感動は不意に襲ってくると避けることができない

 アッバス・キアロスタミという名を聞いたことがあるだろうか。たった十年ほどまえに映画史にいきなり参入してきてからというもの、数々の国際的な映画賞をかっさらっていくようになったイラン映画の監督であり(代表作に『友だちのうちはどこ?』、『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』の三部作に、『桜桃の味』、『風が吹くまま』など。また、小津安二郎のように完全主義的な画面をつくるわけではもちろんないのだが、おそらくその繊細さにおいて、キアロスタミは彼を愛している)、その牽引役なのだが、彼が脚本を書いた『白い風船』のほうを見たことがあるかもしれない。ちかごろ、そのキアロスタミ脚本の『柳と風』(原題Willow and Wind)を見る機会があった。

 ここでこの映画のことについて(さらにはイラン映画の繊細さについて)語ってしまったとしても、なかなかこれをホームビデオで見ることもきっとできないだろうし、収容人員が百六人と、もともと少ないユーロスペースのモーニングショーとレイトショーでしか上映されず、しかも客もまばらだったわけだから、そもそもこの映画を見た人自体が、同時期に公開されていたあるミュージシャンが出演していていったいこんなに彼女の映画を見ようという人がどこからどうしてこれほど湧いてきたのかと思えるぐらい五百人以上も入る大型の映画館を連日超満員にしていたいろいろな意味で残酷なミュージカル映画とは比べものにならならいぐらい少ないのだから、別にかまわないことだろう。

 映画のすじは単純だ。めったに雨のない砂漠地帯からカスピ海地方の男子小学校にレザーという子どもが転校してくるところから幕があけられる。雨が多いらしいこの地方のこと、その日も強い雨がふりはじめると、生まれてから雨を生では見たことがなかったという転校生は雨が珍しくてしようがなくて外ばかり見ている。そんなに気になってしまうのは、窓がひとつ割れていて、そこから木造の教室に雨がふりこんできているせいもあるのだが、雨を見るのもたまにはいいものだが授業をきちんと聞きなさいと先生から何度も注意されたあげく、そんなに雨を見たいのなら、外で雨を見てきなさいと、とうとう言われてしまう。でも先生は怒っているわけではなくて、彼が出ていったあとに残りの−横長の机は三人用だが、ふりこんでくる雨をよけてそこに四人でぎゅうぎゅうになって坐っている−生徒たちにむかって、レザー君は私たちが忘れてしまっていた雨を見るたのしみを思いださせてくれた、すこし雨を見ていようか、なんて言うのだ。教室の外には二週間前に教室の窓ガラスを割ってしまった のに、父親がいそがしいのでまだ新しいガラスを買ってもらえていないクーチェキが、先生のおしかりで立たされていた。学校が終わってもまだびしょびしょに濡れながら、どしゃぶりの雨にうっとりとしている レザーに荷物をわたしてあげたクーチェキは、すぐに転校生と仲良くなる。雨をさけて林のなかを二人で帰りながら、クーチェキが家のきびしい経済状態を話すと、裕福な家のレザーはガラス代を自分の父親に借りて貸してあげようと思いつく……。 舞台は田舎で、十年ほど昔にイラン大地震の被害に遭ったところだ。

 イラン映画といえばかわいい子ども、という既成概念にもれず、やはり子どもたちが主人公だが、かわいいのは確かで−かわいいだけでないことはあとで触れる、ことにイランの少女たちのそれは世界に類を見ず、ここでもレザーの妹が登場する。母親が外鍵をかけて出かけていった家に閉じこめられた留守番の彼女は、お兄さんに言われて親のお金を持ってこようとするのだが、鍵のかけられた机にしまわれているので取りだすのに少しコツがいる親のお金(クーチェキはそんなコツをどうして知っているのだろう?)を持ってくることができなくて、かわりに自分が持っているわずかなお金を窓からお兄さんに投げ渡すけれど、これじゃあ少なすぎるよと言われてしまう、すこし舌足らずで間抜けだが生き生きとしたやさしい女の子だ。スクリーンに登場するこうした子どもたちは、ほとんどが素人なので、目の前のカメラを忘れさせないとなかなか自然な表情を浮かべてくれないらしい。この映画の監督モハマド・アリ・タレビ−キアロスタミを尊敬している−は、素人の子どもを現地で見つけたのだが(服まで自前)、ガラスを割ると首だぞ、とクーチェキ役の子どもをおどかしていたせいか、学校までガラスを運ぶ彼はほんとうに終止心配そうに見える。真摯で無防備なこうした子どもたちの演技は、単にかわいいと言ってすませられるものではないのだ。「子どもたちのうかべる表情は、シンプルで繊細で、世界というもののもつ一種の無情さや甘美さに白々しくさらされているという圧倒的な存在感で見る者を強く魅了する……」。そんな子どもたちを見る私たちも映画を通して世界にさらされてしまう。

