巷で話題のドラゴン桜。中身は非常に良質の勉強マンガである。ところが、アマゾンのレビューななかを見ると、意外にこれを評価しない意見や、完全に誤解した読み方をしている人間がたくさんいることに驚く。でもこれはよく考えると、驚くべき事ではない。いくら人が勉強する方法について話しても、実際に本気で勉強したことのない人間にとっては信じられないだろうし、その成果を実感できるわけもない。残念ながら、そういう人間にとってはこのマンガは、彼らが取りそろえたものの実行はしなかったいくつものマニュアル本と同じたぐいのものでしかないのだろう。この方法を現実の教育現場で教えることができたり、納得させることができるのは、きちんとした勉強の経験を持ち、あるいは実際になにか困難な受験をし、合格したものだけだということかもしれない。つまり、こうした勉強の効率を上げる諸々の方法を実行し、その成果を実感したものだけがそれを教えられるということだ。そういった人材は実はかなり少ない。というのも、学校の教員というのは地方の教育大学を出ているものがほとんどで、そうした教育大学というのはほとんど勉強しなくても入れるようなレベルのが多いからである。私自身、そうした人間に小・中・高と教えられたけれど、彼らからは勉強の本質を一つも学ぶことがなかった。ドラゴン桜が取り組んでいるのは、実は、実際に私たちを取り囲んでいる勉強することに対する無知なのである。問題は大きく分けて、1.教育とは何かという問題、2.学ぶとはどういうことかという問題、3.受験勉強についての問題、この三つであり、ドラゴン桜はこのそれぞれに答えようとしている。これほど包括的な問題を提出するマンガや関連書はほかになかったはずだ。ドラゴン桜とは、今日の教育状況を取り巻く諸問題に真摯に取り組んだ、高度の啓蒙書となっているである。
今の学校教育の勉強は、ただのつめこみ教育であって、生徒の考える力を伸ばさないと言われ続けている。しかしそれが一向に改善しないのは、実際に考えるということを本気で行った人間が教職に就いていないこと、これにつきる。ドラゴン桜の、もともと龍山学校にいた教師たちがみな初めは無能力な教師として描かれているのは、こうした実体を反映していると言ってよい。つまり。このマンガが提出するのは、単に受験勉強といったテーマではなく、教育そのものの本質に深く切り込んだ問題なのである。教育の問いとは、考える力・問題を解く力とはどうやったら育つのかという問いだ。この問いが本質的なものであることは自明なのだけれど、龍山学校の教師の中にはこの自明のテーゼにさえ賛同しない教師もいる。これは冗談ではなくて、これもまた、今日の学校教育の理想というものがいかに混乱しているか、その事実を反映したものだと言ってよい。教育が果たすべき役割は何なのかということについてさえ最低限の合意形成ができていない社会に私たちは住んでいるのである。そして、こうした社会で育つ子どもたちが、学ぶということについて大人から何も教えられず、学ぶことについて学ぶことのないまま大人になっていくのもまた避けられない。教育についての無知は、生徒たちの学習についての無知を引き起こすのだ。そしてこれは学校教育の最大の山場、大学受験にも影響を及ぼしている。ここで、学ぶことを知らない人たちと、幸運にも知っている人たちとではっきりと分断されてしまうと言っていい。よい教師に巡り会えず、あるいは自分で学ぶ事への意欲を育てられなかった人たちと、それを学ぶことができた人たちとの間に、生涯をわけるような区分が曳かれてしまうのだ。まあこれはいたしかたないことでもあるけれど、しかし教育の現場で何の努力もされていないのが現状である。こうしたもろもろの現状(上の段落で提出し、この段落で考察した三つの問題)に対し、ドラゴン桜は根本的な立場に立って問題を適しているのだが、そのことはこれが東大合格ということを最大の話題にしているだけあって、見過ごされがちだ。
ドラゴン桜は一見、東大合格するためのさまざまなテクニックを教えているように見える。しかしそれは実はこのマンガの本質ではない。本質は、それまで学ぶことを知らなかった二人が、東大合格という目標をまがりなりにも得ることによって、学ぶこと、自分で考えることをしだす、という点にある。そして、実際にその力がつけば、東大に合格しようがしまいがそんなことは些細なことではないだろうか。なぜなら、それこそ真に教育が目指すべきことがらだからだ。このマンガは、受験という特権的な場を借りて、そのことをひたすらに問題にしようとしている。つまり、人が学び出すとはどういうことなのか、どうしたら考え出すようになるのか、ということだ。教育とは、このことについての知識とノウハウを実行することである。
