1973年〜1989年の映画
ここをクリックしてフレームを表示してください
19881978

ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』Zamri, umri, voskresni!()1989/露

グリーナウェイ『コックと泥棒、その妻と愛人』1989

ジョン・ウー『狼 男たちの挽歌・最終章』)香港、1989

ツイ・ハーク『アゲイン 男たちの挽歌III』英雄本色III(製作 ジョン・ウー / ツイ・ハーク、脚本 ツイ・ハーク 、撮影 ウォン・ウィンハン、音楽 ローウェル・ロー、出演 チョウ・ユンファ / レオン・カーフェイ / アニタ・ムイ / 時任三郎 / シー・キエン )香港、1989

 IIIとは言っても、チョウ・ユンファ演じるマークが主役で、一作目より昔の話だから、外伝と言っても良いんだけど、それじゃあみんな見てくれないので3にしたんだと思う。実際、監督もジョン・ウーじゃなくて、ツイ・ハークだけど、今までみたいに男男していなくって、これはこれで違った味わいがあっていいと思う。いつも同じ味付けじゃあ飽きちゃうしね。でもこれ、1974年あたりで陥落寸前のサイゴンなんかを舞台にしていて、暴動なんかも起きてたりして、いやはやなかなか野心的な時代設定じゃあないですか。戦争時代のベトナムを舞台にしているのに、アメリカ兵なんかぜんぜん出てこない(撤退した後だから当然なんですが)のが、香港人の視線っぽくって面白いですなあ。うーん、最後の群衆シーンなんか迫力あっていいと思います……。しっかし『男たちの挽歌』って戦争ものだったっけ? なんて野暮な疑問は持たないことです。

 ま、でも、チョウ・ユンファが主人公ってのも一作ぐらいはあるべきだったしね、いいと思います。つうか、銃に実弾使ってるっぽいんですけど。見てると薬莢が落ちてるし、火花が後ろから散ってるし。なんか香港では銃の扱いの規制が多いからっていうんで、ベトナムで撮ったらしいんですが、それだけにほんとにやっちゃっている雰囲気出ています。すごいですね。映画的にどうこう言うシーンはあんまりないんですけど、やっぱり当時のベトナムの雰囲気が迫力出ていたと思います。香港映画にこういうのあるんだなあと思いましたね。

1988

テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』(脚本=テオ・アンゲロプロス&トニーノ・グエッラ&タナシス・バルティノス、原案=テオ・アンゲロプロス、撮影=ヨルゴス・アルバニティス、美術=ミケス・カラピペリス、音楽=エレニ・カラインドロウ )仏=ギリシャ、1988

 じわじわと心に響いてくる映画としてはちょっと比類がない。ドイツにいるという父親のもとへ行くために、少女と男の子はギリシャを行くのだが……。脚本に参加しているトニーノ・グエッラは、『ノスタルジア』などの脚本も手がけた詩人。この映画の雰囲気を決定づけているのはこの人なんでしょう。そして、アンゲロプロスとタルコフスキーの近さがはっきりしているのもこの人のせいでしょう。タルコフスキーと同様、この映画はビデオで見てはいけません。時間そのものを味わう映画だからです、これが。
 いつも雨が降っているか、夜か、霧の中のギリシャを子供たちがひたすらゆくのだけれど、大人たちはみな動かないか、悲しみに沈んでいて、画面はひたすら静謐なのだ……。ワンシーンがすごく長くて、それがこの映画をさらに異常なものにしているし……。しかし女の子のあくまで頑なな表情と、その悲惨な境遇を見ていくと、この身よりのなさ、その不安、はかない、あるいは偽物だがそれにすがるしかない希望、そうしたものが自分のことのように思えてくる。私たちはみんなこんな子供だった、というつもりはないけれど。
 ほんとうに静かな、しずかな映画。これを映画館で見ることのできた人は、きっと大切な宝物に出会ったと感じることに違いないでしょう。 実際、真なる映画史的な遺産としても貴重だと、なぜだかわからないが、その力を強く感じることができます。

愛に関する短いフィルムキェシロフスキ)ポーランド、1988、87分

 ル・シネマキェシロフスキ特集をやっていたので、少ない財産をほぼ使い果たして五枚つづり券を買い、キェシロフスキを見尽くしたら死んでもいいやと思って見ました。はい、キェシロフスキ大好きです。 この監督は伝わる人にしか伝わらない人の心を妥協なく撮るのがいいですね。さてこの映画、見終わったあとに止めどなく出てくるため息を文字にするしかないみたいです……。
 ……それは哀しいことでもあるし、言いようのない寂しさを胸に残すことであるだろうにもかかわらず、愛について語るのを人はなぜやめることができないのでしょうか。二人の愛は決して出会うことはなく、すれ違い続け留しかないのだけれども、それでもそんな愛をたまらなくいとおしく思わずにはいられない人の心をキェシロフスキは見事に描いています。
 ところで、この映画、もとはテレビドラマだったらしくて、そのバージョンのラストはこれとは違っていて、かつ監督自身はそっちのほうが好きだということ。しかし監督は間違っていますね、この件に関する限り。主演女優の意見を採り入れてそうなったという映画のラストの方が断然いいはずです。というか、そうでないとこの作品の意味が損なわれてしまうでしょう。なぜ彼女は彼を追う立場になったのか、なぜ彼女は彼の愛を求めるようになったのか、それがラストに描かれているからです。そして、これがこの映画で描かれていた愛の形というわけです。文句は言わせません。

bullet

1987 台湾ニューシネマ運動の総括ともいうべき、「電影宣言」発表。

ヒューストン『ザ・デッド』1987

『八月の鯨』1987

タヴィアーニ『グッドモーニング・バビロン!』1987

ジョン・ウー『男たちの挽歌2』英雄本色II(製作・脚本=ツイ・ハーク、脚本 ジョン・ウー、撮影 ウォン・ウィンハン、音楽 ジョセフ・クー、出演=ティ・ロン、チョウ・ユンファ、レスリー・チャン、ディーン・セキ / レジーナ・ケント)香港、ヴィスタ、1987

