結びつきを生む力、物語の力

―オースター『孤独の発明』より―

僕らの人生は一度きりのものだ。たった一度きりだけ、しかも、次に何が起こるのかはわからず、前にあったことも次々に忘れていく。まるで、行く先のわからない霧の中を列車で行くようなものだ。どの駅で乗り換えればいいかなんてどうしてわかるだろう。一度ある道を進んだ後、引き返して他の道を選ぶことなどできないので、本当はどちらに行くのがよかったのかどうかなんてことは後になってもわかりはしないのだ。霧の中の道を、どこに行くのかどこに行けばよいのか、どうするのがいいのかわからないまま生きてゆくなんて、それが人生を生きたと言えることだろうか。

Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)。一度だけおこることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである」(註一)

だけど僕らは本当にただ一つの人生しか生きられないんだろうか。僕らの人生はあまりに一つの現在の中に閉じ込められているので、他の人生を生きることができないのだろうか。

 

この問いに答えるために、ここに一人の男を紹介しよう。イジー・マウアー。ろくな生き方をしてこなかった自分勝手な男だ。確かに名の知られたジャズ・サックス奏者ではある。だがそれだけだ。その唯一の生き甲斐のサックスも、気の狂った男の凶弾に肺を打たれたために、二度と吹けなくなってしまった。イジーは、自分は死んだと思った。しかし、ひょんなことから、新しい人生が始まるのだった……。

詳しくはポール・オースターの映画『ルル・オン・ザ・ブリッジ』を見てもらうか、脚本を読んでもらうかにして、ここで注目してほしいのは、たとえつかの間であれイジーは確かに別の人生を生き、そのきっかけは他人である一人の女性との出会いだったということだ。もともとオースターがこの映画の監督を頼むつもりだった、ヴィム・ベンダースの『ベルリン:天使の詩』を思い出してもらってもいいだろう。モノトーンの世界に住む天使が、あるサーカスの女性を知り、色や匂い、味、手触りを感じられるようになりたい、その女性と話ができるようになりたいと思い、人間になる。『天使の詩』では人間への憧れが、『ルル』では幸福を与える不思議な青い石が、男を女へと導く。『ルル』では一度撃たれて死に、『詩』では天使の生活を捨てることによって、男はそれまでとは違う人生を生き始める。

 

しかし、容易には騙されがたいあなたはてごわく言うだろう。両方とも映画の中の作り話、ありそうにもないおとぎ話じゃないか。それに、たとえ僕らが別の人生を生きることができるとしても、一度にただ一つの人生という点では変わりはしないのだ、片方の人生を生きているうちは、もう片方の人生を知ることはできず、もう片方の人生を生きるためには、もとの人生を捨てなければならないのだ、つまり、一度死ぬことなしには、違う人生を歩み出すことなどできないのだ、と。

確かにあなたは真実をついた。だが、一度に一つの人生、とは! まるで二つの人生と人生のあいだには乗り越えがたい壁がある、とでも言いたいようだ。一つの人生からべつの人生に移ることは、ある壁のなかから他の壁のなかに移ることでしかないのだ、と。別の人生をたまたま生きているようなことがあったとしても、僕らはそれに気づかず、同じようにただ一つの人生しか見えてはいないのだ、と。

それは、眠りの中、べつの人生を生きることを夢に見ていた人が、朝おきるとすぐに忘れてしまって、夢の中の生に気づくことなく、いつもと変わらず仕事に出かけていくようなものだろうか。あるいは、自分が経験していることを父親も昔まったく同じように経験したことがあったのに、その偶然、自分の人生と父親の人生との触れ会い、一致に気づかず、どちらの人生も本当に知ることがない息子のようなものだろうか。

決して出会うことのない二つの生と生。もともとどちらも無いのかもしれない。どうやって知ることができるのだろう。僕がここで生きているこの生を、君も同じようにそこで生きていたとしても。君の生と僕の生が触れ合っていることに。僕の生がただ一つのものでなく、いくつもの生であることに。

