『単語集』


 すでにわたしには書くこと(あるいは読むことも)が、かつてのように愉しいことなどではなかった。そうしたことが愉しかった時代があったことなど信じられないほどだ。わたしの書いたものは常にすでに(あるいは同時に)別の者によって書かれている、という事実。わたしはわたしのあらゆる感覚の触手を世界に向って伸ばす、すなわち、それが書くということでもあるのだが、すると、それと相似形の触手が、わたしの前にあらわれる。わたしにとっては未知の者が、同じく触手を伸ばして、それを書くのである。そして、それをわたしは読むのだ。わたしは書く、とわたしが書くと、あの未知のノートの書き手も、わたしは書く、とノートに記す。こういうことが、わたしの書くあらゆる文章、あらゆる単語のうえに起り、そして、起りつづけるだろうという、信じ難い思いにわたしは苦痛を感じた。わたしの書いたものを、別の人間の書いたものとして読むという、奇妙な経験が、わたしを苦しめた。

「競争者」

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