 うひゃひゃひゃ、これ笑えるよー。真剣なんだけど、だって撃たれても撃たれても死なないんだもん。あーそれをすんごくみんなして熱くやっているから面白い。なんかアホみたいな決闘シーンもあるしね。あー馬鹿だなあ。でもね、前作よりかは軽いけれど、レスリー君がいい役なので、こっちの方が素直に楽しめるな。
 ストーリーはあってないようなもので、悪者に潜入して捜査するんだけど、主人公の男たちは一人じゃないから、潜入捜査につきものの孤独感とかはぜんぜん描いてない。普通に接触できてるしね。これはもう、ただただ男たちの活躍を見る映画なんです。ヒロイズムです。でも前作を見ているからか、ほんとに、役者が揃った!って叫びたくなるような愛着をやつらに感じるのね。シリーズものっていいですね。
 んで最後の爆発しまくりの場面なんだけども、なんであそこに銃でつっこむのかと。ナパーム弾用意しろっつうのって最近の戦争を知っているうちらは言いたくなるけど、ここでの銃はほとんど侍がもつ刀と同じなんだよね。実際、刀で斬りつけまくるシーンもあるし。吉良邸への討ち入りみたいな、ちょっと時代劇的なにおいもするね。さすがに最近の映画じゃあ主人公が自分からここまで大勢のなかに飛び込んでいくってのはなかなかないだろうなあ。それだけにもうアホらしくていいです。血糊なんかも一目見てわかる偽物っぷりだから、人殺しの罪悪感なんて感じる必要はないんです。ここまでやられると爽快です。
 これ見ると、日本では大受けしていた「危ない刑事」とかがこれの真似だなっていうのが分かりますよね。火薬を間違えているネタってのも使ってなかったっけ? あと面白いのは、映画が短いので、言葉では説明しきれずにモンタージュをどんどんやって、無理矢理説明していたりする。奥さん妊娠中だよ! レスリー君ずっと何やってるの! とか思いながら見るわけです。ただやはり、前作ほどの緊張感というか、心理的な盛り上がりに欠けるので、見せ場が爆発シーンばっかりになりつつある気はする。ま、これはこれでいいんですけどね。

ジョン・ウー『男たちの挽歌』英雄本色(製作総指揮 ウォン・カーマン、製作 ツイ・ハーク、脚本 ジョン・ウー、撮影 ウォン・ウィンハン、音楽 ジョセフ・クー、出演=ティ・ロン、チョウ・ユンファ、レスリー・チャン、レイ・チーホン、エミリー・チュウ)香港、ヴィスタ、1986

 すごいすごーい。警官の弟と極道の兄っていうベタベタの設定なのに、ぜんぜん馬鹿っぽい演技じゃないの。若きレスリー・チャンは本気で「怒る」芝居ができる役者だねえ。彼のあの演技が嘘くさいと、全部ぶち壊しなんですが、さすがはレスリーやります。もちろん、ホー(ティ・ロン)とマーク(チョウ・ユンファ)の二人もすごくいいですね。二人ともすっごい耐えてる感じで。
 香港ノワールの端緒と言われるこの映画は、何より主な道具をクンフーから銃と火薬に代えたという点で、おかげで人は簡単に死ぬし、超人的なヒーローが活躍するというよりも人間同士の関係に見所を与えたのだと思う。やっぱり一人で何人も倒したりするから、ぜんぜんリアルではないんだけど、もちろん。しかし、それがいいのだ。
 まあ、主人公(ティ・ロンね)がもうちょっとマゾ的にいじめられたりしていたら、もうちょっと観客はカタルシスを感じられるのかもしれんが、そこはチョウ・ユンファがやってくれているわけです。じつは彼がほんとの主人公だったりして。だって、 おいしいとこは全部彼がもっていってて、ティ・ロンはドラマ部分担当って感じ。でもレスリーはかわいいし、チョウ・ユンファはアホみたいにかっこいいので、それだけでもう万歳なのです。
 そう、正当のフィルム・ノワールとは違って、ペシミズムよりかは希望が語られていると思うし、社会批判よりも友情や兄弟の絆や信頼がテーマになっている 、ファム・ファタールもでてこないし。基本的に、香港ノワールは熱くて男臭いのだ。そして、この底抜けの熱さが当時の映画には欠けていたものなんだと思う。ちょっとジョン・フォードみたいだよね。そしてこれは完成度がすごく高い(火薬の量で比べると今のやつには負けるかもしれんが……)。ハードボイルド+叙情的ノワールとして、普通のフィルム・ノワールにあきた人にとっても新鮮に見えことだと思います。

タベルニエ『ラウンド・ミッドナイト』1986

陳凱歌『大閲兵』(1986/)

JLG『映画というささやかな商売の栄華と衰退』1986

レオス・カラックス汚れた血()フランス、1986

 ごめんなさい、今頃。でも言わせて。カラックスってすごい。ずばぬけてるよ。いや、ちょっとかっこつけすぎな映画って思う人もいると思うけれど、でもそうでもないと思うのよ。これ、けっこうかっこ悪いよ。だってずっとこれ主人公のモノローグでしょ。泥棒だとか殺人だとかは実はどうでもよくて、自分の人生を一つの謎として向かい合っている人々の心がそこで描かれるっつうのが主題なわけでしょ? 監督の自己投影だし、かっこワリイよね。いや、でもこの映画、どのシーンも何度見てもおもしろいのよね。アレックスがカードを切るシーンの見事さ、彼が女をつけまわすシーンの影の取り方(第三の男?)、リーズから逃げるシーンなんてもう最高だし、それにそれに色の使い方なんかはゴダールだしねえ。
 んで、ビノシュでしょ。美しすぎるほどよくとれてるよね。いや、もしかして、女性をこんなに美しく撮った映画ってほかにないんじゃないかっていうぐらい。単に美しいだけじゃなくって、ビノシュのありとあらゆる表情をスクリーンに撮ってるの、カラックス君は。ちょっと寝ぼけた顔のジュリエットなんかあんまりにもキュートすぎて失神しちゃいそうだし、物憂げな顔、悲しそうな顔、いじわるそうな、いたずらっぽい、笑顔の、驚きの、涙の、ありとあらゆる表情。……もうたまりません。に、比べるとデルピーの扱いはひどいけどさあ、彼女も美しくとれてると思うよ。
 で、この映画の一番いいとこは、映像と内容が一致してるってことね。カラックスってさあ、成瀬のファンらしいんだけども、 確かに成瀬ってそういう映画を撮る監督なんですよ。それ聞いてなるほどと思いました。主人公の心、暗いでしょ、だから画面もはじめはずっとモロクロなの、んで、女性がいるときだけ明るいのよね。ビノシュちゃんがでてくると、だんだん色彩がでてくる。一点赤とかそんなのだけど。でもあの二人の夜のシーン。見事だね。言葉も詩だけども、映像も詩で。片思いの、美しい夜。なんて素敵なんでしょ。ってなんだか淀川さんだね。ともかくこの映画、大好きだわ。

マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』1985

bullet

1985 米でインディペンデント映画のためのサンダンス映画祭はじまる。

ホウ・シャオシエン監督『冬冬の夏休み 』冬冬的假期(製作総指揮 ウー・ウーフ、製作=チャン・ホアクン、脚本=ホウ・シャオシエン、チュー・ティエンウェン、原作=チュー・ティエンウェン、撮影=チェン・クンホウ、音楽=エドワード・ヤン、出演=ワン・チークァン、リー・ジュジェン、グー・ジュン、エドワード・ヤン)台湾 、1984

