『存在の耐えられない軽さ』とアンドロイドの幸福

   世の中には二種類の人間がいる。セックスと愛を等しいものと考える人間と、そうではないとする人間だ。そうすると、小説家の中にも、性について違う考えをもった二種類の人種がいることになる。性を美しいものとして描く作家と、性を愛とは関わりのない滑稽なものとして描く作家と。『存在の耐えられない軽さ』を書いたミラン・クンデラは、故郷チェコの偉大な作家、カフカと同じく後者に属する。

   医師トマーシュは、性と愛がたがいに受け入れがたいことをよく知っている。そのため、性愛的友情に恋愛が入り込まない限りでしか、彼は女とつきあわない。女と同じベッドで朝を迎えることは決してなく、愛人と会うときは必ず長いインターバルをおく。彼にはセンチメンタルなところが無いのだ。彼の理想的な性愛的友人サビナはこう言う。「私はあんたが好きよ、だってあんたったら趣味の悪いキッチュの正反対なんですもの」。キッチュ、俗悪なものとは、性と愛とを一つにしようとする感傷的な態度、鏡にうつる自分の姿にうっとりと満足することだ。

 ところがトマーシュは、まったくの偶然からテレザと出会い、彼女が彼のアパートに転がり込んでくる。テレザはひどい風邪をひいてトマーシュのソファベッドに横たわっている。トマーシュは彼女が死ぬのなら、自分も彼女と共に死にたいと思う。彼にはこの感情が恋なのかどうか自信がもてない。《テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのだろうか?》。トマーシュは向かいのアパートの壁を眺めながら、何をしたらいいのか分からないでいる。一度自分から恋愛を放棄した人間、非センチメンタルな人間が、人を愛をすることは可能なのか、もし可能になるならどのようにしてか。あるいは、愛とはなんなのか。

   同情、つまり共感、あるいは感情移入(エンパシー)(empathy)。他の人の感情や問題を理解できるか(the ability to understand other people's feelings and problems)。この「感情移入度」の測定によって、今やほとんど区別がつきがたくなったアンドロイドと人間を見分けることができる。アンドロイドは外見上人間と同じだが、共感能力(エンパシー)において欠けている。アンドロイドが生命に示す感情は、機械的に制御されたもの、見せかけでしかない。しかし、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の主人公、アンドロイド殺しのデッカードは、アンドロイドに同情心を持ってしまう。並の人間よりも優れ、社会の中で十分に暮らしているそれを始末することに、「まぎれもない生きもの」を殺しているような気持ちになる。一方アンドロイドも、同情心をもった人間に出会い、自分が何か欠けたものであることを知る。デッカードはアンドロイドに生命を感じ、アンドロイドは人間になることを夢見る。生命・人間とアンドロイド。このSF小説は、(昔から人を悩ませてきた)人間と動物との違いではなく、生命をもった人間と生命をもたないアンドロイドとの差異を描いているわけだ。この新しい観点を得ることによって、私たちは人間の重要な資質、つまり人間とは何かという問題に、より本質的な考察を向けることが可能になった。すなわち共感する能力、同情心こそが、人間とアンドロイドとを隔てる最も大きな点なのだ。

 第Z部「カレーニンの微笑」が、クンデラの書いた最も美しい章となっているのは、アンドロイド的な内面を持ち続けてきたトマーシュが、ここで完全に人間となるからだ。この美しい最終章をぜひ読んでほしい。