『砂族』(1982書誌山田)
白石かずこ(1931.2-)


砂族の系譜
(抜粋)


 リバーサイドには川がない

 一九一一年以来、リバーサイドの川は乾きっぱなしだ。一九八〇
年夏、わたしは始めてリバーサイドに現れる。川が乾いて六九年目
である。

 わたしはリバーサイドが沙漠への入口であることを発見する。と、
わたしの内側から急速に砂族というスピリットが活気づき、でてい
くではないか、沙漠にむかい。

 リバーサイド、リバーサイドと呪文を唱え、急速に、砂族、愛す
べき、あの乾いた砂粒でできたスピリットたちが、でていく、歩い
ていく、飛んでいく、沙漠にむかい。

 どこにいてもわたしの思考は沙漠、砂のある方へむかう。乾いた
土地、乾いた熱い空気、太陽さえ、カラカラにノドをやかれてしま
う土地にむかい、わたしの内なる砂族たちは急速に活気づき、リバ
ーサイドに一滴も水がない事を発見するやいなや、快活に、口笛な
ど吹き、踊りだし、裸足で沙漠にむかい、駆けだしていくのだ。

 するとわたしは どんどん埋もれる。わが砂族におおわれた、わ
たしの記憶はすでに遠く何万年をさかのぼる。

 ここはキャリフォルニアのインディアン、ヤキ族たちの村落のあ
る砂地か、それともサハラの沙漠か、オーストラリア中央部、ウル
ルの聖地の近くであるか、記憶さかのぼるほどにアイマイである。

 おそらくわたし自身が太古になり、眠っているらしい。わたしは
タイコの音で、幾度か呼びおこされるが、わたしはわたし自身が砂
なる大地になり、眠っているので、容易にこの眠りからさめようと
しない。

 リバーサイドには川がない。ドライ・リバーサイド、一滴の水も
ない沙漠の入口であるナゾの土地よ。なぜ入口であるか、なぜ出口
ではないのか、沙漠は入口にみちていて、どこにも出口はない。

 沙漠とは、はいるところである
 はいるものを、こばまぬところである
 そして入口は、更に奧なる入口を呼ぶのだ
 奥へ、奥へと

 わたしの砂族なるスピリットは果敢である。果敢な戦士であるか
らして、沙漠にむかい、一旦砂かぎつけるとそれにむかって疾走す
るが、それがなぜであるかなどわかるものか、それは狂気でも覚悟
というものでもなく、本能なのである 戻っていくのである。

 わたしの内側より本来の巣へむかい、野獣のように鳥や魚のよう
に戻っていく。それら砂族なるスピリットのいっせいにはばたき走
る音が、熱い午後には聴こえる 肉眼で

 みえないがみえる ポエジーより太い 遥かに太い 大きな川で
あるからには

 川のかたちした幻影のパワーであるからには


(中略)


 *
青空である
わが砂族たちは 今日 すべて
わが内側に集まり 用意をしている
何の用意であるか知らないが
砂族たち それぞれ異る砂の言語の土地にむかい 砂通信を始めようとする 彼ら
砂族たちはかつて同一言語で 同一のスピリットの所産であったと思いこんでいるようだ
であるから ノド許からナダレをうつ時の音は似ている
また 人間がノドが乾き 水を求める時ほど より繁殖する性質もある
砂族たちは わたしが渇きをおぼえるのをすみやかに察知する
そして 沙漠の方へ と わたしをいざなうのだ
沙漠とは 豊饒な海 緑地ではないが
スピリットたちの樹木 果実 たわわにみのり 大きく育つ 幻の真実のオアシスであるならば


(中略)


砂 砂族たちの正体は今のところ
明らかではない
わたしの中に住んでいるスピリットの先についている物質なのである
微小なので つまみだすことはできない
彼らは 砂をみるごとに増殖し
しだいに 砂の領土をふやそうとする意思をもっている
が 無差別ではない
彼らは選択することを知っている
砂族たちは 実に誇り高い 幻でできている種族なのだ そのために無になることはない

 わたしの内側で彼らが何をたくらみ 次には どこへ仕掛けにいく
のか知らないが ああ リバーサイドで わたしは彼らの 実に美
しい奇襲をみた 次々とわたしの内側より活気をおび 外へと飛び
出て 古代アステカまで走っていくかと思うほど彼らは 希望にみ
ちているのだ 全く奇なる柔らかく暖かく熱くゾッとする音楽のよ
うな 生理的快感をくすぐるような 神聖且つ猥雑な願望を抱き 
欲望を抱き 何者かへと むかっているのだ

 わたしは わが砂族たちに餌を与えるために時折 充分睡眠をと
り ポエジーをにぎり殺すのだ

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