 「このようにささやかなエピソードが丹念に重なりあい、亀とリモコン・カーのオモチャという愛らしく魅力的な小さな物を介して、少年たちが、あっという間に親しくなってしまう時間が出現する映画を、ようするに、ある特権的な出会いの時間が、短い幾つかのエピソードのつらなりによって準備されている映画を、私たちは久しく見ることがなかった」と金井美恵子は『愉しみはTVの彼方に』でこの映画について書いているけれど、ほんとにこの映画は小さなエピソードがつみかさなって、子供の夏休みの日々を描き出す。驚くのは、それがたんに心地よい思い出ばかりからなっているのではなく、人の死やさえも入り込んでくる、ある種の残酷さを伴う思い出であるということだと思う。どうしても日本人にしかみえないおじいさんの家のなかはいつも光に満ちていて、人物はつねに逆光で撮られ、ともかくまぶしいばかりの日につつまれている日々が濃厚な映画だ。
 トントンとその妹を見つめるにしても、カメラは決して近寄りすぎず、小さなテレビで鑑賞するとその表情がかろうじて見えるほどの大きさでしか映らない。しかしそれがかえって周囲の景色と光を画面に収めることになり、この映画に無限の豊かさを与えている。たとえば蓮實さんは、川に妹が衣服を投げ捨てていくシーンを取り上げ、カメラと被写体の距離とそのショットの積み重ね方は世界の映画作家の大半に自分の才能に見切りをつけさせるのに十分だと言い、「少女に近づこうとしないキャメラは、おそらくシャツやズボンを胸にかかえて運んでいるのだろう小柄な彼女が騎士の縁の草にすっかり隠れてしまっても平気でまわり続けている。このリズムこそ映画作家たる才能にほかならず、とうてい学びうるものではないだろう。見る者が、ああ映画が露呈していると嘆息するしかないのはそうした瞬間である」(『映画に目が眩んで』)と書いている。確かに、ホウ監督の映画には画面から目を離すことのできない生々しさというか、心を捉える不安定さがある。その原因である一見無造作に撮られたかに見えるショットが、じつはホウ監督の才能だと蓮實さんは主張するのだけれど、そうだとするなら才能とはまったくとらえどころがないもので、だからこそ私たちは映画にひきつけられるのだろう。まだ見たこともないようなショットを求めて。
 それと、トントンの父親役と音楽はなんとエドヤード・ヤンだ。映画の中の子供の情景という素敵なサイトでも紹介されているぞよ。

ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』1984

ザヌーシ『太陽の年』1984

チェン・カイコー『黄色い大地』1984

ヴェンダース『パリ、テキサス』1984

タヴィアーニ『カオス・シチリア』1984

キェシロフスキ監督終わりなし()ポーランド、1984年。

 夫を失った女性の心理描写のすごさという点では『青の愛』に近いね。会話を切りつめた演出や人物のしぐさにこだわるカメラなど、キェシロフスキの特徴はもう完成された形になっていて、ちょっと怖い。怖いというのは、なんだか息をつめて、極度の集中力でもってワンシーンワンシーンが撮られた映画のようだから。とくに少ない会話については、ほんとにものすごくこだわって作られているのに違いない。あとあと強烈に記憶に残ってしまうんだもの。
 主人公は、夫を亡くしてはじめて自分が抱いていた夫への愛の強さに気づき、動転する。そう、この監督って、突然自分がひそかに抱いていたが気づいていなかった感情を目の当たりにするという物語をよく作ります。そのとき人はじめて自分が自分の生にきちんと向かい合って生きていなかったことを知らされるものだから。それは愛というものに関係がないわけがない。
 で、裁判の話しと、妻の話とが交錯しつつなんだか別々のままに物語は終わるのだけれども、こういうのはクリエイティブ・ライティングの先生に言わせれば「二つのテーマをひとつの物語の中に盛り込もうとした」ってやつで、駄目にちがいない。でも、キェシロフスキにとっておそらくこれは別々の話しではなくて、当時のポーランドにおいて映画を撮るというなかで、そうならざるをえなかったのだろう。そのへんのことは実際よくわからないのだけれども、わからないがゆえに、その社会について語られていないだろうことの存在がのしかかってきてしまう。わからないけれども、おそろしい傑作だとみぞおちあたりから感じた映画ははじめてでした。

bullet

1983

ホウ・シャオシエン監督『風櫃(ふんくい)の少年』()台湾、1983

ルイ・グエッラ『エレンディラ』(製作 アラン・ケフェレアン、脚本 ガブリエル・ガルシア・マルケス、撮影 ドゥニ・クレルヴァル、音楽 モーリス・ルクール、出演 イレーネ・パパス / クラウディア・オハナ / マイケル・ロンズデール / オリバー・ウエイエ) 、独=仏=メキシコ、1983

 この監督さんはぜんぜん知らないけれど、ブラジルの人らしい。でも映画の中で使われているのはスペイン語。ドゥニ・クレルヴァルはトリュフォーの映画をいくつか撮っている人。原作者のガルシア・マルケスも脚本家として映画にかかわっている。当時はラテンアメリカ映画がちょっとしたブームだったらしいですねえ。
 おばあさん役のイレーネ・パパスがいい味を出している。夜中に目あけたまま寝言を言うのが怖い。しかもその寝言が普通のじゃなくて、えんえんと昔話を比喩たっぷり使って話してくれるの。いやはや、ほんとマルケスな世界だ。エレンディラ役のクラウディア・オハナはすんごいボーイッシュな美人。
 ガルシア・マルケスを読んだことのない人がこれを観たら、けっこうショックなんではないでしょうかね、この世界。幻想と過酷な現実が共存する世界を見事に美術が表現していると思います。マジック・レアリズムの特徴といわれる超常現象の描写はそれほど上手くはない。それでも、十分に鑑賞に値する映画です。ボルヘスとは違って、ガルシア・マルケスの映画はほかにもけっこう映画化されているみたいです。ここを参照のこと。

イングマール・ベルイマン『ファニーとアレクサンデル1982

ゴダール『パッション』1982

ジョン・ヒューストン『アニー』1982

ヴィム・ヴェンダース『ことの次第』ドイツ、1982

ロン・ハワード『ラブINニューヨーク』Night Shift()1982

クリント・イーストウッド『センチメンタル・アドベンチャー』Honkytonk Man()1982

ダニエル・シュミット『ヘカテ』Hécate(脚本 パスカル・ジャルダン、原作 ポール・モラン、撮影 レナート・ベルタ、音楽 カルロス・ダレッシオ、出演 ベルナール・ジロドー / ローレン・ハットン / ジャン・ブイーズ)仏=スイス、1982