 そういうわけでイラン映画の第一の特徴は、必ずしも子どもたちだけでなく大人もまたそうなのだが、登場人物の存在感の強さだろう。人物だけではない、そこで流れる人生の時間もまたしかり、「映画=人生の時間が圧倒的な現実感で流れる」のだ。しかしその現実感はどこからくるのだろう……。

 

 ところで、数少ないとはいえ私の見たイラン映画では、どれもいつでも自然の音がながれていた。ただカメラを回しているだけで映画になりそうなイランのまっさらの自然、あの豊かな森! 広大な荒野! 風のそよぎや鳥のざわめき、町の生活のさまざまな音が映画でそのまま使われているようだ。そうしたリアルな音が現実の人生の時間をながれさせるのだろう。「映画では、実際に肉眼で見えているものの四分の一ぐらいをフレームで切りとらなければなりません。しかし、そのフレームに収まりきらない空間や時間の中でも人生はつづいている、ながれている……」。

 風力発電所の風車で技師として働いているレザーのお父さん、そこはとても風が強くて人の話を聞き取るには顔を近づけて話されければいけないほどだ。その風が父親に彼のためガラス代を頼みにいったレザーを待つクーチェキの顔に当たる。少し遠くで待っている彼は、友だちとそのお父さんの会話を聞くことができずにただ待っている。その状況をカメラは撮りつづける。彼は待ちながら少しいらいらしているようだ。仕事場に会いに行ってもろくに口を利いてくれないような、工場で働いている父親をもつ自分よりも、新しい友だちのほうがいい関係を父親と持っているように見えるからかもしれない。ここでは観客にもほとんど風の音しか聞こえてこない。あるいは雨のふる音。レザーから借りたお金でようやくガラスを買って学校に持っていこうとすると、あやしげな雲がじわじわと広がっていた空はとうとう嵐になり、道はどんどん暗くなってきて、強い風がガラスにびゅうびゅうあたってクーチェキがすすむのを邪魔し(自分の体と同じぐらい大きなガラスもろとも風にふき飛ばされてしまいそうだ)、ついに雨がびしびしふってくる。大木にあいていた穴蔵を見つけた彼はそこにはいり、入口をガラスでふさいでついたてにすると、ガラスには雨と一緒に落ちてきた枯れ葉がぽつぽつぽつとくっついていく。こうした情景のなか観客も風雨の音につつまれ、不安、よりどころなさといったクーチェキがもつ感情にみちびかれていく。「音は、画面の空間をより深く広げるのだと思います。眼には見えていないものに向けて、耳と眼を開かせる……」。

 

 さてイラン映画の第三の特徴にうつろう。それは映画にいつもただよっている上質のユーモアだ。『柳と風』でも登場人物たちはどこかしらファニーだ。ひさしぶりに会った父親に発電所でひきとめられてしまったレザーと別れ、町のはずれにガラスを買いにきたクーチェキは、工場で働いていた父親に言われるままロッカーのなかにあった上着のポケットからとってきたガラスのサイズを書いているはずのメモをガラス屋に渡す。すこし目の悪そうな老人はそれをゆっくり読みあげる。「ハディさんに二百、アミールさんに百五十……」。どうやら違ったメモをもってきてしまったようだ。しかし老人はつづける。「さて、どの数字をつかうかね。マジッドさんのかね、それとも、バーマンさんのかね」。その言葉に首を振るクーチェキも、ガラスの縦のながさはかろうじて覚えていたものの、横はばの数字はほとんど忘れてしまっている。それでも彼はあいまいな記憶を頼りに注文しようとする。八六で切ってください……いや六八です……八六六八……八六です……。その後いくつもの困難をくぐりぬけ、ついに嵐のなかガラスを持ってひとけのない学校についたクーチェキは、背が直接にはとどかないくだんの割れた窓に、かさねた机を踏み台にしてガラスをひとりではめようとする。運良くサイズは合っていたのだが、ガラスをはめるための釘をサッシにうちこもうとすると、トンカチを入口のドアのあたりに落としてきてしまったことに気づく。床に落ちたトンカチは、窓からふきこんでくる強い風でばたばたしていたドアに外側のへとおし出されて、 教室についているただ一つのドアは閉まってしまう。それを見ていたクーチェキは、風と内側の釘との力学的バランスのあいだでガラスがなんとか落ちないでいるのをおそるおそる確かめると、忍び足で、近づくと、ドアを、開け……。彼らのこうした言動は滑稽だが、けっしてばかばかしくはない。その撮りかたが「暖かな微笑のこめられたユーモア」の精神にみちているからだ。それは真面目な人の行動がそこからふとずれてしまって笑いを生むというしたたかなユーモアであり、じっさい映画館にはここちよい笑い声が何度も起きていた。「誠実さを笑うのではなく、緊張した悲劇的な事態のなかで誠実に自分の生活を生きている人間たちの圧倒的な強さのリアリティーが、私たちに共感のこもった笑いを誘うのです。私の考えているユーモアはそういうものなのです」。そう、そういうものなのだ。