ドラゴン桜は、受験勉強をテーマにしつつ、準主役級の二人の学生が勉強に目覚めていく過程を描いている。はじめはやる気のない二人が、次第に勉強をしだすのだが、転換点となるのは五巻あたりにある。それは、二人が下級生に対して授業を行う場面だ。ここで、二人は自分がいままでいかに学ぶことについて無知であったか、学ぶことについていかに不真面目な態度を取っていたかということに気づく。そしてそうした状態や態度が愚かであったことを知るのだ。ここで興味深いのは、人に教える立場に立ってようやく二人がそのことに気づくという点だ。これはなかなか注目されることない視点だろう。人に教えるということほど、自分で考えなければいけない行為はないのだが、学校教育でそうした作業は取り入れられていない。なぜなら、学校では正しい知識を教えることだけが教育だと考えられているからだ。生徒はひたすら教えられ、知識を授けられる受動的な主体である。だが、これでは学ぶ力、考える力は育たない。そして、この力が育たない限り、学力の向上、それも飛躍的といえるような向上はありえない。いやそもそも、学校で教えることができるし教えなければならない、人間にとって本質的な力を発見させせることができない。なぜ学ぶことが人間にとって本質的かということ、これはここで改めて問うことはしない。なぜなら、それは学ぶことに目覚めた人間にとっては自明のことだからだ。それが自明のことでない人間にどうそれを伝えることができるのかは私は知らない。おそらく、桜木のような良質な教師がねばり強く生徒を導いていくことによってはじめて伝えうることなのだ。
事実、二人が学ぶこと、考えることに目覚めていく過程はいくつもの段階を経ているように描かれている。二人は勉強していく過程で、作者の意図、問題作成者の意図に気づくことの重要性を教えられる。これははじめから問題を解くためのテクニックとしてだけの意味で導入されているのではない。これを教えた数学の教師は生徒を外に連れ出し、町にあるさまざまな看板などがなぜあるのか、その意図を考えることは社会の様々な問題について考えることにもつながることを教えている。問題を読むということは、自分で思考し、発見するということだと説かれているのだ。生徒である二人は実生活にさまざまな問題をかかえ、これから生きていく上でまさざまなことに直面しなければならない状態にある。そして、その状態を切り抜けていくためには、さまざまなことを思考する力が必要だということ、そしてその力は受験勉強によっても養われることに少しずつ気づいていく。はじめは東大合格することでその状態から脱することができると信じている二人だが、合格することだけでなにもかもうまくいくようになるとは、教師である桜木も思っていない。彼らにとってより重要なのは、いうまでもなく受験勉強を通じて得られる総合的な力なのだ。総合的な力とは、自分で考えて生きていくという力である。
面白いことに、桜木は勉強のことよりも、社会のことについて二人に教えることが多い。そして、それを通じて生徒たちは、考えることの重要さに気づいていく、というようになっている。東大を目標としろ、というのは、実のところ、そうした目標を掲げ、実際に実行していく中でさまざまなことを考えるし、体験していくが、その過程を通じて学ぶ力・思考する力を身につけろということなのだ。実際二人は、模試に対する桜木の考え方などを聞いていく中で、単なる受験上のことだけでなく、より広い問題に触れさせられていることに気づいていく。この場面では、桜木に反対する教師も重要な役割を演じている。この教師は受験指導のみを売り物にしようとする学校の方針に反対し、それでは生徒の生きる力が養われないと主張し、生徒のためにはもっといろいろな相談にのってやるべきだと主張する。こうしたいっけんまっとうな主張は、しかし実際にほとんど役には立たない。目標があまりに抽象的すぎるからだ。マンガでは、受験勉強を通じても思考する力、つまり生きていく力は養われるので、それで何も学校教育としては問題がないことが描かれている。もっとも、これは本当に優れた教師だけで構成された学校だからこそ言えることだ。そして、このマンガで登場する各科目の先生たちは、明らかにその道において非常に優れた教師たちをモデルとしている。もっとも、各教師たちのノウハウや描写よりも、生徒の成長の方に描写の力点が置かれているため、これらの教師たちが本当に有能なのか疑わしいと考える向きもあるだろう。しかし彼らが優れているのは、みなが自分で考える力と、それを養う基礎力を徹底的に重視しているところにある。高校教育ではこれで十分であり、ベストである。もっとも、こんな優れた教育を行うことができるのは本当に自分に自信のある教師だけで、そうした教師というのは有名進学校にしか集まっていないかもしれないのだけれども……。