 ひたすら耽美的なスタイルでファム・ファタールの凡庸な話をひたすら撮った変な映画。あからさまに趣味的な臭いがぷんぷんする。でもとても独特な世界を作りあげている。筋の説明 なんかはほとんどなく、主人公の男の独白とも詩とも言えないようなナレーションがかぶさっていく。フランス語の会話もまるで謎の問答か詩のようなもので、生活している男の女の会話なんかではない。ああ、頭いたいなあフランス人っていう人種は。 でも、これは筋とかそんなのはどうでもいいんだけどね。一応解説しておくけど。
 舞台は二次大戦中のモロッコで、街には異国情緒あふれている。それだけに、語られる出来事はまるで夢のようで、戦争中だというのに何も起きていないアフリカでの生活はまるで幻のようでもある。主人公は外交官だというのに、ろくに仕事にも出ず、殺人をおかしても逮捕もされない。また相手の女がまた霧に包まれたような存在で、どうやらアメリカ人でここにいたフランス人と結婚はしたんだけど、夫はシベリアで戦争中だとかで、たまに地元の若い少年と遊んでいるとかいないとかで主人公は悩まされる。三日間いないあいだ町中さがしまわって、帰ってきたらお風呂にはいっていたりして、主人公の感情の動きにもまったく動揺しないし、感心も示さない。とま、典型的なファム・ファタールの特徴を全て併せ持った女がそれにぴったりの舞台を与えられているという感じ。
 いろんなシーンが40-50年代のハリウッドのメロドラマ映画を意識して作ってあるみたいなのね。ロケだけど、当時のスタジオでも撮れるようなシーンを狙って撮ったというぐらいだから、かなりこだわりがあるんです。ま、そのへんのところは蓮實さんの『映画 誘惑のエクリチュール』なんかで勉強している人は知っていること。
 とてもセンスのいい、勘所のいい、耽美的な幻想と陶酔の世界の映画です。燃えている火が夜の海岸の波に反射したりするシーンなんかもとても美しい。 昔のハリウッド映画に詳しくないので、よくわかんないシーンも多かったけれど。ところで、これをウォン・カーウェイが撮ったらもっといいのでは、と思ってしまうのはやっぱりアジア人の女優の方が美しいからかなあ。でもきっと、むかしの映画をたくさん見て愛してやまない人なら、大好きになる映画でしょうね。

ベネックス『ディーバ』1981

トリュフォー『隣の女』フランス、1981

ロバート・オルドリッチ『カリフォルニア・ドールズ(1981/)

キェシロフスキ偶然()ポーランド、1981年。

 悪夢だね、これ。全然「偶然」なんかじゃなくて、「必然」としかいいようのないものに取り囲まれている社会を描いた映画です。自分で運命を切り開こうとする『ラン・ローラ・ラン』なんかとは全然ちがうのよ、これって。だって、この主人公ってば、親の呪縛から逃れられているわけではなく、そういう意味では過去にとらわれているのだし。
 この社会の閉塞感、言いようのない絶望。それがあんまりにも見事に映像化されていて恐ろしい。とくに最初の運命の終わりで、主人公が持っていた地球儀を打ち壊そうとシーン。スローモーションになって、地球儀を振り下ろそうとするところで画面はきりかわるんだけれども、その撮り方がほんとに絶望と怒りを見事にあらわしつくしていてすごいの。そして、このどこまでいっても救いのない悪夢(たとえそこに女がいたとしても)というのは、まさにカフカ。すごいですおそろしいです。キェシロフスキが言うには、当時のポーランドをきちんと描いていたのは、映画だけだって言ってるんだって。彼が言うんだから説得力あるよね。ワイダも見なきゃだわ。

ジョン・カサヴェテス『グロリア』1980

リンチ『エレファントマン』1980

テオ・アンゲロプロス『アレクサンダー大王』ギリシャ、カラー、スタンダード、208分、1980

キェシロフスキ『アマチュア』1979

イングマール・ベルイマン『秋のソナタ』1978

アラヴィンダン『サーカス』インド、1978

テレンス・マリック『天国の日々』Days of Heaven(製作 バート・シュナイダー、脚本 テレンス・マリック、撮影 ネストール・アルメンドロス / ハスケル・ウェクスラー、音楽 エンニオ・モリコーネ、出演 リチャード・ギア / ブルック・アダムス / サム・シェパード)1978

 哲学講師がご職業だったというわりにはあまりに凡庸なお話しのこの映画を撮っているテレンス・マリックは『シン・レッド・ライン』のほうが有名だけど、最近はなんと『至福のとき』なんかの製作をしていたりする。リチャード・ギアは『愛と青春の旅立ち』のときより4年も若い。つうか、彼って『オータム・イン・ニューヨーク』でもそうだったけど、美しい風景の映画によく出てるよね。演技派ではないのは明らかだけども。そういや、『プリティ・ウーマン』の印象がめっちゃ強いんだよね、彼。でもこの映画では役回りが逆。貧しい青年の役で、金持ちと結婚した女と秘密の関係を続けてるの。お兄さんだって言って。
 自分は、きっとあんまりいい絵画鑑賞者ではなくって、絵画展でもひととり見終わると疲れ切っちゃうタイプなんですが、まあ絵画よりも映画のほうがやっぱり好き。んなわけで、この映画みたいにひたすら絵画絵画していても、ふーんぐらいにしか思わないんだよなあ。もちろん、映画には、もっといい絵画の使い方があるの知ってるから、映画への絵画の適用を否定するつもりは毛頭ないんだけど、まあこれはちょっと古典的なんだよなあ。でもすごいきれいなのは確かよ。一面の麦畑にマジック・アワーね。んでも、一番すごかったのはその麦畑が夜にまっかっかに燃えるシーン。すごいです。アメリカにもイナゴって「起こる」のね。ちなみに、ってのはトノサマバッタとかが相変異を起こして群居相となったもののことだけど、日本では変異しないんだよね。知ってた?
 撮影のネストール・アルメンドロス(この作品でオスカー受賞)は『海辺のポーリーヌ』なんかも撮っている人で、まあこのひとの映像で映画撮っているみたいなもん。なjので、ほんとうに凡庸なストーリーはほんとにどーでもいいのよね。どこで物語を終えるべきなのかもよーわかってないみたいやし、監督さん(でもこの作品でカンヌ映画祭監督賞受賞)。見所は、子役のリンダ・マンツ。子役とは思えないほどの美人さんなので、映画のリアリティーをちょっと失わせているほどなんだよね。あと、これなんとUSAでは70ミリで映写されたんだって。それはすごい迫力だったと思います。 草原の風景とか、夜の火事とか。5.1でもけっこうすごいんだけどね。

『アニー・ホール』1977

ヴィム・ヴェンダース『アメリカの友人』Der Amerikanische Freund(製作総指揮 マルガレット・メネゴス / レネ・グンデラッハ、脚本 ヴィム・ヴェンダース、原作 パトリシア・ハイスミス、撮影 ロビー・ミューラー、音楽 ユルゲン・クニーパー、出演:ブルーノ・ガンツ(Jonathan Zimmermann)、デニス・ホッパー(Tom Ripley)、ジェラール・ブラン(ミノ)、リザ・クロイツァー(Marianne Zimmermann)、ニコラス・レイ(贋作画家ボガッシュ)、サミュエル・フラー(マフィアのボス)、ダニエル・シュミット(殺し屋イグラハム)、Sandy Whitelaw (Paris Doctor)、Peter Lilientahal (Marcangelo)、ジャン・ユスターシュ(Fraindly Man)、ルー・カステル(Radolphe)、David Blue (Allan Winter)、Rosemarie Heinikel (Mona))独=仏、126分、1977

