閉所恐怖症の人とか。しかし、これほど限られた空間とアップのみでこれほど濃密で官能的な映画が作れるというのは、映画史的にもきっと誰も知らなかったことに違いない。濃密といっても、筋はほとんど脈絡がないし、ちぐはぐな印象さえ与えかねないのだけど……。そういう意味で、だいぶん前の映画になっちゃったけど、いまだ斬新な「今」の映画の一つにこれを挙げたいと思います。パチパチ

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