ちなみに、私が教わっていた高校の教師のレベルは驚くほど低かった。国語の教師は明らかに自分よりできない者が教師になっていて、自分の解釈や考えをその方法を示さないまま押しつけるだけだったし、英語の教師も十分な英語力があるとはいえない人が教師だった。総じて国語の教師は何を教えればいいのかまったくわかっていなかった(自分の読みを生徒に教えるのが授業だと思っていたようなレベル)。英語の教師はたとえば、文法がなぜ重要なのかを一言も教えることがなかった。世界史のある教師は教科書に書いてあることを読んでいくだけだった(世界史に関してはほかの優秀な教師に唯一出会ったことがある)。数学の教師は問題と解答をいうだけで、その解法のもとになっている考え方を教えることができなかった。生物では科学的なうんちくをいう先生がいて面白かったけれど、その話は生物と本質的な関連があったとは言えないものだった。こうした教師たちが無能であるだけでなく、学ぶことについて生徒に何も教えることがなかった、つまり学ぶということについて本質的に無知でった、と言っても、決して言い過ぎたことにはならないだろう。なぜなら、一年間も授業をして、そうしたことがらについて何も教えられないという人間は、結局のところ本気で何かを学んだことなどない人間だからだ。私が受験勉強を熱心にして、その高校ではかなり優秀な部類に入る大学に入れたのは、彼らに負うところはほとんどなかった。実際、私のクラスでそのレベルの大学に入ったのは私一人だけだった。私は受験勉強をしていく過程で学ぶということに目覚め、本質的に勉強するとはどういうことなのかについていくつかの理解や、効率的に勉強する方法についてもいくつか知ることができた。そのときは、そうした理解は今まで誰も教えてくれなかったので、これをもっと多くの人に明確に教えることができればどんなに素晴らしいだろうかなどと夢想していた。じつは受験勉強のあいだ、ぼーとしているときに考えていたのは、自分が人に教えるならどう教えるかということについてだった。そのとき夢想したことが非常に明快に、そして高度なレベルで展開されているのが『ドラゴン桜』であるという実感をいま持っている。つまり、これは学校教育に対する本質的な提言なのだ。
では、その提言とは、どのような思想に基づいているのだろうか。それはすでに述べたように、教育とは学ぶことを育むための手段であるというものだ。ここで受験がその手段にされているのは不当なことではない。というのも、いい大学に合格するということは非常に大きなメリットをもつものであり、そのために勉強するというのはいい動機になるからだ。動機を与えるのが一番難しいものなのだ。その点をクリアーするために、このマンガではあえて東大合格が目標になっていると言える。そして、一端目標が与えられ、動機が与えられれば、あとは生徒を伸ばしていくだけだ。ここで、どう伸ばしていくのかが問題になる。ここで意外なことに、桜木のとる方法は、ある程度生徒の自主性に任せるといったものである。結局、いかに教師が手取り足取り指導しようとも、最後までたどり着くには生徒自身のやる気が絶対にものを言う。これは、生徒自身の考える力を伸ばすという桜木の教育方針と一致したものである。自分で考える力がついたものは自分で努力することを覚え、自分で努力することを覚えたものはそれだけで生きていく上で何も問題はないという考えがそこにある。これはもはや単なる受験教育ではなく、人格教育でもある。そしてこの人格教育は、ただひたすら学ぶことの面白さ、学力が向上していくことの充実感、自分で自分に競争することの大切さ、こうしたことを教えていくことのうちにある。教師の価値観や考えを押しつけるのが教育でもないし、生徒のために手取り足取り親身になってやるのが教育でもない。自立する力を与えてやることだけが教育の目的なのである。そしてそれは、考える力をのばすほかにはありえない。受験勉強でだけ考える力など伸びるものかという者は、よい大学の入試を受けなかった者である。よい大学の入試は思考する力を問うような問題が多い。とくに東大はそうした能力を求める良問が多い。これもまた東大を目標にする理由である。東大を目標に受験勉強をするというのはなにも突飛なことではなく、むしろ受験勉強の王道であり、合理的なことでもあるのだ。
それゆえに、受験教育の弊害、などといった問題はこのマンガでは現れない。むしろ、受験勉強をしないことの害のみがある。なぜなら、大学の試験問題は非常に優れた教材であって、とにかくこれで一度勉強することをはじめるというには最適のものだからだ。そして、たとえば国語や社会、数学で鍛えた思考力は一生役に立つ。というのは、脳というのは難しいことに慣れれば慣れるほどよく働くようになっていくものだし、そうした作業を通じて鍛えられるからだ。一端鍛えられら脳を手に入れれば、のちの人生において非常に便利なのだ。ここで紹介されるさまざまな勉強法の中でも、とりわけ優れているのが問題を作るという方法と、英文を百暗記するというものだ。問題を作るのは人に教えるのと自分で解くのとを一人でやるようなものである。その有効性は驚くべきものだろう。英文を百暗記するというのは、単純なようでいてこれもまた驚異的な効果があるものだろう。なぜなら、英文の基本的な形や言い回しの形は百あればほぼ網羅されているはずであり、その型さえ覚えておけば自分で文書をつくるさいにとても役に立つからだ。この型にあとはさまざまな単語や熟語表現を加えていけばいいのである。これは、言語というのは基本的な枠、つまり文法があって、それにさまざまな語彙が内容をなしている、という事実に基づいた勉強法だ。こうした型を完璧に、しかもすらすらと使いこなすのはTOEIC高得点者でも結構難しいものだ。もし受験生がこれを覚え、それに受験に必要な数千語を覚えていれば、東大の英語なら難しくない、というのは紛れもない真理だ。いやもう、自分でもすぐさまこの方法を試してみて、それで東大の英語が何割取れるようになるか、以前と以降で試してみたい気がする。まあ、今でも普通に合格レベルではあると思うけど……。
