高村光太郎 (1883-1956)

  
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
つねに父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

「道程」

  
僕の知る限りでは、光太郎は最も良く読まれている詩人のようです。
      

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
いちょうの木もほうきになった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
  
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ 
刃物のやうな冬が来た

「冬が来た」


「何を生命と呼ぶか、あらゆる意味から君を感動させるもの、君を突き貫くものの事です。」
「肝腎なのは感動する事、愛する事、望む事、身ぶるひする事、生きる事です。」


「考える人」で有名なロダンのこんな言葉に、光太郎は自分の生きる道を見つけました。

しかし、パリで近代人としての自我に目覚めた光太郎にとって、日本の社会や美術界は貧弱で、ねじまげられた、平べったいものでした。光太郎はそんな日本に反逆します。

「人間」として生きるために。そして芸術運動に加わり、放埒な生活を送っているときに、彼の前に現れたのが長沼智恵子でした。


あなたによって私の生は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
あなたは私のために生まれたのだ

「人類の泉」より


しかし、智恵子との生活は破綻を迎えます。智恵子は分裂症になり、その発病七年後に死んでしまうのです。「智恵子抄」に見られるような、夫人の過当な美化が、智恵子を息苦しくさせ狂気に追いやったのではないでしょうか。

智恵子を失った光太郎の自我は崩壊し、その後始まった大戦に加担する詩や文章を書いて行くことになります。

とは言え、彼が日本に持ち込んだ現代芸術の精神と、彼が確立した口語自由詩は、夏目漱石と共に日本文学の近代化の一つの象徴となりました。


何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢゃないか。
頸があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽根がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の目は遠くばかり見てゐるぢゃないか。
身も世もない様に燃えているぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

「ぼろぼろな駝鳥」

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