  出演者のリストを見てください。これだけの人が出ているというだけでも映画史的には価値のある一本。ブルーノ・ガンツは『天使の詩』や『O公爵夫人』とかに出ている人で、唯一の女優リザ・クロイツァーは『アリス』のお母さん役の人だよね、だいぶんふけてるけど。すでに病気にかかっていたというニコラス・レイはおじいさん画家で、フラーはなんとマフィアのボス役、シュミットは殺される殺し屋というとんでもない役で、ヴェンダース自身も包帯でぐるぐるまきにされている役で出ている。当時、シュミットはまだ『ラ・パロマ』ぐらいしか撮っていない時期だけど、同じドイツ人だったからさっそく知り合いになっていたんだろうな。
 それで映画の内容も、あからさまにアメリカ映画へのオマージュになっている。列車が出てくるけど、ヒッチコックよりかは50年代以降の映画作家へのオマージュで、だからこそレイとかフラーとかが出ているというわけ。まあ、この時期、こんな「アメリカ映画」そのものを作っていたのはヴェンダース(=ニコラス・レイ)とシュミット(=ダグラス・サーク)ぐらいで(毛色は少しちがうけれど、エリゼとイーストウッドも)、蓮實さんのように、まさにハリウッド映画の没落と死を体験した世代にとってみれば、ほんとに感動的だっていうのも分からないでもない。
 映画はサスペンス仕立てだけど、筋の理解はできないサスペンスで、緊張感というよりかは、演出のうまさで勝負といった感じ。一シーンごとにすごく丁寧に作られている。特徴的なのは、カットとカットのつながりがほとんど意味をなしていなかったりする点で、まあこれはウェルズ以降の映画の手法の常套手段なんですよね。でも、果たしてこれが成功しているのかどうか。ヨナタンの人生の重要な一時期を、その内面をあぶり出すように描くことに成功しているかどうか……。
 その点から見ると、決して「成功」はしていないと思うんだよね、この映画。まあ、もともとそういう意図で撮られたんだろうけどさ。でもでも、なんだかいかにもシネフィル的な映画なんだよね。それがちょっと鼻につくんです。列車のトイレとか、カメラに写った駅構内を男が駆けていったりとか、家の堀(なのかな?)に潜んだりとか、車がぐるぐる回って止まったりとか、みんなどこかで見たようなシーンなのね。ちょっといいシーンばかりを撮ろうとしすぎとゆーか……。私は『都会のアリス』みたいな、たとえ凡庸なシーンがあったとしても必要なシーンばっかりで作られていればいいと思うんだけどな。あと、映画そのものにしても、これを例えばロージーの作為品と同列に並べられるのか、という疑問もあります。映画の発想のもとになっているオモチャが出てきたりするのも、いかにもな感じだし、そのオモチャそのものも映画にとってどれほど意義があるのか疑問だ。
 まあ、一度しか見ていないので、もう一度見ればいい映画に思えるのかもしれない。しかし、どっか「借り物品」のような気がするのはぬぐえないと思うんだよなあ。原作もハイスミスだし。いまのヴェンダースの凋落ぶりを知っている自分としては、もっと違う独自の方向に彼は進んでおくべきだったのでは、と思わないでもないのでした……

テオ・アンゲロプロス『狩人』Oi Kynighoi(製作 ニコス・アンゲロプロス、脚本 テオ・アンゲロプロス / ストレティス・カラス、撮影 ヨルゴス・アルバニティス、美術 ミケス・カラピペリス、音楽 ルキアノス・キライドニス、出演 バンゲリス・カザン / ベティ・バラッシ / ストラトス・パキス / イリアス・スタマティオス / アリキ・ヨルグリ / クリストフォロス・ネゼル)ギリシャ=フランス=ドイツ、カラー、スタンダード、172分、1977

 うーん、この映画は「難解」というよりもっと暴力的な映画なのかしら。全編が47カットだけからなる徹底したシークエンスショット全開のこの映画は、観客にこの映画が語ることを共有させようとしているのかもしれない。
 とにかく話はよく見ていてもほとんど分からない。時間が交錯しまくるし、私たちがほとんどというか、まったく知らないある歴史について語られるのだから。まだ暖かい30年前の死体をみつけた六人の狩人たちが過去を回想するというストーリーになっていて、1960年代前後ギリシャの右翼と左翼の抗争の歴史が語られる。しかし歴史なのに、ほとんど幻想的な雰囲気で語られるので、いったいこれは何なんだろうと思わずにはいられないようになっている。とにもかくにも、こういう手法で歴史を語ろうとした映画監督は今までにいなかたのではないでしょうか。
 蓮實さんは「痛み」を与える映画だって言ったらしいけれど、たしかにちょっと見ることは苦痛な映画だと思う。アンゲロプロスをこれから見始めると、間違いなく挫折すると思います。なお、これはギリシャ現代史三部作の最終編で、アンゲロプロスが共産主義を支持していた時期の最後の作品。

イングマール・ベルイマン『蛇の卵』1977

フランソワ・トリュフォー『恋愛日記』L'Homme qui aimait les femmes(製作=マルセル・ベルベール、脚本=フランソワ・トリュフォー、ミシェル・フェルモー、シュザンヌ・シフマン、撮影=ネストール・アルメンドロス、美術=ジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ、衣装 モニク・デュリ、出演=シャルル・デネール、ブリジット・フォセー、ジュヌビエーブ・フォンターヌ、ナタリー・バイ、ネリー・ボルゴー、レスリー・キャロン)1977

 原題は女たちを愛した男という意味。トリュフォー晩年の佳作。一見もてそうにない陰気な男が女あさりを続け、やがてその体験を一冊の本(タイトルは原題と同じ)にまとめるという物語。
 まず、男が女を追いかける執拗さが面白い。女もそれぞれ情熱をもていて、男の誘いを積極的に、ときには相当過激に受け取る。そして、男の目線がまた面白い。こうした恋の描き方はハリウッド映画に見慣れている人にはかなりショックかもしれないけれど、でもまあ、こっちの方が心情としてはリアルなんです。
 またこの映画は、トリュフォー自信の女性への愛を告白する映画でもあって、男の子ども時代や、母親のこともまた語られている。また男の女性体験がそのまま一冊の本になるあたりは、トリュフォー自身の創作体験を語っているかのようでもある。単純な話だけども、重層的であり、最初から最後まで笑える楽しい映画。

エリック・ロメール『O侯爵婦人』Die Marquise von O...()1976

 これはかなーり面白い。クラストル原作の忠実な映画化なんだけど、ちょっとシャイクスピアみたいな濃密さとどんでん返しがある。つまり、状況に縛られてこうするしかないっていう行動を男も女もとるというストーリーで、ちょっと古典的な劇を思わせるんだよね。私はドライヤーの『ゲルトルーズ』よりこっちのほうが単純に面白かったなあ。どっちも主には室内劇という点では似ているけど、ほんとはぜんぜん違うかも。
 しかしこれは美術関係がすごいしっかりしています。昔の衣装とかそういうのがすんごい雰囲気だしているし、当時の軍人の立ち居振る舞いとかもなんかそういう感じだったんだろうなあと思わせるんだよね。娘が勝手に妊娠したからって家を追い出すお父さんも時代を感じさせる存在だし、ほんとは娘が嘘を言っていないことを信じているあたりもまた面白い。ほんと、どこをとっても今の時代には成立しないお話しなんだよね。こういうの大好きなんです。
 ロメールという人は時代劇も好きみたいで、『グレースと公爵』ではフランス革命時代のお話しを撮っている。これもやっぱり女性が主人公なんだけども。