とまあこのように、『ドラゴン桜』で教えているのは小手先のテクニックなどではない、今から何かを学ぼうとしている者にとっても役に立つさまざまな手法やアドバイスから成り立っている。その勉強法でえられるものは間違いなく底深い実力である。つまり、単に点数をあげるためのテクニックはなく、真の思考力、理解力、そして知識に基づいた学力である。東大合格というと、人は往々にして「宇宙人のように生まれつき頭のよい人たち」を想像するけれど、実は、学ぶことによく動機づけられ、それゆえにきちんとした思考力を鍛えることのできた人たちなのだ。そしてまた、受験というとなにか特殊で皮相な技術が必要だと思っている人も多いけれど、東大受験に関してはそういうことはなく、単にバランスのよい知識と思考力を問うているにすぎないのであり、それに対するには正攻法でいいのである。正攻法とは、地道で基礎的な、しかし非常に本質的で身体化された学力をみっちりつけていくというやり方である。『ドラゴン桜』の方法は百%正しい。この方法で一日10数時間一年間みっちり勉強すれば、東大合格も実際にありえる。もっとも、その密度を一年間続けるということは偉業ではあることは間違いない。そして、東大にいったん合格したら、そこで得られるものは半端なものではないし、その後でえられるものも半端なものではない(人によってはそれが大きすぎるのだけれど……)。それゆえ、桜木の掲げる目標も高校のものとしては百%正しいものである。また個人的な経験談になるが、私の高校では地元の、さほどレベルの高くない大学の合格者を増やすことが最大の目標だった。そうした目標を掲げている限り、高校の授業のレベル、生徒のやる気、高校としての全体の雰囲気も必然的に低下せざるを得ない。高校の普通科で、とくに進学校と銘打っていた高校でそれでは、その存在意義というのはないに等しい。目標は高ければ高いだけよい、なぜなら、そうした目標をかかげることで、人間というのは確実に成長するからだ。高校の学生というのは誰でも成績がよくなればそれにこしたことはないと考えているものなので、そのための動機・方法さえ提示することができれば、のびる者は確実にのびるのだ。
ここまででドラゴン桜の理念・方法がまったく正当であることを主張し、論じてきた。教育の理念、学習方法や学習への動機付け、そして受験に対す考え方、どれをとっても同意できる。桜木の言葉は教育学を深く専攻したか、あるいはその裏付けがあると言えるほど教育への深い知識と理解に基づいている。おそらく、専門家が見ても納得できるレベルのはずである。誰にとっても学ぶことは重要であり、ここに書いてある方法はさまざまな局面で有益だが、学校教育への提言としてみても有益で説得力がある。なぜなら、受験とは自分の力を伸ばし、今までとは別の世界へと入っていくための最適の契機だからだ。こうした機会・チャンスをものしないという発想のほうがありえない。いまの学校の受験教育とは、所詮センター対策である。そしてセンター試験とは悪い試験の見本であって、これの対策で勉強していては決して本当の意味での学力はつかない。センターで済む大学とセンターですまない大学とのあいだに絶対的な差が開いているのはそのせいである。これは、センター教育で教育の本質を見失った進学校にとって、まさに福音書となるべきものだ。そして高校の学生たちは、受験という機会を利用して、地元の地方大学ではなく、もっとよい大学に入るようぜひとも努力すべきである。もっとも、よい大学とは偏差値の高い大学のことではない(どの大学がよいかということについての基準などはこのマンガのなかでは述べられない。だが少なくとも、よい入試問題をつくっている大学がよい大学の最低条件だということはこのマンガからも言えるはずだ)。日本は学歴社会ではあるが、受験社会ではない。これは非常に奇妙なことだ。韓国のようにもっと大勢の人が受験にもっともっと真剣になっていいのである。『ドラゴン桜』の根底にあるのはおそらくこのような考えだろう。
