『静物』(1955私家版)
吉岡実(1919.4-1990.5)


挽歌

わたしが水死人であり
ひとつの個の
くずれてゆく時間の袋であるということを
今だれが確証するだろう
永い沈みの時
永い旅の末
太陽もなく
夕焼の雲もとばず
まちかどの恋びとのささやきも聴かない

かたちのないわたしの口がつぶやく
むなしいわたしの声の泡
かたちのないわたしの眼がみる
星のようにおびただしいくらげのしずしずのぼってゆくのを
かすかに点じられた
微粒のくらげの眼
沈んでゆくわたしの荷を
いっせいに一瞥する
それにはおそろしく沈黙の年月があるように思われた

わたしの死の証人たち
それはくらげのむれなのか
やたらにわたしの恥部をなでる
海の藻の類の触手なのか
わたしをうけ入れるために
ひとつの場所を設定する
もっと深く
もっとはるかな暗みへ置かれる
水平な岩であるのか

地上から届けられた荷
すっかり中味をぬきとられた袋の周辺では
おおくの世界
おおくの過去と未来
おおくの生の過剰と貧困
それらすべてを跨いでくる
ひとつの死の大きさ
そのしずかな全体
腐れかかった半身をひきずって
幾千種の魚が遊泳する


過去

その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
もし料理されるものが
一個の便器であっても恐らく
その物体は絶叫するだろう
ただちに窓から太陽へ血をながすだろう
いまその男をしずかに待受けるもの
その男に欠けた
過去を与えるもの
台のうえにうごかぬ赤えいが置かれて在る
斑のある大きなぬるぬるの背中
尾は深く地階へまで垂れているようだ
その向うは冬の雨の屋根ばかり
その男はすばやく料理衣のうでをまくり
赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる
手応えがない
殺戮において
反応のないことは
手がよごれないということは恐ろしいことなのだ
だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく
吐きだされるもののない暗い深度
ときどき現われてはうすれてゆく星
仕事が終わるとその男はかべから帽子をはずし
戸口から出る
今まで帽子でかくされた部分
恐怖からまもられた釘の個所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす

 

戻る