ジョセフ・ロージー『パリの灯は遠く』Monsieur Klein(製作 レイモン・ダノン / アラン・ドロン、脚本 フランコ・ソリナス / フェルナンド・モランディ、撮影 ジェリー・フィッシャー / ピエール・ウィリアム・グレン、音楽 エジスト・マッキ / ピエール・ポルト、出演 アラン・ドロン / ジャンヌ・モロー / ジュリエット・ベルト)仏=伊、1976

 邦題があまりにもメチャクチャなために、見たことにさえ気づかなかったこの映画、アラン・ドロン主演なのにすごく地味で真面目な映画なんです。でも第一級の映画のみがもつ重厚な香りがします。
 ナチスのユダヤ人迫害がテーマなんだけど、扱い方はほかの映画にはちょっと見られないもの。 ユダヤ人迫害が激しくなる二次対戦のさなか、あるユダヤ人とそっくりで同姓同名なためにユダヤ人と間違われて、その男を追いかけているうちに自分と同一視していき、最後にはなんと自分からユダヤ人を乗せた列車に乗ってしまうという、ちょっとまあ奇想天外なお話し。この男をアラン・ドロンが演じて、ユダヤ人の恋人役をジャンヌ・モローなんかが演じていて、けっこう無駄に豪華な俳優な感じ。
 とり方はほんとにサスペンスで、最初から最後まで緊張感がとぎれないのは見事。とくに、主人公が美術品業者だけあって、家具なんかがすんごい美しいのが見応えある。本格的な映画というのはいいものですね。
 ちなみに、アーサー・ミラーの『焦点』という作品もこの映画の筋とほとんど同じらしい。これは2001年に『フォーカス』という題名で映画化され公開された。

ヴィム・ヴェンダース『さすらい』1976

イングマール・ベルイマン『鏡の中の女』1976

ジャック・ドワイヨン『小さな赤いビー玉』Un sac de billes(脚本=ドニ・フェラリス、撮影=イヴ・ラファイユ、音楽=フィリップ・サルド、出演=リシャール・コンスタンティーニ、ポール・エリック・シュルマン、ジル・ロラン、ミシェル・ロバン)1975

 すぐ忘れてしまう映画はたくさんあるけれど、見た後ながいあいだ覚えていて、しかもだんだんその映画の貴重さに気づく、といったような映画はほとんどない。ナチ占領下の少年たちという、いかにもお涙頂戴のお話しにするにはもってこいの設定を持ちながらも、この映画が決して少年たちの表情や感情をすくい上げて撮るようなことはせずに、むしろ非人称的な少し引いた距離からしか撮っていないから余計に記憶に残っているのかもしれない。より明確に言うならば、この映画はほかの映画との接続においてしばしば記憶に蘇るのであり、またその少年たちの日々の取りあげ方によって忘れがたいものとなっている。
 冒頭からカメラは理髪屋の壁に立つ、その店の二人の子供を捉え続ける。このように移動せず、モンタージュされないシーンの使い方は実はこの時点では映画史的にはあまり例がないと思われる。これは、その十数年後、イランにおいてようやくよく使われだすカメラの使い方なのだ。『運動靴と赤い金魚』や『オリーブの林を抜けて』など、その場に固定されつづけたカメラというのがイラン映画にはよく登場する。ある人にとってこのカメラの使いかたは違和感があってしょうがないものらしいから、やはり映画史的に特殊なものであるに違いない。こうして作られるシーンの素晴らしい点は、それが誰の視点でもないということにある。普段私たちが毎日通り過ぎるさいに何気なく目にするある場所や光景、そうした視線がとりあえず固定されていると言えばいいだろうか。何気ない目線で捉えられた日常が私たちの前に現れることによって、私たちはまるで自分たちが通りすがりにそこに目をやっているかのような見方で映画の世界に、そのリアリティに接することができる。このような後年のイラン映画を予告したような撮り方によってこの映画は思い出されることになる。
 そしてさらに魅力的なのが数々の少年たちのエピソードだ。ユダヤ人という印を隠すために壁に立っていた少年たちは、そのあと様々な困難に出会うのだけれど、それがあからさまな困難として描かれることはまったくない。冒頭で撮られたように、やはりそれも日常の継続として取られているに過ぎない。『イン・ディス・ワールド』のように、夜の闇のなかをわざわざ手持ちカメラで対象を追ったり、ここぞという場面で音楽が鳴り響くということもない。映画が捉えるのは少年たちの困難ではなく、そうした状況にありながら少年たちであることをやめない彼らの純粋さ、陽気さだ。そうしたものこそ虚構だと騒ぎ立てるのももちろん結構だが、この映画が提示するシーンのすばらしさはそうした少年たちへのアプローチに十分な説得力を持たせている。まあこれがイランの砂漠とかが舞台だと、こうも美しくはありえないだろうけれども。
 子供たちの演技の見事な自然さ、そして禁欲的にクローズアップを禁じた被写体との距離との取り方、戦時下という舞台を選びながらもそこでの少年たちの日常を描こうとする姿勢、そしてイラン映画との不思議な類似、などなどによってこの映画は真に忘れがたい一本となっている。そうであれば、これを最良の子供映画の一つ、などと断定してしまってもようだろう。しかしそれは、あくまでも、登場人物への共感が可能かなどといった基準や、いかにお涙頂戴のお話しを上手く語っているかなどといった基準で映画をはかるような感性の固定された人間にとってではなくて、むしろ映画の方こそが自分たちの感性を揺り動かすのを受け入れることのできる人間に限られるのだけれど。何しろこの映画は、たいがいのイラン映画よりもっとそっけなく見える、つまりシーンのもつ叙情と強度のみで勝負している真に純粋な映画なのだから。

