岡野玲子


ファンシィダンス

 岡野玲子の漫画は理知的だ。どう理知的かというと、一言で言うなら「相対化する視点」につきる。80年代東京の若者たちを描いた青春ものである『ファンシィダンス』は、当時の風俗の中で自分のポリシーを貫いてディスコにロックに恋に生きる男と女が描かれるが、ここで相対化されるのは東京であり、男であり、女であり、また時代そのものである。たとえば「モンキーハンティング」ではそうした特徴が見事にあらわれている。田舎からでてきた主人公の友達が、偶然その恋人とであって、お互いそれと知らずにレストランに入るのだが、男友達はその女に田舎者だということを見ぬかれ、徹底的に馬鹿にされる。女は男にいやな印象しか持たず、男も東京の女は怖いと思う。あとでその男と女は主人公をはさんで再び出会うのだが、そこで女はその男が意外にいいやつであることに気づく。そこでのセリフがいい。「女のコに生まれてきちゃったばかりに 男のコのわりといいとこ 見のがしちゃってるような気もしてきた……」とさっきまでの女から男を見ていた視線は相対化される。しかしすぐに「でもヨーヘーくんだって あたしたちのとってもイイとこ 見のがしちゃってる ハズ だもんね」と言われる。確かに、この漫画では主人公抜きで女の子たちが女たちの会話をしたり楽しんでいるところもよく描かれていて、そこは「男たちの知らないとこ」となっている。しかしこのエピソードで重要なのは、田舎<東京という価値観がダサイ男が主人公のいい友達であったことによって、相対化されていることだ。この相対化は、この漫画がまさに東京のファッションを中心に描いているだけ、漫画そのものへの批評として機能する。主人公たちの価値観は絶対のものとして描かれるのではなく、一種のスタイルとして提示されているにすぎないのだ。もともと、主人公自身も坊主になるか、東京に残り続けるかという二者択一で揺れている大学生であり、そのどちらの世界も魅力的なものとして描かれているところにこの漫画の真骨頂はある。それがこの漫画の90年代的リメイクとも言える『ろくでなしブルース』とは決定的に違うところだ。あの漫画で描かれる若者たちにはまったくリアリティーがなく、あくまでも架空のばかばかしい存在でしかないのに対し、この漫画ではそのキャラクターからファッションなどなど、きわめてリアルに描かれている。そのため『ファンシィダンス』は、くだらないギャグマンガなどではなく、おそらく同時代の小説のどれもがなしえなかった見事な風俗的青春漫画となりえている。

 さて、この「相対化する視点」が見事に駆使されているのが『コーリング』なのだけれど、それはまた次回……


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