くずれる水


 もぐり込んだ当初は部屋の空気と同じくらいにシーツの感触は冷えびえとしているかもしれないが、しばらく身体を丸め毛布をすっぽり被ってうずくまっている間に、冷えきった身体の血液の流れが徐々に暖められて解きほぐされ、それが同時に動物のような眠気を身体の芯からほぐし出し――まるで血液と同じように眠気が骨髄で作り出される液体状の精分であるかのように――透明なねばつく液体でもある眠気は、糸状の、いや包帯状の薄い柔らかな皮膜となり、身体の各部を――多分、足の指の一本ずつからはじまって――ゆっくりとゆっくりと包みはじめるだろう。水の紐に巻きとられていく肉体――。

「河口」


 病人はベッドのなかから顔を見つめ、うなずくように顎を微かに動かす。あの、この家に入った時から淀んだ思い空気のように沈殿していた消毒液と刺激性の甘苦い薬品と粘つくうるんだ熱っぽいにおいの中心が、この奇妙に煌々と明るい照明に照らし出された白い部屋であり、部屋の中央のベッドのなかの、まだ、生きることをやめることをやめてはいない瀕死の病人が、もっと近く来るように、もっと近くに寄って耳を口もとに近づけるようにと、表情で合図を送ってよこすのだ。女はいつの間にか部屋を出て行ってしまい、病人と二人だけになり、喘いでいる口もとに、身体を折り曲げるようにして耳を寄せる。病人は、震える細い声の聞きとりにくい この町の方言で、わたしの身体はくさくないでしょうか、と言い、何回かもどかしげ気に繰り返し同じことを言った後で、ようやくその意味が理解出来たので、いいえ、いっこうに、と、ゆっくり一音一音を区切りながら答える。病人は少し笑ってうなずき、安心したように眼を閉じるが、すぐまた眼を開いた。何かおっしゃりたいことがあったのでしょう、と言いかけるが、ふいに黙り込み、病人を見つめた。病人は何かを言おうとしているらしく、再び耳を口もとに寄せると、枕もとのテーブルの上のリンゴを早くポケットに入れて持って行きなさいと、まるであわてた早口で――死にかけている人間にはとてもふさわしいとは思えないのだったが――言っているのだった。リンゴに対して自分は何の所有権も持っているわけではないのだが、でも、今なら誰も見ていないから、そっと持って行きなさい。さあ、早く、早くして。そして、病人は手助けを拒む身振りで、身体を動かしシーツのなかから痩せた蒼ぐろい腕を伸してテーブルの上のリンゴを一個つかみ、手首をつかんで掌の上に赤い球体をのせた。わたしの身体はくさくないでしょうか、とその者は言い、わたしは、答える。
 いいえ、いっこうに。


 わたしの属している物語が、実はかつて読んだことのある、あるいは聴いたことのある、もしくは読んでもいないし聴いてもいない無数の物語についての、その周囲を巡る反復的な焼き直しなのか、それとも、これから再びはじまる終わりのない物語なのかわからない。
 なぜなら、これはわたしの物語なのだから。

「くずれる水」

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