『旅』(1968求龍堂)
谷川俊太郎(1931.12-)



鳥羽 1

何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にされされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ

本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

私は造られそしてここに放置されている
岩の間にはほら太陽があんなに落ちて
海はかえつて昏い

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!


鳥羽 2

この時を永遠にしようとは思わない
この時はこの時で結構だ
私にも刹那をおのがものにするだけの才覚はある
既にいま陽は動いている

というその言葉も
砂の上に書いたにすぎない
それも指でではなく
すぐに不機嫌に変る上機嫌な心で

子供は私に似ている
子供は私に似ていない
どちらも私を喜ばせる

貝殻と小石と壜の破片と
そのように硬くそして脆く
私の心も星の波打際にころがつている


鳥羽 3

粗朶拾う老婆の見ているのは砂
ホテルの窓から私の見ているのは水平線
餓えながら生きてきた人よ
私を拷問するがいい

私はいつも満腹して生きてきて
今もげつぷしている
私はせめて憎しみに価したい

老婆よ 私の言葉があなたに何になる
もう何も償おうとは思わない
私を縊るのはあなたの手にある
あなたの見えない水平線だ

かすかにクレメンティのソナチネが聞こえる
誰も私に語りかけない
なんという深い寛ぎ


鳥羽 4

自分の唾が気管に入りかけ
ひとしきり烈しくむせかえる
こうして死ぬこともあるのかしら

言葉で先取りすることのできぬものが
海から私の心へ忍び入る
私の分厚な詩集が灰になる

私は目前の岩を眺める
松を眺める
眺めることに縋りつく
どんな表現への欲望ももてずに

何の詩もないのに
何の音楽もないのに
心にひとつのリズムが現れ
目に涙が浮かぼうとしている


鳥羽 5

そう書いた
舌足らずのその言葉が
私の何にふさわしかつたというのか

書き得ぬものは知つている
書き得たものは知らない
一艘の舟が沖から戻ってくる
舟子は見えない

言葉は風にのらない
言葉は紙にのらない
私にのらない

もう問いかけはすまい
答えよう 我と我が身に
私にむけられる怨嗟があるとすれば
それは無言の他にない


鳥羽 6

海という
この一語にさえいつわりは在る
けれどなおも私は云いつのる
嵐の前の立ち騒ぐ浪にむかって

海よ………
そうして私が絶句した
そのあとのくらがりに 妻よ
お前の陽に灼けた腕を伸ばせ

何の喩も要らぬお前のからだ
口が口を封じる
匂いのないすべる汗

だが人は呻く
呻きは既に喃語へと変る
熱い耳に海よりも間近に


鳥羽 7

口はすねたように噤んだまま
またしても私の犯す言葉の不正
その罰として
終夜聞く潮騒

すべての詩は美辞麗句
そう書いて
なお書き継ぐ

夜半に突然目を覚まし
ひとしきり啜り泣く私の幼い娘
私は正直になりたい

瀕死の兵士すら正直ではない
煙草の火が膝に落ちる
もう夢を見ることもなかろう
こんなに睡いのだが


鳥羽 8

昼になれば
これが優れた詩でない事が分るだろう
だが私は私の文字を消す事が出来ない

人が市場へと集る時に
私は卓上の水を飲み
その他に何もしていない

かなた木の間がくれのプールサイドに
白い彫像が立っている
あれが私だ
あらわな睾丸を人目にさらして

模倣に模倣をかさねて
私は成つた
オルフェとは似ても似つかぬ
石塊に


鳥羽 9

そつと
どんなにそつと歩いても音をたててしまう
こんなに深い絨毯の上で

これもまた何者かからの伝言
囁きともいえぬ囁き
この音もまた言葉

機械の軋みにもつんぼになった事はない
けれど今
私は耳をおおう
かたく両手で

するとなお大きく
人の血のめぐる音が聞こえる
私に語りかける音が聞こえる
限りなく平静な声が


鳥羽 10

出発の朝
途切れることのない家族の饒舌に混る
ひとつふたつの土地の訛り

風は私の内心から吹いてくる
鳥羽は既に一望の荒野
乾いた菓子の一片すら
犠牲の上にしかあり得なかった

書きかけて忘れてしまった一行を
思い出したい
一語すら惜しみ
私は言葉の受肉を待ちうける

目を射る逆光
途絶えぬ松籟
どんな紛本もない


鳥羽 addendum

今 霊感が追い越してゆく
私に僅かな言葉を遺して
何事かを伝えるためではない
言葉は幼児のようにもがいている

言葉への旅は
火星への旅ほどに遠く頼りない
ともすれば私を襲う真空の
深いとどろき

そして初めて私に投げられる
白骨の君の言葉
それは


それを私は思いつく事が出来ぬ


『現代詩文庫27 谷川俊太郎詩集』、思潮社、1969年より。

戻る