 

 最後に、イラン映画のラストシーンの素晴らしさにふれねばならない。たとえば、『友だちのうちはどこ?』の最後にさりげなく映される宿題用ノートにはさまれたちいさな白い花、マジッド・マジディ監督『運動靴と赤い金魚』のマラソンでくたくたになった少年の足にあつまってくる赤いふしぎな金魚たち、『オリーブの林をぬけて』の超ロングショットのなかでようやく明らかになる男女の恋のなりゆき、ジャファール・パナヒ監督『白い風船』の一人とりのこされた白い風船の少年が去ろうとするその瞬間のラストシーンなどなど。それはまるで、まったく予期していなかった愉快な不意打ちのようではないか。

 ところで、「ミュージカルで最後の歌になってしまうと哀しくなって映画館をでてしまいたくなるの、最後から二番目の歌で映画館をでるべきじゃないかしら、そうすれば映画は私のなかで永遠につづいていくことができるのだから……」と『ミュージカルはいかにして死ぬか』という題がむしろふさわしく思えたある映画のヒロインは言ってなかっただろうか。たしかにある種の映画を見ているのなら、「最後から二番目の歌」でさっさと映画館をでるべきだ。というのはそのときもうすでに、「感動的で涙なくしては見られない」結末がこれでもかこれでもかと強調されすぎていささか辟易させられてしまうだろうことがなんとなくわかっているからだ。ああなんてかわいそうな主人公! うっうっう。確かに彼女の主張はただしい、イラン映画の場合を除いては。というのも、いつどこで映画が終わるのか予測がつかないので、きりあげるべきタイミングをつかめないし、映画はつねにすでにはじまってしまっていて、終わることがないからだ。映画が終わってもまるでほんとうの人生であるかのようにその映画はあなたのなかで−と同時にあなたをこえて−つづいていくだろう、まるでほんとうの映画であるかのようにそしてあなたの人生はつづくことだろう。だがしかし、それにしてもこうした唐突にうち切られるラストシーンがなぜ、あまりのいきなりさで始まったのであっという間に映画にひきずりこまれた自分を発見しているキアロスタミ監督の映画のオープニングと同じように、驚きとほほえみに満ちたゆたかな感動を私たちにもたらすのだろうか。

『柳と風』では、ロングショットで夕陽のなか子どもたちがたまたま出会ってスクーターに乗り、一緒にもう一度ガラスを買いに行こうとする情景が写され、そこで音楽が初めて流れだし、突然クレジットロールになる。じつは主要な子どもたちは三人いて、三人目は仕事のために学校を週ごとに二日は休まなければならないやはり貧しい家の少年で、ガラスを買ったあと彼がスクーターで町へ仕事に行こうとしているのを見つけたクーチェキは学校まで一緒に乗せていってもらおうとしたのだけれど、いざ乗ってみるとその速度がうむ風がとても強く、今にもガラスが砕けてしまいそうだったので−もういいから止めて、とクーチェキが必死に頼むのにブレーキをなかなか掛けてくれないのでほとんど泣きそうになってしまったから−途中で降ろしてもらったということがあった。七時までに行かないとガラス屋が閉まってしまうのであと半時もなく一刻を争う走るクーチェキに、その少年がふたたび手を−おそらくお金も−貸そうとするのだが、それは子どもの時にしか芽生えることのない自然で無垢な友情であるのかどうか、一瞬写される赤と黄がいりまじった複雑な色に染めあげられていた美しいイランの夕陽の景色−太陽が明日の彼方に沈みこむまぎわに打ちあげる花火が丘のうえたかく輝くその正確なときを監督は知っていたのだ−が、郷愁の念を私にかきたてたのかどうか、不安そうな目をした二人の心が、つかのまのその光輝のなかで触れ合ったことが涙を誘ったのかどうか定かではないのだけれども、私にわかったのは感動は不意に襲ってくると避けることができない、という事実だけだった。

*引用は特に注記がなければ金井美恵子の『愉しみはTVの彼方に Imitation of Cinema』(中央公論社、一九九四年)に収録されているキアロスタミへのインタヴュー「映画の半分は観客がつくる」より。そこで金井美恵子はキアロスタミの映画を「映画=人生の時間が圧倒的な現実感で流れることがロッセリーニ的なのです」と評している。

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