わたしには愛せなかった それぞれの人間の裡で
小さな秋(幾多の木の葉の死)を背負う木を
大地もなく深淵もない
あらゆる偽りの死と復活を
わたしは泳ぎたかった 無窮の生の中で
無限に広がる河口で
だが 人が次第にわたしを拒みだし
わたしの泉の手が その傷ついた不在に触れぬよう
通り道や扉を閉ざし始めたとき
わたしはいくつもの街路を 川を
町を 寝床を渡り歩き
わたしの塩辛い仮面は荒野を横切り
ランプも 火も パンも 石も 静けさもない
最も慎ましい家を次々と訪ねては ただひとり
わたしは自分だけの死を遂げていった(二)

僕は少しずつ死んでいくだろう、僕の生がたった一つのもの、僕一人のものでしかないと知るならば。どんな物語も物語ることなく、誰にも心から語りかけることなく、たった一行の文章も書くことなく、一人で自分だけの死を遂げていくだろう。出口のない四つの壁に囲まれ、世界の終わりの部屋の中で、僕は僕の孤独を発明し、シャリヤール王のように毎晩年頃の娘を一人一人殺していくだろう。

 

「そして王は三か年の長きにわたってこの所業をやめず、国には適齢期の娘がいなくなってしまった。女たち、母たち、父たちはみな涙を流し、王を呪って叫び、天と地の創造者に悲しみを訴え、人々の祈りを聞きその叫びに応えてくださる主に助けを乞うた。人々はなお残る娘を連れて逃げ、とうとう都には結婚にふさわしい娘が一人もいなくなってしまった」(三)

『千夜一夜物語』の冒頭で、大臣の娘シェラザードは、王の悪癖をなくし都の娘たちを救うため、みずから王の相手となり、王のために千夜一夜にわたって続く物語を語りはじめる。

シェラザードは、物語を語り続けることによって、王を孤独から誘いだし、その結果、自分を死の運命から解き放つ。なぜ、シェラザードは、どんな非難にも命乞いにも耳を傾けなかった王の心を変えることができたのだろうか。

その秘密は彼女が語る物語のうちにある。王に死を定められているシェラザードは自分の命を救うため、その王に物語を語るが、その物語の中では、魔神に死を定められた商人が、三人の老人たちの魔神に語りかける物語によって命を助けられる。ちょうど、シェラザードが王に語りかける物語によって命を救われるように(四)。

注意―老人は、法廷でやるように、抗弁、反論、証拠の提示といった論理的手続きを通して商人を弁護しようとするのではない。そんなことをしたところで、すでに見えているものを魔神にもう一度見させるだけだろうし、それについて彼の心はもう定まっている。そうではなく、老人は魔神の関心を事実からそらそうとするのである。死の思いから彼の注意をそらし、彼を喜ばせるのだ(喜ばせる= delight は字義どおりには「誘い出す」―ラテン語の delectare ―という意味)。そしてその結果、生に対する見方を改めさせ、何がなんでも商人を殺すのだという執念を捨てさせるのである。そのような執念は人を孤独の中にとじ込めてしまうwalls one up in solitude。自分の思考以外何ひとつ見えなくしてしまう。これに対し、物語というものは、それが論理的議論ではないからこそ、それらの壁をうち破る力をもつ。なぜなら物語は他者の存在を前提としているのであり、聞き手は物語を通してその他者たちとふれ合うことができるからだ−たとえそのふれ合いが思考のなかのものにすぎなくても。(250頁)

物語が終わったときその魔法の力が現れる。千と一つの夜が過ぎた後、シャリヤール王は、シェラザードとの間に三人の子供ができていたことを知る。王はシェラザードへの愛を宣言し、さめざめと泣き出す。

突然現れたように思える子供たち、新しい命、新しい生。だがそれは長い間ひっそりとはぐくまれていたものだ。孤独の中、長い時をかけてその生を少しずつ形づくっていったかのような。目に見えない生から目に見える生へと。

 

物語が終わった後、シャリヤールのように、僕の目にも見えるようになるのだろうか。目に見えていなかったもう一つの生が。桜の木の幹の中が。その存在が感じられるようになるのだろうか。たとえばある物語を読み終えてこう思ったときに。

