『迫る光』 Lichtzwang (1970)


(私たちがもう) Wir lagen

私たちがもう
深くマッキアのなかに横たわったときに おまえは
ようやく匍いよってきた
しかし 私たちは
おまえのほうへ昏みゆくことができなかった
光縛が
領していたのだ

平野嘉彦訳


「ブランクージ宅で、ふたりで」 Bei Brancusi, zu zweit

ここの、すぐかたわらの、
この老人の松葉杖のそばの、
この石たちのひとつに
その石をおしだまらせているものを
語らせたら――
その沈黙は傷口となって、ひらくだろう、
あなたはそのなかへ
ひとりさびしく、
わたしの、すでにともに
切りとられた白い叫びからも遠く、
沈みこんでいくことだろう。

飯吉光夫訳


「トートナウベルク」 Todtnauberg

アルニカ、こごめぐさ、
うえには放たれた星々、それとともに
泉から飲む一口、

山小屋の
なかで、

そこで、記念帳に
――私の名にさきだって記念帳が記していた
名前とは、誰のものであるのか――、
この記念帳に
ひとりの思考する者から
心へ
到来するはずの
言葉への
希望を抱きながら、今日、
書かれた一行、

森の腐植土、平らにされず、
オルキスそしてオルキス、散らばって、

生々しさ、後になって、車のなかで、
はっきりと、

私たちを運ぶひと、その男も、
聴くことに向けて、

小沼地のなかの丸太の
小道はなかば
踏み固められ、

湿ったもの、
たくさん。

フィリップ・ラクー=ラバルトの仏訳からの谷口博史による訳


「先だって働きかけることをやめよ」 Wirk nicht voraus

先だって働きかけることをやめよ、
なにも外には送るな、
中に
とどまっていよ。

虚無によって根こそぎにされ、
あらゆる祈りから
解放されて、
乗り越えられない
前もって書かれた掟にしたがって
巧みに組み立てられて、

ぼくは君を受け取る
あらゆる安息の
かわりに。

ジョン・E・ジャクソンの仏訳からの谷口博史による訳

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