アンゲロプロス『旅芸人の記録』1975

 ゴダールは「映画のみが歴史を語ることができる」と言いました。これは意外と本当かもしれない。だとすると、その映画のみが語りうる歴史の新たな語り方を生み出したこの作品は、映画史上最も重要な一本に数えられてしかるべきでしょう。この作品なくしてはジャ・ジャンクーやホウ・ショシェンなどによる歴史の語りのあり方はありえなかったのではないかと思います。
 さて、ではこの映画のどこがそんなに画期的だったのか。まずこの映画は完全にネオ・レアリスモやヌーヴェルヴァーグ以降の映画に属します。そこではもはや映画は現実をそのものとして提示するのではなく、あいまいな現実を目指す、ばらばらといった印象も与えるような映像として提示される。以前、神の視点から語っていたのが。人間の視点から語るようになったと言えばだいたいよいでしょう。アンゲロプロスももちろん、歴史を客観的な事実として描くのではなく、人物が体験したいくつかの断片的な事柄の寄せ集めとして語っている。事件そのものは映像として写されず、偶然、隊美芸人の主要な人物(エレクトラ)が目撃した事件のみがわずかに写される(しかしそれも多くはカメラの後ろで起こっていて、音だけが聞こえるといったような変な手法によって取られている)。
 さて、アンゲロプロスが真に画期的なのは、彼は主人公に寄り添って語るというのでもなく、むしろカメラそのものが語るという次元にまで勧めているからでしょう。彼の意図は、歴史の神話的循環を特殊なシークェンス・ショットによって語ることにあります。もちろんこれは旅芸人一座が通過する循環なのだけど。これをどう語るかというと、同じショットのうちで時間が数日から数年単位で変わるという荒技でやるのです。広場で自由の歌を歌っていた人々が銃声によって逃げ去り、そのあとをバグパイプを吹いている少年が横切ってイギリス軍による支配を象徴的な仕方で意味すると、再び群衆が通りから現れて今度は「イギリス軍反対!」という シュプレヒコールをあげる。これが全部ワンシーンでとられているのだけど、時間は数日以上そのあいだに流れている。カメラが語っているのはもちろん歴史的な事件ではなくて、歴史を通じて繰り返されてきたこと、あるいはそのなかで私たちが感じるある印象とでも言うべきものになっている。これは人物の主観にのみ寄り添った撮り方では語ることのできないもので、カメラの知覚がもつ持続によってのみ語ることができるのかもしれない。ホウ・シャオシェンはこうしたカメラの使い方を彼なりの仕方で応用している希有な監督だ。
 旅芸人の一座は歴史に翻弄されているのではなく、歴史を自分たちのものとして体験している。それはある循環を体験すること(右→解放→右)だ。そして彼ら自身もまた循環する。母親はオレステスに殺されて一座の女性役は入れ替わり、子供が青年となってまた男性役を継ぐ。彼らのあいだで確かに歴史は動き、さまざまな事件が起きてはいるけれど、本質的には何も変わっておらず、運命的な繰り返しが続けられている。最初と最後のシーンが同じであるのはまさにこのことを暗示している。こうした循環をアンゲロプロスは特殊なカメラの使い方によって見事に描き出すことに成功した。

トビー・フーバー『悪魔のいけにえ』ニューラインシネマ、1974

 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』によって創設されたモダンホラーというジャンルの金字塔的傑作。出演者もほとんど素人。なんとゆーか、これを見ると今のホラー映画っていうのがいかに冗長で怖くないかってゆうのがよく分かる。この映画では人が死ぬのに理由はありません。誰も理由付けしたり謎解きしたり、犯人の精神分析をしたりしないで、いきなしみんなバタバタ死んでいく。みんなほんとに前振りなしにいきなり死ぬ。ドガンっずるずるバタン、みたいな。いいなあこの無駄のなさ。やっぱしホラーは間があっちゃいかんね。もとはドキュメンタリーを撮っていたゆうだけにあってこの監督、ツボを心得ています。しかしドキュメンタリー撮ってた人がよくこういうのを撮ろうと思ったよなあ(ちなみにこの第二作ではデニス・ホッパーが出るし、なんと第三作ではヴィゴ・モーテンセンが狂気一家の役で出てくるらしい)。
 冒頭からバンで旅しているらしい若者五人と、明らかにイカれた男との出会いがあったり、そいつに車椅子に乗っているやつが手を切られたりして、なかなか面白い。こうゆう映画って怖くなるまで退屈なことが多いのに、これはそんなことない。五人の日常的な会話とか、とくに車椅子くんのキャラクターがしっかりしているので(ちょっと醜い奴だけどなんかイイやつなんだよね)、十分なリアリティーがある。惨殺一家の庭に自家発電機があったり、んでその一家が表向きはガスステーションを営んでいたり(実際にはガスは売ってない)して、細部の描写もまた面白い。とくにイカすのがおじいちゃんで、これはウケます。もうあんまりにも惨殺一家はむちゃくちゃなので、笑えちゃうほどなんです。もう完璧にイカレきった人たちで、実はなかなかこういうのはお目にかかれない。とゆうか、この映画そのものがイカレちゃってる。
 みんなが激怒した『ブレア・ウィッチ』と比べるのもなんだけど、やっぱりこっちのがはるかに映画として面白い。まああれはホラー映画でも何でもなく、低予算の偽メタ映画(あの程度のアイデア勝負が真面目に受け止められるなんてあり得ない)だからしょうがないか。なんにしても、こっちのほうがはるかに喚起力に富んだ映画なのは間違いない。あのレザー・フェイスはもちろん『13日の金曜日』のジェイソンの元ネタキャラでしょ。チェーンソー持った大男がすんごい勢いでおいかけてくことほど怖い追いかけっこってないと思う。個人的には、故郷の隣町にあった食肉処理工場のにおいが、その町にいけばもちろんのこと車の窓しめていてもにおうし、風のふくひには川隔てた隣の町までにおってきたことなんかを思い出すなあ。
 間違えても、感動巨篇とかラブコメとかと間違えて見ないでください。ホラー映画として見ると、30年たった今でもやはりこれは傑作だと思います。ほんとに怖いと思うかどうかは別だけど(静かな夜に一人で暗い部屋で見る勇気がある人はぜひチャレンジしてみてよ)。『エイリアン』ももちろんこれを参照しているし、1990年にはドイツ版(『ドイツチェーンソー大量虐殺』)が、2003年にはリメイク作(『テキサス・チェーンソー』)が作られた。実在した人物エド・ゲインがこの映画の元ネタで、『サイコ』や『羊たちの沈黙』(『羊たちの沈没』をすごくみたーい)なども同じ人物が元ネタみたいです。

ヴィスコンティ『家族の肖像』1974

ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』Mes Petites Amoureuses(製作 ピエール・コトレル、脚本 ジャン・ユスターシュ、撮影 ネストール・アルメンドロス、衣装 ルネ・ルナール、出演 マルタン・ローブ / イングリット・カーフェン / ジャクリーヌ・デュフランヌ / ディオニ・マスコロ / ピエール・エデルマン)フランス、123分、1974

 映画における「感性」がどういうものなのかを知りたければこの映画を見ればよい、というほどみずみずしい少年映画の傑作。アニエルス・ヴェルダなんかよりははるかに才能があるのは明瞭だし、あの『大人は分かってくれない』と比べてもひけをとらない。何がいいかというと、少年の心の動きがいたいたしいほどこちらに響いてくる。主人公の少年はほとんどしゃべらず、母親にもひどい扱いを受けるのだけれど、それに対して反抗することさえ知らない。少年が言葉をもたないだけに、彼により感情移入してしまうし、少し引いたカメラと、イラン映画のようなその録音が、映像をより自然なものに見せている。とくに素晴らしいのは、何をしにいくのかもわからないまま、村の女の子と一緒に草道を歩いていくところで、その後の草に横たわってキスをするシーンーでは、その草を人工的に植えたというほど手をかけているだけに見事だ。少なくとも、一度見たら忘れることのできるようなシーンではない。
 やはりこの映画が見事なのは、淡々と少年の日常を写すことによって、彼の生活そのものを体験する、という点にあるのだと思う。間違っても、筋が面白いとか、はらはらするような映画ではない。ま、こういう映画が作られるのは、やはり戦後の「時間イメージ」映画の誕生からなんだよなあ。だからこそ、今に生きる私たちは幸せなんです。まだ十分に言葉をもたないけれど、それだけに繊細な少年が生きる時間をそのまま体験する、それがとても素晴らしいということを発見してはどうだろうか。