「どうしてここに僕のことが書かれているんだろう。なぜこの物語は僕そのものなんだろう。なのにどうしてこの物語を書いたのは僕ではなかったんだろう。この物語を読んだほかの多くの人たちも同じようにこの物語のことを自分の物語だと感じたのだろうか。もしそうなら(きっとそうだ)、僕の物語と他の人の物語とは(まったく同じとはいかなくても)どこかで通じ合っているんじゃないだろうか。この物語と僕の物語が通じ合っているように」

鏡が向かい合わせに置かれているように、まるで二つの生が互いを映し出しているようだ、とは言え、いま、ここにある、この生を見ることがなければ、もう一つの生を見ることもないだろう、と僕は気づく(五)。だがもう一つの生もまた同時に、いま、ここにある。すべての事物は二重の生を生きているのだから(<ここにおる二匹の犬はわしの兄たちなのです><ここにおるらばはわしの家内なのです>)、<どちらを否定しても、その事物を両方の生において同時に殺してしまうことになる>。(252頁)

二つの生を別々にではなく同時に眺めること。過去の生と現在の生を、心の中の生と世界における生を、他者の生と自分の生を。僕らの生が偶然にも触れ合っているもう一つの生を。そのつながりを見ること。見て、何一つとして忘れ去らないこと。二つの生のあいだを記憶の力で飛べ。韻を踏む生と生。

世界のなかに韻をかいま見るごくまれな瞬間にのみ、精神はそれ自身から飛び出し、時空を超えて事物の橋渡し役を務め、見ることと記憶とを結びつける。だがそこでは単なる韻以上のものが介在する。存在の文法にも、言語の文法に備わる要素はすべて備わっている。直喩。暗喩。換喩。提喩。したがって、世界において出会う事物一つひとつが、実は同時に多くのものなのであり、そのそれぞれが、何と隣接し何に包含され何から除外されているかに応じて、またさらに多くのものへとつながっていく。(267頁)

世界はこんがって結びついた根茎(リゾーム)のようだ。
見ること、記憶すること、語ることは、無限に錯綜した結びつきの網の目に、新しい結びつきを紡ぎ出していく(六)。生はひとつではなく、複数なのだから。記憶の中にはいくつもの生があり、語ることによってこそ、わたしたちはその生を生きることができるだろう。そして「ひとつの生について言えることは、複数の生についても言える。それぞれの生は、過ぎ去る現在であり、他の生を他の水準で繰り返す生である。まるで、哲学者と豚が、また犯罪者と聖者が、ひとつの巨大な円錐の互いに異なる諸水準において、同じ過去を営むように」(七)。

語りつづけるかぎり僕は君の生の中に存在しつづけるだろう。君の生と僕の生はつながっているのだから、語るとは生きていくということなのだから。しかし、とは言え、真に語りだすのはやはり容易ではないのだけれど。


(一)
ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、千野栄一訳、集英社(文庫版98年)13

(二)
パブロ・ネルーダ「マチュピチュの頂」、野谷文昭訳、『集英社版世界の文学37現代詩集』、篠田一士編(79年)212

(三)
ポール・オースター「記憶の書」、『孤独の発明』、柴田元幸訳、新潮社(文庫版96年)247
『千夜一夜』についての一節は次の文章からはじまっている。
「孤独の発明。あるいは生と死をめぐる物語。
物語は終わりとともにはじまる。語れ、さもなくば死ね。語りつづけるかぎりは死なずに済むのだ。物語は死とともにはじまる」

(四)
「王は娘の話を聞くことに同意し、娘は物語を語りはじめる。それは物語を語ることについての物語であり、いくつもの物語をその内に含んだ物語である。そしてそれらいくつもの物語一つひとつが物語を語ることについての物語であり、しかも語ることによって人間が死から救われる物語である」同上247248

(五)
「存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、『彼方』を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、『既知』と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう」蓮實重彦『表層批評宣言』、筑摩書房(文庫版85年)42

(六)
「スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないでしょうか。あたかもそれまで無かった網目が突然身のうちに張りめぐらされたかのように。経験は身のうちに沈殿し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目を潜在的に身のうちに紡ぎ出しているのではないでしょうか」(身体は文化を内蔵する)市川浩『<身の構造>身体論を超えて』、講談社(学術文庫93年)5960

(七)
ドゥルーズ『差異と反復』138頁。


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