さは、このマンガに対する否定的評価を反駁していこう。まず一番多いのが、こんなあたりまえの勉強法で東大に合格できるはずがないというものである。しかし、あたりまえの勉強をきっちりやっていないと東大は合格しない。また、おそらく上の言が言いたかったことだろうが、東大はもっと難しい、というのがある。これは検討に値する発言だ。なぜなら、こう言う人は、人の学習能力について、『ドラゴン桜』であれほど肯定的に描かれたとしてもやはり否定的だからだ。東大にはいるのはもともと頭のいい人だけだ、というのがきっと暗黙のうちにある考えなのだろう。こういうことを言う人間は、間違いなく努力したことがないし、人間は努力こそ肝心だということを身をもって体験したことがないのだ。確かに、地方の高校では、小学校や中学校以来、ずばぬけて頭のよい人だけが東大に行く、とうケースが多い。しかしこれは単に回りの人間にとってあまりにも東大が縁遠いため、目指す人間がほとんどおらず、そのなかで特にできるような人が稀に「あんたなら東大も入れるかも」みたいな発言を真に受けて、そのうえで勉強したからこそ合格する、というのが多く場合、実情をなしている。つまり、目標とし、それに向けて努力するような者も回りにいなかったような者は、東大がどれほど難しいのか判定しようがないのだ。なのでこれらの者の発言を真に受ける必要はない。ちなみに、実際に東大に入ってきているのは、地方の回りから隔絶されて育ってきたようなガリ勉はむしろ少ない。血を吐くような努力をして勉強してきた者がほとんどだ。何度も書くが、そうした努力をしたことのない者に、努力することの有効性というのがどれほどのものなのかは理解できない。『ドラゴン桜』の勉強法は理にかなったものであり、東大に合格するには十分なものだ。ただそれを毎日数時間にわたって続けることがとても困難であるというだけだ。この困難さは天才だろうが、凡人だろうが同じものである。そしてその困難を乗り越える者が合格を勝ち取る者なのだ。よく読めば、『ドラゴン桜』でもこの種の困難への対処法も書かれているし、生徒たちがその困難に直面する場面も描かれているはずだ。じつは、このマンガにはそれほど誇張したところもない。むしろ非常に正統的で、ツボを心得た物語になっている。
それでもこのマンガにまだ不十分な点を見るなら、それはまだこれが完結していないという点にある。少なくとも、初期の段階での勉強レベルではまだまだだし、実際の勉強ではマンガに書けないような様々な経験と過程が必要だからだ。もっとも、これはそれぞれが体験するしかないものではある。しかし、勉強ができるとは生まれ持っての頭などではなく、やる気と方法、そしてよい環境、これがすべてであるということは間違いない。モチベーションに関してが一番難しい。だがそれも、一人ではなく二人で目指しているという点でかなり現実的にはなっている。これが一人で目指しているのならさすがにちょっときびしいだろう。方法の点ではここに書いてあることは非常に基本的なものだけで、実際にはもっと細かなさまざまな方法が必要だろう。しかし、あくまでこれがストーリーマンガである以上、その方面を過剰に要求するのは無理がある。とは言え、勉強していくなかで方法も自分で発見していくものであって、それはそんなに困難なことではない。環境に関してはすべてがある。優れた教師たちのバックアップ、一緒に努力する同僚、そしてここではマイナス要因に見える家庭環境でさえもモチベーションという点ではプラスに働いている。個人的な意見としては、一年で中学生レベルから東大を目指すのなら、理系ではなく文系を目指すのがいいかもしれない。理科が二つに数学と、同じような思考のタイプを要求される分野が重なるのはけっこう大変だから。それより、文系で日本史と地理を取った方が楽かもしれない。数学ができるようになるにはけっこう時間がかかるし、英語もやはり時間がかかる。その土台に国語があるのだけれど、これができるかどうかは、それまでの学習が一番ものを言う。といっても、単なる勉強量ではなく、ものごとを考える習慣がついているかどうかがネックなのだ。それゆえ最大の問題は、今まで勉強をしてこなかった人間が、いきなり勉強をする態度、あるいは思考する姿勢が身に付くかどうかだ。まあ実際のところ、ドラゴン桜の二人のレベルの学生が短期間であそこまで勉強に向かう姿勢を身につけるというのは奇跡に近い。というのも、学力以前の問題として、集中力があるかどうかが問題だからだ。上でさんざん努力が大事だといったことと矛盾するようだが、この努力できることというのも一種の才能であり、要するに集中力なのだ。集中力をもった人間なら何をやっても成功するが、そうでない人間はそうはいかない。これは永遠の真理である。普段、あの人は頭がいい、というのは、この集中力のことをさしていることが実際には多い。これに比べると、その場での頭の回転の速さなどたいしたことがない能力だ(こちらは「切れる」などという形容で褒めそやされることが多いが)。8巻あたりで言っている、部活動と勉強が竹馬だと言っているのは、もっと深い関係がある。部活動で活躍できる人間は強い集中力をもっているので、当然勉強も本気になればできるというわけだ。もっとも、こんなことを言い出すとややこしいことになりそうではある。しかし、この集中力も育て方で伸ばすことができるはずだ。一つのことにしつこく熱中する子どもをつくればいいのである。子どもが熱中して何かをやっているのにそれを中断させたりしなければいいのだ。