ヘルツォーク『カスパー・ハウザーの謎』 、1974

『ザッツ・エンタテイメント』1974

ヴィム・ヴェンダース『都会のアリス』Alice in Den Städten(製作 ヨアヒム・フォン・メンゲルスハウゼン / ペーター・ゲネー、脚本 ファイト・フォン・フュルステンベルク / ヴィム・ヴェンダース、撮影 ロビー・ミューラー、音楽 CAN、出演 リューディガー・フォークラー / イエラ・ロットレンダー / リサ・クロイツァー / エッダ・ケッヘル)1973-74

 10年くらい前に一度見たことがあったのだけれど、そのことはすっかり忘れていて、今回再見しているときに思い出した。思い出したのは一人でテレビを見ていたシーン、母親が逃げ出すシーン、そして一緒に写真で家を探して、見つけるところなどはけっこう覚えていた。まあ、ろくなシーンを覚えていなかったわけだけど、それは昔見たときには、こういう映画のもつ美しさにまだ目覚めていなかったという証拠なのだった。今見ると、ニューヨークで二人が並んで歩く場面や(これはよくスチ−ル写真などで目にする有名なシーンだけど)、移動で撮られた自転車の少年や、アリスが撮ったフィリップの写真にアリスが写りこむシーン、そしてもちろんあのラストシーンなどが印象に残る。とくにラストシーンはビデオじゃなくてDVDか、ちゃんとした劇場で見ることができればきっと涙したであろう、そして、そこで涙しても私の感性が通俗的というわけではないと確信できる素晴らしいシーンだったので、かえすがえすビデオでしか見られなかったことが残念だった。一応スクリーンだったんだけど。
 ただ、もともとざらざらした感触の映像であることも確かで、今これを見るとギャロの『バファッロー'66』が明らかにこれを意識していたことも分かるんだよね。連続写真を撮るとこなんかも同じだし。ただ、やはりこちらの作品のほうを私は支持するし、『ヴァイブレータ』ごときを優れた作品と思っている人たちにはこの映画をちゃんと見ろっていいいたい。まあ、ちょっと幼児的すぎる(かつ自分の幼稚性を恥ずかしいと思っていない)んだろうけど、そういう人たちは。
 んで、こういう種類の映画の美しさとは何か、というと、やはり移動撮影のもつ美しさなんです。レンブライトライトとか、構図のもつ美しさではなくって、運動しつつある映像のもつ美しさね。ニューヨークを鳩かなんかが飛んでいるのをアリスが望遠鏡で追いかけるシーンなんて、まさにそのもの。こういう映画を作れるようになったというのが、やはり第二次大戦以降の大きな映画的革新なわけです。でも、この作品にはもう一つの美しさもあるのです……。
 この映画の特長は、車だけでなく、いろんな乗り物に乗り換える点。モノレール、列車、ボート、地下鉄、飛行機。フィリップは途中から写真を撮らなくなる。亡霊を生み出す乗り物と写真という二つの道具……。途中までアリスとフィリップは別々の方向をむいて乗り物に乗っていて、そこでアリスは顔を男に見せないまま寂しげな表情を見せる。ところがラスト間近のボートでアリスはフィリップに写真を撮られ、最後の電車では二人して窓を開ける。それ以前にも海水浴のまえに二人が看板をまえに体操をするというシーンがあり、身体的な動作によって二人が結びつきつつあるのを目撃した私たちは、最後の窓を開けるシーンによって、その結びつきを確信させられることになる。このシーンがとても美しいのは、この映画の語りがマジックのように上手く効いているから。ただ二人が同時に窓を開けるというその動作だけで、ここまで物語をうまく機能させることができるというのは、やはり優れた才能なのだと思います。傑作です。

ユスターシュ『ママと娼婦』1973

藤田敏八『修羅雪姫』(製作 奥田喜久丸、脚本 長田紀生、原作 小池一雄 / 上村一夫、撮影 田村正毅、美術 薩谷和夫、音楽 平尾昌晃、出演 梶芽衣子 / 黒沢年男 / 大門正明 / 岡田英次 / 西村晃 / 赤座美代子 / 小松方正 / 阿藤海)東宝、1973

 キル・ビルの元ネタの一つになったために脚光をあび、ついには釈ゆみこでリメイクされるわコミックになるわで話題騒然だった『修羅雪姫』。73年製作というわけで、ちょうどヤクザ映画が終わろうとしているときにできたあだ花的な復讐劇映画のように見える。と思ったら脚本の長田紀生は深作欣二作品のも手がけていたりして納得。まあ、人がどんどん死んでいくんだけど、その血のりの飛び出し方なんかがあんまりにもすごいので、ちょっと冗談っぽくなってる。リアリティーなんてぜんぜんないのね。面白いのが、四章に分けられていて、その章ごとに歌舞伎みたいな題がついてるの「快楽館修羅之終章」とか。まあそういう、なんだかお話しですっていう雰囲気なんだよね、時代がかった。

 

 とくに笑えるのが子供の時のお雪の修行のシーン。上のカットでは、たるにいれられたおゆきがけとばされてぐるぐる回るのに耐えるっていうシーン。のちに大人になったおゆきがたるにはいってぐるぐる回っているところをお師匠が刀でぶったぎろうとする刹那に飛び出すっていうシーンもある。んで、この子役は池につきとばされるわ、なぜか裸になって太刀をかわすわで、なんかだかもうめちゃくちゃ。今の時代だと裸になるシーンは撮れないと思う。しかしこの樽の修行は何の役に立つんだろう……。っていうか、坊さんが殺生の技を教えていいんかい!

 キル・ビルの元になったのは雪のシーンや蛇の傘だけではなくて、復讐する相手の息子が登場したり、途中でマンガが挟まれることなんかもこの作品にすでにある。ケレン味たっぷりの復讐ものの王道をいくストーリー展開プラスちょっと変なテイストっていう感じ。梶芽衣子は表情に乏しいけど、まあまあよい。良質のヤクザ映画のようなA級映画ではないけど、これはこれでオモロイです。しかしやはり70年代以降はモラルというか、時代の雰囲気というものが確実に60年代以前とは変わったんだなあ、としみじみ思います。 ちなみに、岡田英次は最後の敵役で登場する。梶芽衣子はさすがに藤純子なんかとは比べものにはならないけど、なかなか雰囲気がある。

戻る