あるいは囲碁をやらせるなどすればよい。よいところを伸ばすというのはそのとおりだが、それは一見とても極端な形を取らなければならないのだ。子どもの時からなんでもできるというのはあまりよい傾向ではないだろう。ただ、『ドラゴン桜』がしつこく子育てのことにも言及するのは、この集中力というのは子どもの時からでないとなかなか身に付かないということが分かっているからだろう。でもまあ、大学受験レベルではそこまで異常な集中力が必要なわけではない。東大生にも一見あまり集中力のなさそうな者もいる(もっとも、大勢の者は強い集中力を持ち、なにより異常なまでに勉強熱心で真面目だ)。受験勉強で養えこともないかもしれないし、やはり動機が重要なのかもしれない。このへんは相互にいろんな要因がからみあっている。
さて、東大生のなかからは、このマンガによって東大が簡単だと言われるのを快く思わない人が多い。まあ、これは当たり前のことだ。自分たちの特権意識を保ちたいというのもある。しかしまあ東大は、この漫画が出たところでその特権性が脅かされるといった程度のものではない。もう一つは、これを読んでいきなり受験に目覚めたようなのが東大に一杯増えると面白くないというのがある。しかしこれは杞憂だろう。マンガを信じてそこまで努力できるというのはまったく特殊な種類の人間だろうから、彼らも十分面白いはずである。そして、大勢の人間が高い目標を持つことはよいことであって、これによってそれまで勉強の楽しさなんかを知らなかった人が目覚めて東大を目指すというのもとても素晴らしいことだ。もう一つ馬鹿げた批判に、これを読んでみんなが信じて努力しても、東大に入れる人数は限られているのだからもっと難しくなるというのがある。だいたいこういうことを言う人間に限って東大の入学者数も知らないのが多い。とにかく、東大が難しくなるのはやはりよいことである。そして、たとえこのマンガを大勢の人間が読んだところで、本当に東大を目指すことのできる者はやはり限られている。つまり、そうした努力を続けられる者は。2006年の東大の受験者数は前期で300人ほどしか増えなかった。これは年ごとの増減の範囲内だ。倍率にして0.1くらいだ。つまり、その程度しか増えないということだ。しかしこのマンガの影響はより若い層に現れるだろう。いまの中学生や小学生が大きくなって受験するとき、『ドラゴン桜』世代となるだろう。そのことは、東大のレベルだけでなく、全国の大学のレベルを上げるはずである。なぜなら、このマンガで本当に説いているのは、東大に合格する方法ではなく、勉強をする方法なのだから。
次の批判はなぜ東大なのかというものである。東大は簡単だと言うけれど、実際に東大よりももっと簡単で、ステータスもそこそこよい大学はほかにもある。そうした大学を選んだ方が現実的ではないというものだ。しかし、それでは話として面白くない。東大を狙うから無謀で面白いのである。これが東北大学だったらこんなに売れただろうか。しかし、東大を選んだのは、このマンガがあくまで学習マンガだからである。今日の大学受験は、科目選択制を敷いている。ついこないだ、これの行き過ぎが是正されたばかりだが、多くの大学で高校で学ぶ必要のない科目が多いのもまだ事実である。しかし東大はいちおう全科目学ばないといけない。理系でも文系でもだ。そして、バランスの取れた学力とはこれら全科目を学ぶことではないだろうか。もっとも、センター対策程度で済む教科なら問題はない。しかし、東大で出るような二次試験を対策に勉強するというのは、かなりハードなことである。そしてそのハードなことに、正攻法でのぞむというのがこのマンガの真骨頂である。正統的な学習の効用を東大の受験問題をネタに堂々と主張できるのである。これが東大を選ぶことの何よりの利点であって、東大は簡単だ、というのはこのマンガ最大のネタなのだ。
最後に、しかし結局この勉強方法が、あるいはこうした受験勉強が最適なのか、という批判がある。これは日本の入試制度、教育制度にかかわることで、このマンガでは対処できない大きな問題でもある。高校で勉強させることで、本当に勉強しないといけない大学でみんな勉強しなくなるのは問題だ、などというのがこの立場の論としてある。では、アメリカのように大学ではじめて本格的に勉強させる制度というのが本当によいものだろうか。それに、知識に偏りすぎの教育がよくないと言われるが、このマンガではそうした教育を超える、真に考えさせる教育を目指している。問題は何、ではなく、どう、なのだ。しかし、やはり内容にも問題があるのではないか、という意見もあるだろう。これだけの量をやる必要はないという意見もある。これはもっともな意見でかもしれない。というのも、東大の作成する問題自体、高校の学習要領をいわば無視した形で、独自の狭い範囲に絞って問題を作る傾向があるからだ。つまり、東大の問題を手本に教科書を作り直せばよい、と東大は言いたいかのようなのだ。そうすれば、社会のあまりに煩瑣な項目を覚える必要も、あまりに多くの英単語を覚える必要もない。本当に思考力を養う教育がもっとできるかもしれない。東大は簡単だはネタだとさっき書いたが、こうしてみると、その主張にもいくばくかの真実があることになる。つまり、本質的な勉強をする上では非常に合理的で、能率のよい相手だということだ。つまり、費用対効果が高いのである。もっとつっこんだ批判としては、こうした総花的な試験をやめて、論述だけにすべきだというのがある。これはフランスでのバカロレアのようなものを理想にしているわけだ。しかし、これはさすがに日本では無理である。なんせ、とにかく教育制度そのものの大幅な変更と、教員養成課程の大幅な変更が必要だからだ。そもそも、日本のような実利・実践を尊ぶ風土で、そんな純粋に理論・思考的な制度が導入できるわけもない。しかし、東大でも少しは似たような取り組みはしている。後期試験の論述問題だ。これはいくつもの科目をこなす要領の良さや、総合的な知識を問うものではなく、社会に対する関心。英語力と、思考力、そしてその思考を展開できる技術のみを判定するわけだ。これはよい試みだが、所詮二次的なものと捉えられており、日本の高校教育や受験教育の中で大きな一を占めるには至っていない。本当なら、こうしたタイプの試験をすべての試験に取り入れるべきだろう。もっとも、やはりここでも教師の不足が問題になることは必至だが。なにしろ高校や予備校の国語の教師といったら、論述を起承転結で書けと教えているようなレベルの者が大半を占めるからだ。市販されている論述の対策本にもそうしたとんでもないものがけっこうある。これは、yはあり自分の考えを展開することに日本人の多くがまったく不慣れであり、そのことが教師にも及んでいると考えられる。こうした事態を変えていくことが教育における最大の目標であるべきだが、いかんせんそれを教えられる教師から作る必要がある。いや、教師の教師でさえ不足しているかもしれない。これは、高等教育が免許をもったmのだけに独占されているがために起こる不幸である。まともな大学の先生やあるいは院生も優れた者なら、小論文の指導をすることなど難しいことではないのに。しかし、日本の高等教育(教員も校長などの役職も教育委員会も)は質の低い地方の教育大学の卒業者たちに占められているのが実情なのだ。こうした事情を変えるには、民間の社長を取り入れるのではなく、もっと他分野の人間を引っ張ってくる必要があるのだ。単に教育大学で、自分の教える分野の勉強をおざなりにしかしていない人部tがその教科について、あるいは学習全般について教えられることなどたかが知れた、底の浅いものだ。しかしたとえば、その道の専門家、あるいはその卵、つまり数学者や数学を学ぶ院生が数学を教えたら、その面白さ、魅力について何よりも学生に教えようとすることは間違いない。こすいた研究者たちと、たかだか教師になるための手段として数学をおざなりに選んだような人物とでは、数学に対する本質的な理解度からして異なってくる。フランスでは、博士課程出身者は一度高校で教えることが通例となっている。大学で教えるのはその後か、あるいは生涯高校の教師である者もいる。教育大国であるフランスの制度から学ぶべき最大のものはこれである。
『ドラゴン桜』で呈示される勉強法は正しいものだとしても、確かにそこで学ぶべき内容に関して100%正当かどうかは異論があって当然だ。これはまあ決着がつくたぐいの問題ではない。英語ではなくて古典ギリシア語を学ぶべきだという人もいるだろうからだ。現代社会をなくして哲学にするべきだという意見もあるかもしれない。だがまあ、それは些細な問題である。繰り返すが、何を学ぶかはたいした問題ではない。問題は、いかに学ぶか、なのだ。そしてその方法に応じて、学力はつかなかったりついたりするし、思考する力もついたりつかなかったりする。だが、東大が示す受験内容+ドラゴン桜が呈示する勉強方法で十分に思考力も学力も鍛えられる。そして、とりあえずはそれで十分ではないだろうか。確かに、いまの受験教育で必至になって点をとる勉強ばかりするあまり、人間的にいびつになってしまうのではないか、という意見もある。しかし、ひたすら勉強をした経験のないものこそいびつな人間なのだ。そして実際、ある程度競争の中で自分を鍛える経験がないと、結局は人格的にも余裕のない人間ができあがってしまう。受験勉強のなかに弊害はない。むしろ受験勉強をあまりに社会が敵視し、それをしている人間を非人間扱いすることのほうに害がある。東大生が逆学歴コンプレックスに悩まされるのはここに原因がある。人間的に豊かで余裕ができるなどというのは、ある時期必至なって努力したものだけが到達しうる境地なのだ。そうでない間は、ひたすらいびつな形で努力するしかない。それが人生というものなのだ。
今の日本は、そうした努力することの意義をあまりに忘れすぎている。歪んだ平等思考のもとで、真に努力した者のみが偉いという基本的なことを忘れようとしている。極論を言うと、個性などというものはある程度の平均的な競争のなかで自然とはぐくまれていくものである。もちろん、低レベルの大学の卒業者が人間的に劣っているとか言いたいわけではない。普段接するにはむしろ田舎ののんびりした大学出身者の方がはるかいつきあい安いのは事実だ。しかし彼らが密度のある人生を送っているかどうか、それは別だと私は言いたいのだ。少なくともただの一般論として、高い目標を持ち、それに向かって努力し、そうすることで自分の望む世界にはいっていく人間と、ただ漫然と与えられた環境に安住し、そこで自分の能力を限界まで試すようなこともなく生きている人間とではどちらが密度のある人生を生きているかと言うことだ。東大の学生はスポーツこそさすがに推薦入試でとった学生を揃えている私立などには及ばないが、それでも一部には有力な選手もたまにでるし、文化活動においては、演劇などでけっこうレベルの高い活動をしている。もっとも、東大自体、特殊なまでにサークル活動があまり活発ではない大学なのでまあこの方面で成果を主張するのは難しいかもしれないが……。まあ少なくとも、オケのレベルは高いということなどが言える。一般的に言って、東大生は教養が高く、サークル活動などもその教養の高さを活かした活動が行われているようだ。なぜ教養が高いかというと、そもそも教養の高いものでなければ学校で習う各教科に興味をもてないという面がある。そして、教養があるからこそいい大学へ入っていい勉強をしたいという思いで、受験勉強をするというのがある。ある東大受験生で、合格したらユリシーズを原書で読みたいという人がいた。これなどは衝撃的なケースだが、そうした志の高さが受験勉強を支えていると言える。そして、東大はいまだに教養教育を行っている日本でほぼ唯一の大学でもある。理系の学生などは必ずしも教養の程度は高くないが、文型の学生の教養度の高さはおそらく日本一だろう。そして基本的な教養こそ、人生を豊かに生きるうえで必要なものではないだろうか。教養とは社会や芸術や学問などに対する幅広い関心と、それらに対する考え方を形成することである。もっとも、東大でなくても教養の高い人物は世の中にたくさんいる。別に受験でなくても人間を形成できるのだからだ。おそらく、『ドラゴン桜』にもっとも強い違和感をもつ人は、受験で人間教育までできて、東大を目指すことがそこまですばらしいことなのだと主張しているように思えることだろう。もちろんこれが唯一ではない。しかし、高校教育というレベルに限ってこれは真実である。東大というメディアでした接したことのないような異次元の世界に、受験で誰でも入ることができること、そしてそれは普通の勉強で十分であること、これらを学生に教えることのできる先生が全国に何人いるだろうか。これが福音書であるというのは、何よりもまず生徒たちにとってなのだ。そして、ここで示される教育法や人間観になにもゆがんだところはないのだ。もちろん、受験だけで人間のさまざまな教育がすべて完了するわけではない。それはあまりにも自明なことだ。しかし、受験がそのいくばくかを果たすこともまた事実だ。
もちろん、人間だれしもどこかで人間形成をしなければならないのであって、それにはいくつもの段階がある。自分の能力に関して形成し、自分の性格について形成し、自分の社会性について形成しなければならないだろう。さて、面白いことに、受験でそれほど苦労しなかった人間は、就職活動やまたは就職してからの社会人経験を特権視する傾向がある。彼らが一様に社会にでることの経験の大切さを学生に説くのは、ただ社会が大変なところでそれがあなたにとって有益だと言っているだけではなく、自分はいままでそうした苦労をしたことがなかったと告白しているわけである。つまり、努力すること、そして努力の過程で自分を客観的に見つめること、目標を持ってそれに努力すること等々を体験したことがなかったわけである。こういう人たちが、受験なんてそんなに大事じゃないと言うのであれば、言わせておけばよいのである。彼らには、就職などそれほど大事ではないと言ってやればよいのだ。大切なのは努力し続けることであり、結果はあとについてくるものなのだから。いや、結果というのは、ほんとうに努力し続けた人間にしか見えてこないと言った方が正確かも知れない。努力することで得られる認識・境地といったものこそその人を支えるものなのだ。
さて、いろいろ書いてきたが、これが『ドラゴン桜』否定派に納得いくものだとはまったく思っていない。なぜならここには決定的な文化差が横たわっているからだ。ある時期、死ぬほどなにかに頑張った人間とそうでない人間とは必然的に生きる世界・見えてくる世界が違ってくる。諸々の価値観も異なってくるかもしれない。しかし人間は変わることは可能である。そして、何よりこれから大学受験をひかえる人たちにこそこのマンガを読んでもらいたい。勉強の仕方や目標を変えることで、飛躍的に学力は伸びるし、そうすれば見えてくる世界もまた違ってくるはずだ。それはまた深く生きることを学ぶことでもあるのだ。『ドラゴン桜』はよくいわれるような「ただのマンガ」ではない。真実のいっぱいつまった優れた啓蒙書なのである。